1177(治承元)年の今日(6月3日)は 、平家追討の密議に加わっていた俊寛(しゅんかん)が逮捕され鬼界ヶ島に流罪 された日である。
1177(治承元)年、京都東山の山腹鹿ケ谷の俊寛の山荘。後白河法皇を中心に西光(さいこう)、丹波少将成経(藤原成経=ふじわらのなりちか)、平判官康頼(へいほうがんやすより)、俊寛らをはじめ北面の大勢が平家打倒の謀議をひらいた。だが、密告により陰謀は露見し、斬首・流罪となった。西光は逮捕尋問後、五条西朱雀で斬られた。俊寛は、藤原成経、平康頼と共に遠く南海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)へ配流された。
翌年、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願のために大赦が行われ、俊寛らの待つ鬼界ヶ島へも赦免の船がやってきた。使いの円左衛門尉基康が届けた赦免状には何度確かめても、清盛に深く憎まれた俊寛の名前はなかった。せめて九州までもと取りすがる俊寛を払いのけ、一気に沖へと漕ぎ去る赦免船。ただ一人島に取り残され、消えてゆく舟影を呆然と見送るしかなかった俊寛・・・。後世、平家物語最大のドラマとして脚色され、能舞台・歌舞伎などで伝えられる俊寛の悲劇である。
この時代、平家一門は栄華を極めていた。清盛の登場からわずか10年で「平家にあらざれば人にあらず」と言われるほどの権勢を誇っていたが、それまで友好関係であった後白河院と平清盛の関係も白山事件等、その溝は深まりつつあった。平家のやり方は、経済面はともかく政治面での統治・統制方法は旧門閥貴族の手法とそれ程変わることがなく既得権益を侵された貴族特に摂関家というよりも当時は院政に移行されていたこともあって権力中枢に近かった院の側近達の鬱積は頂点に達し、反平家の火種がくすぶり始めていた中で、打倒平家の陰謀が当時の院の近臣僧であった俊寛の別荘である鹿ケ谷で行われたのであった。
俊寛 は、1143(康治2)年?~1179(治承3)年3月2日(新暦では4月10日)の平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で父の寛雅(木寺(仁和寺院家)の法印 )は右大臣源顕房の孫で「国王の氏寺」と呼ばれた法勝寺の上座となっている。俊寛は法勝寺の執行の地位にあったが父の影響もあり比較的若くしてその手腕を振るっていたようで、京極御坊、白河御坊、鹿ケ谷など多くの山荘を構えていたと言われており、80箇所以上の荘園を管理していたとも言われている。この陰謀を清盛に密告したのは源行綱であった。源行綱は、源頼光の子孫で摂津源氏で後白河法皇に仕える北面の武士であった。
この鹿ケ谷の陰謀で南海の孤島・鬼界ヶ島に流罪されたのは俊寛ら3人であるが、惨殺された首謀者西光に連座して、藤原成親(西光の兄備前国に流罪のち惨殺)、藤原師高(西光の嫡男)が、斬殺されたほか、安芸国や奥州、隠岐に流罪、美作国などに流罪されたものがいる。当の、後白河法皇は、激怒した清盛を何とか重盛が諫止したため一旦は事なきを得ることとなった。
流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺地や離島に送る追放刑であり、日本では死罪に次いで重い刑であった。俊寛ら3人は、首謀者として死罪となった西光らに継いで重い刑「流罪」になったが、他のものの流罪先と違って、薩摩諸島の遠く、南海の孤島、それも、漢字で「鬼界ヶ島」と書くところに流されたことが、近松門左衛門、菊池寛などが劇化、歌舞伎や能舞台で演じられている「俊寛の物語」の悲劇性を表している。
それでは、俊寛が流罪された「鬼界ヶ島」とは、一体どのような島であったろうか・・・?
「鬼界ヶ島」と名のつく島は現存せず、この島がどこの島を言っているのかは諸説あるようだが、現在でも正確にはわかっていない。ただ、薩南諸島の硫黄島 また、喜界島、伊王島のいずれかではないかと考えられている。
この件の考察については、以下参考の「立教大学日本学研究所第2回研究会【文学空間のなかの鬼界ヶ島と琉球】 が非常に詳しいのでそれを見られると良い。
先ず、俊寛ら3人が、流罪された鬼界ヶ島は、語り本系のなかでも、表現についての評価の高いといわれる覚一本『平家物語』では以下のように記されている。
”鹿ヶ谷の陰謀が破れ、平清盛による厳しい処分が実施される。さる程に、法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少将相ぐして、三人薩摩潟鬼界が嶋へぞながされける。彼嶋は、都を出てはる々々と浪路をしのいで行所也。おぼろけにては舟もかよはず。嶋にも人まれなり。をのづから人はあれども、此土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛おひつゝ云詞も聞しらず。男は烏帽子もせず、女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物もなければ、只殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば、米穀のるいもなく、園の桑をとらざれば、絹帛のたぐひもなかりけり。嶋のなかにはたかき山あり。鎮に火もゆ。硫黄と云物みちみてり。かるがゆへに硫黄が嶋とも名付たり。いかづちつねになりあがり、なりくだり、麓には雨しげし。一日片時、人の命たえてあるべき様もなし。(上巻 巻第2 「大納言死去」)”
鬼界ヶ島について、(1)都から遥かに遠いところであること、(2)めったに船も通わないこと、(3)島の人は、人間ではあるが人と思えないほど異形であること、(4)島は地獄のような様相であること、(5)人がとても生きてはいけそうもないことなどと形容されている。
これは「此土の人にも似ず」という言葉を枕にして島の人を記述している点からも、これは流刑となった三人の立場からの描写がされたもので、その描写は京都あるいは京都に連続性を感じる人の辺境観を基礎にしたものといえ、要するに京都人の常識に沿うように辺境を描いている。つまり『平家物語』では圧倒的に京都人の世界観が主導権を握って辺境を描いているのである。そして、京都からの辺境の地を異界とみなす観念がある。
『源平盛衰記』を見ると、薩摩潟とは総名なり。鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付けたり。端五島は、日本に従へり康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に棄てけり。彼の島には白鷺多くして石白し、故に白石の島と云ふ。丹波少将をば、奥七島が内、三の泊りの北、硫黄島にぞ捨てたりける(登巻第七「俊寛成経等鬼界島に移す事」)とある。
俊寛の流された島を鬼界、鬼界ヶ島という表記から、私たちは鬼の住むところというものを連想をする。これは、『源平盛衰記』で「昔は鬼の住みければ、鬼界島とも名付けたり。今も硫黄の多ければ、硫黄島とぞ申しける」(登巻第七「俊寛成経等鬼界島に移す事」)と、以前に鬼がいたことを鬼界島と呼ぶ理由にしているように、中世人にとっても自然な連想であり、覚一本『平家物語』で同様に恐ろしげに「鬼界が嶋」の人を描写しているのもその連想によって生み出されたものだといえる。このように、「きかい」という音を鬼の住むところを意味する漢字で表現することによって、その地域をイメージ向づけてるのである。それは、都を上とし、周辺を下とする見方によって基礎づけられ、日本という政治的な秩序から見れば外側として位置づけ、そこが日本の西の境界として意識されてきたということであるが、実際には、その地域の島では周辺の島々と行き来もし交流もあり、商人によって諸外国との交易もあり、住んでいる人もこの島では、眼の大きい、頬の何処かほつそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そんな都の人の好みとは違った美人のいる島なのであった。1922(大正11)年1月、芥川 龍之介は「俊寛」という短編小説を雑誌『中央公論』に発表したが、この短編小説は、小説というより、『平家物語』『源平盛衰記』などに見られる京都中心的な世界観に対する文芸批評に近いものであり、大正期にもあったと思われる東京中心の見方を暗に批判するという狙いもあったようだ。以下参考の俊寛(著者名: 芥川 竜之介)を、読んでみては・・・。
(画像は、歌舞伎「平家女護島 俊寛」中村勘三郎のCD。)
参考:
鬼界ヶ島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%95%8C%E3%83%B6%E5%B3%B6
立教大学日本学研究所第2回研究会【文学空間のなかの鬼界ヶ島と琉球】
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/nihongaku/reikai/2000taka.html
鹿ヶ谷の陰謀
http://www.geocities.jp/macshoji77/history/shishigatani.html
平家物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E
中原郁生遺稿「平家物語探訪」
http://www.npo-idn.com/heishi.htm
図書カード:俊寛(著者名: 芥川 竜之介)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card159.html
平家物語
http://www.page.sannet.ne.jp/kakomo2/heikemain.html
1177(治承元)年、京都東山の山腹鹿ケ谷の俊寛の山荘。後白河法皇を中心に西光(さいこう)、丹波少将成経(藤原成経=ふじわらのなりちか)、平判官康頼(へいほうがんやすより)、俊寛らをはじめ北面の大勢が平家打倒の謀議をひらいた。だが、密告により陰謀は露見し、斬首・流罪となった。西光は逮捕尋問後、五条西朱雀で斬られた。俊寛は、藤原成経、平康頼と共に遠く南海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)へ配流された。
翌年、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願のために大赦が行われ、俊寛らの待つ鬼界ヶ島へも赦免の船がやってきた。使いの円左衛門尉基康が届けた赦免状には何度確かめても、清盛に深く憎まれた俊寛の名前はなかった。せめて九州までもと取りすがる俊寛を払いのけ、一気に沖へと漕ぎ去る赦免船。ただ一人島に取り残され、消えてゆく舟影を呆然と見送るしかなかった俊寛・・・。後世、平家物語最大のドラマとして脚色され、能舞台・歌舞伎などで伝えられる俊寛の悲劇である。
この時代、平家一門は栄華を極めていた。清盛の登場からわずか10年で「平家にあらざれば人にあらず」と言われるほどの権勢を誇っていたが、それまで友好関係であった後白河院と平清盛の関係も白山事件等、その溝は深まりつつあった。平家のやり方は、経済面はともかく政治面での統治・統制方法は旧門閥貴族の手法とそれ程変わることがなく既得権益を侵された貴族特に摂関家というよりも当時は院政に移行されていたこともあって権力中枢に近かった院の側近達の鬱積は頂点に達し、反平家の火種がくすぶり始めていた中で、打倒平家の陰謀が当時の院の近臣僧であった俊寛の別荘である鹿ケ谷で行われたのであった。
俊寛 は、1143(康治2)年?~1179(治承3)年3月2日(新暦では4月10日)の平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で父の寛雅(木寺(仁和寺院家)の法印 )は右大臣源顕房の孫で「国王の氏寺」と呼ばれた法勝寺の上座となっている。俊寛は法勝寺の執行の地位にあったが父の影響もあり比較的若くしてその手腕を振るっていたようで、京極御坊、白河御坊、鹿ケ谷など多くの山荘を構えていたと言われており、80箇所以上の荘園を管理していたとも言われている。この陰謀を清盛に密告したのは源行綱であった。源行綱は、源頼光の子孫で摂津源氏で後白河法皇に仕える北面の武士であった。
この鹿ケ谷の陰謀で南海の孤島・鬼界ヶ島に流罪されたのは俊寛ら3人であるが、惨殺された首謀者西光に連座して、藤原成親(西光の兄備前国に流罪のち惨殺)、藤原師高(西光の嫡男)が、斬殺されたほか、安芸国や奥州、隠岐に流罪、美作国などに流罪されたものがいる。当の、後白河法皇は、激怒した清盛を何とか重盛が諫止したため一旦は事なきを得ることとなった。
流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺地や離島に送る追放刑であり、日本では死罪に次いで重い刑であった。俊寛ら3人は、首謀者として死罪となった西光らに継いで重い刑「流罪」になったが、他のものの流罪先と違って、薩摩諸島の遠く、南海の孤島、それも、漢字で「鬼界ヶ島」と書くところに流されたことが、近松門左衛門、菊池寛などが劇化、歌舞伎や能舞台で演じられている「俊寛の物語」の悲劇性を表している。
それでは、俊寛が流罪された「鬼界ヶ島」とは、一体どのような島であったろうか・・・?
「鬼界ヶ島」と名のつく島は現存せず、この島がどこの島を言っているのかは諸説あるようだが、現在でも正確にはわかっていない。ただ、薩南諸島の硫黄島 また、喜界島、伊王島のいずれかではないかと考えられている。
この件の考察については、以下参考の「立教大学日本学研究所第2回研究会【文学空間のなかの鬼界ヶ島と琉球】 が非常に詳しいのでそれを見られると良い。
先ず、俊寛ら3人が、流罪された鬼界ヶ島は、語り本系のなかでも、表現についての評価の高いといわれる覚一本『平家物語』では以下のように記されている。
”鹿ヶ谷の陰謀が破れ、平清盛による厳しい処分が実施される。さる程に、法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少将相ぐして、三人薩摩潟鬼界が嶋へぞながされける。彼嶋は、都を出てはる々々と浪路をしのいで行所也。おぼろけにては舟もかよはず。嶋にも人まれなり。をのづから人はあれども、此土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛おひつゝ云詞も聞しらず。男は烏帽子もせず、女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物もなければ、只殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば、米穀のるいもなく、園の桑をとらざれば、絹帛のたぐひもなかりけり。嶋のなかにはたかき山あり。鎮に火もゆ。硫黄と云物みちみてり。かるがゆへに硫黄が嶋とも名付たり。いかづちつねになりあがり、なりくだり、麓には雨しげし。一日片時、人の命たえてあるべき様もなし。(上巻 巻第2 「大納言死去」)”
鬼界ヶ島について、(1)都から遥かに遠いところであること、(2)めったに船も通わないこと、(3)島の人は、人間ではあるが人と思えないほど異形であること、(4)島は地獄のような様相であること、(5)人がとても生きてはいけそうもないことなどと形容されている。
これは「此土の人にも似ず」という言葉を枕にして島の人を記述している点からも、これは流刑となった三人の立場からの描写がされたもので、その描写は京都あるいは京都に連続性を感じる人の辺境観を基礎にしたものといえ、要するに京都人の常識に沿うように辺境を描いている。つまり『平家物語』では圧倒的に京都人の世界観が主導権を握って辺境を描いているのである。そして、京都からの辺境の地を異界とみなす観念がある。
『源平盛衰記』を見ると、薩摩潟とは総名なり。鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付けたり。端五島は、日本に従へり康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に棄てけり。彼の島には白鷺多くして石白し、故に白石の島と云ふ。丹波少将をば、奥七島が内、三の泊りの北、硫黄島にぞ捨てたりける(登巻第七「俊寛成経等鬼界島に移す事」)とある。
俊寛の流された島を鬼界、鬼界ヶ島という表記から、私たちは鬼の住むところというものを連想をする。これは、『源平盛衰記』で「昔は鬼の住みければ、鬼界島とも名付けたり。今も硫黄の多ければ、硫黄島とぞ申しける」(登巻第七「俊寛成経等鬼界島に移す事」)と、以前に鬼がいたことを鬼界島と呼ぶ理由にしているように、中世人にとっても自然な連想であり、覚一本『平家物語』で同様に恐ろしげに「鬼界が嶋」の人を描写しているのもその連想によって生み出されたものだといえる。このように、「きかい」という音を鬼の住むところを意味する漢字で表現することによって、その地域をイメージ向づけてるのである。それは、都を上とし、周辺を下とする見方によって基礎づけられ、日本という政治的な秩序から見れば外側として位置づけ、そこが日本の西の境界として意識されてきたということであるが、実際には、その地域の島では周辺の島々と行き来もし交流もあり、商人によって諸外国との交易もあり、住んでいる人もこの島では、眼の大きい、頬の何処かほつそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そんな都の人の好みとは違った美人のいる島なのであった。1922(大正11)年1月、芥川 龍之介は「俊寛」という短編小説を雑誌『中央公論』に発表したが、この短編小説は、小説というより、『平家物語』『源平盛衰記』などに見られる京都中心的な世界観に対する文芸批評に近いものであり、大正期にもあったと思われる東京中心の見方を暗に批判するという狙いもあったようだ。以下参考の俊寛(著者名: 芥川 竜之介)を、読んでみては・・・。
(画像は、歌舞伎「平家女護島 俊寛」中村勘三郎のCD。)
参考:
鬼界ヶ島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%95%8C%E3%83%B6%E5%B3%B6
立教大学日本学研究所第2回研究会【文学空間のなかの鬼界ヶ島と琉球】
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/nihongaku/reikai/2000taka.html
鹿ヶ谷の陰謀
http://www.geocities.jp/macshoji77/history/shishigatani.html
平家物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E
中原郁生遺稿「平家物語探訪」
http://www.npo-idn.com/heishi.htm
図書カード:俊寛(著者名: 芥川 竜之介)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card159.html
平家物語
http://www.page.sannet.ne.jp/kakomo2/heikemain.html