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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

初の外国人横綱(第64代・曙)が引退した日

2011-01-22 | 歴史
曙 太郎(あけぼの たろう。1969年5月8日生まれ )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で、東関部屋の元大相撲力士である。
ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格をハワイ出身の先代東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入り、1988(昭和63)年3月場所に初土俵。同期入門には「花の六三組」と言われる横綱・若乃花(現タレント・花田勝)、貴乃花、大関・魁皇、小結・和歌乃山、前頭・力櫻(現プロレスラー・力皇猛)などそうそうたる力士がいた。下半身のもろさをつかれ舞の海(現:スポーツキャスター、タレント)や貴闘力(野球賭博問題が起こるまで15代大嶽親方を襲名していた)など小兵に破れることもあったが、初の外国人横綱(第64代)となり、横綱不在を救った横綱である。長身を活かした突き押しが特徴で、貴乃花が昇進するまで一人横綱としての重責を果たし、以後同期の若乃花・貴乃花のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じ、相撲界をささえてきたが、2mを超える長身といかつい容貌、また若貴の人気が突出していたことや外国人初の横綱となったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった易しい性格であったようだ。
しかし、手足の長さから重心が高く、半月板損傷などで足の故障が多かった。そして、1994(平成6)年5月に両膝を故障した後は、若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001(平成13)年1月場所は全休。同場所終了直後の22日、持病となった両膝のケガの悪化を理由に、突如現役引退を表明した。
2001(平成13)年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回のみに留まったが、幕内での通算成績は、566勝198敗181休(63場所)、横綱としての成績は、432勝122敗166休 勝率.780、幕内優勝は11回を数えている。引退後、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆・力士からの評価はとても高かったようだ。
その四股名(しこな)は、関脇時代までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「曙」だったが、大関になって以降は点のある正字を用いていた。旧名はローウェン=チャド=ジョージ=ハヘオであったが、現在は日本に帰化したので日本名は曙(こちらは点がない)太郎である。引退後、格闘技K1などを経て今は、チーム・ヨコヅナ所属の現役プロレスラー、タレントとして活動している。
近年の大相撲界は、ご存じのように、かっては、ハワイ出身のアメリカ人力士が多く、高見山(先代・東関親方)が外国人力士として初めて十両に昇進し、関脇にまで到達したのを皮切りに、小錦が大関まで昇進して人気を集め、曙が外国人初の横綱昇進を果たした。これに武蔵丸が続き、若乃花そして貴乃花の兄弟横綱の引退(貴乃花2003年1月場所引退)以後は、番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、横綱は外国出身力士が務めており現在もその状態が続いている。
そして、今の角界は、ご存じのように、色々横綱としての品格を問題にされていた朝青龍(横綱。昨・2010年1月場所中の暴行問題での責任を取る形で2月に現役引退。)や、白鵬(横綱)、日馬富士(大関)をはじめとするモンゴル勢、把瑠都(大関。エストニア出身)などの東欧勢が活躍し、今や幕内力士の3人に1人は外国人力士という時代になっている(現在角界で活躍している外人力士については、以下参考に記載の※1:「日本相撲協会公式サイト」の大相撲名鑑・出身地別紹介を参照)。
横綱は、江戸時代に誕生し、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため番付では大関が最高位であったが、1909(明治42)年2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになったため、「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。
その後、近代スポーツとしての体裁を整える中、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということとなり、1950(昭和25)年以降は横綱免許は姿を消し、現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する仕組みとなっている。
横審での横綱推薦基準は以下のようだ。
1、品格、力量が抜群であること
2、大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする
3、2場所連続優勝に順ずる好成績を上げた力士を推薦することができる
しかし、1909(明治42)年2月の相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められて以降、番付で横綱が存在しない時期、つまり「横綱空位」と言われた時期が2回ある。
1931(昭和6)年5月~1932(昭和7)年10月、宮城山福松の引退から玉錦三右エ門の昇進までと、1992(平成4)年5月~1993(平成5)年1月、北勝海信芳の引退から曙太郎の昇進までである(場所ごとの取り組みなどは、以下参考に記載の※2:「大相撲星取表」を参照)。
横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績が求められる。それに対して、大関以下の力士は、体力が衰えて実力が落ちてもそれ相応の番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱にあってはこれは許されず、横綱の地位に見合った高レベルの成績を出せなくなれば後は引退するしかないのである。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。
北勝海が引退した1年前の平成3年5月(夏)場所の番付表には一応豪華にも4横綱(北勝海・大乃国旭富士千代の富士)の名があった。
しかし、1981(昭和56)年9月場所から10年横綱を張ってきた千代の富士が、1991(平成3)年5月夏場所初日に当時18歳の新鋭貴花田(貴乃花 光司)、3日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退後、その翌7月名古屋場所には、不調の大乃国が引退。残された2横綱に期待を寄せられるが、その翌9月秋場所からは、1人が全休、出場したもう1人も途中休場といった場所が3場所も続き、1992(平成4)年1月初場所に旭富士が引退、3月春場所には、北勝海が引退し、あっという間に一人も横綱がいなくなってしまったのである。北勝海が引退した3月春場所には大関霧島と争っていた同じく、大関の小錦が3度目の優勝をするなど活躍し、横綱になってもよかったように思えたのだが、当時、まだ、外国人横綱への抵抗があったのか昇格はしなかった。その後、突き押しに右四つの相撲も覚え安定感を増した巨漢の曙が、優勝を重ね初の外人横綱となった。その後、若・貴兄弟が大関に昇進してくるが、特に活躍した貴ノ花が1994(平成6)年11月九州場所にて全勝で7度目の優勝を果たし横綱に昇進。1995(平成7)年初場所より、番付表に日本人横綱が登場するが、これは、1992(平成4)年5月北勝海が引退してから、2年6か月を要したことになる。その後、横綱・大関は、ハワイ出身の外国人である曙と武蔵丸、日本人の貴乃花・若乃花・貴ノ浪らが競い合いそのうちに、若乃花が、1998(平成10)年3月・5月場所と2場所連続優勝(5度目の優勝)を果たし横綱に昇進。兄弟横綱が誕生。多くのファンから史上初の兄弟横綱の活躍に期待された。また、大関武蔵丸が1999(平成11)年5月・夏場所、前3月場所に続いて、13勝2敗の2場所連続通算5度目の優勝を果たして横綱に昇進。1999(平成11)年名古屋場所からは4横綱となり、土俵を賑わした。そして、これ以降体力に勝る武蔵丸時代が来る。同時に、体力の劣る若乃花は2000(平成12)年3月春場所満足な相撲が取れず、5日目に栃東戦で敗れたのを最後に、現役引退を発表。横綱在位は11場所、その内皆勤したのはわずか5場所であった。
そして、翌・2001(平成13)年1月場所、曙が引退した後、同年5月夏場所、貴乃花は、14日目の大関武双山戦で巻き落としに敗れ右膝の半月板を損傷し出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。本割りでは横綱武蔵丸に突き落としで不甲斐なく負け、優勝決定戦となる。この優勝決定戦では鬼のような顔をして横綱武蔵丸を上手投げで豪快に下し、通算22回目の優勝を果たした。観戦に訪れていた当時の首相・小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と祝福したのをよく覚えている。しかしながら、右膝の故障は見た目以上に重症で、この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、結果的にこの優勝が貴乃花最後の優勝となった。その後、貴乃花は2002(平成14)年 9月秋場所、8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝を挙げ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽相星決戦を寄り切りで敗れ優勝を逃した。そして、2003(平成15)年 1月場所8日目限りで現役を引退した。
一方、2002(平成14)年9月場所で、長期休場明けの貴乃花を倒して、幕内優勝を果たした横綱武蔵丸の方は、その優勝のインタビューで「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントするが、皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又、2人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化したため6日目から途中休場した。この11月場所、モンゴル出身の大関朝青竜が14勝1敗で初優勝している。この場所後武蔵丸は手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。そして、2003年(平成15年)1月場所限りで引退した最大のライバル・貴乃花の後を追うように、武蔵丸も同年11月場所限りでついに現役を引退した。貴乃花の引退した2003年(平成15年)1月場所も朝青竜が、前場所に続いて2度目の優勝を飾り横綱に昇進した。次の春場所より横綱として土俵に上がる。しかし、その場所は、日本人大関千代大海が意地の3度目の優勝をしている。その後、日本人大関の魁皇(2003年7月、2004年9月)や栃東(2003年11月、2006年1月)が意地の優勝を果たしている他は、モンゴル出身力士朝青竜の独断場となった。朝青竜の引退後は同じモンゴル出身の白鳳に優勝をさらわれ続けているのが日本の相撲界の現状である。
兎に角、日本人より圧倒的に体力面で勝っていた曙が初の外国人横綱となった時から、相撲界は、いずれ今のような外国人力士によって、占拠されるであろうことは予想されていたが、モンゴル出身の朝青竜や白鳳など日本人との体格面での差はあまりないが、それでも圧倒的に強いのは、過去の日本人力士ような力士としての素地のあるものが他のスポーツに流れ、相撲界に入ってこないことや、子供のころから肉体的、精神的に鍛えられていないこと、又、ハングリー精神もなくなっているからだろう。これから何時日本人横綱が誕生するか・・・?
かって大の大相撲ファンであった私には残念で仕方がないが、あまり期待はできそうにないね~。
(画像は曙 太郎。Wikipediaより)
参考:
※1:日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
※2:大相撲星取表
http://gans01.fc2web.com/index.html
大相撲パラメーターサイト
http://www.geocities.jp/buffie7wolf/index.htm
相撲人名鑑(曙 太郎)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19900904.htm
横綱の時代
http://www.geocities.jp/buffie7wolf/column-yokozuna.htm
曙太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%99%E5%A4%AA%E9%83%8E
横綱審議委員会:岐路に立つ大相撲
http://asasyoryu.yoihanashi.net/
K-1 OFFICIAL WEBSITE | 曙 | 選手データベース
http://www.k-1.co.jp/jp/fighter/player.php?index=akebono
曙太郎のくらべて年表
http://spysee.jp/history/year/1965,10504