ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年に始まった世界的な賞である。
ノーベルは、1833年10月21日スウェーデンのストックホルム生まれる。1842年、家族とともにサンクト・ペテルブルグに移住、ノーベルの関心をニトログリセリンに向けさせた化学者ニコライ・ジーニン(Nikolay Zinin。アニリンの誘導体の研究を行なっていた人らしい)らに師事し個人教授を受けたという。1850年、スウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカへ2年間の修業に出て、化学や機械学、語学を学んだ。クリミア戦争(1853~56)の間は父の軍需工場を手伝い、機雷の敷設など実際的な技術を学び、1863年ストックホルムに戻り、黒色火薬や綿火薬にかわる、ニトログリセリンの研究を父とともに開始した(Yahoo!百科事)
欧州へ修行に出たときパリでテオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講したときに、同じ生徒の一人としていた化学者アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)が発明した爆薬、ニトログリセリンのことを知ったのは、1855年頃らしいが、この爆薬は衝撃や摩擦で爆発するが、普通の火薬のように点火しただけでは爆発しない欠点があり、起爆装置を開発し初めて実用化することに成功。これをさらに改良し1867年珪藻土(けいそうど)に、ニトログリセリンをしみ込ませたダイナマイト(ギリシア語のダイナマイト【dinamis】の語は、その強力な爆発威力により「力」「運動」を意味するらしい)を開発するが、この間、ニトログリセリンの普及で爆発事故が相次ぎ、ノーベル自身弟を事故で失うなど多くの犠牲者が出て国際的物議を醸したが、彼はその後も、科学的、系統的な実験を繰り返し、1886年、より爆発力の大きいダイナマイトを、翌年には200回以上の実験のすえ無煙ニトログリセリン火薬「バリスタイト」(無煙火薬参照)を開発した。ダイナマイトは、炭鉱やトンネルなど工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化を進めるものとして広く普及し、仕事の「効率向上」や「危険性の減少」など大きな影響をもたらせたが、同時に戦争にも大きな影響を与え、爆薬として使用された。ノーベルは、すでに1886年には兄とともに世界最初の国際的特殊会社「ノーベル・ダイナマイト・トラスト」を設立し、世界各国で爆薬製造工場を営むかたわら、兄とともにバクー油田開発にも成功し、ヨーロッパ最大級の富豪となった。しかし、皮肉なことに「安全に運べる爆薬」として開発されたダイナマイトであるが、実際には戦争で人を殺す道具として使用されることになるが、ノーベル自身ダイナマイトの戦争利用を考えていた節がり、Wikipediaには「1894年、武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。」とも書かれている。その戦争によって富を得た、ノーベルは「死の商人」と呼ばれるようなり、自分が世間からそのように見られていることを悔やんだことだろう。
1895年、持病の心臓病が悪化し、病気治療に医師はニトログリセリンを勧めたが、ノーベルはそれを拒んだというが・・・(現在、ニトログリセリンは狭心症に対する薬としても使用されている。)。このとき、「私のすべての換金可能な財は、私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。」とした遺言を書き残し、翌・1896年12月10日没した。
ノーベル自身は、この賞を設立したわけでもなく、またノーベル賞という名称も付与をしていないものの、この遺言によって、ノーベル賞が設立され、スウェーデン王立科学アカデミーに寄付された彼の遺産の一部がノーベル賞の基金に当てられ、1901年の今日12月10日に初めて授与式が行われた。最初は、物理学、化学、生理・医学、文学、平和の5るの賞だったが、その後、経済学賞が加わり、現在は6つの賞がある。
その後、1年に1回、受賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。
ノーベル賞の1部門「平和賞」は、国際平和、軍備縮減、平和交渉、保健衛生、慈善事業、環境保全などの分野に多大な貢献や影響があった人物や団体に対して授与されるが、「平和賞」の受賞式のみがノルウェーで行われるのは、ノーベルが、スウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念してのことで、ノーベル平和賞のみが「スウェーデンではなく」ノルウェーが授賞主体であるからだ。毎年の受賞は最高3者まで。選考はノルウェー国会が任命している。(過去のスウェーデンとノルウェー両国の関係のことは、ここを参照)。
平和と戦争についてのノーベルの考え方がどうなのかは知らないが、Wikipediaによれば、現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っており、特にドイツのダイナマイト・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3やケースレスライフルG11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っているそうだ。
ノーベルは、科学技術の発展が人類の発展や平和に貢献するものとして賞を設置したのだろうが、その後、ドイツ生まれのユダヤ人で、理論物理学者であるアルベルト・アインシュタインが1921年、ノーベル物理学賞を受賞(有名な相対性理論ではなく光電効果の法則の発見で)している。
しかし、第二次世界大戦において、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人であるアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発(「マンハッタン計画」)への動きをうながすきっかけとなり、原子爆弾が製造され、1945(昭和20)年7月16日世界で初めて原爆実験を実施。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなっている。
2009年現在、日本は非欧米諸国の中で最も多くの受賞者を輩出しているが、日本人の受賞は、戦後の1949(昭和24)年湯川秀樹博士の物理学賞受賞が初めてである。アインシュタインは、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際に、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したと言われる。1955(昭和30)年、哲学者バートランド・ラッセルとともにアインシュタインが、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。しかし、その後の東西冷戦の最中、米ソ両大国が水爆研究や宇宙開発にしのぎを削っていたが、そのころ、ソビエト連邦の核開発に携わった多くの学者達がノーベル賞を受賞しているのを見てもノーベル賞が、毎年各種の政治バランスなども見ながら授与されていることが分る。以下参考の※:「広島原爆効果測定係のノーベル賞受賞:日経ビジネスオンライン」参照。
日本で言えば、1974(昭和49)年、佐藤栄作が、 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則やアジアの平和への貢献を理由として日本人で初めて平和賞を貰っているが、核兵器を搭載したアメリカの艦船や航空機が、日本政府との事前協議なしに、日本に自由に出入りすることができると合意した密約が、1960年の日米安保条約改定の時に交わされたことがアメリカの解禁文書(「秘密議事録」)でもすでに明らかにされている。以下参考の※:「核密約は歴史的事実 米国務次官補、日本の調査に理解」参照。このことは、All About 「核が持ち込まれていたかもしれない日本」でも解説している。
1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印をしたのは、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監されていたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となり釈放され、その後、脳軟化症に倒れた石橋湛山首相臨時代理を務め、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所のこと)に一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され自民党総裁に就任した岸 信介こと、佐藤栄作の実兄である。したがって、そのような密約がある事を佐藤が知らぬわけがない。このようなことからも、ノーベル賞が、如何に現実的な政治や経済とも密接に結びついているかが分るだろう。
2009年の今年は、ノーベル賞委員会が10月9日、バラク・オバマ米大統領の「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に授与すると発表した。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例だが、同委員会は「人びとによりよき未来への希望を与えた」と称賛しているが、ロイター通信は「中東平和交渉、核軍縮、アフガニスタン戦争などで、オバマ大統領は未だ実質的な成果を出していない」と指摘した。
オバマ大統領は12月1日夜、陸軍士官学校から行う国民向け演説で、2010年前半に3万人をアフガニスタンに派兵することを明らかにし、アフガンでの任務の成功が世界の安全保障にとって決定的に重要であることを強調しているが、アフガニスタンの武装勢力タリバンは2 日、オバマ大統領のアフガニスタンへの米軍増派はうまくいかず、タリバンの決意を一層強めると表明。タリバンはメディア向けの声明で「敵によるこの戦略は彼らに利益をもたらさない。敵がアフガンのムジャヒディンに対抗する軍隊を送れば送るほど、ムジャヒディンの数は増え、その抵抗は強まる」と表明したという(以下参考の※:「ロイター.co.jp | オバマ政権特集」参照)
オバマ大統領へのノーベル平和賞授与は、同氏が目指す世界の実現を後押しする狙いがあったことは明らかであるが、これは、下手をすると、平和どころか、今だに収束しないイラク戦争や、いや、それ以上に、かって苦い目に会ったベトナム戦争のような泥沼に陥りかねないよ・・・。
以下参考の※:「melma!」の宮崎正弘の国際ニュース・早読み通巻第2736号[飛び込んできた今年度最大のジョーク、オバマ大統領にノーベル平和賞、次はオサマ・ビン・ラディンが受賞しても不思議でなくなった]や、※:「NEWSWEEK[アフガニスタン一辺倒の大き過ぎる代償]」などを読んでみては・・・。
(画像は、ノーベルの遺言。Wikipediaより)
参考はこのHPの字数制限により別紙となっています。以下をクリックっするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた日:参考
ノーベルは、1833年10月21日スウェーデンのストックホルム生まれる。1842年、家族とともにサンクト・ペテルブルグに移住、ノーベルの関心をニトログリセリンに向けさせた化学者ニコライ・ジーニン(Nikolay Zinin。アニリンの誘導体の研究を行なっていた人らしい)らに師事し個人教授を受けたという。1850年、スウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカへ2年間の修業に出て、化学や機械学、語学を学んだ。クリミア戦争(1853~56)の間は父の軍需工場を手伝い、機雷の敷設など実際的な技術を学び、1863年ストックホルムに戻り、黒色火薬や綿火薬にかわる、ニトログリセリンの研究を父とともに開始した(Yahoo!百科事)
欧州へ修行に出たときパリでテオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講したときに、同じ生徒の一人としていた化学者アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)が発明した爆薬、ニトログリセリンのことを知ったのは、1855年頃らしいが、この爆薬は衝撃や摩擦で爆発するが、普通の火薬のように点火しただけでは爆発しない欠点があり、起爆装置を開発し初めて実用化することに成功。これをさらに改良し1867年珪藻土(けいそうど)に、ニトログリセリンをしみ込ませたダイナマイト(ギリシア語のダイナマイト【dinamis】の語は、その強力な爆発威力により「力」「運動」を意味するらしい)を開発するが、この間、ニトログリセリンの普及で爆発事故が相次ぎ、ノーベル自身弟を事故で失うなど多くの犠牲者が出て国際的物議を醸したが、彼はその後も、科学的、系統的な実験を繰り返し、1886年、より爆発力の大きいダイナマイトを、翌年には200回以上の実験のすえ無煙ニトログリセリン火薬「バリスタイト」(無煙火薬参照)を開発した。ダイナマイトは、炭鉱やトンネルなど工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化を進めるものとして広く普及し、仕事の「効率向上」や「危険性の減少」など大きな影響をもたらせたが、同時に戦争にも大きな影響を与え、爆薬として使用された。ノーベルは、すでに1886年には兄とともに世界最初の国際的特殊会社「ノーベル・ダイナマイト・トラスト」を設立し、世界各国で爆薬製造工場を営むかたわら、兄とともにバクー油田開発にも成功し、ヨーロッパ最大級の富豪となった。しかし、皮肉なことに「安全に運べる爆薬」として開発されたダイナマイトであるが、実際には戦争で人を殺す道具として使用されることになるが、ノーベル自身ダイナマイトの戦争利用を考えていた節がり、Wikipediaには「1894年、武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。」とも書かれている。その戦争によって富を得た、ノーベルは「死の商人」と呼ばれるようなり、自分が世間からそのように見られていることを悔やんだことだろう。
1895年、持病の心臓病が悪化し、病気治療に医師はニトログリセリンを勧めたが、ノーベルはそれを拒んだというが・・・(現在、ニトログリセリンは狭心症に対する薬としても使用されている。)。このとき、「私のすべての換金可能な財は、私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。」とした遺言を書き残し、翌・1896年12月10日没した。
ノーベル自身は、この賞を設立したわけでもなく、またノーベル賞という名称も付与をしていないものの、この遺言によって、ノーベル賞が設立され、スウェーデン王立科学アカデミーに寄付された彼の遺産の一部がノーベル賞の基金に当てられ、1901年の今日12月10日に初めて授与式が行われた。最初は、物理学、化学、生理・医学、文学、平和の5るの賞だったが、その後、経済学賞が加わり、現在は6つの賞がある。
その後、1年に1回、受賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。
ノーベル賞の1部門「平和賞」は、国際平和、軍備縮減、平和交渉、保健衛生、慈善事業、環境保全などの分野に多大な貢献や影響があった人物や団体に対して授与されるが、「平和賞」の受賞式のみがノルウェーで行われるのは、ノーベルが、スウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念してのことで、ノーベル平和賞のみが「スウェーデンではなく」ノルウェーが授賞主体であるからだ。毎年の受賞は最高3者まで。選考はノルウェー国会が任命している。(過去のスウェーデンとノルウェー両国の関係のことは、ここを参照)。
平和と戦争についてのノーベルの考え方がどうなのかは知らないが、Wikipediaによれば、現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っており、特にドイツのダイナマイト・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3やケースレスライフルG11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っているそうだ。
ノーベルは、科学技術の発展が人類の発展や平和に貢献するものとして賞を設置したのだろうが、その後、ドイツ生まれのユダヤ人で、理論物理学者であるアルベルト・アインシュタインが1921年、ノーベル物理学賞を受賞(有名な相対性理論ではなく光電効果の法則の発見で)している。
しかし、第二次世界大戦において、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人であるアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発(「マンハッタン計画」)への動きをうながすきっかけとなり、原子爆弾が製造され、1945(昭和20)年7月16日世界で初めて原爆実験を実施。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなっている。
2009年現在、日本は非欧米諸国の中で最も多くの受賞者を輩出しているが、日本人の受賞は、戦後の1949(昭和24)年湯川秀樹博士の物理学賞受賞が初めてである。アインシュタインは、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際に、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したと言われる。1955(昭和30)年、哲学者バートランド・ラッセルとともにアインシュタインが、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。しかし、その後の東西冷戦の最中、米ソ両大国が水爆研究や宇宙開発にしのぎを削っていたが、そのころ、ソビエト連邦の核開発に携わった多くの学者達がノーベル賞を受賞しているのを見てもノーベル賞が、毎年各種の政治バランスなども見ながら授与されていることが分る。以下参考の※:「広島原爆効果測定係のノーベル賞受賞:日経ビジネスオンライン」参照。
日本で言えば、1974(昭和49)年、佐藤栄作が、 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則やアジアの平和への貢献を理由として日本人で初めて平和賞を貰っているが、核兵器を搭載したアメリカの艦船や航空機が、日本政府との事前協議なしに、日本に自由に出入りすることができると合意した密約が、1960年の日米安保条約改定の時に交わされたことがアメリカの解禁文書(「秘密議事録」)でもすでに明らかにされている。以下参考の※:「核密約は歴史的事実 米国務次官補、日本の調査に理解」参照。このことは、All About 「核が持ち込まれていたかもしれない日本」でも解説している。
1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印をしたのは、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監されていたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となり釈放され、その後、脳軟化症に倒れた石橋湛山首相臨時代理を務め、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所のこと)に一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され自民党総裁に就任した岸 信介こと、佐藤栄作の実兄である。したがって、そのような密約がある事を佐藤が知らぬわけがない。このようなことからも、ノーベル賞が、如何に現実的な政治や経済とも密接に結びついているかが分るだろう。
2009年の今年は、ノーベル賞委員会が10月9日、バラク・オバマ米大統領の「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に授与すると発表した。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例だが、同委員会は「人びとによりよき未来への希望を与えた」と称賛しているが、ロイター通信は「中東平和交渉、核軍縮、アフガニスタン戦争などで、オバマ大統領は未だ実質的な成果を出していない」と指摘した。
オバマ大統領は12月1日夜、陸軍士官学校から行う国民向け演説で、2010年前半に3万人をアフガニスタンに派兵することを明らかにし、アフガンでの任務の成功が世界の安全保障にとって決定的に重要であることを強調しているが、アフガニスタンの武装勢力タリバンは2 日、オバマ大統領のアフガニスタンへの米軍増派はうまくいかず、タリバンの決意を一層強めると表明。タリバンはメディア向けの声明で「敵によるこの戦略は彼らに利益をもたらさない。敵がアフガンのムジャヒディンに対抗する軍隊を送れば送るほど、ムジャヒディンの数は増え、その抵抗は強まる」と表明したという(以下参考の※:「ロイター.co.jp | オバマ政権特集」参照)
オバマ大統領へのノーベル平和賞授与は、同氏が目指す世界の実現を後押しする狙いがあったことは明らかであるが、これは、下手をすると、平和どころか、今だに収束しないイラク戦争や、いや、それ以上に、かって苦い目に会ったベトナム戦争のような泥沼に陥りかねないよ・・・。
以下参考の※:「melma!」の宮崎正弘の国際ニュース・早読み通巻第2736号[飛び込んできた今年度最大のジョーク、オバマ大統領にノーベル平和賞、次はオサマ・ビン・ラディンが受賞しても不思議でなくなった]や、※:「NEWSWEEK[アフガニスタン一辺倒の大き過ぎる代償]」などを読んでみては・・・。
(画像は、ノーベルの遺言。Wikipediaより)
参考はこのHPの字数制限により別紙となっています。以下をクリックっするとこのページの下に表示されます。
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