略称「阪神電鉄」または「阪神電車」と呼ばれている阪神電気鉄道は、大阪(出入橋)と神戸(三宮)間を結ぶ鉄道を運営している大手私鉄であり、1905(明治38)年の今日・4月12日営業を開始した。
都市間電気鉄道(インターアーバン)としては日本で最も古い。また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社であることは良く知られている。
2006(平成18)年6月に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、今では、阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業となっている(詳しくは阪急・阪神経営統合を参照)。
2009(平成21)年3月20日に西九条 - 大阪難波間)が延伸開業(なんば線)し、近畿日本鉄道(近鉄)との相互直通運転も開始され、神戸方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶルートが形成され便利になった。
初期の鉄道は18世紀後半、 産業革命により発明された蒸気機関を動力としていた。電気鉄道の実用は、1879(明治12)年に、ベルリン工業博覧会で電機会社シーメンスが世界最初の電車の試験運行を実施したのに始まる。この時の電力は直流を使用した。
1887(明治20)年、エジソン研究所出身のアメリカ人発明家スプレイグが架空電車線方式と共に開発した吊り掛け駆動方式は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促した。1893(明治26)年ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、1900年までに3000キロほどの路線が建設された。
このようなアメリカのインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わっていたようだ。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては、藤岡市助が有名だそうであるが、他にも阪神電鉄の建設に携わった三崎省三(以下参考の※1参照)はスタンフォード大学の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかったようだ。
そのため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の交通事情や規制、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題であったようだが、こうした課題を乗り越え、日本で最初に都市間電気鉄道インターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道で(以後阪神電鉄と呼ぶ)であった。
関西地方最初の鉄道として、官設鉄道(現JR)旧東海道本線の大阪-神戸間が開通したのは1874(明治7)年5月11日のことであった。
このとき、神戸-大阪の中間には神戸の手前の三ノ宮(三ノ宮駅)と、西宮(西ノ宮駅)に停車場が設けられたが、発着は1日8往復と少ないうえ駅間距離が長く、やや長距離向きの汽車鉄道であった(※2参照)。
阪堺鉄道(現:南海電気鉄道の前身)は最初の私設鉄道として1885(明治18)年開業し、難波-大和川間を汽車が走った。また、1893(明治26)年摂津鉄道(軽便鉄道)などが開業していたが、これらは皆汽車(蒸気機関車)である。
そして、阪神電鉄が1905(明治38)年に大阪~神戸間の鉄道営業を開始した頃の同業者は、日本初の営業用電車を走らせた京都電気鉄道((1895年営業。1918年京都市に買収され、京都市電の一部となった路面電車)、かつて名古屋市を中心に路面電車を展開していた日本国内2番目(1898年営業)の電気鉄道・名古屋電気鉄道 、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から川崎大師まで標準軌で開通した日本で3番目、関東では最初の大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄の元となった鉄道、1899年営業)の各電鉄のほか、1903(明治36)年に電車に代わった東京馬車鉄道と大阪の築港~花園橋間に走っていた魚釣り電車(大阪市電=日本初公営電気鉄道。1903年開業。詳しくは以下参考の※3参照。)しかなく、これらはいずれも小型の市内電車であったが、大阪(出入橋)と神戸(三宮)間を34駅 90分で結ぶ、本格的な広軌(=標準軌)高速・による都市間大型電車・郊外電車の運行は、阪神電鉄が最初であった。
阪神電鉄はこの開業にあたって官鉄線(旧国鉄東海道本線)との競合を危惧する逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組。鉄道省参照)側の反対から私設鉄道法での認可が得られず、この問題を回避するため、鉄道作業局・内務省共同所轄の軌道法準拠による電気軌道として特許を申請した経緯から、集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多いのが特徴である。電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋(社章)に、その歴史が現れている。
そのような時代、関西の大手私鉄各社はいずれも沿線開発に注力を注いでいるが、阪神電鉄・阪急電鉄も設立当初から市外居住・郊外生活を標榜し、これを都市生活者の新しいライフスタイルとして紹介、郊外の住宅や余暇を開発することで、乗客の誘致、経営の安定をはかろうと考えたのが、当時阪神電鉄の技術部長であった三崎省三だそうである(以下参考の※4参照)。
郊外生活を実現すべく、1905(明治38)年に開業した阪神電鉄が沿線への誘客を目的に最初に手掛けた娯楽事業が海水浴場の経営であった。まず同年、芦屋市の打出の浜辺に海水浴場を開き、休憩書、食堂、脱衣場を設置した。そして、チンドン屋を雇い、仕掛け花火や軍楽隊の演奏などの催し物を用意して、酷暑の都会を抜け出して涼味を求める人々を招き入れたという。海水浴は手軽な健康増進法として当時の人達の人気をよんだ。
2年後の1907(明治40)年には、香野蔵治・櫨山喜一が、夙川西岸の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯(現在の阪急神戸本線夙川駅西側)(約33ha)に娯楽場「香櫨園遊園地」を開設、これに阪神電鉄が補助金を支出。博物館・動物園・音楽堂・大運動場のほかウォーターシュートなどの遊具も設けられた総合的な余暇施設として、人気を博していた(以下参考の※5:「西宮の新田開発と用水の歴史」の“豆知識 西宮に温泉?”に当時の遊園地の図あり)。
そして、1909(明治42)年には西宮停留所前に貸家30戸を建設するなど住宅開発もしている。
1916(大正5)年には西宮市(当時は武庫郡鳴尾村)に、陸上競技場やプール、テニス場、野球場(鳴尾球場)を併設した総合スタジアムとしての鳴尾運動場をオープンし、第3回から第9回までの全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)などが開催されるようになった。ちなみに、鳴尾球技場が完成した年は、阪神電鉄のノンプロ球団が大阪実業野球大会に初めて出.場した年でもあったそうだ(※4参照)。
1951(昭和26)年に西宮市に編入されるまで鳴尾村と呼ばれていたこの地域は、武庫川と、かつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域で、明治・大正期は苺の有名な産地であった。
鳴尾の郊外住宅の開発は、1910(明治43)年、阪神電鉄が鳴尾村西畑(現甲子園駅付近)に文化住宅70戸を建設したことに始まり、武庫川の改修工事により旧申川とともに枝川も廃川となった廃川敷地を兵庫県より1922 (大正11)年に購入してからは、甲子園地域にシフトし、甲子園球場を初め色々な施設を造っていくことになる。
1924(大正13)年に、枝川と旧申川の分岐点だった所につくられた球場が、現・阪神甲子園球場であるが、これは、全国中等学校優勝野球大会の人気が高まり、鳴尾運動場では観客を収容しきれなくなったことから大規模な球場が必要となり建設されたものである。従って、この球場が完成した年の第10回大会からは試合会場が甲子園球場となったので、鳴尾球場は廃止された。そして、第1回を山本球場で開催した選抜中等学校野球大会(現:選抜高等学校野球大会)も第2回以降は甲子園で開催されることとなった。
この甲子園球場は、当初、甲子園大運動場という名称で呼ばれていたようだが、その呼び名からもわかるように、ラグビーの試合や陸上競技などにも利用することが考えられていたらしいが、多機能グラウンドとしては不具合が生じることが判明し、海岸(浜甲子園)よりの場所に新たに運動場(南甲子園運動場)が造られ、1929(昭和4)年にオープンした。
甲子園球場のオープンとともに、甲子園駅が臨時駅として開業し、2年後には常設の駅となる。そして、1926(大正15)年に甲子園-浜甲子園間(路面電車の甲子園線)が開業した。この間は武庫川の支流であった枝川の跡地であるが、1975(昭和50)年に廃止となっている。地元では今でも「電車道」と呼ばれることが多い。阪神は枝川跡地の開発を進め、甲子園線を開業させると、さらに沿線の開発を進めていった。
上掲マッチ画像にもある甲子園浜での海水浴場経営は、停車場前に甲子園球場を建設した翌年即ち、1925(大正14)年に始まる。夏の風物詩である海水浴場もまた、海浜リゾート都市を目指した甲子園の中核となる集客施設であった。甲子園浜は、今でも阪神間に唯一残された自然の砂浜・干潟・磯がある貴重な浜である。
1926大正15)年には甲子園の西側(洲鳥町5)に甲子園テニスクラブ、また娯楽事業の1つとして、甲子園球場の道路を挟んだ反対側(南甲子園運動場の上手)には、1929(昭和4)年に、甲子園娯楽場も開園。1932(昭和7)年には名称を「浜甲子園阪神パーク」と改称し、動物園と遊戯施設が増強され、甲子園エリアを一大娯楽施設としていったが、USJ開業後の利用者減少にともない、2003(平成15)年3月30日の営業をもって閉鎖となり、跡地は商業施設「ららぽーと甲子園」になっている。
尚、1927(昭和2)年、阪神国道電軌が大阪西野田-東神戸間の開業をしたが、阪神国道上を走るこの路面電車は、既に競争相手となっていた阪急電鉄以上に阪神本線に近接する並行路線となるため、この路線の開業は阪神電鉄にとって経営危機を招く可能性が高かったため、翌年にこれを買収している。しかしモータリゼーションの進展に伴い、1975(昭和50)年5月6日までにその路線網は段階的に廃止され、現存しない。
(冒頭の画像は、阪神5001形電車、香櫨園駅にて撮影のもの。Wikipediaより)
参考:
※1:三崎省三 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%B4%8E%E7%9C%81%E4%B8%89
※2:国鉄があった時代:明治7年 鉄道ニュース
http://freett.com/blackcat_kat/nenpyou/meiji/meiji7.html
※ 3:大阪市電保存館
http://www.tcn.zaq.ne.jp/jq3rej/osakacity01.htm
※4:阪神タイガース(PDF)
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/matsuyo/edu/04semi2/gd.pdf#search='三崎省三'
※ 5:西宮の新田開発と用水の歴史
http://homepage3.nifty.com/j---u---n---e---/hajimeni.html
大正時代からある野球場
http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_koshien/m03e_koshien.htm
武庫川女子大学 -- 70年史こぼれ話
http://www.mukogawa-u.ac.jp/70_history/ed_news.htm
西宮市立郷土資料館第13回特別展:郊外生活のすすめ1900/1950-電車ポスターにみる西宮市の郊外生活文化-
http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo/zuroku/zuroku7.htm
海にできた芦屋
http://www.trans-usa.com/ashiya/newtwn.html
夙川まるごとウェブガイド
http://www.shukugawa-navi.com/
阪神電気鉄道株式会社
http://www.hanshin.co.jp/
交通に関する日本初の一覧- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%9D%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
都市間電気鉄道(インターアーバン)としては日本で最も古い。また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社であることは良く知られている。
2006(平成18)年6月に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、今では、阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業となっている(詳しくは阪急・阪神経営統合を参照)。
2009(平成21)年3月20日に西九条 - 大阪難波間)が延伸開業(なんば線)し、近畿日本鉄道(近鉄)との相互直通運転も開始され、神戸方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶルートが形成され便利になった。
初期の鉄道は18世紀後半、 産業革命により発明された蒸気機関を動力としていた。電気鉄道の実用は、1879(明治12)年に、ベルリン工業博覧会で電機会社シーメンスが世界最初の電車の試験運行を実施したのに始まる。この時の電力は直流を使用した。
1887(明治20)年、エジソン研究所出身のアメリカ人発明家スプレイグが架空電車線方式と共に開発した吊り掛け駆動方式は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促した。1893(明治26)年ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、1900年までに3000キロほどの路線が建設された。
このようなアメリカのインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わっていたようだ。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては、藤岡市助が有名だそうであるが、他にも阪神電鉄の建設に携わった三崎省三(以下参考の※1参照)はスタンフォード大学の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかったようだ。
そのため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の交通事情や規制、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題であったようだが、こうした課題を乗り越え、日本で最初に都市間電気鉄道インターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道で(以後阪神電鉄と呼ぶ)であった。
関西地方最初の鉄道として、官設鉄道(現JR)旧東海道本線の大阪-神戸間が開通したのは1874(明治7)年5月11日のことであった。
このとき、神戸-大阪の中間には神戸の手前の三ノ宮(三ノ宮駅)と、西宮(西ノ宮駅)に停車場が設けられたが、発着は1日8往復と少ないうえ駅間距離が長く、やや長距離向きの汽車鉄道であった(※2参照)。
阪堺鉄道(現:南海電気鉄道の前身)は最初の私設鉄道として1885(明治18)年開業し、難波-大和川間を汽車が走った。また、1893(明治26)年摂津鉄道(軽便鉄道)などが開業していたが、これらは皆汽車(蒸気機関車)である。
そして、阪神電鉄が1905(明治38)年に大阪~神戸間の鉄道営業を開始した頃の同業者は、日本初の営業用電車を走らせた京都電気鉄道((1895年営業。1918年京都市に買収され、京都市電の一部となった路面電車)、かつて名古屋市を中心に路面電車を展開していた日本国内2番目(1898年営業)の電気鉄道・名古屋電気鉄道 、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から川崎大師まで標準軌で開通した日本で3番目、関東では最初の大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄の元となった鉄道、1899年営業)の各電鉄のほか、1903(明治36)年に電車に代わった東京馬車鉄道と大阪の築港~花園橋間に走っていた魚釣り電車(大阪市電=日本初公営電気鉄道。1903年開業。詳しくは以下参考の※3参照。)しかなく、これらはいずれも小型の市内電車であったが、大阪(出入橋)と神戸(三宮)間を34駅 90分で結ぶ、本格的な広軌(=標準軌)高速・による都市間大型電車・郊外電車の運行は、阪神電鉄が最初であった。
阪神電鉄はこの開業にあたって官鉄線(旧国鉄東海道本線)との競合を危惧する逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組。鉄道省参照)側の反対から私設鉄道法での認可が得られず、この問題を回避するため、鉄道作業局・内務省共同所轄の軌道法準拠による電気軌道として特許を申請した経緯から、集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多いのが特徴である。電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋(社章)に、その歴史が現れている。
上図は阪神電鉄社章。Wikipediaより。
因みに阪神の競争相手であった阪急電鉄(当時箕面有馬電気軌道)も1920(大正9)年には、大阪梅田-神戸(上筒井。神戸市の山手東端にあった駅)間を開業した。又、1934(昭和9)年には省線(省営鉄道=現:JR)が電化されると、阪神間は、省線電車・阪神電車・阪急電車3線が並行する競合路線となっていた。そのような時代、関西の大手私鉄各社はいずれも沿線開発に注力を注いでいるが、阪神電鉄・阪急電鉄も設立当初から市外居住・郊外生活を標榜し、これを都市生活者の新しいライフスタイルとして紹介、郊外の住宅や余暇を開発することで、乗客の誘致、経営の安定をはかろうと考えたのが、当時阪神電鉄の技術部長であった三崎省三だそうである(以下参考の※4参照)。
郊外生活を実現すべく、1905(明治38)年に開業した阪神電鉄が沿線への誘客を目的に最初に手掛けた娯楽事業が海水浴場の経営であった。まず同年、芦屋市の打出の浜辺に海水浴場を開き、休憩書、食堂、脱衣場を設置した。そして、チンドン屋を雇い、仕掛け花火や軍楽隊の演奏などの催し物を用意して、酷暑の都会を抜け出して涼味を求める人々を招き入れたという。海水浴は手軽な健康増進法として当時の人達の人気をよんだ。
2年後の1907(明治40)年には、香野蔵治・櫨山喜一が、夙川西岸の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯(現在の阪急神戸本線夙川駅西側)(約33ha)に娯楽場「香櫨園遊園地」を開設、これに阪神電鉄が補助金を支出。博物館・動物園・音楽堂・大運動場のほかウォーターシュートなどの遊具も設けられた総合的な余暇施設として、人気を博していた(以下参考の※5:「西宮の新田開発と用水の歴史」の“豆知識 西宮に温泉?”に当時の遊園地の図あり)。
マッチ画像、朝日新聞「今昔マッチング」より
阪神電鉄は、ここに香櫨園停留場を新設し、海水浴場を打出浜から、上掲のマッチの画像にも書かれている香櫨園浜(御前浜)に場所を移設した。のちに、スイートピーやダリアなどの園芸展示会を企画して夏だけでなく四季折々の行楽をあつめようとした。そして、1909(明治42)年には西宮停留所前に貸家30戸を建設するなど住宅開発もしている。
1916(大正5)年には西宮市(当時は武庫郡鳴尾村)に、陸上競技場やプール、テニス場、野球場(鳴尾球場)を併設した総合スタジアムとしての鳴尾運動場をオープンし、第3回から第9回までの全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)などが開催されるようになった。ちなみに、鳴尾球技場が完成した年は、阪神電鉄のノンプロ球団が大阪実業野球大会に初めて出.場した年でもあったそうだ(※4参照)。
1951(昭和26)年に西宮市に編入されるまで鳴尾村と呼ばれていたこの地域は、武庫川と、かつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域で、明治・大正期は苺の有名な産地であった。
鳴尾の郊外住宅の開発は、1910(明治43)年、阪神電鉄が鳴尾村西畑(現甲子園駅付近)に文化住宅70戸を建設したことに始まり、武庫川の改修工事により旧申川とともに枝川も廃川となった廃川敷地を兵庫県より1922 (大正11)年に購入してからは、甲子園地域にシフトし、甲子園球場を初め色々な施設を造っていくことになる。
1924(大正13)年に、枝川と旧申川の分岐点だった所につくられた球場が、現・阪神甲子園球場であるが、これは、全国中等学校優勝野球大会の人気が高まり、鳴尾運動場では観客を収容しきれなくなったことから大規模な球場が必要となり建設されたものである。従って、この球場が完成した年の第10回大会からは試合会場が甲子園球場となったので、鳴尾球場は廃止された。そして、第1回を山本球場で開催した選抜中等学校野球大会(現:選抜高等学校野球大会)も第2回以降は甲子園で開催されることとなった。
この甲子園球場は、当初、甲子園大運動場という名称で呼ばれていたようだが、その呼び名からもわかるように、ラグビーの試合や陸上競技などにも利用することが考えられていたらしいが、多機能グラウンドとしては不具合が生じることが判明し、海岸(浜甲子園)よりの場所に新たに運動場(南甲子園運動場)が造られ、1929(昭和4)年にオープンした。
甲子園球場のオープンとともに、甲子園駅が臨時駅として開業し、2年後には常設の駅となる。そして、1926(大正15)年に甲子園-浜甲子園間(路面電車の甲子園線)が開業した。この間は武庫川の支流であった枝川の跡地であるが、1975(昭和50)年に廃止となっている。地元では今でも「電車道」と呼ばれることが多い。阪神は枝川跡地の開発を進め、甲子園線を開業させると、さらに沿線の開発を進めていった。
上掲マッチ画像にもある甲子園浜での海水浴場経営は、停車場前に甲子園球場を建設した翌年即ち、1925(大正14)年に始まる。夏の風物詩である海水浴場もまた、海浜リゾート都市を目指した甲子園の中核となる集客施設であった。甲子園浜は、今でも阪神間に唯一残された自然の砂浜・干潟・磯がある貴重な浜である。
1926大正15)年には甲子園の西側(洲鳥町5)に甲子園テニスクラブ、また娯楽事業の1つとして、甲子園球場の道路を挟んだ反対側(南甲子園運動場の上手)には、1929(昭和4)年に、甲子園娯楽場も開園。1932(昭和7)年には名称を「浜甲子園阪神パーク」と改称し、動物園と遊戯施設が増強され、甲子園エリアを一大娯楽施設としていったが、USJ開業後の利用者減少にともない、2003(平成15)年3月30日の営業をもって閉鎖となり、跡地は商業施設「ららぽーと甲子園」になっている。
尚、1927(昭和2)年、阪神国道電軌が大阪西野田-東神戸間の開業をしたが、阪神国道上を走るこの路面電車は、既に競争相手となっていた阪急電鉄以上に阪神本線に近接する並行路線となるため、この路線の開業は阪神電鉄にとって経営危機を招く可能性が高かったため、翌年にこれを買収している。しかしモータリゼーションの進展に伴い、1975(昭和50)年5月6日までにその路線網は段階的に廃止され、現存しない。
(冒頭の画像は、阪神5001形電車、香櫨園駅にて撮影のもの。Wikipediaより)
参考:
※1:三崎省三 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%B4%8E%E7%9C%81%E4%B8%89
※2:国鉄があった時代:明治7年 鉄道ニュース
http://freett.com/blackcat_kat/nenpyou/meiji/meiji7.html
※ 3:大阪市電保存館
http://www.tcn.zaq.ne.jp/jq3rej/osakacity01.htm
※4:阪神タイガース(PDF)
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/matsuyo/edu/04semi2/gd.pdf#search='三崎省三'
※ 5:西宮の新田開発と用水の歴史
http://homepage3.nifty.com/j---u---n---e---/hajimeni.html
大正時代からある野球場
http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_koshien/m03e_koshien.htm
武庫川女子大学 -- 70年史こぼれ話
http://www.mukogawa-u.ac.jp/70_history/ed_news.htm
西宮市立郷土資料館第13回特別展:郊外生活のすすめ1900/1950-電車ポスターにみる西宮市の郊外生活文化-
http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo/zuroku/zuroku7.htm
海にできた芦屋
http://www.trans-usa.com/ashiya/newtwn.html
夙川まるごとウェブガイド
http://www.shukugawa-navi.com/
阪神電気鉄道株式会社
http://www.hanshin.co.jp/
交通に関する日本初の一覧- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%9D%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7