軽妙さとペーソスが溶け合った演技で親しまれ、半世紀以上にわたって活躍したマルチタレント森繁久弥が、この世を去ったのが昨・2009(平成21)年の今日(11月10日)であった。
森繁久彌(本名同じ)は、大阪府枚方市出身。1913(大正2)年5月4日、大きな海産物問屋菅沼家の3人兄弟の末っ子として生まれる。久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)と深い親交を持っていたことに由来するという。又、菅沼家は江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だったらしいが、久彌が2歳の時父が死去。母方(馬詰家)の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となったという。
1934(昭和9)年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて活動していたが、1936(昭和11)年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退し、東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパが座長を務める緑波一座へと劇団を渡り歩いたという。
戦時中の1939(昭和14)年、難関のNHKアナウンサー試験に合格してNHKに入局、妻子とともに満州電信電話の放送局に赴任しているが、アナウンサーになったきっかけは徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」らしいが、ぼんぼん育ちの自分を鍛え直す意味もあったという。大陸のおおらかな気風に接し、引き揚げ時の修羅場もかいくぐったことが芸の原点になったと、しばしば書き記しているという(2009年・11・11朝日新聞)。
1945(昭和20)年、敗戦を新京で迎えソビエト連邦軍に連行されるなどして苦労の末、1946(昭和21)年11月に帰国、又、劇団を渡り歩くが、1947(昭和22)年、東宝で、衣笠貞之助監督の「女優」に映画初出演をするがセリフも無い端役であったらしい。ここから通算150本にも及ぶ森繁の映画人生の幕が上がったわけだが、すぐに俳優として芽が出たわけではない。1949(昭和24)年、再建したばかりの新宿のムーラン・ルージに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めるようになるが、全国的に注目されるようになったのは、1950(昭和25)年、NHKがアメリカの「ビング・クロスビー・ショー」に倣ったラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになってからだ。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く(同年1.3 ~'52.7.25)続く人気番組となった。
この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとへとのし上がることになるのだが、彼は、不遇なときも暇さえあれば映画を見て自分の割り込む余地がどこにあるかを研究したと言う。2枚目か3枚目か或いは敵役か。そんな下積みの成果が、一気に開化したのが、1952(昭和27)年の源氏鶏太原作の小説『三等重役』を映画化したサラリーマン喜劇「三等重役」であった。
森繁は「愉快な仲間」出演の同年、出演2作目の映画・新東宝「腰抜け二刀流」((1950年9月)公開)で映画初主演も果たして入るが、この「三等重役」の主演は河村黎吉であった。映画のあらすじなどは以下参考に記載の※1:「森繁久彌 - goo 映画」を参照されると良い。
「三等重役」とは「サラリーマン重役」のことで、創業社長でもオーナー社長でもなく、一般社員と意識的にも能力的にもさほど変わりのない人物が名目だけの取締役、あるいは社長になったことを指し、源氏鶏太の本作によって広まった語であるそうだ。
戦後の日本では財閥系企業を中心に大企業経営者が多数公職追放処分を受け、権限を大幅に剥奪され、会社経営への参加を拒まれたため、それまで重役になる見込みのなかった社員たちが大挙して役員に押し上げられた。
この映画(5月29日公開)では、前社長が戦争協力者とされて公職を追放され、思いもよらず「三等重役」(社長)になった役を演じた河村黎吉もさることながら、それに振り回される人事課長役を助演した森繁久彌に人気が集まり、シリーズ化された。河村自身も毎日映画コンクール演技特別賞を受賞(但し、受賞が決定したのは本人の死後)し、同年9月4日公開の続編「続三等重役」でも社長役を演じ一躍、人気スターとなったが、同年に胃癌で倒れ、急逝したこともあって、以後、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展した。森繁を映画スターにした最初の作品である。
このシリーズもの「三等重役」では、老獪な人事課長・森繁と対照的に真面目な秘書役で共演していた小林桂樹が、社長シリーズでも秘書役で出演。高度成長期の企業を舞台に、浮気者の森繁社長に謹直実直の秘書(小林桂樹)や慎重な総務部長(加東大介)、宴会好きの営業部長(三木のり平)らを配しててんやわんやの仕事ぶりを描くのが基本パターンであった。
そして、森繁社長がバーのマダムや芸者と浮気をしようと試みる様(浮気は必ず寸前で失敗する)と、森繁、のり平らによる宴会芸が繰り広げられるのが毎度のお約束事でもあった。変な日本語を話す日系人(フランキー堺)なども定番キャラクターとして活躍した。
1963(昭和38)年の社長シリーズ16弾予告編が以下で見れる。
社長漫遊記 予告編
いや~、今では懐かしいなかなかの芸達者ばかり。この時代はよかったな~。私が現役でこの頃勤めていた会社でも、年3~4回は会社での慰安旅行(1泊)があり、夜には必ず宴会をしていた。そして必ず会社には三木のり平の演じているような宴会屋と呼ばれるものがいるもので、彼らが場を取り仕切った。今では、カラオケで歌を競ったりしているが、当時はカラオケなどないので、時と場所にもよるが、時間がたつと、芸者の三味線に合わせて皆で茶碗を箸で敲きながら調子っぱずれの歌を歌い、乗ってくると必ず何人かが踊りだした。映画と同じだ。本当にこの映画が流行っている。頃は楽しかったな~。
そして、森繁は、1953(昭和28)年からマキノ雅弘監督の「次郎長三国志」シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の「海道一の暴れん坊」で無念の死を遂げるまで大活躍した。森繁の石松初登場はシリーズ2作目「次郎長初旅」終盤からであるが、回を追う毎に人気が高まり、石松最期の「東海一の暴れん坊」では、森繁の石松が事実上の主演であり、敵に囲まれながらも「俺は死ねねぇんだよ」と笑みを携えながら斬られる石松は、最高に格好良かった。
この映画は粗製濫造気味の映画ながらも完成度の高い内容への評価は高く次に述べる「夫婦善哉」と合わせて森繁の出世作となったことからも、日本映画史上において重要な作品群であるとされているようだ。
1955(昭和30)年、豊田四郎監督の「夫婦善哉」に淡島千景と共に主演。この映画でのだめ男ぶりも好評を博し、その演技力によって森繁の名声を確かなものにした。同年、久松静児監督の日活「警察日記」で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。ドタバタ喜劇を足がかりにスターとなったが、これにより、単なるコメディアンから人生の悲哀をにじませる縁起派俳優へと転進する。
舞台は、何といっても森繁がライフ・ワークとして、1967(昭和42)年東京・帝国劇場にての初演以来1986(昭和61)年まで19年間、900回も好演した「ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」が有名である。20世紀初頭、帝政ロシア領となったユダヤ人村シュテットルに暮らすユダヤ教徒の牛乳屋のテヴィエ(Tevye)とその家族の生活を中心に描いたものであるが、最後にはユダヤ人が迫害され、住んでいるところを追われる哀しい話である。
冒頭の画像は、1982(昭和57)年10月帝国劇場での同ミュージカル千秋楽での森繁である。
「屋根の上のバイオリン弾き」の父性愛あふれるテヴィエ役に続いて、1983(昭和58)年に初演された「孤愁の岸」では薩摩武士・伊集院十蔵役の熱演。史上名高い宝暦治水の薩摩藩士の苦闘ぶりを杉本苑子が描いて第48回直木賞を受賞した作品を舞台化した大作。
宝暦4年(1754年)財政難に喘ぐ薩摩藩に、突然「濃尾三川(濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三巨川)普請手伝い」の幕命が下った。これは、幕府が大名諸侯の勢力をそぐために用いた策略であった。
川普請総奉行に任命された薩摩藩勝手方家老・平田靱負(竹脇無我)は直情一徹の大目付・伊集院十蔵(森繁久弥)を副奉行に据えた。帰れる日だけを夢見て遥か濃尾の地に向け、千人の藩士が鹿児島を出発してゆく。苦難の始まりであった・・・。
上の画像は35年間劇場としては西日本一の観客を集めてきた大阪・キタの梅田コマ劇場が約400メートル先に建築された阪急不動産茶屋町ビルに移り、名称も「劇場飛天」(今は梅田芸術劇場)として、再出発した。「飛天」は1992(平成4)年11月に開館。その杮落し(こけらおとし)特別公演が、森繁主演の「孤愁の岸」であった。森繁はこの時既に79歳、年齢を感じさせない迫力の縁起で生まれ故郷大阪の観客に感動を与えた。
テレビドラマでは、草創期から活躍しているが、テレビではTBS系列で放送された「七人の孫」などに見られる一徹な老人が懐かしい。1976(昭和51)年2月2日にスタートした長寿番組である。黒柳徹子が司会を務める徹子の部屋(NET)には記念すべき第1回の放送から通算13回にわたってゲスト出演している。このようなラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。
森繁は、第10回NHK紅白歌合戦 (1959年)に初出場しロシア民謡カチューシャを歌い。第16回(1965年)まで、歌手として連続7回出場しているが、第13回紅白で、自作の「知床旅情」を唄うが、この紅白で自作の歌を初めて歌った出場者でもある。この歌は、森繁が1960(昭和35)年の映画「地の涯に生きるもの」の撮影で知床半島羅臼(らうす)に長期滞在している間制作され、その最終日に羅臼の人々の前で「さらば羅臼よ」という曲名で披露されたものだという。1970(昭和45)年に加藤登紀子がリリースし徐々に人気に火がついた。
以下は何時のものか判らないが森繁とコロムビア女声合唱団による歌である。後年の歌とは若干歌い方が違うように思うが森繁の歌は加藤登紀子とは又違った味がある。
YouTube-しれとこ旅情 森繁久彌、コロムビア女声合唱団
何の番組であったか忘れたが、「歌は語るように唄うもの」と言っていたのを覚えているが、正に、森繁の歌は語りである。
昭和の大スター、森繁久弥は、映画、芝居、ミュージカル、歌と、真のマルチスターであり、いろんなことを書き出せばきりがなくなる。そんな昭和の大スターは結構エッチなことも好きななおじさんでもあった。以下ではやはり昭和のマルチスターであった美空ひばりとの対談(1988年TBS正月特番「春一番!熱唱美空ひばり」)で、美空ひばりに、“物心付いて一番最初に助兵衛な話を教えてもらったのが森繁だ”と暴露されるがそのとぼけた森繁の表情がまた良い。そのひばりもこの翌年の平成元(1989)年が始まった直後の6月24日、52歳の若さで亡くなった。これは貴重な映像である。
YouTube-美空ひばり&森繁久弥
昭和のマルチスターのことを書き出すときりがないのでこれくらいでやめるが、森繁の歌の中で、1955(昭和30)年にレコーディングされた歌「銀座の雀」(作詞:野上 彰、作曲:仁木他喜雄)が好きである。同年に映画「銀座二十四帖」の主題歌にとりあげられヒットするが、歌手森繁の代表曲として、また和製シャンソンの代表作として、当時よく歌われたものだ。
森繁の歌はここ⇒ 森繁久彌、ダーク・ダックス 銀座の雀 1977
歌詞はここ ⇒」銀座の雀 森繁久弥 歌詞情報 - goo 音楽
それと、以下では森繁の語りと歌。そして、劇中のコーラスをダークダックスが唄う。一流の役者と、一流のコーラスグループのコラボ、プロの仕事はさすがですよ。
森繁久彌、ダーク・ダックス ケンタッキーの我が家 1977
かってドラマ「大往生」(NHK-BS2、1996年)・・・で「生きて生きて一生懸命生きてそして寿命が来たらその時死ぬよ」・・・そんなことを言っていたように思うが、満96歳での他界となれば、本当に惜しい俳優ではあったが、年齢的には大往生と言うことになるでしょうね。うらやましい限りだ。
最後に、1976(昭和51)年の森繁と黒柳徹子との対談で森繁の話芸を堪能しながら往年の森繁さんを偲ぶことにしよう。この対談ではさすがの黒柳もただ聞き入るばかりだ。
(追悼) ~森繁久弥の話芸~
http://www.youtube.com/watch?v=yR_1R_N2wWM
(冒頭の画像は、主演ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の千秋楽での森繁、1982年10月、東京・帝国劇場にて、2009・11・11朝日新聞掲載の者を借用。2番目の画像は、1992年11月大阪の劇場「飛天」杮落し特別公園「孤愁の岸」チラシ。マイコレクションより)
参考:
※1:森繁久彌 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c87437/index.html
橋本寿朗『戦後の日本経済』報告そのⅢ
http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/old/staff/ou/2nian4.html
日本映画劇場
http://www.nihoneiga.info/index.html
森繁久彌 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C【巨星】森繁久弥(森繁久彌)さんの歌、動画【知床旅情】
http://matome.naver.jp/odai/2125786029451236574
森繁久彌(本名同じ)は、大阪府枚方市出身。1913(大正2)年5月4日、大きな海産物問屋菅沼家の3人兄弟の末っ子として生まれる。久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)と深い親交を持っていたことに由来するという。又、菅沼家は江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だったらしいが、久彌が2歳の時父が死去。母方(馬詰家)の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となったという。
1934(昭和9)年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて活動していたが、1936(昭和11)年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退し、東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパが座長を務める緑波一座へと劇団を渡り歩いたという。
戦時中の1939(昭和14)年、難関のNHKアナウンサー試験に合格してNHKに入局、妻子とともに満州電信電話の放送局に赴任しているが、アナウンサーになったきっかけは徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」らしいが、ぼんぼん育ちの自分を鍛え直す意味もあったという。大陸のおおらかな気風に接し、引き揚げ時の修羅場もかいくぐったことが芸の原点になったと、しばしば書き記しているという(2009年・11・11朝日新聞)。
1945(昭和20)年、敗戦を新京で迎えソビエト連邦軍に連行されるなどして苦労の末、1946(昭和21)年11月に帰国、又、劇団を渡り歩くが、1947(昭和22)年、東宝で、衣笠貞之助監督の「女優」に映画初出演をするがセリフも無い端役であったらしい。ここから通算150本にも及ぶ森繁の映画人生の幕が上がったわけだが、すぐに俳優として芽が出たわけではない。1949(昭和24)年、再建したばかりの新宿のムーラン・ルージに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めるようになるが、全国的に注目されるようになったのは、1950(昭和25)年、NHKがアメリカの「ビング・クロスビー・ショー」に倣ったラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになってからだ。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く(同年1.3 ~'52.7.25)続く人気番組となった。
この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとへとのし上がることになるのだが、彼は、不遇なときも暇さえあれば映画を見て自分の割り込む余地がどこにあるかを研究したと言う。2枚目か3枚目か或いは敵役か。そんな下積みの成果が、一気に開化したのが、1952(昭和27)年の源氏鶏太原作の小説『三等重役』を映画化したサラリーマン喜劇「三等重役」であった。
森繁は「愉快な仲間」出演の同年、出演2作目の映画・新東宝「腰抜け二刀流」((1950年9月)公開)で映画初主演も果たして入るが、この「三等重役」の主演は河村黎吉であった。映画のあらすじなどは以下参考に記載の※1:「森繁久彌 - goo 映画」を参照されると良い。
「三等重役」とは「サラリーマン重役」のことで、創業社長でもオーナー社長でもなく、一般社員と意識的にも能力的にもさほど変わりのない人物が名目だけの取締役、あるいは社長になったことを指し、源氏鶏太の本作によって広まった語であるそうだ。
戦後の日本では財閥系企業を中心に大企業経営者が多数公職追放処分を受け、権限を大幅に剥奪され、会社経営への参加を拒まれたため、それまで重役になる見込みのなかった社員たちが大挙して役員に押し上げられた。
この映画(5月29日公開)では、前社長が戦争協力者とされて公職を追放され、思いもよらず「三等重役」(社長)になった役を演じた河村黎吉もさることながら、それに振り回される人事課長役を助演した森繁久彌に人気が集まり、シリーズ化された。河村自身も毎日映画コンクール演技特別賞を受賞(但し、受賞が決定したのは本人の死後)し、同年9月4日公開の続編「続三等重役」でも社長役を演じ一躍、人気スターとなったが、同年に胃癌で倒れ、急逝したこともあって、以後、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展した。森繁を映画スターにした最初の作品である。
このシリーズもの「三等重役」では、老獪な人事課長・森繁と対照的に真面目な秘書役で共演していた小林桂樹が、社長シリーズでも秘書役で出演。高度成長期の企業を舞台に、浮気者の森繁社長に謹直実直の秘書(小林桂樹)や慎重な総務部長(加東大介)、宴会好きの営業部長(三木のり平)らを配しててんやわんやの仕事ぶりを描くのが基本パターンであった。
そして、森繁社長がバーのマダムや芸者と浮気をしようと試みる様(浮気は必ず寸前で失敗する)と、森繁、のり平らによる宴会芸が繰り広げられるのが毎度のお約束事でもあった。変な日本語を話す日系人(フランキー堺)なども定番キャラクターとして活躍した。
1963(昭和38)年の社長シリーズ16弾予告編が以下で見れる。
社長漫遊記 予告編
いや~、今では懐かしいなかなかの芸達者ばかり。この時代はよかったな~。私が現役でこの頃勤めていた会社でも、年3~4回は会社での慰安旅行(1泊)があり、夜には必ず宴会をしていた。そして必ず会社には三木のり平の演じているような宴会屋と呼ばれるものがいるもので、彼らが場を取り仕切った。今では、カラオケで歌を競ったりしているが、当時はカラオケなどないので、時と場所にもよるが、時間がたつと、芸者の三味線に合わせて皆で茶碗を箸で敲きながら調子っぱずれの歌を歌い、乗ってくると必ず何人かが踊りだした。映画と同じだ。本当にこの映画が流行っている。頃は楽しかったな~。
そして、森繁は、1953(昭和28)年からマキノ雅弘監督の「次郎長三国志」シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の「海道一の暴れん坊」で無念の死を遂げるまで大活躍した。森繁の石松初登場はシリーズ2作目「次郎長初旅」終盤からであるが、回を追う毎に人気が高まり、石松最期の「東海一の暴れん坊」では、森繁の石松が事実上の主演であり、敵に囲まれながらも「俺は死ねねぇんだよ」と笑みを携えながら斬られる石松は、最高に格好良かった。
この映画は粗製濫造気味の映画ながらも完成度の高い内容への評価は高く次に述べる「夫婦善哉」と合わせて森繁の出世作となったことからも、日本映画史上において重要な作品群であるとされているようだ。
1955(昭和30)年、豊田四郎監督の「夫婦善哉」に淡島千景と共に主演。この映画でのだめ男ぶりも好評を博し、その演技力によって森繁の名声を確かなものにした。同年、久松静児監督の日活「警察日記」で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。ドタバタ喜劇を足がかりにスターとなったが、これにより、単なるコメディアンから人生の悲哀をにじませる縁起派俳優へと転進する。
舞台は、何といっても森繁がライフ・ワークとして、1967(昭和42)年東京・帝国劇場にての初演以来1986(昭和61)年まで19年間、900回も好演した「ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」が有名である。20世紀初頭、帝政ロシア領となったユダヤ人村シュテットルに暮らすユダヤ教徒の牛乳屋のテヴィエ(Tevye)とその家族の生活を中心に描いたものであるが、最後にはユダヤ人が迫害され、住んでいるところを追われる哀しい話である。
冒頭の画像は、1982(昭和57)年10月帝国劇場での同ミュージカル千秋楽での森繁である。
「屋根の上のバイオリン弾き」の父性愛あふれるテヴィエ役に続いて、1983(昭和58)年に初演された「孤愁の岸」では薩摩武士・伊集院十蔵役の熱演。史上名高い宝暦治水の薩摩藩士の苦闘ぶりを杉本苑子が描いて第48回直木賞を受賞した作品を舞台化した大作。
宝暦4年(1754年)財政難に喘ぐ薩摩藩に、突然「濃尾三川(濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三巨川)普請手伝い」の幕命が下った。これは、幕府が大名諸侯の勢力をそぐために用いた策略であった。
川普請総奉行に任命された薩摩藩勝手方家老・平田靱負(竹脇無我)は直情一徹の大目付・伊集院十蔵(森繁久弥)を副奉行に据えた。帰れる日だけを夢見て遥か濃尾の地に向け、千人の藩士が鹿児島を出発してゆく。苦難の始まりであった・・・。

テレビドラマでは、草創期から活躍しているが、テレビではTBS系列で放送された「七人の孫」などに見られる一徹な老人が懐かしい。1976(昭和51)年2月2日にスタートした長寿番組である。黒柳徹子が司会を務める徹子の部屋(NET)には記念すべき第1回の放送から通算13回にわたってゲスト出演している。このようなラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。
森繁は、第10回NHK紅白歌合戦 (1959年)に初出場しロシア民謡カチューシャを歌い。第16回(1965年)まで、歌手として連続7回出場しているが、第13回紅白で、自作の「知床旅情」を唄うが、この紅白で自作の歌を初めて歌った出場者でもある。この歌は、森繁が1960(昭和35)年の映画「地の涯に生きるもの」の撮影で知床半島羅臼(らうす)に長期滞在している間制作され、その最終日に羅臼の人々の前で「さらば羅臼よ」という曲名で披露されたものだという。1970(昭和45)年に加藤登紀子がリリースし徐々に人気に火がついた。
以下は何時のものか判らないが森繁とコロムビア女声合唱団による歌である。後年の歌とは若干歌い方が違うように思うが森繁の歌は加藤登紀子とは又違った味がある。
YouTube-しれとこ旅情 森繁久彌、コロムビア女声合唱団
何の番組であったか忘れたが、「歌は語るように唄うもの」と言っていたのを覚えているが、正に、森繁の歌は語りである。
昭和の大スター、森繁久弥は、映画、芝居、ミュージカル、歌と、真のマルチスターであり、いろんなことを書き出せばきりがなくなる。そんな昭和の大スターは結構エッチなことも好きななおじさんでもあった。以下ではやはり昭和のマルチスターであった美空ひばりとの対談(1988年TBS正月特番「春一番!熱唱美空ひばり」)で、美空ひばりに、“物心付いて一番最初に助兵衛な話を教えてもらったのが森繁だ”と暴露されるがそのとぼけた森繁の表情がまた良い。そのひばりもこの翌年の平成元(1989)年が始まった直後の6月24日、52歳の若さで亡くなった。これは貴重な映像である。
YouTube-美空ひばり&森繁久弥
昭和のマルチスターのことを書き出すときりがないのでこれくらいでやめるが、森繁の歌の中で、1955(昭和30)年にレコーディングされた歌「銀座の雀」(作詞:野上 彰、作曲:仁木他喜雄)が好きである。同年に映画「銀座二十四帖」の主題歌にとりあげられヒットするが、歌手森繁の代表曲として、また和製シャンソンの代表作として、当時よく歌われたものだ。
森繁の歌はここ⇒ 森繁久彌、ダーク・ダックス 銀座の雀 1977
歌詞はここ ⇒」銀座の雀 森繁久弥 歌詞情報 - goo 音楽
それと、以下では森繁の語りと歌。そして、劇中のコーラスをダークダックスが唄う。一流の役者と、一流のコーラスグループのコラボ、プロの仕事はさすがですよ。
森繁久彌、ダーク・ダックス ケンタッキーの我が家 1977
かってドラマ「大往生」(NHK-BS2、1996年)・・・で「生きて生きて一生懸命生きてそして寿命が来たらその時死ぬよ」・・・そんなことを言っていたように思うが、満96歳での他界となれば、本当に惜しい俳優ではあったが、年齢的には大往生と言うことになるでしょうね。うらやましい限りだ。
最後に、1976(昭和51)年の森繁と黒柳徹子との対談で森繁の話芸を堪能しながら往年の森繁さんを偲ぶことにしよう。この対談ではさすがの黒柳もただ聞き入るばかりだ。
(追悼) ~森繁久弥の話芸~
http://www.youtube.com/watch?v=yR_1R_N2wWM
(冒頭の画像は、主演ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の千秋楽での森繁、1982年10月、東京・帝国劇場にて、2009・11・11朝日新聞掲載の者を借用。2番目の画像は、1992年11月大阪の劇場「飛天」杮落し特別公園「孤愁の岸」チラシ。マイコレクションより)
参考:
※1:森繁久彌 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c87437/index.html
橋本寿朗『戦後の日本経済』報告そのⅢ
http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/old/staff/ou/2nian4.html
日本映画劇場
http://www.nihoneiga.info/index.html
森繁久彌 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C【巨星】森繁久弥(森繁久彌)さんの歌、動画【知床旅情】
http://matome.naver.jp/odai/2125786029451236574