日本記念日協会の記念日に「釜飯の日」(毎月1日)がある。
日本文化のひとつ釜飯をより身近に、より多くの人に食べてもらいたいとの思いから、福岡県北九州市に本社を置き、釜飯専門店「釜めしもよう」と「釜のや」を全国展開する株式会社前田家が制定。日付は「釜めしもよう」(hp※1参照)の創業記念日である1995(平成7) 年7 月1 日の1 日にちなんで。・・とある。
7月1日が創業記念日なら、7月1日を記念日にすればよいのに、なぜ9月1日を記念日にしているのか。これは、記念日登録の誤りか。それとも毎月1日が記念日なのか・・・?私にはよくわからないが、私には、ブログネタとして、そのようなことは気にせずこのブログを書くことにした。
「釜めしもよう」では、店舗での販売だけでなく、「釜飯具材」のほか「釜めしかまどと釜飯具材のセット」、「釜めしかまどのセットだけ」などいろいろとネット通販もしているようだ。
釜飯(かまめし)は、米に醤油、みりん等の調味料を加え、その上に椎茸、鶏肉などの具を載せ、一人用の釜で炊いた米飯料理である。
一種の炊き込みご飯であるが、釜から飯碗によそうのではなく、釜のまま食卓に供することに特徴がある。
釜の種類としては、冒頭に掲載の画像(釜めしもようHPより借用の【人気NO,1】店長自慢のかに釜めし)にあるような、胴の中ほどにぐるりとつばがついていて、かまどに設置する際、つばのところでかまどの縁にかかるようになっている羽釜式の鉄釜の他に、土鍋型の陶器の益子焼、高田焼などもよく用いられる。
「釜めしもよう」でも、九州の最寄店舗(上津役店、戸畑店、黒崎店)では、何製の陶器かは知らないが、お土産用陶器釜を、釜めしの値段に別途150円で販売しているようだ。興味のある方は、HP(※1)を覗かれるとよい。
釜飯は、1923(大正12)年、関東大震災のあとの東京上野で行なわれた炊き出しをヒントに、のちの浅草の『釜めし 春』の女将が開発させた、一人用の釜で客に供した料理が始まり(大正15年創業)とされている(※2、※3参照)。
ご飯と具材を一緒に炊き込む釜めしは、具材の旨みがお米一粒一粒にぎゅっと凝縮されるところに美味さの秘訣がある。
四季を通して食べることのできる五目釜めしや鶏、鯛、海老、あさりなどの具材を使った釜めしなどのほか、季節によって栗や松茸、竹の子、かに、牡蠣といった旬の具材を味わえる釜めし。また、地域によっては、うなぎや山菜の釜めしなど、具材によって変わるご飯の味を、何人かで数種類注文し、取り分けて食べると、楽しさが一層広がるかもしれない。
店によってレシピは様々だろうが、「お米と水の分量、火加減、時間をきっちりとはかり、調節することが一番大切」と「元祖 釜めし 春」の社長豊田氏は言っているがその通りだろう。
私など現役時代、仕事で日本全国を年中出張していたが、旅に出たときの楽しみの一つに駅弁がある。釜飯はそんな駅弁としても親しまれている。この場合、主に土鍋型の陶製容器が用いられるが、食べ終わった後の容器を家庭に持ち帰って利用することができるのも、好評の一因でもあるだろう。
そんな駅弁としての釜めしで、もっとも古くから販売されていたものとして知られているのは、今では既に廃線(1997年9月30日限り)となって久しい、群馬と長野の県境を越えていた鉄路・旧国鉄・信越本線の横川駅で販売されていた「峠の釜飯」ではないか。
「峠の釜めし」は、群馬県安中市松井田町( 2006年3月18日に安中市と対等合併し、消滅)にある「荻野屋」が、おぎのやの名で製造・販売する駅弁である。

●上掲の画象は横川駅駅前にある「おぎのや」本店(画像はWikipediaより)。
群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある碓氷峠の、標高は約960 m。
信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺であり、古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記されたが、近世以降は碓氷峠で統一されている。
古来よりこの碓氷坂(碓氷峠)は、坂東(碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ)と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。

上掲の地図は碓氷峠の変遷(画像はWikipediaより)。
全国的な幹線道路として建設された古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠(和美峠)ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていないが、中世には、碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(上掲の地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。
そして、江戸時代には中山道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。
明治に入ってもその重要性は変わらず、1882(明治17)年に、従来の南側に新道(碓氷峠新道。現在の国道18号)が開通し、東西直通の中仙道鉄道の一部として1884(明治17)年、官営鉄道(明治期日本国政府が直営した鉄道)の後の信越本線となる直江津線が開通し、1885(明治18)年10月15日、高崎-横川間が開業した。
その後、日本海側の直江津駅からも順次南下して線路が敷設され、軽井沢駅までの路線が1888(明治21)年12月1日に完成した。しかし横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠(新道)という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想されたため、暫定的に両駅間を鉄道馬車によって結ぶこととなった。碓氷峠の国道上に碓氷鉄道馬車が開業したのは、1888(明治21)年9月のことらしい。
荻野屋は1885(明治18)年10月15日、信越本線高崎-横川間開業の日に横川駅、駅前に本店を構え創業したという。
当時は横川が終着駅で、碓氷峠(新道)は馬車で越えて軽井沢へと行っていたため、どうしても構内営業が必須だったらしい。そして、これを機に駅弁として「おむすび」の販売を開始。
当時のメニューは「おむすび2個とたくあん」を竹の皮に包んだものだったそうで、この駅弁販売は、全国でも宇都宮駅に次ぐ老舗だと言われている。
宇都宮駅では、地元で旅館業を営んでいた白木屋嘉平が、たまたまその旅館に宿泊していた日本鉄道の重役の薦めで販売した握り飯2個に沢庵漬けを添えたもの(1包み5銭であったらしい)が日本最初の駅弁であり、宇都宮駅が「駅弁発祥の地」とされている(駅弁参照)。
ただ、私は以前に、このブログ「駅弁の日」でも書いたのだが、駅弁の日本初には、いろいろと説があって、ともかく、明治10年代には駅弁が登場していたことは間違いないらしいが、東海道本線の神戸駅説もあり、1877(明治10)年7月に官営鉄道神戸駅で駅弁販売が開始されたというもので、1957(昭和32)年に神戸駅が発行した「神戸駅史」の年表に一文が掲載されているようだ。
しかし、この駅弁も、どのような売り方をしたのかによって色々と違ってくるだろう。日本で初めて、今売られているような「幕の内タイプ」の駅弁が販売されたのは1889(明治22)年、兵庫県の姫路駅で「まねき食品」が販売した経木(きょうぎ、薄い木の板)入りの「幕の内弁当」だといわれている。
それはさておき、
横川駅 - 軽井沢駅間には、1893(明治26)年にアプト式ラックレールを採用した、官営鉄道線が開通され、同区間の、鉄道馬車は廃線となった。
荻野屋は、同社HP(※4)の歴史を見ると、その後、戦後の1947(昭和22)年に、さつま芋弁当、1950(昭和25)年に、特選米「幕の内弁当」などの販売を開始している、釜飯は、当時の4代目社長高見澤みねじの発案で、1958(昭和33)年に発売を開始したのだという。
釜飯の発案は、社長自らがホームに立ち、旅行者ひとりひとりの駅弁への意見・想いを聞いて回った結果、「あたたかくて、家庭的な楽しい弁当が求められている」ことに気づいたことが、新たな駅弁開発のきっかけとなり、益子焼の土釜に入った駅弁、「峠の釜めし」が誕生したのだという。
Wikipediaには、“当時の駅で弁当と一緒に販売されていた緑茶の陶器製土瓶に着目。陶器は保温性にも優れていた上、匂いも移らないため、「暖かい」「楽しい」という要望をクリアできる。さらに「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て、早速益子焼の職人に相談し、一人用の釜を作成することにした。 ・・とある。
しかし、この中の前段は良いが、後段の”「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て・・“というのは、誰がいつ詠んだ歌のことを言っているのかなどその根拠がよくわからない。
防人とはその名の通り「み崎を守る人」である。天智天皇2年(663年)に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。
防人は当初は、遠江以東の東国の農民の中から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったようだ。
『万葉集』には、そんな防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首近く収録されており、防人歌と総称されるが、そのうち84首が万葉集巻20に収録されている(※5参照)。
碓氷峠に関連した万葉歌としては、以下のような歌が見られる。
巻第十四-3402「日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ」
(日暮れ時なのに、あの方が碓氷の山を越えていかれた日に、あの方がお振りになられた袖がはっきりと見えた。)
巻第二十- 4407「ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも」
(日が曇り、薄日がさすという碓氷の坂を越えるにつれ、後に残して来た妻が恋しくて忘れられない)
だが他にも、いろいろ防人が、土器で飯を炊いたといった内容の歌がないかを探してみたのだが万葉集の中には見つからなかった。
いずれにしても、1950年代、あたたかいまま食べられる「峠の釜めし」は、当時としては常識をくつがえす画期的な駅弁であったことは確かだろう。横川駅で釜めしを発売した1958(昭和33)年10月18日天皇陛下(昭和天皇)、富山国体へ行幸の折、横川駅にて峠の釜めし積み込みの栄に浴している。
その後、旅客の口コミで評判を呼び雑誌「文藝春秋」のコラムに取り上げられたことから、徐々に人気商品となり、その後の隆盛へとつながるきっかけとなり、1967(昭和42)年には同社社長をモデルにしたテレビドラマ「釜めし夫婦」(フジテレビ土曜劇場。※6参照)が放映されたことにより、「峠の釜めし」の知名度が全国区となった。
私らが子供の頃によく歌った『鉄道唱歌』の第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている(※7参照)。
19:これより音に聞き至る 碓氷峠のアブト式 歯車つけて下(お)り上(のぼ)る 仕掛は外に類(たぐい)なし
20:.くぐるトンネル二十六 灯火(ともしび)薄く昼暗(くら)し いずれは天地うち晴れて 顔吹く風の心地よさ
少し、本題からそれるが、碓氷峠と言えば、時代劇大好きな私、7月のケーブルテレビの映画・ドラマの専門チャンネルチャンネルNECOで見た吉川英治原作の新東宝映画「隠密七生記」(1956年版※8参照)を思い出す。
八代将軍吉宗は、家康公が尾張家のために遺した秘筥を手に入れようと早くから尾張中納言宗春のもとに送り込んだ隠密の一人、相楽三年は四年の苦節が実を結び野火焼の日、天守閣の鯱の眼球に隠された祕筥を手に入れた.。
それを奪い返そうとする元尾張藩で三平の友人でもあった源太郎。
将軍家と尾張家、この期を利用して豊臣家再興を企む那美姫一党が加わり、追いつ追われつの手に汗握る大活劇を描いた娯楽時代劇。
秘筥を取り返そうとして三平に斬られた源太郎。そのとどめを刺そうとしているところを偶然助け、それ以後協力者となる謎の女性「お駒」など、三つ巴の女性の恋物語も絡めた欲の深い二部作の長編である。
その第一部 、サブタイトル-”剣雲碓氷峠の乱陣”に見られるように、碓氷峠を超えると江戸の管轄地域となり、尾張藩としては碓氷峠を超えさせると手が出せぬと、碓氷峠を境に、秘筥の取りつ取られつの奪い合いがくどいほどに繰り広げられる・・・。今では流行らないかもしれないが、昔流行ったドタバタ時代劇・・それはそれで懐かしくも楽しく見たのを思い出した。
そんな険しい碓氷峠に阻まれ1997年(平成9年)10月1日の長野新幹線開業までは、全ての列車が1963(昭和38)年のアプト式廃止までは電気機関車をED42形などの区間専用車への付け替え、それ以後はEF63形など補機(補助機関車)の連結を行っていた。
そのため当駅の停車時間が長いという駅自体の特殊性(碓氷峠4鉄道参照)もあり、駅弁を販売するのには適していたこと、また、荻野屋の工場は横川駅に隣接しており、完成した駅弁を工場からそのまま駅へ持ち込むことが可能だったことから暖かい出来立ての「釜めし」を販売できたことも成功の要因であった。
さて、また、○○元祖の話であるが、「釜めし」についてもちょっと述べておこう。
徳田秋声晩年の1941(昭和16)年6月28日から9月15日まで、都新聞に連載された長編小説『縮図 』は、小石川白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いていたため、情報局から太平洋戦争直前の時局柄好ましくないという干渉をうけ、第80回で連載を中絶。以後続きが書かれることはなかった。
原作では主人公である芸者の銀子が働く「I町」として、宮城県の石巻が物語の舞台のひとつになっている。この小説は青空文庫で詠むことができる(※9参照)。
小説では銀子を口説く「河の州に工場を持っている罐詰屋の野良子息(のらむすこ)」が出てくる。
彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいの男であった。
「あの青ん造は一体おまえの何だい」
夏(銀子の)父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産に親類か何ぞのように錦糸堀の家(うち)へ上がりこみ、朝からお昼過ぎまで居座る罐詰屋のことを、そんなふうに怒っていた。
それに対して「何でもないわよ。お客というほどのこともないのよ。たまに釜飯屋を附き合うくらいなのよ。あの男は天下に釜飯くらいうまいものはないと言ってるくらいだもの。」と言っている。
この釜めしやはどこの何という釜めしやだろうか・・・?興味のわくところだが、これについて、以下参考の※10:「縮図(1953年): OLマリコの映画の食べ物日記」がいろいろ考察し、以下のように書いている。
“『縮図』の中で石巻は以下のように登場します。
銀子は東京から千葉の蓮池(中央区)へ移って芸者として働いて家族を養い、好きな男性がいるのに置屋の主人に手をつけられて囲われ者状態になっていました。しかしカール・テホ・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』を見て、もう芸者はやるまいと決心を固めて向島に戻り、父と靴屋を再開します。ところがやはり家族の生計が立たず、翌年の正月から石巻で芸者をやることになるのでした。InternetMovieDatabaseによると『裁かるゝジャンヌ』の日本公開は1929年(昭和4年)10月なので、『縮図』で描かれるのは1930年(昭和5年)の石巻だと思われます。
『グラビア石巻』(亀山印刷)によると、市内に点在していた料亭が1928年(昭和3年)に新地(住吉町2丁目)に集められ、妓楼も建てられ、翌年から新しい歓楽街として営業が始まったそうです。銀子が石巻に呼ばれたのは、そのような町の背景があったからだと思われます。“そして、” この小説に出てくる釜飯屋は、もしかして今でも石巻で営業している、1914年(大正3年)創業の割烹・滝川ではないでしょうか? “・・・と。
早速、検索して、割烹・滝川を調べてみた。すると、以下参考の※11:「歩き出す未来への道“奇跡的に守られた伝統のタレ、石巻「滝川」の釜飯” - 日経BPネット」が見つかった。そこには以下のように記されている。
“釜のフタを開けたとたん、湯気とともに食欲をそそる香りがふわりと立ち上る。柔らかな鶏肉と、出汁(だし)のきいたご飯の絶妙な取り合わせ。「とり釜飯膳」は滝川の伝統ある人気メニューだ。この味の秘密のひとつが、大正3年(1914年)の創業時から継ぎ足されながら使われてきたタレである。約100年の間、地元の人に愛される味を何代にもわたって守ってきた。
震災からこの味を守れたのは奇跡だった。震災前の滝川の店舗は北上川から約50m、堤防が決壊し被害が大きい地域にあった。近隣の建物は津波に流されたり、流れて来た小型船舶に壊されたり…。そんな中、戦後に建てられた滝川の店舗は、大地震にも津波にも耐えた。そして、長年継ぎ足されてきたタレは、浸水しなかった2階の客席に置かれていたのだった。“・・と。
そして、あの忌まわしい東日本大震災から約半年、2011年9月から、滝川は石巻サンプラザホテルの1階に移転し営業を開始し, 2013年(平成25)年6月7日より、2年3ヶ月ぶりに、中央1丁目の本店での営業を再開いているそうだ(※12)。
石巻の割烹「滝川」の釜飯が1914(大正3)年の創業時から販売されていたのだとしたら、1926(大正15)年創業の浅草の「元祖 釜めし 春」よりも、12年も早くから釜めしを販売していたことになる。もっとも、どんな釜めしであったかは…別として。
兎に角、あの東日本大震災から伝統の店が立ち直ったというニュースがうれしい。他にも伝統ある店が沢山あるだろう。一日も早い復帰を心から祈っています。
※1 :釜めしもようHP
http://www.kamamesi.com/
※2:ぐるなび - 釜めし春 浅草本店
http://r.gnavi.co.jp/g511100/ http://r.gnavi.co.jp/g511100/
※3:アサヒビール 「東京下町グルメ・浅草」vol.1 釜めし・とろろめしの巻
http://www.asahibeer.co.jp/area/04/shitamachi/vol01.html
※4:峠の釜めし本舗おぎのや
http://www.oginoya.co.jp/
※5:たのしい万葉集:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
※6:釜めし夫婦 - ドラマ詳細データ - テレビドラマデータベース
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-10325
※7:Callon's Webpage GUKOU-TSUSHINSHA:自由資料集
http://www4.zero.ad.jp/callon/pdd.html
※8:隠密七生記(1956) : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/72167/
※9:徳田秋声 縮図 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/1698_46840.html
※10:縮図(1953年): OLマリコの映画の食べ物日記
http://marikome.cocolog-nifty.com/maricine/2009/11/1953-9f70.html
※11:歩き出す未来への道“奇跡的に守られた伝統のタレ、石巻「滝川」の釜飯” - 日経BPネット
http://www.nikkeibp.co.jp/article/reb/20120422/306482/ST=rebuild_sf
※12:ぐるなび - 割烹 滝川
http://r.gnavi.co.jp/t005900/
『古事記傳』28 - 雲の筏
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html
万葉歌碑巡り
http://www5a.biglobe.ne.jp/hpkoto/ara/manyou/chushaku3.html
碓氷線概史 -66.7の軌跡-
http://www15.big.or.jp/~club667/usuihistory/usuihistory.html#01
四方赤良の余談集3
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yomono3.html
釜飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E9%A3%AF
........................................................................................
日本文化のひとつ釜飯をより身近に、より多くの人に食べてもらいたいとの思いから、福岡県北九州市に本社を置き、釜飯専門店「釜めしもよう」と「釜のや」を全国展開する株式会社前田家が制定。日付は「釜めしもよう」(hp※1参照)の創業記念日である1995(平成7) 年7 月1 日の1 日にちなんで。・・とある。
7月1日が創業記念日なら、7月1日を記念日にすればよいのに、なぜ9月1日を記念日にしているのか。これは、記念日登録の誤りか。それとも毎月1日が記念日なのか・・・?私にはよくわからないが、私には、ブログネタとして、そのようなことは気にせずこのブログを書くことにした。
「釜めしもよう」では、店舗での販売だけでなく、「釜飯具材」のほか「釜めしかまどと釜飯具材のセット」、「釜めしかまどのセットだけ」などいろいろとネット通販もしているようだ。
釜飯(かまめし)は、米に醤油、みりん等の調味料を加え、その上に椎茸、鶏肉などの具を載せ、一人用の釜で炊いた米飯料理である。
一種の炊き込みご飯であるが、釜から飯碗によそうのではなく、釜のまま食卓に供することに特徴がある。
釜の種類としては、冒頭に掲載の画像(釜めしもようHPより借用の【人気NO,1】店長自慢のかに釜めし)にあるような、胴の中ほどにぐるりとつばがついていて、かまどに設置する際、つばのところでかまどの縁にかかるようになっている羽釜式の鉄釜の他に、土鍋型の陶器の益子焼、高田焼などもよく用いられる。
「釜めしもよう」でも、九州の最寄店舗(上津役店、戸畑店、黒崎店)では、何製の陶器かは知らないが、お土産用陶器釜を、釜めしの値段に別途150円で販売しているようだ。興味のある方は、HP(※1)を覗かれるとよい。
釜飯は、1923(大正12)年、関東大震災のあとの東京上野で行なわれた炊き出しをヒントに、のちの浅草の『釜めし 春』の女将が開発させた、一人用の釜で客に供した料理が始まり(大正15年創業)とされている(※2、※3参照)。
ご飯と具材を一緒に炊き込む釜めしは、具材の旨みがお米一粒一粒にぎゅっと凝縮されるところに美味さの秘訣がある。
四季を通して食べることのできる五目釜めしや鶏、鯛、海老、あさりなどの具材を使った釜めしなどのほか、季節によって栗や松茸、竹の子、かに、牡蠣といった旬の具材を味わえる釜めし。また、地域によっては、うなぎや山菜の釜めしなど、具材によって変わるご飯の味を、何人かで数種類注文し、取り分けて食べると、楽しさが一層広がるかもしれない。
店によってレシピは様々だろうが、「お米と水の分量、火加減、時間をきっちりとはかり、調節することが一番大切」と「元祖 釜めし 春」の社長豊田氏は言っているがその通りだろう。
私など現役時代、仕事で日本全国を年中出張していたが、旅に出たときの楽しみの一つに駅弁がある。釜飯はそんな駅弁としても親しまれている。この場合、主に土鍋型の陶製容器が用いられるが、食べ終わった後の容器を家庭に持ち帰って利用することができるのも、好評の一因でもあるだろう。
そんな駅弁としての釜めしで、もっとも古くから販売されていたものとして知られているのは、今では既に廃線(1997年9月30日限り)となって久しい、群馬と長野の県境を越えていた鉄路・旧国鉄・信越本線の横川駅で販売されていた「峠の釜飯」ではないか。
「峠の釜めし」は、群馬県安中市松井田町( 2006年3月18日に安中市と対等合併し、消滅)にある「荻野屋」が、おぎのやの名で製造・販売する駅弁である。

●上掲の画象は横川駅駅前にある「おぎのや」本店(画像はWikipediaより)。
群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある碓氷峠の、標高は約960 m。
信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺であり、古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記されたが、近世以降は碓氷峠で統一されている。
古来よりこの碓氷坂(碓氷峠)は、坂東(碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ)と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。

上掲の地図は碓氷峠の変遷(画像はWikipediaより)。
全国的な幹線道路として建設された古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠(和美峠)ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていないが、中世には、碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(上掲の地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。
そして、江戸時代には中山道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。
明治に入ってもその重要性は変わらず、1882(明治17)年に、従来の南側に新道(碓氷峠新道。現在の国道18号)が開通し、東西直通の中仙道鉄道の一部として1884(明治17)年、官営鉄道(明治期日本国政府が直営した鉄道)の後の信越本線となる直江津線が開通し、1885(明治18)年10月15日、高崎-横川間が開業した。
その後、日本海側の直江津駅からも順次南下して線路が敷設され、軽井沢駅までの路線が1888(明治21)年12月1日に完成した。しかし横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠(新道)という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想されたため、暫定的に両駅間を鉄道馬車によって結ぶこととなった。碓氷峠の国道上に碓氷鉄道馬車が開業したのは、1888(明治21)年9月のことらしい。
荻野屋は1885(明治18)年10月15日、信越本線高崎-横川間開業の日に横川駅、駅前に本店を構え創業したという。
当時は横川が終着駅で、碓氷峠(新道)は馬車で越えて軽井沢へと行っていたため、どうしても構内営業が必須だったらしい。そして、これを機に駅弁として「おむすび」の販売を開始。
当時のメニューは「おむすび2個とたくあん」を竹の皮に包んだものだったそうで、この駅弁販売は、全国でも宇都宮駅に次ぐ老舗だと言われている。
宇都宮駅では、地元で旅館業を営んでいた白木屋嘉平が、たまたまその旅館に宿泊していた日本鉄道の重役の薦めで販売した握り飯2個に沢庵漬けを添えたもの(1包み5銭であったらしい)が日本最初の駅弁であり、宇都宮駅が「駅弁発祥の地」とされている(駅弁参照)。
ただ、私は以前に、このブログ「駅弁の日」でも書いたのだが、駅弁の日本初には、いろいろと説があって、ともかく、明治10年代には駅弁が登場していたことは間違いないらしいが、東海道本線の神戸駅説もあり、1877(明治10)年7月に官営鉄道神戸駅で駅弁販売が開始されたというもので、1957(昭和32)年に神戸駅が発行した「神戸駅史」の年表に一文が掲載されているようだ。
しかし、この駅弁も、どのような売り方をしたのかによって色々と違ってくるだろう。日本で初めて、今売られているような「幕の内タイプ」の駅弁が販売されたのは1889(明治22)年、兵庫県の姫路駅で「まねき食品」が販売した経木(きょうぎ、薄い木の板)入りの「幕の内弁当」だといわれている。
それはさておき、
横川駅 - 軽井沢駅間には、1893(明治26)年にアプト式ラックレールを採用した、官営鉄道線が開通され、同区間の、鉄道馬車は廃線となった。
荻野屋は、同社HP(※4)の歴史を見ると、その後、戦後の1947(昭和22)年に、さつま芋弁当、1950(昭和25)年に、特選米「幕の内弁当」などの販売を開始している、釜飯は、当時の4代目社長高見澤みねじの発案で、1958(昭和33)年に発売を開始したのだという。
釜飯の発案は、社長自らがホームに立ち、旅行者ひとりひとりの駅弁への意見・想いを聞いて回った結果、「あたたかくて、家庭的な楽しい弁当が求められている」ことに気づいたことが、新たな駅弁開発のきっかけとなり、益子焼の土釜に入った駅弁、「峠の釜めし」が誕生したのだという。
Wikipediaには、“当時の駅で弁当と一緒に販売されていた緑茶の陶器製土瓶に着目。陶器は保温性にも優れていた上、匂いも移らないため、「暖かい」「楽しい」という要望をクリアできる。さらに「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て、早速益子焼の職人に相談し、一人用の釜を作成することにした。 ・・とある。
しかし、この中の前段は良いが、後段の”「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て・・“というのは、誰がいつ詠んだ歌のことを言っているのかなどその根拠がよくわからない。
防人とはその名の通り「み崎を守る人」である。天智天皇2年(663年)に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。
防人は当初は、遠江以東の東国の農民の中から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったようだ。
『万葉集』には、そんな防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首近く収録されており、防人歌と総称されるが、そのうち84首が万葉集巻20に収録されている(※5参照)。
碓氷峠に関連した万葉歌としては、以下のような歌が見られる。
巻第十四-3402「日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ」
(日暮れ時なのに、あの方が碓氷の山を越えていかれた日に、あの方がお振りになられた袖がはっきりと見えた。)
巻第二十- 4407「ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも」
(日が曇り、薄日がさすという碓氷の坂を越えるにつれ、後に残して来た妻が恋しくて忘れられない)
だが他にも、いろいろ防人が、土器で飯を炊いたといった内容の歌がないかを探してみたのだが万葉集の中には見つからなかった。
いずれにしても、1950年代、あたたかいまま食べられる「峠の釜めし」は、当時としては常識をくつがえす画期的な駅弁であったことは確かだろう。横川駅で釜めしを発売した1958(昭和33)年10月18日天皇陛下(昭和天皇)、富山国体へ行幸の折、横川駅にて峠の釜めし積み込みの栄に浴している。
その後、旅客の口コミで評判を呼び雑誌「文藝春秋」のコラムに取り上げられたことから、徐々に人気商品となり、その後の隆盛へとつながるきっかけとなり、1967(昭和42)年には同社社長をモデルにしたテレビドラマ「釜めし夫婦」(フジテレビ土曜劇場。※6参照)が放映されたことにより、「峠の釜めし」の知名度が全国区となった。
私らが子供の頃によく歌った『鉄道唱歌』の第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている(※7参照)。
19:これより音に聞き至る 碓氷峠のアブト式 歯車つけて下(お)り上(のぼ)る 仕掛は外に類(たぐい)なし
20:.くぐるトンネル二十六 灯火(ともしび)薄く昼暗(くら)し いずれは天地うち晴れて 顔吹く風の心地よさ
少し、本題からそれるが、碓氷峠と言えば、時代劇大好きな私、7月のケーブルテレビの映画・ドラマの専門チャンネルチャンネルNECOで見た吉川英治原作の新東宝映画「隠密七生記」(1956年版※8参照)を思い出す。
八代将軍吉宗は、家康公が尾張家のために遺した秘筥を手に入れようと早くから尾張中納言宗春のもとに送り込んだ隠密の一人、相楽三年は四年の苦節が実を結び野火焼の日、天守閣の鯱の眼球に隠された祕筥を手に入れた.。
それを奪い返そうとする元尾張藩で三平の友人でもあった源太郎。
将軍家と尾張家、この期を利用して豊臣家再興を企む那美姫一党が加わり、追いつ追われつの手に汗握る大活劇を描いた娯楽時代劇。
秘筥を取り返そうとして三平に斬られた源太郎。そのとどめを刺そうとしているところを偶然助け、それ以後協力者となる謎の女性「お駒」など、三つ巴の女性の恋物語も絡めた欲の深い二部作の長編である。
その第一部 、サブタイトル-”剣雲碓氷峠の乱陣”に見られるように、碓氷峠を超えると江戸の管轄地域となり、尾張藩としては碓氷峠を超えさせると手が出せぬと、碓氷峠を境に、秘筥の取りつ取られつの奪い合いがくどいほどに繰り広げられる・・・。今では流行らないかもしれないが、昔流行ったドタバタ時代劇・・それはそれで懐かしくも楽しく見たのを思い出した。
そんな険しい碓氷峠に阻まれ1997年(平成9年)10月1日の長野新幹線開業までは、全ての列車が1963(昭和38)年のアプト式廃止までは電気機関車をED42形などの区間専用車への付け替え、それ以後はEF63形など補機(補助機関車)の連結を行っていた。
そのため当駅の停車時間が長いという駅自体の特殊性(碓氷峠4鉄道参照)もあり、駅弁を販売するのには適していたこと、また、荻野屋の工場は横川駅に隣接しており、完成した駅弁を工場からそのまま駅へ持ち込むことが可能だったことから暖かい出来立ての「釜めし」を販売できたことも成功の要因であった。
さて、また、○○元祖の話であるが、「釜めし」についてもちょっと述べておこう。
徳田秋声晩年の1941(昭和16)年6月28日から9月15日まで、都新聞に連載された長編小説『縮図 』は、小石川白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いていたため、情報局から太平洋戦争直前の時局柄好ましくないという干渉をうけ、第80回で連載を中絶。以後続きが書かれることはなかった。
原作では主人公である芸者の銀子が働く「I町」として、宮城県の石巻が物語の舞台のひとつになっている。この小説は青空文庫で詠むことができる(※9参照)。
小説では銀子を口説く「河の州に工場を持っている罐詰屋の野良子息(のらむすこ)」が出てくる。
彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいの男であった。
「あの青ん造は一体おまえの何だい」
夏(銀子の)父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産に親類か何ぞのように錦糸堀の家(うち)へ上がりこみ、朝からお昼過ぎまで居座る罐詰屋のことを、そんなふうに怒っていた。
それに対して「何でもないわよ。お客というほどのこともないのよ。たまに釜飯屋を附き合うくらいなのよ。あの男は天下に釜飯くらいうまいものはないと言ってるくらいだもの。」と言っている。
この釜めしやはどこの何という釜めしやだろうか・・・?興味のわくところだが、これについて、以下参考の※10:「縮図(1953年): OLマリコの映画の食べ物日記」がいろいろ考察し、以下のように書いている。
“『縮図』の中で石巻は以下のように登場します。
銀子は東京から千葉の蓮池(中央区)へ移って芸者として働いて家族を養い、好きな男性がいるのに置屋の主人に手をつけられて囲われ者状態になっていました。しかしカール・テホ・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』を見て、もう芸者はやるまいと決心を固めて向島に戻り、父と靴屋を再開します。ところがやはり家族の生計が立たず、翌年の正月から石巻で芸者をやることになるのでした。InternetMovieDatabaseによると『裁かるゝジャンヌ』の日本公開は1929年(昭和4年)10月なので、『縮図』で描かれるのは1930年(昭和5年)の石巻だと思われます。
『グラビア石巻』(亀山印刷)によると、市内に点在していた料亭が1928年(昭和3年)に新地(住吉町2丁目)に集められ、妓楼も建てられ、翌年から新しい歓楽街として営業が始まったそうです。銀子が石巻に呼ばれたのは、そのような町の背景があったからだと思われます。“そして、” この小説に出てくる釜飯屋は、もしかして今でも石巻で営業している、1914年(大正3年)創業の割烹・滝川ではないでしょうか? “・・・と。
早速、検索して、割烹・滝川を調べてみた。すると、以下参考の※11:「歩き出す未来への道“奇跡的に守られた伝統のタレ、石巻「滝川」の釜飯” - 日経BPネット」が見つかった。そこには以下のように記されている。
“釜のフタを開けたとたん、湯気とともに食欲をそそる香りがふわりと立ち上る。柔らかな鶏肉と、出汁(だし)のきいたご飯の絶妙な取り合わせ。「とり釜飯膳」は滝川の伝統ある人気メニューだ。この味の秘密のひとつが、大正3年(1914年)の創業時から継ぎ足されながら使われてきたタレである。約100年の間、地元の人に愛される味を何代にもわたって守ってきた。
震災からこの味を守れたのは奇跡だった。震災前の滝川の店舗は北上川から約50m、堤防が決壊し被害が大きい地域にあった。近隣の建物は津波に流されたり、流れて来た小型船舶に壊されたり…。そんな中、戦後に建てられた滝川の店舗は、大地震にも津波にも耐えた。そして、長年継ぎ足されてきたタレは、浸水しなかった2階の客席に置かれていたのだった。“・・と。
そして、あの忌まわしい東日本大震災から約半年、2011年9月から、滝川は石巻サンプラザホテルの1階に移転し営業を開始し, 2013年(平成25)年6月7日より、2年3ヶ月ぶりに、中央1丁目の本店での営業を再開いているそうだ(※12)。
石巻の割烹「滝川」の釜飯が1914(大正3)年の創業時から販売されていたのだとしたら、1926(大正15)年創業の浅草の「元祖 釜めし 春」よりも、12年も早くから釜めしを販売していたことになる。もっとも、どんな釜めしであったかは…別として。
兎に角、あの東日本大震災から伝統の店が立ち直ったというニュースがうれしい。他にも伝統ある店が沢山あるだろう。一日も早い復帰を心から祈っています。
※1 :釜めしもようHP
http://www.kamamesi.com/
※2:ぐるなび - 釜めし春 浅草本店
http://r.gnavi.co.jp/g511100/ http://r.gnavi.co.jp/g511100/
※3:アサヒビール 「東京下町グルメ・浅草」vol.1 釜めし・とろろめしの巻
http://www.asahibeer.co.jp/area/04/shitamachi/vol01.html
※4:峠の釜めし本舗おぎのや
http://www.oginoya.co.jp/
※5:たのしい万葉集:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
※6:釜めし夫婦 - ドラマ詳細データ - テレビドラマデータベース
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-10325
※7:Callon's Webpage GUKOU-TSUSHINSHA:自由資料集
http://www4.zero.ad.jp/callon/pdd.html
※8:隠密七生記(1956) : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/72167/
※9:徳田秋声 縮図 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/1698_46840.html
※10:縮図(1953年): OLマリコの映画の食べ物日記
http://marikome.cocolog-nifty.com/maricine/2009/11/1953-9f70.html
※11:歩き出す未来への道“奇跡的に守られた伝統のタレ、石巻「滝川」の釜飯” - 日経BPネット
http://www.nikkeibp.co.jp/article/reb/20120422/306482/ST=rebuild_sf
※12:ぐるなび - 割烹 滝川
http://r.gnavi.co.jp/t005900/
『古事記傳』28 - 雲の筏
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html
万葉歌碑巡り
http://www5a.biglobe.ne.jp/hpkoto/ara/manyou/chushaku3.html
碓氷線概史 -66.7の軌跡-
http://www15.big.or.jp/~club667/usuihistory/usuihistory.html#01
四方赤良の余談集3
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yomono3.html
釜飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E9%A3%AF
........................................................................................