今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

商標登録された「南京町」

2011-04-08 | 歴史
昨・2010(平成22)年4月8日の朝日新聞夕刊第1面に、中華街で有名な神戸元町の南京町商店街振興組合が「ブランド力の強化を図ろうと、「南京町」の商標を登録した旨の記事が掲載されていた。これにより、組合員は無料で「南京町」の商標を使える一方、非組合員は組合の許可を得たうえでロイヤルティー(使用料)が必要になった。
南京町では、中華料理店や雑貨店約150軒(うち、当時の組合加盟95軒)が営業(「南京町」の表記について参照)。中華街として知名度が高く、商品や屋号に名称を使われていた。当然、非組合員の戸惑いや反発もあったようだが、2002(平成14)年に「神戸南京町」の名前を冠したギョーザを売る店が東京で営業を始めるなど全国で「南京町」を使われるケースが相次ぎ、ブランドを守る必要があったからと同組合理事長は商標登録の理由を説明していたが・・・。冒頭掲載の画像は、朝日新聞夕刊掲載のもので、上が、商標登録された「南京町」のロゴ。下が、同商店街振興組合が町名を商標登録した南京町の一角(ネットにはもう朝日の記事はないが、当時の神戸新聞NEWSがあるのでここ参照)。
桑港のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ君を待つ 柳の小窓
泣いている泣いている おぼろな瞳
花やさし 霧の街
チャイナタウンの恋の夜
「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン。作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、1950年11月発売)
記念すべき第1回NHK紅白歌合戦渡辺 はま子が、紅組トリを飾った曲で、戦後最大の代表作ともいえる作品である。ちなみに以下YouTubeで渡辺の歌が聞ける。
YouTube-渡辺はま子: 桑港のチャイナ街( 桑港華人街 )
渡辺は1937(昭和12)年に勃発した日中戦争で日本軍が占領していた戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「シナの夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目も多くなり、当時は『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持されていた。
チャイナタウン(Chinatown)つまり、中華街 (唐人街)とは、非中国人地域における華僑華人の街のことであるが、大きなものは北アメリカや東南アジアに多く見られるが、ヨーロッパやオーストラリアでも拡大中の中華街が見られるようだ。サンフランシスコの中華街は、アメリカの中でも最大規模の中華街である。
これら、中華街の特徴としては、関帝廟(かんていびょう)など中国民間信仰の宗教施設を地域的な中核とし、同郷会館や中華学校、中華料理店、中国物産店などの施設が集まっている。
中国は、各地で中国語の方言の差が大きいため、出身地が違うと会話も成り立たない例も多く、同じ方言を話せる同郷人を中心とした結束力が強いようだ。
中華街に住む中国人を出身地別に見ると、20世紀前半までは海南島を含む広東省出身者が多く、次いで福建省出身者であったが、近年は福建省出身者が増加し、さらに上海や台湾出身者も増えている。それに、昨今の新華僑には方言の壁はほとんどなく、学校教育で獲得した中国(北京)語と現地語(日本語等)とが共通語となっているようだ。
日本三大中華街と言えば、横浜中華街長崎新地中華街 、そして、神戸南京町の3つだろう。
横浜市中区山下町一帯に所在する横浜中華街も以前は、唐人町や南京町と呼ばれていた。1859(安政6)年、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。
開港から数年で、海岸に近い土地は各国の商館で埋まり、背後に広がる土地が急ピッチで整備されていった。そのひとつが「横浜新田」と呼ばれる斜めの一角、現在の中華街のエリアであった。
当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かったが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路、香港路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地に、当地の出身者が多くおり、所在地である中区の中国人人口は6000人を超えている。この横浜中華街でも飲食店など約350店が加盟する「横浜中華街発展会協同組合」が2007(平成19)年8月「横浜中華街」を商標登録しているようだ。
長崎新地中華街についてであるが、江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居していた。その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されていたが、1698(元禄11)年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成。この地域は新地と呼ばれた。
幕末の鎖国政策の放棄により、長崎港も1859(安政6)年、国際開放され、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在住中国人は隣接の長崎市新地町に移り住み、中華街を形成した。これが長崎新地中華街の起源となった。
神戸の南京町は、神戸市中央区の元町通栄町通の1、2丁目一帯を指し、東西約200m、南北110mの範囲に組合加盟95(2010年現在)の店舗が軒を連ねる。店頭の路上で点心、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わっている。
この「南京町」という用語はかっては中国人街を指す一般名称であったが、行政上定められた正式な地名と言うわけではなく、現在では、南京町商店街振興組合の登録商標となっている地域の名前となっている。
南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」(冒頭の画像があずまや)、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名前の門があり、北は元町商店街につながっている。
現在日本に在住の華僑の人々は横浜華僑6000人に対して神戸華僑はその倍近い1万人を超えているといわれる。しかし、横浜中華街と比べると神戸南京町の規模は随分と小ぶりであるが、それは、実際に生活の場でもある横浜中華街と違い、神戸の南京町には居住者は少なく、ほぼ純然たる商業地となっているためである。
神戸関帝廟(以下参考の※2、※3参照)や神戸中華同文学校などの華僑関連施設は南京町にあるのではなく山手(中央区中山手近辺)に点在している。実際の神戸華僑の居住地は、鯉川筋トアロード北野町などであり、神戸の有名な中華料理店の大半も南京町ではなく三宮など市内中心部に拠点を置いている(以下参考の※4参照)。
それは、1868年(慶応3年)の神戸開港に伴い、現在の神戸市役所の西側一帯に外国人のための居留地が設けられ、それまで人口2 万5 千人程の寒村であった神戸が、わが国の世界への窓口となった。しかし、日本と通商条約を締結していなかった当時の中国「清国」の人々はその中に住むことを許されず、居留地の周辺の雑居地に住むようになったからである。
神戸港が世界へと扉を開いたとき山側の北野の異人館通りから近く、海側の居留地に隣接する西側の雑居地に清国人街(南京町)が形成されるようになったが、この南京町は特に日本人相手に始めた商売ではなく、日本人の雑居地の中に入って、自分の国、外国の人々が求めている商品を集めて、倉庫兼、商品集めの場所にして住んでいたものであった。
神戸華僑の人々が他の地域に比べて日本人社会と良好な関係を築いてくることが出来たのは、ひとつには神戸港の発展に華僑が清国とのパイプを利用して貿易面で少なからぬ貢献をしてきたことがあるだろう。それに、同じ日本人でも多くの人が他の地域から神戸に来ると住みやすいというが、神戸の住民には比較的地元で育った人よりも、やはり外から流入してきた日本人が多かったことから、余り、他地域から来た人のことなどをとやかく気にしないので、外から入ってきた人間同志の和が生まれやすい雰囲気もあった為だろう。
辛亥革命の父と仰がれる孫文(孫中山)を顕彰する日本で唯一の博物館(孫文記念館)となっている「移情閣」(国の重要文化財)の創建者として知られる呉錦堂(本名:作鏌。以下参考に記載の※5:「中国の友人達」の第五部 呉錦堂 -神戸と中国-参照)は、日清戦争(1894年7月~1895年3月)の少し前、1890(明治23)年に神戸にきてから30余年、神戸と上海及び彼の生誕地寧波など海を挟んだ二つの地域を拠点として貿易、海運から製造業へと事業を広げ活躍していたようだ。
そして、神戸の関帝廟は神戸で成功を収めた呉錦堂たちが中心となり、華僑の寺院として東大阪市の布施にあった長楽寺が廃寺になるところを神戸に移転させ、宇治市にある黄檗宗の萬福寺の末寺にしたことに始まる。
このように、呉錦堂は、神戸華僑社会の基礎を形成した人物の一人として、同時に華僑と神戸市民との間に太い絆を築き上げるうえでも大きな役割を果たした人物といえるだろう。
日清戦争時、海運界の目覚しい発展により神戸からの輸出入も著しく伸張しているが、神戸港が日本の対中国貿易総額の60%以上を占めた1900年頃には、日中の関係はなくてはならないパートナーとしてのものとなり、神戸の主幹産業であったマッチ(このブログで以前に書いた「マッチの日」参照)、大阪の綿製品の中国系世界への販路を開拓したのが彼ら華僑であった。以来、続いてきた華僑と神戸市民との良好な共生関係は、世界各地のチャイナタウンのいずれにもひけをとるものではないという(以下参考の※6:「ひょうご経済研究所」のここや※7を参照)。
それゆえ、戦前の一時期南京さん等の言葉が侮蔑的に用いられた事はあったものの、南京町という名称は既に世間に広く認知されているとして戦後も名称を変更する動きもなかったようだ(横浜・長崎では、中華街に改称している)。
神戸にゆかりのある人物として日本人以上に日本語の綺麗な作家と言われる陳舜臣がいる。
私の大好きな作家の1人でもあるが、彼の初期のミステリー、第7回江戸川乱歩賞受賞作『枯草の根』に名探偵・陶展文が登場する。この陶展文は北野町の住人で、海岸通りの中華料理店「桃源亭」主人であるが、陳氏も当時北野町に住んでいたと思う。
毎年、旧暦の正月に中国の「春節」をアレンジした「春節祭」が行なわれ、龍踊や獅子舞などが披露され、当日には多くの市民や観光客が集まり、南京町のみならず神戸の重要な行事にもなっており、1997(平成9)年には、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されている。
北野町山本通にある神戸中華同文学校は、1899(明治32)に犬養毅を名誉校長に立てて創立された古い歴史を持つ華僑子弟の多くが通う学校であるが、最近では、経済発展著しい中国への関心の高まりから、中国との血縁を持たない日本人子弟が中国語も学べる「国際学校」として位置づけ、同校への入学希望が急増していると聞いている。ここで学んだ人たちが、今後神戸と中国との絆を深め、神戸の発展に尽くしてくれたらいいな~と期待している。
中華料理には、大きく分けて 広東料理上海料理四川料理北京料理 の四大料理が有名であるが、これらの料理の有名店も神戸では南京町だけではなく、神戸三宮や山手その他あちこちに多くあるので、南京町で飽き足らないないときは、以下参考の※8:「食べログ」などで捜してみて・・・。神戸には本当に美味しい中華料理店は多くあるから・・・。例えば、南京町にある“豚まん発祥の店”ということで行列の出来る「老祥記」(ここ )の豚まんも美味しいが、ここの豚満は結構人によって好みが分かれるようであるが、三宮の太平閣(ここ)や一貫楼(ここ)の豚まんが私などは美味しいと思うよ。

参考:
※1:南京町公式ホームページ
http://www.nankinmachi.or.jp/index.php
※2:社団法人中華会館
http://www.zhonghua-huiguan.com/index2.html
※3:神奈備・関帝廟神戸
http://kamnavi.jp/dk/kanteikb.htm
※4:中華料理(広東・四川・北京)・豚まん・ギョウザ
http://www.kobe-news.net/f_china.html
※5:中国の友人達
http://www.eonet.ne.jp/~yuzo/index.html
※6:ひょうご経済研究所
http://www.heri.or.jp/index.html
※7:[PDF] 「こうべ港 140 年、貿易の変遷」
http://www.customs.go.jp/kobe/boueki/topix/h19/kobe_port_140.pdf
※8:食べログ
http://r.tabelog.com/
神戸の外国人学校
http://www.heri.or.jp/hyokei/hyokei73/73gako.htm
神戸港の歴史
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-1.html
神戸市:神戸開港140年/トップページ
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/140/140.html
神戸華僑歴史博物館
http://www16.ocn.ne.jp/~ochm1979/index1.html
館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/100/03.html
ケンジの推理小説図書館・あらすじ情報「ち・つ」
http://www.h2.dion.ne.jp/~kentuku/naiti.htm
神戸新聞読者クラブ:神戸・関帝廟
http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/odekake/yuing20070313cyugokunotabi01.html
神戸と架橋
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_enjoy/culture_study_04.html