1867(慶応3)年旧暦9月14日(新暦:10月11日)、人口が増えたため、江戸市街地の家屋で初の3階建て住宅が許可された。
江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、1919(大正8年)年に市街地建築物法(大正8年法律第37号。現在の建築基準法の前身)により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。
1987(昭和62)年の建築基準法の改正で、一定の技術基準に適合する木造3階の戸建て住宅が準防火地域内に建てられるようになった。
3階建ては同じ広さの用地でも、2階建てより広い床面積の家が建てられ、日当たりが良い、眺望もあるなど多くの利点も兼ね備えている。現在の日本の都市部(準防火地域)における木造3階建ての住宅は、住宅の建築確認申請書には構造計算書を添付することが義務付けられている。これに対して、木造2階建て以下の住宅については構造計算書の添付が免除されているなど、法規上木造2階建てとは異なる特別の扱いを受けており、設計や建築工事に高い専門技術が必要とされる。ただし、特例として、2008(平成20)年12月まで、小規模な木造建築物(4号建築物)に限り、提出を免除されている(構造計算をしなくてよいというわけではない)。そのため、小規模な3階建て住宅は耐震面などの面に問題のあるものが少なからずあるとも聞いている。2007(平成19)年6月の建築基準法の改正は、マンションの構造計算書偽造事件の後遺症とも言うべき形で行なわれ、確認申請手続きが厳格化された。阪神・淡路大震災では、鉄骨の溶接不良、木造住宅の耐力壁の不足等が原因と見られる被害が多数発生したことなどから、建築士等の法的責任が強化されることとなったものである。
ところで、江戸時代に、どんなに富裕でも武家以外のものが3階建ての建物を造ることを許されていなかったのは、今のように地震等に対する耐震性の問題からではなく江戸幕府による江戸士民に対する倹約令(奢侈〔贅沢〕の禁止)によるものであった。
倹約令には単に節約の奨励、奢侈の禁止を目的とするものと、幕府の財政緊縮を目的とするものとがあるが、前者は、これによって士農工商の身分秩序を維持し、分限を越えた奢侈を抑えようとするもので、幕初から幕末までほとんど常時発せられた。
寛永(1624年~1643年)ごろの江戸の繁栄を極彩色で描いた六曲一双(6枚の曲=パネルで構成される屏風が2隻〔せき〕で1セットとなっているもの)の屏風『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)があり、そこには当時の江戸の状況が克明に描かれている。画像は以下を参照。
国立歴史民族博物館>歴博ギャラリー>江戸図屏風
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/index.html
その左隻1扇を見られると判るが、江戸城内に天守が描かれているが、この天守は1657(明暦3)年の大火で焼失し、その後再建されることはなかったので、寛永期の江戸を象徴する建造物といえる。
初期の江戸において、表通りの角地に住することは有力上層町人であることを意味するが、左隻第3扇下(材木町、江戸下町の河岸〔材木の荷揚げ〕、向井將監屋敷)に描かれている表通り角地の、三階櫓とよばれる城郭風の三階建ての建物は、初期江戸の町並みを表現しているものと見ることができる。この三階櫓は、奢侈禁令の一環として禁じられていたにもかかわらず、建設されたもののようである。冒頭の画像がそうである(もっと大きくは上記の歴博ギャラリー>江戸図屏風を見られると良い。当時、武士の系譜をひく町人も少なくなかったためかもしれない。しかし明暦の大火前後の建築規制で姿を消したので、前期の町並を特色づけたものの一つといえるだろう。
面白いのは、江戸時代の楽屋は3階建てを原則としたが、3階建築は許可されなかったため、実際の3階を「本二階」、2階を「中二階(ちゅうにかい)」と名づけ、表向き2階建てを装っていたという。こういうのを見ると結構、厳格な面とともに応用なところもあったようだな~。
江戸は、徳川家康が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603(慶長8)年征夷大将軍に就任以後、(1867(慶応3)年旧暦10月14日(11月9日)の大政奉還まで、政治の中心となる幕府を置いていた都市である。
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見だそうで、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられているようだ。地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力で、当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。当時の江戸は、「ここもかしこも汐入の茅原」で、城下には「茅(かや)ぶきの家百ばかりも有かなし」(石川正西『聞見集』)であったと伝えられているそうだ(以下参考の※1参照)。
1590(天正18)年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定め、同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったが、家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに物資搬入のため船入堀(道三堀)の開削を手始めに、城下町の建設を進め、神田山(現在の駿河台。以下参考の※2参照)を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置したそうだ。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となると、諸大名の普請役で、天下の総城下町づくりが始まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、また、参勤交代も慶長年間に始まり、町が急速に拡大すると、江戸の人口は急速に増加した。さらに、1657(明暦3)年の明暦の大火後の再建事業によって市域は隅田川を超え、東の本所・深川へと開発が進み、その人口は絶えず拡大を続け、「大江戸八百八町」といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げた。
勿論この「大江戸八百八町」という言葉は、江戸の実際の町数ではなく一種の慣用表現として使われており、年代をおって江戸の町は拡大し、江戸の総町数は延享年間(1744~1748)に1678町となり、実に、八百八町の倍以上になっているそうだ。以下参考の※3:「東京都公文書館・江戸東京を知る」の江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれどを参照。又、※4「大江戸絵図」では、幕末の大江戸絵図を細かくマップで見られる。
初の3階建て住宅を許可(Ⅱ)と参考のページへ
江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、1919(大正8年)年に市街地建築物法(大正8年法律第37号。現在の建築基準法の前身)により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。
1987(昭和62)年の建築基準法の改正で、一定の技術基準に適合する木造3階の戸建て住宅が準防火地域内に建てられるようになった。
3階建ては同じ広さの用地でも、2階建てより広い床面積の家が建てられ、日当たりが良い、眺望もあるなど多くの利点も兼ね備えている。現在の日本の都市部(準防火地域)における木造3階建ての住宅は、住宅の建築確認申請書には構造計算書を添付することが義務付けられている。これに対して、木造2階建て以下の住宅については構造計算書の添付が免除されているなど、法規上木造2階建てとは異なる特別の扱いを受けており、設計や建築工事に高い専門技術が必要とされる。ただし、特例として、2008(平成20)年12月まで、小規模な木造建築物(4号建築物)に限り、提出を免除されている(構造計算をしなくてよいというわけではない)。そのため、小規模な3階建て住宅は耐震面などの面に問題のあるものが少なからずあるとも聞いている。2007(平成19)年6月の建築基準法の改正は、マンションの構造計算書偽造事件の後遺症とも言うべき形で行なわれ、確認申請手続きが厳格化された。阪神・淡路大震災では、鉄骨の溶接不良、木造住宅の耐力壁の不足等が原因と見られる被害が多数発生したことなどから、建築士等の法的責任が強化されることとなったものである。
ところで、江戸時代に、どんなに富裕でも武家以外のものが3階建ての建物を造ることを許されていなかったのは、今のように地震等に対する耐震性の問題からではなく江戸幕府による江戸士民に対する倹約令(奢侈〔贅沢〕の禁止)によるものであった。
倹約令には単に節約の奨励、奢侈の禁止を目的とするものと、幕府の財政緊縮を目的とするものとがあるが、前者は、これによって士農工商の身分秩序を維持し、分限を越えた奢侈を抑えようとするもので、幕初から幕末までほとんど常時発せられた。
寛永(1624年~1643年)ごろの江戸の繁栄を極彩色で描いた六曲一双(6枚の曲=パネルで構成される屏風が2隻〔せき〕で1セットとなっているもの)の屏風『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)があり、そこには当時の江戸の状況が克明に描かれている。画像は以下を参照。
国立歴史民族博物館>歴博ギャラリー>江戸図屏風
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/index.html
その左隻1扇を見られると判るが、江戸城内に天守が描かれているが、この天守は1657(明暦3)年の大火で焼失し、その後再建されることはなかったので、寛永期の江戸を象徴する建造物といえる。
初期の江戸において、表通りの角地に住することは有力上層町人であることを意味するが、左隻第3扇下(材木町、江戸下町の河岸〔材木の荷揚げ〕、向井將監屋敷)に描かれている表通り角地の、三階櫓とよばれる城郭風の三階建ての建物は、初期江戸の町並みを表現しているものと見ることができる。この三階櫓は、奢侈禁令の一環として禁じられていたにもかかわらず、建設されたもののようである。冒頭の画像がそうである(もっと大きくは上記の歴博ギャラリー>江戸図屏風を見られると良い。当時、武士の系譜をひく町人も少なくなかったためかもしれない。しかし明暦の大火前後の建築規制で姿を消したので、前期の町並を特色づけたものの一つといえるだろう。
面白いのは、江戸時代の楽屋は3階建てを原則としたが、3階建築は許可されなかったため、実際の3階を「本二階」、2階を「中二階(ちゅうにかい)」と名づけ、表向き2階建てを装っていたという。こういうのを見ると結構、厳格な面とともに応用なところもあったようだな~。
江戸は、徳川家康が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603(慶長8)年征夷大将軍に就任以後、(1867(慶応3)年旧暦10月14日(11月9日)の大政奉還まで、政治の中心となる幕府を置いていた都市である。
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見だそうで、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられているようだ。地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力で、当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。当時の江戸は、「ここもかしこも汐入の茅原」で、城下には「茅(かや)ぶきの家百ばかりも有かなし」(石川正西『聞見集』)であったと伝えられているそうだ(以下参考の※1参照)。
1590(天正18)年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定め、同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったが、家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに物資搬入のため船入堀(道三堀)の開削を手始めに、城下町の建設を進め、神田山(現在の駿河台。以下参考の※2参照)を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置したそうだ。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となると、諸大名の普請役で、天下の総城下町づくりが始まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、また、参勤交代も慶長年間に始まり、町が急速に拡大すると、江戸の人口は急速に増加した。さらに、1657(明暦3)年の明暦の大火後の再建事業によって市域は隅田川を超え、東の本所・深川へと開発が進み、その人口は絶えず拡大を続け、「大江戸八百八町」といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げた。
勿論この「大江戸八百八町」という言葉は、江戸の実際の町数ではなく一種の慣用表現として使われており、年代をおって江戸の町は拡大し、江戸の総町数は延享年間(1744~1748)に1678町となり、実に、八百八町の倍以上になっているそうだ。以下参考の※3:「東京都公文書館・江戸東京を知る」の江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれどを参照。又、※4「大江戸絵図」では、幕末の大江戸絵図を細かくマップで見られる。
初の3階建て住宅を許可(Ⅱ)と参考のページへ