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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

テレンス・ヤング (映画『007』初期作品の監督) の忌日

2013-09-07 | 人物
1994年09月07日は、テレンス・ヤング (英国映画監督)の忌日である。
テレンス・ヤング(Terence Young)と言えば映画007シリーズの初期の作品の監督として知られている。
英国警察長官の父のもと、1915年上海市共同租界に生まれる。
ケンブリッジ大学在学中に映画研究会に属したのがきっかけで映画界を目指すようになった。大学ではテニス・ラグビー・クリケットが得意だったという。
卒業後、A.コルダによって創立(1932年)されたロンドン・フィルムで働き、やがてルネ・クレールなどの著名監督の助監督に付き原案やシナリオも執筆するようになる。
第二次世界大戦中は、ヨーロッパ戦線(西部戦線参照)に従軍しつつ、ロンドンで脚本家、助監督を経て監督になりドキュメンタリーなどを演出。
Wikipediaによれば、テレンス・ヤングは、ヨーロッパ戦線に参加した1944年9月に行われたマーケット・ガーデン作戦に参加した際に負傷して、当時オランダのアーネムの病院でボランティアの看護婦をしていたオードリー・ヘプバーンに介護されていたそうだ。ヘプバーンは1929年5月生まれだから、当時まだ、15歳の時ということになる。
このころ、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名はあまりにイギリス風であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじってつけた名前「エッダ」(EllaをEddaとした)を使用していたかもしれない。
Wikipediaのテレンス・ヤング監督作品の中に、「Theirs Is the Glory」 (1946年)があるが、これは、後(1977年)に、リチャード・アッテンボローが映画化した「遠すぎた橋「A Bridge Too Far」)の中でも描かれた第二次大戦中最大の激戦地のひとつである1944年のアルンヘムの攻防戦を描いたドキュメンタリー映画である。
「Theirs Is the Glory」(邦題「第一空挺兵団」)は、いわば、「遠すぎた橋」の元となる映画でもあるが、この映画は見ていないものの、「遠すぎた橋」は見た。往年の名優が多数出演している名画である。
「Theirs Is the Glory」は、戦後戦いの場となった地でロケが行われ、出演者は全員この作戦に従った兵士の二個中隊で、ここに扱われた出来事はすべて事実、公式記録、目撃者の談話にもとづくものであり、また、戦闘シーンの特殊効果には実弾が使用され、独軍の装甲戦闘車両も鹵獲(ろかく。敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)されたティーガー戦車パンター戦車の実車が使用されており、マニア垂涎(すいえん。・ 食べたくてよだれを垂らすこと。 ・ある物を手に入れたいと熱望すること。)の作品とも言えるものだそうだ。
しかし、この映画の製作スタッフは発表されていないという。なぜなら、アルンヘムに降下した一万の兵のうち、死闘ののち生き残ったのは、わずか二千だったという。そのイギリス第一空挺兵団に捧げる映画が、この映画なのだからだそうだ(※1参照。ここでは、映画の一部シーンを見ることもできる)。
テレンス・ヤングも1944年9月、西部戦線に従軍し負傷して、アーネム(またの呼び方=アルンヘム【Arnhem】.。オランダ語発音)の病院でオードリー・ヘプバーンに介護されていたというから、その真意はよくわからないが、やはり、その戦争の経験者として、事実を後世に伝えたかったのだろうね~。
その後、1947年に「Corridor of Mirrors」(邦題「鏡の回廊」)で監督デビューを果たした。この作品は日本未公開作品だそうで、私も映画を見ていないのでよく知らないが、内容はたぶんにジャン・コクトーの影響を受けた恋愛小説であり、製作はフランスでされ、16世紀の貴族の末裔の男が、16世紀の肖像画そっくりの女性と、現代に、16世紀の恋を生きなおそうとする、輪廻転生を題材にしたファンタジーだとの、映画評論がある(※2参照)。
そして、1962年に007シリーズ第1作「007/ ドクター・ノオ- Dr.No 」をヒットさせ注目される。
翌・1963年、第2作「007 /ロシアより愛をこめて - From Russia with Love」の世界的ヒットで娯楽監督としての名声を確立した。
第3作「007/ゴールドフィンガー」(1964年)はガイ・ハミルトン監督作品であるが、第4作「007/サンダーボール作戦」(1965年)は、再度ヤング監督が演出した。
007シリーズ作品は初期のこの3本だけであるが、同時代に劇場で映画を観た私たち世代の者にとっては、感慨深いものがある。
イギリス映画は、第2次世界大戦後に黄金期を迎えた。その中心的存在が、キャロル・リードデビッド・リーンの2人の監督であった。
特に、光と影を巧みに用いたリードの「第三の男」は一世を風靡した。また、リーンはメロドラマの秀作「逢びき」を発表、以後「旅情」「アラビアのロレンス」などヒット作を制作。
さらにシェークスピアの一連の戯曲を映像化したローレンス・オリヴィエ、「赤い靴」などで色彩革命を起こしたマイケル・パウエルエメリック・ブレスバーガーなど多士済々だった。
そして、1950年代には、トニー・リチャードソン監督を筆頭に登場した“怒れる若者たち”(※3参照)が、映像で階級制度に挑戦といった具合だった。
さらに、1960年代になって「007/ドクター・ノオ」を皮切りに“ジェームズ・ボンド”シリーズが誕生した。その後1990年代まで、イギリス映画は低迷するが、007シリーズは、今なお健在である。
この007シリーズ第1作・原題「Dr. NO」の日本公開は、1963(昭和38)年6月のこと。当時の日本での公開時の邦題は「007は殺しの番号」であった。
東京オリンピック開催(1964年)の前年の、1963(昭和38)年は、私にとっても忘れられない重要な年であった。この年、私は、大阪の商社に勤めていたが、当時急成長を続けていた東京の会社の仕事に私のやりたい仕事の募集があったので、意を決して再就職をすることにした。
まだ新幹線が開通する前年なので東京へは、寝台特急銀河で行った。まだ、銀河の始発は、我が地元神戸からであった。今から思えば、当時の港町神戸は日本の5大都市として、横浜と張り合うだけの力を持った繁華な町であった。
商都大阪も東洋のマンチェスター、極東のハンブルクなどとも称され,新都東京と商圏を2分する勢いのある街であり、特に繊維関係では断然大阪が東京をリードしていた時代なので、少なからぬ不安を持っての上京でもあった。そんな時に東京で初めて見た映画が、007のこの映画であった。
”My name is Bond, James Bond.” とロンドンのアンバサダー・ホテルのカジノで初めて名乗りを上げて以来、ファンに愛され続けている世界一有名なスパイジェームズ・ボンド
ジェームズ・ボンドには、任務遂行中は自分の一存で容疑者を殺めても不問にされる殺人許可証(「殺しのライセンス」)が与えられており、「007」(00セクションに所属する7番の番号を振られたエージェント)のコードネームをもつている。
彼が活躍する007シリーズ第1作「007/ドクター・ノオ」。原作はイアン・フレミングの長編小説の『007』シリーズ第6作を映画化したもの。日本初公開時の邦題は「007は殺しの番号」。タイトルだけで見たくなる。ボンド紹介の第1作としては当を得たものだ。
当初はフレミングの小説第8作『サンダーボール作戦』が第1作になるはずだったが、著作権に関する訴訟問題から暗礁に乗り上げ、SF色のある第6作『ドクター・ノオ』が選ばれたという。結果的に、米ソの宇宙開発競争や、偶然にも公開時に起きたキューバ危機などから、時事性を帯びた作品となった。
初作品だけに、後に作られたボンドシリーズものと比較すると、秘密兵器やボンドカーなどの出番もなく、アクションも地味だったが、そのコアな部分は確立している。
まず、英国情報部「MI6」に所属するエリート諜報員「007」こと、ジェームズ・ボンドの人物像である。
この主演のボンド役を演じたショーン・コネリー。大スターのケーリー・グラントリチャード・バートンらも候補にあがっていたが監督テレンス・ヤングの指名で当時ほぼ無名であったコネリーが抜擢されたという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1964年号38p)。
運動神経抜群で戦闘能力が高く、頭脳明晰。稀代のプレイボーイであり、ユーモアと愛嬌も併せ持つ。反面、任務達成のためには冷酷になる危うさが、ほのかに漂っている。
彼はこのボンド役に抜擢され、合計7作に出演し、知名度は世界的に上昇した。彼を抜擢した監督の慧眼に感心させられる。私なども歴代のボンド役を演じているスターを見てもぴったりの適役はやはり、ショーン・コネリーしかいないと思う。
そして、筋肉質な大型グラマーぶりと独特の美貌を買われ、初代ボンドガールとして登場したウルスラ・アンドレスが、海から白ビキニで上がってくる登場シーンは、鮮烈であった。彼女が、その後のボンドガールのイメージを決定付けた。
また、悪役のドクター・ノオ
Wikipediaによれば、ドクター・ノオは、実在する中国系の秘密結社トング(Tong)の元メンバーらしいが、原作ではその後独立し、ソ連を商売相手にアメリカの誘導ミサイル実験の妨害を行う。映画では、架空の組織スペクターの幹部であり、小説でスペクターが登場するのは、『サンダーボール作戦』からである。
映画で、ドクター・ノオは放射能の実験で両手首を失い、怪力を発揮する金属の義手を付けて登場。
ドクター・ノオは、映画ではミサイルだけでなくアメリカの月ロケットの妨害も企む。本作公開前年の1961年にケネディー大統領が、1960年代中に人間を月に着陸させると声明を行い話題になっていた。
“ジェームズ・ボンド”、“ボンドガール”、そして“悪役”と、シリーズの三拍子が、既に本作(映画第1作)から完璧な形で提示されている。
当作品の世界的好評を得てシリーズ化が始まった英国映画。第2作「007 ロシアより愛をこめて」(原題:FROM RUSSIA WITH LOVE。)。日本公開されたのは、翌1964(昭和39)年のこと。日本公開時の邦題は「007/危機一髪」。この年の洋画の中で、一番の興行成績を記録した。
原作は前作同様にフレミングの小説第5作『ロシアより愛をこめて』であるが、映画化される前に、米紙『ライフ』がケネディー大統領の愛読書と紹介して話題にもなった一冊である(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1964年号38p)。
英国・ソ連両情報部を対立させ、その際にソ連の最新暗号解読機を盗み出そうとする国際犯罪組織スペクターに挑む英諜報部員ボンドの活躍を荒唐無稽なストーリー展開とボンドガールのお色気を絡めて描いたスパイアクション。製作は前作と同じスタッフ。
メーンタイトル登場前に仕掛けられた観客の度肝を抜くシーン、アタッシュケースに仕込まれたナイフや組み立て式狙撃銃などの新兵器類(※4参照)。更に素晴らしいテーマーソングなど、007シリーズ特有のパターンの多くが確立したのもこの第2作であった。
第2作目の日本題名の「危機一発」は、いかにもアクション映画らしいタイトルだが、映画が大ヒットしたせいか、国語のテストで「危機一髪」と正確に書けない学生も現れたとか。
第1作「ドクター・ノオ(007は殺しの番号)」では、原作を上手く活かせなかったが、第2作「ロシアより愛をこめて(007危機一発)」は大ブレイクした。ラスト30分の連続アクションは見事であった。
私は、ボンドのもっていたアタッシュケース(正式にはブリーフケースのこと)がどうしても欲しかったが、どこの店も売り切れで手に入らず、カバンを扱っている取引先に頼んで、半年以上待って手に入れたのを思い出す。このかばんを持って得意になって営業をしていた。そんな時代が私にもあったのだ。
当作品のヒットで、シリーズの人気を決定付けたが、シリーズ第3作「007/ゴールドフィンガー」は、ガイ・ハミルトン監督により、製作された。そして、この映画でさらに人気を不動のものとしたと言っても過言ではない。第1作、第2作はどちらかといえば、インテリ層に人気があったともいえるかもしれないが、この第3作によって子供まで幅広い層に人気が広がった。
オープニングのシャーリー・バッシーの歌う同タイトル曲とボンドの活躍。ボンドが世界各地を飛び回る、Qの研究室に訪れ多種多様な秘密兵器の説明とそれらの兵器を受け取る。前2作と比べると、スケールも大幅にアップし、ボンドカーアストン・マーチンも登場するなど、現在の007シリーズの基礎がこの作品である。
シャーリー・バッシーの歌う同タイトル曲は、映画と共に世界的な大ヒットとなり、一躍、彼女の名を世界的に知らしめた。アカデミー音響効果賞も受賞している。本作は1964年の世界興行収入で1位の映画となり、日本では1964年の外国映画興行成績で第3位、1965年には日本映画も含めた興行成績で第1位となった。
そして、再びテレンス・ヤング監督によって製作されたシリーズ第4作「007 /サンダーボール作戦」。本作はイアン・フレミングの小説007シリーズ第8作目であるが、イアン・フレミングとの訴訟問題で映画化権を取得したケビン・マクローリーとの交渉で、製作にマクローリーの名がクレジットされている。当シリーズては、初めて水中アクションが取り入れられた。前作「ゴールドフィンガー」から一転、再びシリアス路線に戻った。
映画好きの私は、007シリーズはほとんど見ているが、テレンス・ヤング監督作品以外のものは、ここで詳しく書くことは省略する。ただ、私が007シリーズの映画を映画館で見たのは、ショーン・コネリーがボンド役を務めた作品のみである。他は、テレビ放送などによるものである。それほど、ボンド役のショーン・コネリーにほれ込んでいたというわけだ。
テレンス・ヤング監督による映画といえば、他に、ブロードウェイで大ヒットとなったフレデリック・ノット(「ダイヤルMを廻せ!」などでも知られている)の同名舞台劇を、オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画暗くなるまで待って」(1967年)、ミシェル・バタイユの同名ベストセラー小説の映画化「クリスマス・ツリー」(1967年)、イタリア・フランス合作によるサンペンス映画「夜の訪問者」(1970年)、フランス・イタリア・スペイン共作の映画で、日本映画を代表する三船敏郎とハリウッド映画を代表するチャールズ・ブロンソン、フランス映画のスターアラン・ドロンの世界3大スターが共演した異色の西部劇「レッド・サン」(1971年)、マフィアの一員、ジョゼフ・バラキによって語られた“影の政府”の正体を克明に描いたピーター・マーズのベスト・セラーの映画化した「バラキ」(1972年)、などの代表作がある。
それぞれ味のある映画ではあるが、この中で、あまり知られていないかもしれないが、ミシェル・バタイユの同名ベストセラー小説の映画化「クリスマス・ツリー」が良い。

十歳になるパスカルは、夏休みを父ローラン(ウィリアム・ホールデン)とコルシカ島で過ごした。
或る日、二人が釣りを楽しんでいた時、近くに核爆弾をつんだ飛行機が墜落した。その日から、パスカルは体の不調を訴えるようになったが、パスカルは、放射能のため白血病に侵されていた。医師は、ローランにパスカルの命はあと半年と宣告した。
ローランは、あと半年をパスカルの思い通りに過ごさせてやろうと決心し、パスカルの欲しがるものはオモチャ、トラクター、そして狼までも、すべてあてがった。
そして、クリスマス・イブの日。パスカルへの最後の贈物を買うため外出したローランとカトリーヌ(父の恋人)が帰ってくると狼たちが鳴いていた。いつもと違う鳴き声。何かを知らせるような遠吠えに、ローランはすぐに察して鳴き声のするところに急いだ。
するとクリスマス・ツリーの下に横たわるパスカル。その傍らで遠吠えをしている狼たち。ラストのシーンが感動を呼ぶ。以下でその感激シーンを見られるとよい。
「クリスマスツリー」映画エンディング – YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cGizb_gmfqo

テレンス・ヤングは、こんな良い映画を作っている一方、「インチョン!」(1983年)という迷作に関わってしまったためにゴールデンラズベリー賞最低監督賞受賞というキャリアも持っている。
ノーベル賞は皆さんも良くご存知と思う。1901年から始まった世界的な賞で、物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られる名誉ある賞である。
その対極にあるのがイグノーベル賞(英: Ig Nobel Prize)で、「イグノーベル(Ig Nobel)」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル (Nobel [noubél] ) の名前に否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble [ignóubl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけたもので、もじりあるいは駄洒落のたぐいであり、イグノーベル賞の受賞条件は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」であることだという。
同賞には、工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞などの部門があり、毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与される。
これに対して、ゴールデンラズベリー賞(英::Golden Raspberry Award)は、アメリカの映画賞で、毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する。ラジー賞(Razzies)とも呼ばれるそうだ。
Wikipedia によれば、UCLAから映像製作・映画宣伝の道に進んだジョン・ウィルソンにより1981年に創設されたものだという。
初期は正真正銘のB級映画が各部門受賞を独占することが多かったが、近年は輝かしい実績があるにも関わらず、どうしようもない役柄を演じてしまった俳優や、前評判と実際の出来のギャップが著しい大作などが受賞する傾向にあるらしい。この賞自体が一種のユーモアであり、本当にくだらない、つまらない作品を選ぶ場合もあるが、一方で出来はよいが惜しい作品や、強烈なカリスマ性や異色性が強すぎて一般ウケしない作品に与えられることもあり、この賞の受賞作品が意外によく出来た面白い作品として評価されることもあるらしい。
テレンス・ヤング監督による映画「インチョン!」を私は見ていないのでどのような内容のものかよく知らないが、Wikipediaによれば、アメリカで1982(昭和57)年に公開された朝鮮戦争を題材にした映画で、タイトルは国連軍仁川(インチョン)上陸作戦にちなんでいるそうだ。
仁川上陸作戦は、朝鮮戦争中の1950(昭和25)年9月15日に国連軍が大韓民国(韓国)のソウル西方約20キロメートル付近の仁川(インチョン)へ上陸し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)よりソウルを奪還した一連の作戦・戦闘だそうである。
仁川上陸作戦は、ダグラス・マッカーサー個人により発案された投機性の高い大規模な作戦を、マッカーサー個人の信念によって実行に移し、戦況を一変させたという。
キャストにはローレンス・オリヴィエ三船敏郎ら大スターが名を連ねたほか、監督にテレンス・ヤング、音楽にジェリー・ゴールドスミスら一流のスタッフを迎え、制作費に約4600万ドルと5年の製作期間をかけた超大作であったが、映画評論家からは酷評され、また興行的にも不振を極め、興業収入はわずか350万ドルしか得られず、約4410万ドル(約110億円)という、当時世界最悪の赤字を出した映画だそうである。
この映画にはアメリカ国防総省が1500人の軍人をエキストラとして出演させるなど協力したが、韓国側の財政的支援者に統一教会の教祖である文鮮明が、映画制作にかかわってきたことが映画作り失敗の要因のようである。詳しくは、Wikipedia -インチョン!を見られるとよい。
いずれにしても、結果として、「世界最悪の赤字を作った映画」や「最も多くの制作費がかかったB級映画」という不名誉な称号を得たテレンス・ヤング。気の毒なことをしたね~。

(冒頭の画像は映画チラシ S・コネリー「007 ドクター・ノオ」 )
参考:
※1:Theirs the glory - 戦争映画専門チャンネル
http://blogs.yahoo.co.jp/deathforce77/9220711.html
※2:「鏡の回廊」 Corridor of Mirrors 1948 テレンスヤング監督
http://blogs.yahoo.co.jp/deadcity666/29533014.html
※3:「怒れる若者たち」再考 The - 日本大学大学院総合社会情報研究科(Adobe PDF)
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf12/12-233-244-Kusuda.pdf#search='%E6%80%92%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1'
※4:ジェームズ・ボンドの部屋&007武器庫
http://james-bond007.jimdo.com/
※5:007 Collection! (ジェームス・ボンド・シリーズ
http://loyd-theater.com/movie-collect-3/007/007.html
クリスマス・ツリー : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/44048/
クリスマス・ツリー | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv14009/
テレンス・ヤング (Terence Young) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/2430/
Wikipedia - テレンス・ヤング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0