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1941年 2月12日新聞で、前日(11日)の満映のスター李香蘭の東京日劇での歌謡ショーで起った日劇7回り半事件の状況が報道された。くしくも、この日は、彼女の誕生日でもあった。
満映とは、日中戦争開戦の年の1937(昭和12)年に設立された満州国(清朝最後の皇帝・溥儀を擁して、1932年に現在の中国東北部に日本によって建国され1945年まで存在していた国)の国策映画会社・満洲映畫協會のことであり、李香蘭(日本読み:りこうらん)とは、国際的歌手、女優でもあった政治家で、現在の大鷹淑子(旧姓:山口 淑子(やまぐち よしこ)さんのことである。日劇での歌謡ショーのことは、追って述べる。
1920年(大正9年)2月12日に、中華民國奉天省(現・中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、撫順で生まれ、満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ、「淑子」と名付けられ、奉天(現在の瀋陽市)と北平(現在の北京市)で育ったが、本籍は、佐賀県北方町(現在は新市制による武雄市の1つ)だそうである。
父親の友人であり家族ぐるみで交流をしていた李際春(親日派満州軍閥の元将軍であり、当時は瀋陽銀行の総裁の地位にあった)の養女となり、李姓と香蘭(リー・シャンラン)という名前をつけてもらったそうだ。
♪生まれ故郷を あとにして
俺もはるばる やって来た
蘭の花咲く 満州で
男一匹 腕だめし
「蘭の花咲く満州で」(作詩:藤村閑夫、作曲:長津義司、歌:田端義夫。昭和19年)
♪あの山蔭にも 川辺にも
尊き血潮は 染みている
その血の中に 咲いた花
かぐわし君は 白蘭の花
「白蘭の歌」(作詞:久米正雄、作曲:竹岡信幸、歌:伊藤久男。昭和14年)
でも歌われているように、蘭は満州の名花だそうで、満州国の国章も蘭の花をデザイン化したものであった。又、中国人は、香りの良い花のことを欄とも呼ぶそうだ。
その後、潘毓桂(後に天津市長)とも義理の娘として縁を結び、潘淑華と名乗っていたという。淑華の淑は淑子の淑で、それに、潘家では娘の名前の末尾には華をつけるのが習慣だったそうだ。これらは、名目上の養子であり、その家に入り住み込むわけではなく、ただ、中国の旧習では、親交のある人との縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があり、それに従ったものであったそうだ。
そして、幼少より、イタリア人オペラ歌手から声楽を習っていたという彼女は、日本語も中国語も堪能だったことから、奉天放送局のラジオ番組満州新歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938(昭和13)年に満映から中国人の専属映画女優「李香蘭」としてデビューし、映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。1838(昭和13)年、18歳の李香蘭は「日満親善」代表として、生まれて初めて祖国日本の土を踏んだが、その時のことを回想して、後日、“連絡船を下りようと旅券を見せた時の入国係官の言葉が心に突き刺さりました。 「一等国民の日本人が三等国の中国の服なんか着て恥ずかしくないのか」。祖国の人々が、私が生まれ育った母国の中国を見下すことが悲しかったし、そういう日本が嫌いでした。” ・・・と言っている。以下参照。
中日新聞社: 「(「靖国」を語る)傷つけた心癒やす努力を」(2005年8月14日) 」
http://web.archive.org/web/20051201023640/http://www.tokyo-np.co.jp/yasukuni/txt/050814.html
日本の映画界では、1936(昭和11)年に創立されたばかりの新興会社の東宝映画(現在の東宝)は、日中戦争の拡大という時勢に敏感に応じた政策方針によって興行的にも躍進していたが、1939(昭和14)年11月30日に公開した「白蘭の歌」が爆発的な大ヒットとなる。
「大陸三部作」と言われるものの第1作目のこの映画は、南満州鉄道の青年技師と満州豪族の娘との国境を越えた悲恋物語である。(原作は久米正雄、監督は渡辺邦男)。
満州豪族の娘には、満映で人気の歌うスター李香蘭を出演させた。李香蘭にとって、これが、日本映画への初出演だった。そして、その相手役・主役の青年技師には、2年前に松竹から東宝へ移籍した際に刃傷沙汰(1937年11月林長二郎を名乗っていた時代、かみそり状の刃物で左顔面を切りつけられた)に巻き込まれた人気絶頂の時代劇スターであった長谷川一夫を現代劇で使った。満映は政策上李香蘭を満州娘として売り出し、長谷川も彼女を中国人だと信じていたそうだが、彼女が日本人であることなど知らない観客は巧みに日本語を操る美貌のスターに熱狂し酔いしれた。東宝は、同じコンビで、翌年に「支那の夜」(1938【昭和13】年12月に渡辺はま子の歌唱で発売された「支那の夜」の大ヒットを受けて作られたもの)、「熱砂の誓ひ」の2作を製作し大ヒットさせた。
そして、冒頭の、1941(昭和16)年2月11日、宮中で厳かに紀元の佳節(今の建国記念日)が行なわれている中、東京・有楽町の日本劇場前には、数千人もの群集が「歌う李香蘭」見たさに押し寄せ大混乱となった。この日のことは、10日の新聞広告で「明11日建国祭替りの有楽街新番組」として、「満映スタア歌う李香蘭」の実演が、大々的に宣伝されていた。映画「支那の夜」で長谷川一夫と共演し、人気を博した女優李香蘭が、「蘇州夜曲」や「支那の夜」など9曲を歌うのだ。(※同寺上映は、インドネシアの長編記録映画「蘭印探訪記」と「お子様も見られる」として若原春江、中村メイコら出演の映画「島は夕焼け」だったそうだ。)
そして、11日の状況は、午前9時半開店の開場を目指して、8時ごろから観客が集まり、瞬く間に劇場前の広場と道路を埋め尽くし、行列もなんのその、何千人と言う人が2つか3つしかない切符売り場に殺到し大乱闘ともなり、その雑踏に耐えかねた女や子供は屋根の上に這い上がる始末だったと報道されている。これは、俗に、日劇7回り半事件とも言われているもので、警官が出動し整理しても収まらず、ついに、「本日興行中止」の札を貼っても治まらず、消防車が出動・散水し、群衆を移動させる程の騒動であったようだ。翌・12日、朝日新聞の見出しは、その時のことを「佳節を汚した顧客の狂態」となっており、記事も「国民道徳の薄っぺらさ、規律の弱さ、その欠陥をまざまざと見せ付けられた」と厳しかったという。(朝日クロニクル「週間20世紀」)
♪君がみ胸に抱かれて聞くは
夢の船歌 恋の唄
水の蘇州の花散る春を
惜しむか柳がすすり泣く
「蘇州夜曲」(作詞:西条 八十、作曲:服部 良一。(映画『支那の夜』挿入歌で映画の中で歌唱 )
支那の夜のヒット以来、当時の日本の青年にとって、李香蘭への憧れはこの歌に歌われているように、「水の蘇州の花散る春を」への憧れで有り、そのような大陸への進出は、現在の欧米駐在にも似た憧れであり、李香蘭はそうした日本の“虹のかけ橋”を彩る夢の女王だったとも言えたのであろう。
その後1943(昭和18)年には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳』(満映、中華電影など中国映画会社の連合組織での合作映画) に主演した。この映画は、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画で、内容は阿片戦争の敵国であるイギリスを日本に見立てて、中国民衆の反日感情を鼓舞する内容のものであったというが、中華民国全土で映画が公開された。李香蘭は、劇中「賣糖歌」と「戒煙歌」の2曲を歌う。この映画は中国人観衆の心をつかみ、当時最大のヒット作となったという。以下では、「賣糖歌」のほか、「戒煙歌」も聞ける。
YouTube - 李香蘭-賣糖歌
http://www.youtube.com/watch?v=GMrYnf2rH6Y
この大ヒットにより、満州や日本だけでなく、中華民國の民衆からも人気を得た彼女は、上海から北京の両親のもとへ帰郷した時、北京の中国系新聞各社が彼女に記者会見を申し込み、「中国人なのにどうして中国を侮辱していると思われる『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出るのですか?」と聞いたことに対して、「過ちでした。一連の映画に出たことを許してください。」・・・と、応えた彼女は、身分を明かすことを戒められていたので日本人とは言えず、我知らずに出た言葉に悩んだという。
1944(昭和19)年24歳のとき、 満映との契約を破棄して上海へ。この年、歌「夜来香」(中国語での歌)が大ヒット。
しかし、日本の映画では、「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じていた彼女は、日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴(漢奸)の罪で軍事裁判にかけられ、死刑の可能性があったものの、彼女が日本国籍であることが証明され、日本に国外追放となった。彼女は、満州に居た時「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれていた川島芳子との親交もあったというが、川島芳子は、残念にも、日本人とは認められず漢奸罪が適用されてしまった。この川島芳子のことは、以前に、このブログ、「東洋のマタハリと言われた男装スパイ・川島芳子こと金璧輝が北京で銃殺刑」で書いた。又、彼女の名目上の養父となっていた、李際春も関東軍の満州国建国に協力したため、戦後漢奸罪で処刑されているそうだ。
日本へ帰国後は芸能活動を再開したが、1958(昭和33)年に日本人外交官で、駐ビルマ日本大使館の三等書記官大鷹弘氏と再婚(1951年に結婚後離婚していた)し、20年にわたる女優業を引退した。引退直前には原節子の呼びかけにより、芸能生活20周年記念映画として『東京の休日』が製作された。映画」には三船敏郎、池部良、越路吹雪など当時の東宝オールスターが出演する豪華なものとなった。そしてこの映画が最後の出演映画となった。以下では、その時のワンシーが見れ「夜来香」の歌が聴ける。
YouTube - 夜来香_山口淑子(李香蘭)
http://www.youtube.com/watch?v=A1CZDgwXgnI
結婚のため芸能界を退くも、1969(昭和44)年にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者として復帰。後に1974(昭和49)年から1992(平成 4)年までの18年間は参議院議員も務めた。
山口淑子の「夜来香」は、私の大好きな歌の1つだったが、きれいな声で歌う彼女の歌は全て素敵である。
今日は、このブログを書きながら子供の頃に聞いたことのある懐かしい歌声と画像が見れて良かった。
私が、このブログを書いているのは、自分の書いたものを人様に読んでもらうことよりも、ブログを書くために色々本を読み直したりネットを検索して調べたりして、知らなかったことを知ったり、懐かしい昔のことを思い出すのが楽しみでやっており、その点で、今日は最高に満足している。
彼女の半生は劇団四季『ミュージカル李香蘭』(1991年初演『ミュージカル異国の丘』『ミュージカル南十字星』と共に“昭和三部作”)となり、人気を呼び幾度となく再演され続けている。又、テレビ でも、沢口靖子(フジテレビ開局30周年記念ドラマ『さよなら李香蘭』、1989年12月21日~1989年12月22日) や、上戸彩、野際陽子(テレビ東京『李香蘭』、2007年2月11日~2月12日) によって演じられていた。テレビの方では、沢口靖子の方は見れたが、上戸彩はやはり、もうちょっと・・・といったところだったね~。
(画像:左:マイコレクションより劇団四季のミュージカル「李香蘭」のチラシ。右:朝日クロニクル「週刊20世紀」映画の100年より、1939年東宝映画「白蘭の歌」。二枚目スター長谷川一夫と満州映画協会のスター李香蘭の共演。)
※参考のリンクはここを見てください。
満映とは、日中戦争開戦の年の1937(昭和12)年に設立された満州国(清朝最後の皇帝・溥儀を擁して、1932年に現在の中国東北部に日本によって建国され1945年まで存在していた国)の国策映画会社・満洲映畫協會のことであり、李香蘭(日本読み:りこうらん)とは、国際的歌手、女優でもあった政治家で、現在の大鷹淑子(旧姓:山口 淑子(やまぐち よしこ)さんのことである。日劇での歌謡ショーのことは、追って述べる。
1920年(大正9年)2月12日に、中華民國奉天省(現・中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、撫順で生まれ、満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ、「淑子」と名付けられ、奉天(現在の瀋陽市)と北平(現在の北京市)で育ったが、本籍は、佐賀県北方町(現在は新市制による武雄市の1つ)だそうである。
父親の友人であり家族ぐるみで交流をしていた李際春(親日派満州軍閥の元将軍であり、当時は瀋陽銀行の総裁の地位にあった)の養女となり、李姓と香蘭(リー・シャンラン)という名前をつけてもらったそうだ。
♪生まれ故郷を あとにして
俺もはるばる やって来た
蘭の花咲く 満州で
男一匹 腕だめし
「蘭の花咲く満州で」(作詩:藤村閑夫、作曲:長津義司、歌:田端義夫。昭和19年)
♪あの山蔭にも 川辺にも
尊き血潮は 染みている
その血の中に 咲いた花
かぐわし君は 白蘭の花
「白蘭の歌」(作詞:久米正雄、作曲:竹岡信幸、歌:伊藤久男。昭和14年)
でも歌われているように、蘭は満州の名花だそうで、満州国の国章も蘭の花をデザイン化したものであった。又、中国人は、香りの良い花のことを欄とも呼ぶそうだ。
その後、潘毓桂(後に天津市長)とも義理の娘として縁を結び、潘淑華と名乗っていたという。淑華の淑は淑子の淑で、それに、潘家では娘の名前の末尾には華をつけるのが習慣だったそうだ。これらは、名目上の養子であり、その家に入り住み込むわけではなく、ただ、中国の旧習では、親交のある人との縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があり、それに従ったものであったそうだ。
そして、幼少より、イタリア人オペラ歌手から声楽を習っていたという彼女は、日本語も中国語も堪能だったことから、奉天放送局のラジオ番組満州新歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938(昭和13)年に満映から中国人の専属映画女優「李香蘭」としてデビューし、映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。1838(昭和13)年、18歳の李香蘭は「日満親善」代表として、生まれて初めて祖国日本の土を踏んだが、その時のことを回想して、後日、“連絡船を下りようと旅券を見せた時の入国係官の言葉が心に突き刺さりました。 「一等国民の日本人が三等国の中国の服なんか着て恥ずかしくないのか」。祖国の人々が、私が生まれ育った母国の中国を見下すことが悲しかったし、そういう日本が嫌いでした。” ・・・と言っている。以下参照。
中日新聞社: 「(「靖国」を語る)傷つけた心癒やす努力を」(2005年8月14日) 」
http://web.archive.org/web/20051201023640/http://www.tokyo-np.co.jp/yasukuni/txt/050814.html
日本の映画界では、1936(昭和11)年に創立されたばかりの新興会社の東宝映画(現在の東宝)は、日中戦争の拡大という時勢に敏感に応じた政策方針によって興行的にも躍進していたが、1939(昭和14)年11月30日に公開した「白蘭の歌」が爆発的な大ヒットとなる。
「大陸三部作」と言われるものの第1作目のこの映画は、南満州鉄道の青年技師と満州豪族の娘との国境を越えた悲恋物語である。(原作は久米正雄、監督は渡辺邦男)。
満州豪族の娘には、満映で人気の歌うスター李香蘭を出演させた。李香蘭にとって、これが、日本映画への初出演だった。そして、その相手役・主役の青年技師には、2年前に松竹から東宝へ移籍した際に刃傷沙汰(1937年11月林長二郎を名乗っていた時代、かみそり状の刃物で左顔面を切りつけられた)に巻き込まれた人気絶頂の時代劇スターであった長谷川一夫を現代劇で使った。満映は政策上李香蘭を満州娘として売り出し、長谷川も彼女を中国人だと信じていたそうだが、彼女が日本人であることなど知らない観客は巧みに日本語を操る美貌のスターに熱狂し酔いしれた。東宝は、同じコンビで、翌年に「支那の夜」(1938【昭和13】年12月に渡辺はま子の歌唱で発売された「支那の夜」の大ヒットを受けて作られたもの)、「熱砂の誓ひ」の2作を製作し大ヒットさせた。
そして、冒頭の、1941(昭和16)年2月11日、宮中で厳かに紀元の佳節(今の建国記念日)が行なわれている中、東京・有楽町の日本劇場前には、数千人もの群集が「歌う李香蘭」見たさに押し寄せ大混乱となった。この日のことは、10日の新聞広告で「明11日建国祭替りの有楽街新番組」として、「満映スタア歌う李香蘭」の実演が、大々的に宣伝されていた。映画「支那の夜」で長谷川一夫と共演し、人気を博した女優李香蘭が、「蘇州夜曲」や「支那の夜」など9曲を歌うのだ。(※同寺上映は、インドネシアの長編記録映画「蘭印探訪記」と「お子様も見られる」として若原春江、中村メイコら出演の映画「島は夕焼け」だったそうだ。)
そして、11日の状況は、午前9時半開店の開場を目指して、8時ごろから観客が集まり、瞬く間に劇場前の広場と道路を埋め尽くし、行列もなんのその、何千人と言う人が2つか3つしかない切符売り場に殺到し大乱闘ともなり、その雑踏に耐えかねた女や子供は屋根の上に這い上がる始末だったと報道されている。これは、俗に、日劇7回り半事件とも言われているもので、警官が出動し整理しても収まらず、ついに、「本日興行中止」の札を貼っても治まらず、消防車が出動・散水し、群衆を移動させる程の騒動であったようだ。翌・12日、朝日新聞の見出しは、その時のことを「佳節を汚した顧客の狂態」となっており、記事も「国民道徳の薄っぺらさ、規律の弱さ、その欠陥をまざまざと見せ付けられた」と厳しかったという。(朝日クロニクル「週間20世紀」)
♪君がみ胸に抱かれて聞くは
夢の船歌 恋の唄
水の蘇州の花散る春を
惜しむか柳がすすり泣く
「蘇州夜曲」(作詞:西条 八十、作曲:服部 良一。(映画『支那の夜』挿入歌で映画の中で歌唱 )
支那の夜のヒット以来、当時の日本の青年にとって、李香蘭への憧れはこの歌に歌われているように、「水の蘇州の花散る春を」への憧れで有り、そのような大陸への進出は、現在の欧米駐在にも似た憧れであり、李香蘭はそうした日本の“虹のかけ橋”を彩る夢の女王だったとも言えたのであろう。
その後1943(昭和18)年には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳』(満映、中華電影など中国映画会社の連合組織での合作映画) に主演した。この映画は、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画で、内容は阿片戦争の敵国であるイギリスを日本に見立てて、中国民衆の反日感情を鼓舞する内容のものであったというが、中華民国全土で映画が公開された。李香蘭は、劇中「賣糖歌」と「戒煙歌」の2曲を歌う。この映画は中国人観衆の心をつかみ、当時最大のヒット作となったという。以下では、「賣糖歌」のほか、「戒煙歌」も聞ける。
YouTube - 李香蘭-賣糖歌
http://www.youtube.com/watch?v=GMrYnf2rH6Y
この大ヒットにより、満州や日本だけでなく、中華民國の民衆からも人気を得た彼女は、上海から北京の両親のもとへ帰郷した時、北京の中国系新聞各社が彼女に記者会見を申し込み、「中国人なのにどうして中国を侮辱していると思われる『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出るのですか?」と聞いたことに対して、「過ちでした。一連の映画に出たことを許してください。」・・・と、応えた彼女は、身分を明かすことを戒められていたので日本人とは言えず、我知らずに出た言葉に悩んだという。
1944(昭和19)年24歳のとき、 満映との契約を破棄して上海へ。この年、歌「夜来香」(中国語での歌)が大ヒット。
しかし、日本の映画では、「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じていた彼女は、日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴(漢奸)の罪で軍事裁判にかけられ、死刑の可能性があったものの、彼女が日本国籍であることが証明され、日本に国外追放となった。彼女は、満州に居た時「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれていた川島芳子との親交もあったというが、川島芳子は、残念にも、日本人とは認められず漢奸罪が適用されてしまった。この川島芳子のことは、以前に、このブログ、「東洋のマタハリと言われた男装スパイ・川島芳子こと金璧輝が北京で銃殺刑」で書いた。又、彼女の名目上の養父となっていた、李際春も関東軍の満州国建国に協力したため、戦後漢奸罪で処刑されているそうだ。
日本へ帰国後は芸能活動を再開したが、1958(昭和33)年に日本人外交官で、駐ビルマ日本大使館の三等書記官大鷹弘氏と再婚(1951年に結婚後離婚していた)し、20年にわたる女優業を引退した。引退直前には原節子の呼びかけにより、芸能生活20周年記念映画として『東京の休日』が製作された。映画」には三船敏郎、池部良、越路吹雪など当時の東宝オールスターが出演する豪華なものとなった。そしてこの映画が最後の出演映画となった。以下では、その時のワンシーが見れ「夜来香」の歌が聴ける。
YouTube - 夜来香_山口淑子(李香蘭)
http://www.youtube.com/watch?v=A1CZDgwXgnI
結婚のため芸能界を退くも、1969(昭和44)年にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者として復帰。後に1974(昭和49)年から1992(平成 4)年までの18年間は参議院議員も務めた。
山口淑子の「夜来香」は、私の大好きな歌の1つだったが、きれいな声で歌う彼女の歌は全て素敵である。
今日は、このブログを書きながら子供の頃に聞いたことのある懐かしい歌声と画像が見れて良かった。
私が、このブログを書いているのは、自分の書いたものを人様に読んでもらうことよりも、ブログを書くために色々本を読み直したりネットを検索して調べたりして、知らなかったことを知ったり、懐かしい昔のことを思い出すのが楽しみでやっており、その点で、今日は最高に満足している。
彼女の半生は劇団四季『ミュージカル李香蘭』(1991年初演『ミュージカル異国の丘』『ミュージカル南十字星』と共に“昭和三部作”)となり、人気を呼び幾度となく再演され続けている。又、テレビ でも、沢口靖子(フジテレビ開局30周年記念ドラマ『さよなら李香蘭』、1989年12月21日~1989年12月22日) や、上戸彩、野際陽子(テレビ東京『李香蘭』、2007年2月11日~2月12日) によって演じられていた。テレビの方では、沢口靖子の方は見れたが、上戸彩はやはり、もうちょっと・・・といったところだったね~。
(画像:左:マイコレクションより劇団四季のミュージカル「李香蘭」のチラシ。右:朝日クロニクル「週刊20世紀」映画の100年より、1939年東宝映画「白蘭の歌」。二枚目スター長谷川一夫と満州映画協会のスター李香蘭の共演。)
※参考のリンクはここを見てください。