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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

平清盛が安徳天皇を奉じて福原に遷都した日

2006-06-02 | 歴史
1180(治承3)年の今日(6月2日)は、 平清盛が安徳天皇を奉じて福原(現在の神戸市兵庫区)に遷都した日。
このとき、平清盛の強い意向で、福原の地に、天皇・上皇以下が大挙して訪れた。 やがて、都造りが計画されるが、途中から反平氏勢力の挙兵がはじまり、遷都反対も根強く、未完に終わって、約170日の後、京都に帰還した。 これを普通福原遷都とよんでいる。
源氏の名前には「義」「頼」と言った字のつく名前が多い。この「義」「頼」には、武士の忠義・信義といった心をこめたものであろうが、一方の平家の名前には「盛」のつく名前が多い。この「盛」には、あきらかに一家・一門の興隆・隆盛・繁栄といったものを念じてのものであったろう。祖父、正盛のときに急に芽が出てきて、伊勢平氏が京都の人々に知られるところとなる。父は忠盛、播磨・但馬など大国の国守をしたが、得長寿院(三十三間堂)を建立して、鳥羽上皇に献納した功績で、地方官から政府の役人に昇進している。清盛は忠盛の長男である。安芸守のころ、中国貿易(当時宋)と言うものの味を知り、海上交通の神、厳島神社の修築をして、平家の富の増大を祈っている。清盛は、父の死後平家武士団を率い1156(保元)年、保元の乱に参加,その功で播磨守・太宰大弐に任じられる。大宰府は、対宋貿易を取り締まる役所。その次官になったわけだが、実権をにぎったことになり、その利益も占めたことになる。それから、1159(平治元)年、平治の乱で藤原信頼・義朝を誅滅し、源氏はこれで殆ど滅び、世は平家全盛へと歩み始める。そして、清盛は1167(仁安2)年内大臣,従1位,太政大臣に任じられる。その上、後白河上皇には妻滋子を納れ、所生の憲仁親王(高倉天皇)を皇太子に。関白忠通の嫡子基実には娘の盛子を嫁がせ、その早亡後は家領を伝領した。そして、山門とも結託し、全国の半の知行国500余カ所の荘園と対宋貿易を掌握し、六波羅政権を成立させた。そして、息子達の重盛・宗盛以下も高位高官となったが、1168年(仁安3)大病をわずらって出家入道し浄海と称する。その翌年初頭以降、摂津国八部郡福原に居を定めた。 以来京都の政治は、一門の子弟や平家に協力する上流貴族たちにまかせて、重大な懸案発生の時以外には、都へ出向かなくなった。 福原には、清盛邸以外にも一族の別荘が建設され、都市らしい景観も生まれていたようである。
その様子は、2003(平成15)年に神戸大医学部付属病院(神戸市中央区)の敷地内にある「楠・荒田町遺跡」で発見された、福原京関連の二重濠(ぼり)、清盛の弟・頼盛邸の櫓(やぐら)跡などとみられる遺構をみても察せられる。『平家物語』(覚一本)巻7「福原落」では、福原の都市のありさまを、”故入道相国の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿・松陰殿・馬場殿・二階の桟敷殿・雪見の御所・萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱卿の承つて造進せられし里内裏、鴦の瓦・玉の石畳”との描写がある。この記述は『平家物語』の諸本によっても多少相違もあるようで、其々の御所や邸宅の実在に確証があるわけではないらしいが、清盛が後半生をかけた都市「福原」に、平家一門をはじめとする多くの邸宅が軒を並べていた様子は想像できる。
この福原への突然の遷都は、一般に、大輪田泊を拠点に中国貿易を推進するためだろうといわれており、実際に港には「経の島」とよばれる人工島をも築いているが、実は都を離れたこと自体にも意味があるのだという。それは、平家の独自性や主体性を、従来以上に発揮するには、後白河法皇を中心とする王朝勢力と政治的・心理的に距離を置く方がなにかと、都合がよかったからだろうともいわれている。その後、清盛は後白河法皇と次第に対立を深め、ついに1179(治承3)年11月軍事クーデタを起こし、 後白河法皇の院政を停止、翌年2月には高倉天皇の皇子・言仁親王(安徳天皇)の即位を実現する。 それにより、平氏系王朝とでもいうべき新しい王朝、高倉上皇(清盛の妻の妹・滋子が後白河法皇とあいだにもうけた子)─安徳天皇(清盛の娘・徳子の 生んだ子)の政権が発足することとなったのである。そして当初は現・兵庫区を中心とした広範な『和田京』を構想したようだが、準備不足から、平安京の首都としての地位はそのままにし、福原には離宮を置くという妥協案に至る。その後、都造りが計画されるが、途中から反平氏勢力による中、東国の争乱がますます激化し、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫し、また、比叡山延暦寺の猛烈な還幸要求運動もあり、清盛も遂に平安京への還幸を決意。1180(治承4)年11月23日、安徳天皇は福原宮を出発、26日に京都へ帰還した。そして、清盛は全国にわたる反乱を鎮圧すべく最後の力を傾けたが、翌年閏(うるう)2月京都で没し、ついに生きて再び福原の地を踏むことはなかった。
また、1183(寿永2)年、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、第宅のことごとくを焼き払った。平氏は一時勢力を盛り返して福原に入るが、それもつかの間の夢に終わった。平氏滅亡後、福原荘は平家没官領として源頼朝に接収され、一条家(頼朝の妹の嫁ぎ先)の領地となった。なお、神戸市兵庫区には現在、福原町という地名があるが、これは明治維新後に名付けられたものであり、平安時代の福原とは直接の関係はない。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者も久しからず、唯だ春の夜の夢のごとし・・・・」(平家物語巻第一)
清盛の福原への遷都の夢は結局半年で潰えてしまった。強引さのみが目立つ清盛ではあったが、世界に開かれた『海の都』建設に傾けた意欲は、常が島の構築を通じて、その後のミナト神戸の発展に繋がり、今のポートアイランド構想なども彼の構想の延長にあったといえるだろう。
平清盛が安徳天皇を奉じて福原に遷都したのは僅かに半年でしかなかったが、神戸の発展に大きな影響を与えたことは事実である。清盛は、京都へ還幸後の翌年なくなったが、遺言によって、遺骨は神戸に運ばれ、今、清盛塚と言う十三重の石塔が、広も夜も自分が果たせなかった神戸の街と港の発展を見守っていてくれていることだろう。
(画像は、「平の清盛 怪異を見るの図」安藤広重画。3枚組み。これは、後期に属する弘化期の作。広重としては珍しい妖怪画で、「平家物語」にある清盛が福原邸の庭先に変化を見る場面。雪を冠(かぶ)った築山や樹木を大小の髑髏と錯覚する趣向が、江戸特有の見立ての意識に通じ、あくどさのない点が広重らしい。雪もよいの空の描写に実感がある。清盛は四世中村歌右衛門の似顔になっている。弘化二年正月中村座の「玉椿源平蘇我」を当て込んだものとか。太陽浮世絵シリーズ広重より)
参考:
神戸市文書館 源平特集:福原遷都
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/fukuhara/fukuhara.html
神戸大学文学部/「日本史特殊講義」
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/bungakubu/korega18.html
神戸編-福原京
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/kobe/fukuharakyo.html
平安京探偵団/平家物語歴史紀行・福原の夢
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike04.html
兵庫区・源平ゆかりの史跡マップ 福原京コース
神戸歴史散歩、清盛の「和田京」(byザ・ランス)
http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Wadakyo/html/Wadakyo.html

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4 コメント

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清盛 (Linda)
2006-06-02 10:20:15
よーさん、お早うさんです。

清盛塚、清盛橋は以前神戸を歩き回った時に見ました。

清盛は重盛に比べて惡役にされがちですが、なかなかエエことも沢山しているのですよね。もし、源氏に勝って安徳帝がそのまま続いていればエエ奴になっていたでしょうね。
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勝てば・・ (よーさん)
2006-06-03 06:56:50
Lindaさん、歴史上の真実は我々にはなかなかわかるものではありませんが、勝てば官軍で、歴史は後で、勝った側の立場にある人たちが書くものが多いので、負けた方はどこの国のものでも大概は悪役に仕立て上げられますよね。(^0^)
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感服しました! (ザ・ランス(石原))
2006-06-05 18:57:11
 神戸の情報を探してるうちにたまたま見つけて寄らせてもらったんですが、いやあ、よーさんの博識には恐れ入りました。どんな方なのか存じ上げませんが、本当に感服しました。まだ一部しか読んでませんが、これからおいおいに読ませていただきます。楽しみがでけた(^_^)



 ところで、よーさんと比べたら恥ずかしい限りなんですが、私もいろいろ書いてることがあります。



http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Wadakyo/html/Wadakyo.html



では、この清盛の和田京(福原京)周辺の歴史地図(クリッカブルマップ)をご覧頂けます。

 また、私のURLにもいくつか神戸関連の記事を掲載しております。一度ご覧いただければ嬉しく存じます。



 これからも宜しくお願い申し上げます。



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私もリンクさせてもらいました (よーさん「)
2006-06-06 07:28:49
ザ・ランス(石原)さん、

書き込みありがとう!

私も見させていただきました。専門的ですばらしい。

「明治7年の金星日面経過観測:フランス隊の失敗」の話、私の金星の日にリンクさせてもらいました。

ご紹介ありがとう!
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