
暦仁2年2月7日(ユリウス暦1239年3月13日【=グレゴリオ暦=現行の西暦1239年3月20日】) 、天変が相次ぐ為、元号を暦仁から延応に改元 。また、その約1年4ヵ月後の延応2年7月16日(ユリウス暦1240年8月5日【=グレゴリオ暦=1240年8月12日】) 仁治に改元 をしている。
延応の時代と言えば、中世前期・鎌倉時代(1185年頃~1333年)にあたる。
日本の歴史上は、源頼朝が鎌倉に武家政権(幕府)を創設し、鎌倉幕府は、朝廷と並んで全国統治の中心となり、本格的な武家政権による統治が開始した。延応の時代の天皇は第87代天皇・四条天皇。鎌倉幕府将軍は第4代藤原頼経、執権は北条泰時。源氏の将軍が3代の源実朝で途絶え(建保7年1月27日【ユリウス暦1219年2月13日】死亡)てからは、執権が幕府の実権を握るようになっていた。
鎌倉時代に成立した日本の歴史書『吾妻鏡』(また『東鑑』)は、鎌倉幕府の関係者によって編纂されたと考えられている編年体歴史書であり,治承4年(1180)4月から文永3年(1266)7月までを扱っており、武家政権や社会の動きを日記形式をとり、編纂者が幕府の記録や公家や武家の日記、寺社の記録をもとに後に編纂したものと考えられている。ここには、この当時実に多くの地震その他天変地異(天空と地上に起る異変。大規模な自然災害もこれに含む)が発生していたことも記録されている。(以下参考に記載のHP「東鑑」の「1239年 【暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥】」、及び、「1240年 【延應2年7月16日 改元 仁治元年 庚子】」を参照。なお、本文日付、2月7日 の横にある、 『百錬抄』は 武家方の『吾妻鏡』とは対照的に、京都中心の記録で、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書であり、『平戸記』(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記)。
それでは、どのような天変地異があったかは、以下参考に記載のHP「聚史苑」を見ると良くわかるが、1239年の部分だけを抜粋すると伊かのようである。
1239(延応 1)年
1月 2日 戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
1月 4日 彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
1月 8日 天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
1月15日 評定始、彗星について論じる。17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
1月18日 彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
1月26日 戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
2月 6日 夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
2月 7日 天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
4月16日 大地震。(吾妻鏡33)
8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)
11月12日 大地震。(吾妻鏡33)
その他の状況は、ここ→1239年天変地異年表 中世(A.D.1192~1602)のところを参照。
この時の天皇、つまり第87代・四条天皇は、寛喜3年2月12日(ユリウス暦1231年3月17日※以降西暦は全てユリウス暦で記載)に後堀河天皇の第一皇子として誕生。貞永元年(1232年)に、後堀河天皇の譲位により2歳で即位するが、天皇は幼く、始めは父である後堀河上皇が院政を行うが、その上皇が2年後に死去したため、外戚の九条道家(正室は西園寺公経の娘・綸子。)とともに西園寺公経が事実上政務を行っていた・・・というよりも、朝廷の実権を握ったと言った方が妥当だろう。
西園寺公経は、源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻としていることから、鎌倉幕府と親しく、また、関東申次(かんとうもうしつぎ)に就任して幕府と朝廷との間の調整にも尽力するが、四条天皇が亡くなると公経の孫・姞子を後嵯峨天皇の中宮とし久仁親王(後の後深草天皇)の外籍となっている。
フリー百科事典Wikipediaによると、四条天皇は、"彗星に祟(たた)られるが、備中国・宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により快癒、同寺は勅願寺になった。記録によれば、12歳の時に宮中の人達に対する悪戯を試みて御所の廊下に滑石(かっせき)を撒いたところ、誤って自らが転倒してそのまま崩御したと伝えられている(『百練抄』・『五代帝王物語』)。これについて死因は脳挫傷ではないかという説がある。"・・・としている。前段階の「彗星に祟られるが・・・」云々についての真偽は、良くわからないが、先に紹介した「1239年天変地異年表 中世」を見ても、
1210(承元 4)年9月30日 戌刻西方天市垣第三星付近に彗星出現。光は東を指し、長さ3尺余り。芒気盛長1丈ばかり。主計頭資元勘文を奏し、祈祷・改元を上奏する。祈祷あり。慈円僧正熾盛光法を行う。(吾妻鏡19)(愚管抄 6)11月10日 彗星再度出現。土御門天皇祈祷を行い、夢告ありて順徳天皇に譲位を行い25日受禅。(愚管抄 6)
1222(貞応 1)年8月2日 彗星戌方に見ゆ。軸星大きく半月の如し白色、光芒赤い。1丈7尺余。13日今暁に百日泰山府君(※以下参考に記載の泰山府君について参照)御祭を始める。(吾妻鏡26)
1232(貞永 1)年閏9月8日 彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
などと、彗星出現に怯え、祈祷をしたり、改元をしたりしている。歴史的に、日本だけでなく世界的に、彗星は不吉の象徴とされ、地球の住人に対する天からの攻撃であるとさえ解釈されてきたようで、宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により云々の話があってもおかしくはない。
天変地異年表 を見ても彗星の出現や大地震などの天変地異によって、度々改元をしているが、四条天皇の在位中の元号を見ても、貞永 【(1232年10月14日)- 1233年4月15日 】→天福 【1233年4月15日- 1234年11月5日 】→文暦【 1234年11月5日 - 1235年9月19日 】→嘉禎【 1235年9月19日 - 1238年11月23日】 →暦仁 【1238年11月23日 - 1239年2月7日 】→延応【 1239年2月7日 - 1240年7月16日 】→仁治【 1240年7月16日 - (1242年1月9日) 】と治世途中に改元を繰り返している。
この当時、は承久の乱が起こるなど政治の混乱期でもあるが、大地震や飢饉の発生のほか、1234(文暦1)年12月28日には、霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。1238(暦仁1)年 12月26日 阿蘇山噴火、黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)、1239(延応1)年8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)と本当に大変だったようだ。これだけ次々と多くの天変地異が発生すると当時の人が、凶事に際してその影響を断ち切るために災異改元を繰り返していた気持ちが良くわかる。
後段の四条天皇が「悪戯を試みて御所の廊下で転倒して崩御(仁治3年1月9日【1242年2月10日】 】」については、『増鏡』や『五代帝王物語』に書かれているようであり、以下参考に記載の「後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について- 」の中の原文『増鏡』4.四条天皇崩御を見れば判る。例え、幼帝とはいえ、天皇が滑石の粉を廊下に塗り、女官の転倒するところを見ようとして、自分が転び、打ち所が悪く崩じたなんて、おもしろ半分に書いて残そうという『五代帝王物語』の作者などの気持ちは良くわからないが、四条天皇に跡継ぎがなかったことから、皇位継承をめぐって物議が持ち上がった。朝廷側は順徳天皇の皇子・忠成王を、幕府側は土御門天皇の皇子・邦仁王を擁立したが、結局邦仁王(後嵯峨天皇)になった。この争議を契機に、皇位継承者の選定権は幕府へと移行していった。
今の日本も、世界的な経済危機の中、浅間山や桜島が噴火したり、何時どこで、大地震が発生するかも知れない危険性に脅かされている。地震大国日本は、日本での科学的な気象観測も地震の予知のために始まったといわれている。そのことは、以前にこのブログ2月16日は、「天気図記念日」でも書いたが、1239年 中世の地震発生状況などを見ていると、現代の者でもぞっとするよね。クワバラ、クワバラ・・・。
私など、阪神大震災で大変な目に会ったので、もう、2度と大きな地震に遭遇したくない・・・。しっかりと、仏さまに、祈願しておこう。
画像は、コホーテク彗星 1974年。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Category:日本の元号 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
五代帝王物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E7%89%A9%E8%AA%9E
鎌倉時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3
聚史苑
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/index.html
和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦、ユリウス日などの相互変換を行うWEBツール 【換暦)】
http://maechan.net/kanreki/
東鑑
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
吾妻鏡入門
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma00-00mokuji.html
[PDF] 自然現象記録媒体としての中世史料『吾妻鏡』の特性分析
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P111-120.pdf
後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/index.htm
彗星- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%97%E6%98%9F
泰山府君について
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/taizanhu.html
延応の時代と言えば、中世前期・鎌倉時代(1185年頃~1333年)にあたる。
日本の歴史上は、源頼朝が鎌倉に武家政権(幕府)を創設し、鎌倉幕府は、朝廷と並んで全国統治の中心となり、本格的な武家政権による統治が開始した。延応の時代の天皇は第87代天皇・四条天皇。鎌倉幕府将軍は第4代藤原頼経、執権は北条泰時。源氏の将軍が3代の源実朝で途絶え(建保7年1月27日【ユリウス暦1219年2月13日】死亡)てからは、執権が幕府の実権を握るようになっていた。
鎌倉時代に成立した日本の歴史書『吾妻鏡』(また『東鑑』)は、鎌倉幕府の関係者によって編纂されたと考えられている編年体歴史書であり,治承4年(1180)4月から文永3年(1266)7月までを扱っており、武家政権や社会の動きを日記形式をとり、編纂者が幕府の記録や公家や武家の日記、寺社の記録をもとに後に編纂したものと考えられている。ここには、この当時実に多くの地震その他天変地異(天空と地上に起る異変。大規模な自然災害もこれに含む)が発生していたことも記録されている。(以下参考に記載のHP「東鑑」の「1239年 【暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥】」、及び、「1240年 【延應2年7月16日 改元 仁治元年 庚子】」を参照。なお、本文日付、2月7日 の横にある、 『百錬抄』は 武家方の『吾妻鏡』とは対照的に、京都中心の記録で、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書であり、『平戸記』(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記)。
それでは、どのような天変地異があったかは、以下参考に記載のHP「聚史苑」を見ると良くわかるが、1239年の部分だけを抜粋すると伊かのようである。
1239(延応 1)年
1月 2日 戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
1月 4日 彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
1月 8日 天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
1月15日 評定始、彗星について論じる。17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
1月18日 彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
1月26日 戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
2月 6日 夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
2月 7日 天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
4月16日 大地震。(吾妻鏡33)
8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)
11月12日 大地震。(吾妻鏡33)
その他の状況は、ここ→1239年天変地異年表 中世(A.D.1192~1602)のところを参照。
この時の天皇、つまり第87代・四条天皇は、寛喜3年2月12日(ユリウス暦1231年3月17日※以降西暦は全てユリウス暦で記載)に後堀河天皇の第一皇子として誕生。貞永元年(1232年)に、後堀河天皇の譲位により2歳で即位するが、天皇は幼く、始めは父である後堀河上皇が院政を行うが、その上皇が2年後に死去したため、外戚の九条道家(正室は西園寺公経の娘・綸子。)とともに西園寺公経が事実上政務を行っていた・・・というよりも、朝廷の実権を握ったと言った方が妥当だろう。
西園寺公経は、源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻としていることから、鎌倉幕府と親しく、また、関東申次(かんとうもうしつぎ)に就任して幕府と朝廷との間の調整にも尽力するが、四条天皇が亡くなると公経の孫・姞子を後嵯峨天皇の中宮とし久仁親王(後の後深草天皇)の外籍となっている。
フリー百科事典Wikipediaによると、四条天皇は、"彗星に祟(たた)られるが、備中国・宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により快癒、同寺は勅願寺になった。記録によれば、12歳の時に宮中の人達に対する悪戯を試みて御所の廊下に滑石(かっせき)を撒いたところ、誤って自らが転倒してそのまま崩御したと伝えられている(『百練抄』・『五代帝王物語』)。これについて死因は脳挫傷ではないかという説がある。"・・・としている。前段階の「彗星に祟られるが・・・」云々についての真偽は、良くわからないが、先に紹介した「1239年天変地異年表 中世」を見ても、
1210(承元 4)年9月30日 戌刻西方天市垣第三星付近に彗星出現。光は東を指し、長さ3尺余り。芒気盛長1丈ばかり。主計頭資元勘文を奏し、祈祷・改元を上奏する。祈祷あり。慈円僧正熾盛光法を行う。(吾妻鏡19)(愚管抄 6)11月10日 彗星再度出現。土御門天皇祈祷を行い、夢告ありて順徳天皇に譲位を行い25日受禅。(愚管抄 6)
1222(貞応 1)年8月2日 彗星戌方に見ゆ。軸星大きく半月の如し白色、光芒赤い。1丈7尺余。13日今暁に百日泰山府君(※以下参考に記載の泰山府君について参照)御祭を始める。(吾妻鏡26)
1232(貞永 1)年閏9月8日 彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
などと、彗星出現に怯え、祈祷をしたり、改元をしたりしている。歴史的に、日本だけでなく世界的に、彗星は不吉の象徴とされ、地球の住人に対する天からの攻撃であるとさえ解釈されてきたようで、宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により云々の話があってもおかしくはない。
天変地異年表 を見ても彗星の出現や大地震などの天変地異によって、度々改元をしているが、四条天皇の在位中の元号を見ても、貞永 【(1232年10月14日)- 1233年4月15日 】→天福 【1233年4月15日- 1234年11月5日 】→文暦【 1234年11月5日 - 1235年9月19日 】→嘉禎【 1235年9月19日 - 1238年11月23日】 →暦仁 【1238年11月23日 - 1239年2月7日 】→延応【 1239年2月7日 - 1240年7月16日 】→仁治【 1240年7月16日 - (1242年1月9日) 】と治世途中に改元を繰り返している。
この当時、は承久の乱が起こるなど政治の混乱期でもあるが、大地震や飢饉の発生のほか、1234(文暦1)年12月28日には、霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。1238(暦仁1)年 12月26日 阿蘇山噴火、黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)、1239(延応1)年8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)と本当に大変だったようだ。これだけ次々と多くの天変地異が発生すると当時の人が、凶事に際してその影響を断ち切るために災異改元を繰り返していた気持ちが良くわかる。
後段の四条天皇が「悪戯を試みて御所の廊下で転倒して崩御(仁治3年1月9日【1242年2月10日】 】」については、『増鏡』や『五代帝王物語』に書かれているようであり、以下参考に記載の「後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について- 」の中の原文『増鏡』4.四条天皇崩御を見れば判る。例え、幼帝とはいえ、天皇が滑石の粉を廊下に塗り、女官の転倒するところを見ようとして、自分が転び、打ち所が悪く崩じたなんて、おもしろ半分に書いて残そうという『五代帝王物語』の作者などの気持ちは良くわからないが、四条天皇に跡継ぎがなかったことから、皇位継承をめぐって物議が持ち上がった。朝廷側は順徳天皇の皇子・忠成王を、幕府側は土御門天皇の皇子・邦仁王を擁立したが、結局邦仁王(後嵯峨天皇)になった。この争議を契機に、皇位継承者の選定権は幕府へと移行していった。
今の日本も、世界的な経済危機の中、浅間山や桜島が噴火したり、何時どこで、大地震が発生するかも知れない危険性に脅かされている。地震大国日本は、日本での科学的な気象観測も地震の予知のために始まったといわれている。そのことは、以前にこのブログ2月16日は、「天気図記念日」でも書いたが、1239年 中世の地震発生状況などを見ていると、現代の者でもぞっとするよね。クワバラ、クワバラ・・・。
私など、阪神大震災で大変な目に会ったので、もう、2度と大きな地震に遭遇したくない・・・。しっかりと、仏さまに、祈願しておこう。
画像は、コホーテク彗星 1974年。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Category:日本の元号 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
五代帝王物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E7%89%A9%E8%AA%9E
鎌倉時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3
聚史苑
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/index.html
和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦、ユリウス日などの相互変換を行うWEBツール 【換暦)】
http://maechan.net/kanreki/
東鑑
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
吾妻鏡入門
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma00-00mokuji.html
[PDF] 自然現象記録媒体としての中世史料『吾妻鏡』の特性分析
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P111-120.pdf
後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/index.htm
彗星- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%97%E6%98%9F
泰山府君について
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/taizanhu.html