1946(昭和21)年の今日(1月18日)、 「熊沢天皇」が出現。
日本は、1945年8月第二次世界大戦で降伏し終戦を迎えた。敗戦後の翌・1946(昭和21)年の元日には、昭和天皇が人間宣言を発し、万世一系の皇室神話も崩壊したが、その直後の1月18日、 もう1人の天皇が出現した。名古屋で洋品雑貨商を営む熊沢寛道 が上京し、「南朝正統を継ぐ神武天皇114代」を自称して名乗りを上げた。最初に米軍の「星条旗( Stars and Stripes=スターズ・アンド・ストライプス)」紙がその存在を紹介し、「タイム」「ライフ」などのアメリカの雑誌がなどにも取り上げられ大ニュースとなった。米紙などに続き日本の新聞各社が彼を「熊沢天皇」と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。もっとも、天皇を自称する人は当時そう珍しくはなく、20人近くを数えたという。
熊沢は、「南朝の流れを汲む天皇家の末裔であると養父(熊沢大然=くまざわ ひろしか)に教えられてきたといい、熊沢の主張では、"熊沢家は、足利氏に帝位を追われて尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家である。 彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに南朝の後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている"そうだ(フリー百科事典Wikipedia)。
実際、寛道の父である熊沢大然氏も明治時代から、宮内庁に対し「自分こそが正統な天皇である」という文書を出し続けたが、まともにとりあってもらえず、逆に特高警察にマークされていたという(アサヒクロニクル「週間20世紀」)・・・が、当時、そのようなことをして、単に特攻にマークされていただけ・・・と言うのは何故だろう??
私には南朝の正統天皇を自称する熊沢(寛道)が、本当に後亀山天皇の末裔であるかどうかなどと言ったことは知る由もないが、鎌倉時代末にあたる1246(寛元4)年、後嵯峨天皇の退位後に天皇家は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂してしまった。そこで幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく(両統迭立)が取り決められていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)と立て続けに倒幕を企て、後醍醐が幕府によって隠岐島へ流されるが、隠岐島を脱出した後醍醐の挙兵に足利尊氏なども呼応し、鎌倉幕府が滅んだたため、大覚寺統での皇統統一が計られると思われたが、建武の新政の失敗で、尊氏が後醍醐に反旗を翻し、1336(延元元年/建武3)年、持明院統の光厳の弟豊仁親王を光明天皇として擁立した(北朝)。尊氏に幽閉された後醍醐は京を脱出し、吉野で自己の皇位の正当性を主張し(南朝)、ついに皇統が完全に分裂する南北朝並立の時代(南北朝時代)が到来した。1338(延元3年/暦応元)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられて室町幕府を開いた。
この並立は、1392(元中9年/明徳3年)年に足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことでようやく解消された。この南北朝合一の「明徳の和約」により以後は両統から交互に天皇を擁立することと決められたが、この約束はすぐに反故にされ、以後皇統は持明院統に統一された。このことに反発した南朝の遺臣が、南朝の後裔を担いで北朝の皇室および室町幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。これを後南朝という(この三種の神器は偽物という説もある)。
しかし、その後南朝も1457(長禄元)年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され後南朝は実質的に滅亡した。以降、南朝の系統が歴史の舞台に現れることは二度となく、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、明治維新により孝明天皇を最後に、北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となっている。しかし、このとき、倒幕派は孝明天皇の子である睦仁天皇をも暗殺し、長州にあった南朝光良親王の末裔である大室寅之祐とすり替え、これを明治天皇として擁立したという説が存在している。以前にこのブログ6月14日幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日で書いたことがある。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久の乱後、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになるが、鎌倉幕府は朝廷による倒幕計画の再燃を恐れて皇位継承への介入を度々繰り返してきたがそれ以降、北朝が皇位継承を続けてきた。それに対して、明治維新が、実は北朝から南朝への「王朝交替」劇でもあったのではないかとの印象を感じさせるところがあるようにも思われた。
明治時代に入って、明治天皇によって、3人の天皇に大正時代には1名に追号(諡参照)が奉られたが、明治以降に追号されたこれら天皇は「万世一系」の大義を明確化するために、なされたものであるらしいことも、このブログ10月14日淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される た日で触れてきた。
後亀山天皇の子孫については文献などの資料も曖昧であり、実際の所よく分からないが、以下参考に記載の「異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統」などを見ると、西陣南帝・南帝王熊沢廣次王の名が見られるが、これは、応仁の乱のときに山名宗全が、自天皇の従兄弟である後南朝の皇子を西軍の天皇として招いたものと言われ、これが後南朝最後の天皇だとも言われている。その末裔として熊沢家が主張する「信雅王」についても、実際の所よく分からない。しかし、歴史的なものを見ている限り、どの程度の関わりがあるかは別としてその末裔がもしいたとしても不思議はない。
それよりも、敗戦後1945(昭和20)年の9月熊沢はマッカーサーに対し「今の天皇は偽物で自分こそが本物である」と言う手紙を書いたというが、天皇が人間宣言をした直後に「熊沢天皇」などという存在を報じた第一報が米国の新聞であったことを考えれば、第二次世界大戦の戦後処理として、昭和天皇の処遇を決めかねていたGHQとしては、熊沢を取り立てることによって、天皇との本家争いをさせ、国民の反応を見ようとしたのであろう。
一夜にして「天皇」になった熊沢をGHQはわざわざジープで送り迎えし、記者会見まで設定した。1946(昭和21)年、昭和天皇の全国巡幸が始まると、「熊沢天皇」も自らの正統性を訴え、全国行脚を行うが、反応は冷たいものであり、逆に、昭和天皇への国民の支持がゆるぎないことを知ると、GHQは、もはや、熊沢は利用価値はないと放り出した。
自称天皇を称する者は、熊沢寛道 の他に同じ「熊沢天皇」と称する4名が宗家争いをし、そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇を名乗るものなども含め20名ほどが現れた。元祖自称天皇の熊沢寛道 は、1951(昭和26)年、東京地方裁判所に「現天皇は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」との訴えを起こしたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。以降、世間も熊沢天皇に次第に冷ややかになると、熊沢は側近だけではなく妻子までに見捨てられたが、以降家族と別居し放浪生活を続け、1966(昭和41)年6月東京の板橋病院で膵癌のため死去したが、その死のニュースは外電に配信されたものの、もはや記事に取り上げる海外のマスコミは存在しなかったという。
(画像は、熊沢天皇。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
参考:
熊沢寛道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統
http://www.kakeiken.com/report002.html
Column of the Historyコラム目次
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/h_index.html
特別高等警察 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%AD%A6%E5%AF%9F
今日のことあれこれと・・・・南朝関連
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C6%EE%C4%AB
南朝の熊沢天皇について -OKWave
http://okwave.jp/qa896831.html
南朝としての北畠氏と論争
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake6.html
日本は、1945年8月第二次世界大戦で降伏し終戦を迎えた。敗戦後の翌・1946(昭和21)年の元日には、昭和天皇が人間宣言を発し、万世一系の皇室神話も崩壊したが、その直後の1月18日、 もう1人の天皇が出現した。名古屋で洋品雑貨商を営む熊沢寛道 が上京し、「南朝正統を継ぐ神武天皇114代」を自称して名乗りを上げた。最初に米軍の「星条旗( Stars and Stripes=スターズ・アンド・ストライプス)」紙がその存在を紹介し、「タイム」「ライフ」などのアメリカの雑誌がなどにも取り上げられ大ニュースとなった。米紙などに続き日本の新聞各社が彼を「熊沢天皇」と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。もっとも、天皇を自称する人は当時そう珍しくはなく、20人近くを数えたという。
熊沢は、「南朝の流れを汲む天皇家の末裔であると養父(熊沢大然=くまざわ ひろしか)に教えられてきたといい、熊沢の主張では、"熊沢家は、足利氏に帝位を追われて尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家である。 彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに南朝の後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている"そうだ(フリー百科事典Wikipedia)。
実際、寛道の父である熊沢大然氏も明治時代から、宮内庁に対し「自分こそが正統な天皇である」という文書を出し続けたが、まともにとりあってもらえず、逆に特高警察にマークされていたという(アサヒクロニクル「週間20世紀」)・・・が、当時、そのようなことをして、単に特攻にマークされていただけ・・・と言うのは何故だろう??
私には南朝の正統天皇を自称する熊沢(寛道)が、本当に後亀山天皇の末裔であるかどうかなどと言ったことは知る由もないが、鎌倉時代末にあたる1246(寛元4)年、後嵯峨天皇の退位後に天皇家は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂してしまった。そこで幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく(両統迭立)が取り決められていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)と立て続けに倒幕を企て、後醍醐が幕府によって隠岐島へ流されるが、隠岐島を脱出した後醍醐の挙兵に足利尊氏なども呼応し、鎌倉幕府が滅んだたため、大覚寺統での皇統統一が計られると思われたが、建武の新政の失敗で、尊氏が後醍醐に反旗を翻し、1336(延元元年/建武3)年、持明院統の光厳の弟豊仁親王を光明天皇として擁立した(北朝)。尊氏に幽閉された後醍醐は京を脱出し、吉野で自己の皇位の正当性を主張し(南朝)、ついに皇統が完全に分裂する南北朝並立の時代(南北朝時代)が到来した。1338(延元3年/暦応元)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられて室町幕府を開いた。
この並立は、1392(元中9年/明徳3年)年に足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことでようやく解消された。この南北朝合一の「明徳の和約」により以後は両統から交互に天皇を擁立することと決められたが、この約束はすぐに反故にされ、以後皇統は持明院統に統一された。このことに反発した南朝の遺臣が、南朝の後裔を担いで北朝の皇室および室町幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。これを後南朝という(この三種の神器は偽物という説もある)。
しかし、その後南朝も1457(長禄元)年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され後南朝は実質的に滅亡した。以降、南朝の系統が歴史の舞台に現れることは二度となく、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、明治維新により孝明天皇を最後に、北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となっている。しかし、このとき、倒幕派は孝明天皇の子である睦仁天皇をも暗殺し、長州にあった南朝光良親王の末裔である大室寅之祐とすり替え、これを明治天皇として擁立したという説が存在している。以前にこのブログ6月14日幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日で書いたことがある。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久の乱後、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになるが、鎌倉幕府は朝廷による倒幕計画の再燃を恐れて皇位継承への介入を度々繰り返してきたがそれ以降、北朝が皇位継承を続けてきた。それに対して、明治維新が、実は北朝から南朝への「王朝交替」劇でもあったのではないかとの印象を感じさせるところがあるようにも思われた。
明治時代に入って、明治天皇によって、3人の天皇に大正時代には1名に追号(諡参照)が奉られたが、明治以降に追号されたこれら天皇は「万世一系」の大義を明確化するために、なされたものであるらしいことも、このブログ10月14日淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される た日で触れてきた。
後亀山天皇の子孫については文献などの資料も曖昧であり、実際の所よく分からないが、以下参考に記載の「異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統」などを見ると、西陣南帝・南帝王熊沢廣次王の名が見られるが、これは、応仁の乱のときに山名宗全が、自天皇の従兄弟である後南朝の皇子を西軍の天皇として招いたものと言われ、これが後南朝最後の天皇だとも言われている。その末裔として熊沢家が主張する「信雅王」についても、実際の所よく分からない。しかし、歴史的なものを見ている限り、どの程度の関わりがあるかは別としてその末裔がもしいたとしても不思議はない。
それよりも、敗戦後1945(昭和20)年の9月熊沢はマッカーサーに対し「今の天皇は偽物で自分こそが本物である」と言う手紙を書いたというが、天皇が人間宣言をした直後に「熊沢天皇」などという存在を報じた第一報が米国の新聞であったことを考えれば、第二次世界大戦の戦後処理として、昭和天皇の処遇を決めかねていたGHQとしては、熊沢を取り立てることによって、天皇との本家争いをさせ、国民の反応を見ようとしたのであろう。
一夜にして「天皇」になった熊沢をGHQはわざわざジープで送り迎えし、記者会見まで設定した。1946(昭和21)年、昭和天皇の全国巡幸が始まると、「熊沢天皇」も自らの正統性を訴え、全国行脚を行うが、反応は冷たいものであり、逆に、昭和天皇への国民の支持がゆるぎないことを知ると、GHQは、もはや、熊沢は利用価値はないと放り出した。
自称天皇を称する者は、熊沢寛道 の他に同じ「熊沢天皇」と称する4名が宗家争いをし、そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇を名乗るものなども含め20名ほどが現れた。元祖自称天皇の熊沢寛道 は、1951(昭和26)年、東京地方裁判所に「現天皇は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」との訴えを起こしたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。以降、世間も熊沢天皇に次第に冷ややかになると、熊沢は側近だけではなく妻子までに見捨てられたが、以降家族と別居し放浪生活を続け、1966(昭和41)年6月東京の板橋病院で膵癌のため死去したが、その死のニュースは外電に配信されたものの、もはや記事に取り上げる海外のマスコミは存在しなかったという。
(画像は、熊沢天皇。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
参考:
熊沢寛道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統
http://www.kakeiken.com/report002.html
Column of the Historyコラム目次
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/h_index.html
特別高等警察 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%AD%A6%E5%AF%9F
今日のことあれこれと・・・・南朝関連
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C6%EE%C4%AB
南朝の熊沢天皇について -OKWave
http://okwave.jp/qa896831.html
南朝としての北畠氏と論争
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake6.html
僕は天皇が万世一系でなくても、また渡来人であっても何とも思いませんが、それでは都合の悪い人たちが居るのでしょうね。陵墓の調査(一部だけやっと認めましたが)を認めない宮内庁が日本の本当の歴史が解ることを拒否している様に思います。