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今日(6月13日)は明智光秀の「三日天下」が終わった日
1582(天正10)年6月13日、 山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。
1582(天正10)年、中国地方攻略中の羽柴秀吉からの救援依頼を受けた織田信長は、自ら出陣をすることを決め、側近のものと京都・本能寺に宿泊した。明智光秀も出陣を命ぜられ、丹波・亀山城を出発したが、出陣の途上の6月2日早朝、反転して、主君である織田信長の宿泊先である京都・本能寺を急襲し、信長を自害に追いやった。これを「本能寺の変」と呼ぶ。なお、「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、後年、頼山陽が記した言葉だそうである。
当時、織田軍団の武将は各地でそれぞれの敵と交戦中であり、光秀はその隙を突いたのである。変を知った秀吉は、備中高松城を水攻めにしていたが、素早く毛利家と講和して、京都に引き返し山崎の戦いで光秀を破った。おりしも、境に滞在していた徳川家康は光秀の手を辛くも逃れ、伊賀を経て本国に戻り光秀を討とうとしたが、秀吉に遅れをとった。このことによって、秀吉は信長の後継者としての地位を一歩踏み出したことになる。
当時天下統一間近であった織田信長を倒した光秀は、そのまま日本の覇者になるはずであった。しかし、京都を押さえた光秀だったが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の光秀への対応は冷たいものであった。そしてみずからの新政権の統制を整備する間も無く、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、変を知って、急遽、引き返してきた羽柴秀吉の軍と山崎で戦うが、秀吉には主君の仇を討つとの正義があるが、主君信長を殺した光秀に付く信長旧臣は少なく、羽柴軍との兵数差を覆す事ができずにあっけなく敗れている。
光秀は山崎の戦いに敗れ、同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民の手にかかり殺されたとされている。光秀・享年55歳。
それでは、光秀が秀吉に勝利していたらどうなっていたか・・・?もし、光秀が秀吉に勝利していても、いずれは誰かに同じ様に裏切られて殺され、天下統一の偉業は出来なかっただろう。
ただ、前に、光秀が殺されたと「される」と書いたが、このように非断定的であるのは、光秀は落ち延びる最中に小栗栖で落ち武者狩りに遭遇して討ち取られたと言われるが”大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?"又、秀吉が光秀の首を確認したのは4日後のことであり、”光秀のものとされる首が夏(西暦7月)の暑さで著しく腐敗し本当に光秀かどうか確かめようがなかったこと ”などの点から光秀の死に疑問符が付くからだそうである。
このようなことが、徳川家康の相談役である”南光坊天海が、実は明智光秀だったのではないか?”という異説にまでつながっている。勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)の日記の一部「天正十年夏記」によれば、光秀の首はその領民が拾い、晴豊が秀吉側に提出したとしているが、晴豊は、同じ「天正十年夏記」に堅田で捕らえられ京中を引き回されている斎藤利三を見て、信長打倒の談合の相手、と述べているように「本能寺の変」の共同謀議者とも見られ、したがって晴豊の行動は、光秀を死んだことにして守ろうとした行為にほかならないという。そうとは言え、光秀がその後も生きつづけたという可能性は低く、妙心寺に残る伝承から、そこで自害した可能性が高いようだ。
ただ、南光坊天海=明智光秀とする説には、多少無理があるようだが、天海が明智秀満(光秀の子)と同一人物とされる説もあるようで、この方はかなり有望だそうである。それには色々理由があるそうで、そのことは、以下参考の「明智光秀-Wikipedia」などを見られると良い。
光秀が主君である信長を何故倒したのか・・・?についても、○長年の恨み説、○光秀が天下を取りたかったという野望説、○信長に対する恐怖心説、○徳川家康や豊臣秀吉を主に、織田家を取り巻く諸将が黒幕という説など諸説あるが、近年、立花京子氏が晴豊の「天正十年夏記」等をもとに各種論文で指摘しているように、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であった可能性が極めて高いという。その明瞭な論理にもかかわらず、その結論を努めて嫌う傾向は、この問題が邪馬台国と同様政治的になお微妙な状況にあるからであろうという。
兎に角、光秀には天下統一の偉業は達成出来なかったが、もし、光秀の子が逃げ延びて、家康の天下統一を助けたというのなら、秀吉に対する仇討ちをもしたことになるよね。
『三日天下』と言う言葉がある。明智光秀が、6月2日、本能寺の変で織田信長を倒してから僅か13日で豊臣秀吉に倒された出来事に因んで「三日天下」と呼ぶようになったが、「三日」というのは僅かの間という意味であり、明智光秀が天下を取った期間が短かったことを指して言う。又、転じて、極めて短い間しか権力や地位を保てないことをいうようになった。
今年(2006年05月14日、日本ハムは横浜札幌ドームで3―4で負けた。接戦を落とし連勝が3で止まると、夜には西武勝利の一報が届いた。12日に単独首位に立ってから3日。打線が投手陣を援護できず、“三日天下”で首位の座から陥落した。・・・これなんか、あちこちの新聞で揶揄されていたが本当に3日間だけの天下だったね~。
『三日天下』と同義の言葉として『三日坊主』と言うのがある。もともとは、出家してはみたが、寺の修行のきつさに堪えられず、すぐに辞めてしまうということであったが、転じて、飽き易くて、何をしても長続きしないこと。また、その人。・・・をいうが・・・これは、私に当てはまりそうだな~・・・。(×_×)
(画像は、明智光秀画像。本徳寺蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
資料 本能寺の変
http://www.sky.sannet.ne.jp/kyoshio/HJ/index.html
明智光秀-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
あの人の人生を知ろう~明智 光秀
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.html
立花京子氏の朝廷黒幕説
http://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/hon-nohji/fault/3.htm
信長と十字架』(立花京子著、集英社新書)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~koshi/syohyou/syohyou05.htm
1582(天正10)年6月13日、 山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。
1582(天正10)年、中国地方攻略中の羽柴秀吉からの救援依頼を受けた織田信長は、自ら出陣をすることを決め、側近のものと京都・本能寺に宿泊した。明智光秀も出陣を命ぜられ、丹波・亀山城を出発したが、出陣の途上の6月2日早朝、反転して、主君である織田信長の宿泊先である京都・本能寺を急襲し、信長を自害に追いやった。これを「本能寺の変」と呼ぶ。なお、「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、後年、頼山陽が記した言葉だそうである。
当時、織田軍団の武将は各地でそれぞれの敵と交戦中であり、光秀はその隙を突いたのである。変を知った秀吉は、備中高松城を水攻めにしていたが、素早く毛利家と講和して、京都に引き返し山崎の戦いで光秀を破った。おりしも、境に滞在していた徳川家康は光秀の手を辛くも逃れ、伊賀を経て本国に戻り光秀を討とうとしたが、秀吉に遅れをとった。このことによって、秀吉は信長の後継者としての地位を一歩踏み出したことになる。
当時天下統一間近であった織田信長を倒した光秀は、そのまま日本の覇者になるはずであった。しかし、京都を押さえた光秀だったが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の光秀への対応は冷たいものであった。そしてみずからの新政権の統制を整備する間も無く、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、変を知って、急遽、引き返してきた羽柴秀吉の軍と山崎で戦うが、秀吉には主君の仇を討つとの正義があるが、主君信長を殺した光秀に付く信長旧臣は少なく、羽柴軍との兵数差を覆す事ができずにあっけなく敗れている。
光秀は山崎の戦いに敗れ、同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民の手にかかり殺されたとされている。光秀・享年55歳。
それでは、光秀が秀吉に勝利していたらどうなっていたか・・・?もし、光秀が秀吉に勝利していても、いずれは誰かに同じ様に裏切られて殺され、天下統一の偉業は出来なかっただろう。
ただ、前に、光秀が殺されたと「される」と書いたが、このように非断定的であるのは、光秀は落ち延びる最中に小栗栖で落ち武者狩りに遭遇して討ち取られたと言われるが”大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?"又、秀吉が光秀の首を確認したのは4日後のことであり、”光秀のものとされる首が夏(西暦7月)の暑さで著しく腐敗し本当に光秀かどうか確かめようがなかったこと ”などの点から光秀の死に疑問符が付くからだそうである。
このようなことが、徳川家康の相談役である”南光坊天海が、実は明智光秀だったのではないか?”という異説にまでつながっている。勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)の日記の一部「天正十年夏記」によれば、光秀の首はその領民が拾い、晴豊が秀吉側に提出したとしているが、晴豊は、同じ「天正十年夏記」に堅田で捕らえられ京中を引き回されている斎藤利三を見て、信長打倒の談合の相手、と述べているように「本能寺の変」の共同謀議者とも見られ、したがって晴豊の行動は、光秀を死んだことにして守ろうとした行為にほかならないという。そうとは言え、光秀がその後も生きつづけたという可能性は低く、妙心寺に残る伝承から、そこで自害した可能性が高いようだ。
ただ、南光坊天海=明智光秀とする説には、多少無理があるようだが、天海が明智秀満(光秀の子)と同一人物とされる説もあるようで、この方はかなり有望だそうである。それには色々理由があるそうで、そのことは、以下参考の「明智光秀-Wikipedia」などを見られると良い。
光秀が主君である信長を何故倒したのか・・・?についても、○長年の恨み説、○光秀が天下を取りたかったという野望説、○信長に対する恐怖心説、○徳川家康や豊臣秀吉を主に、織田家を取り巻く諸将が黒幕という説など諸説あるが、近年、立花京子氏が晴豊の「天正十年夏記」等をもとに各種論文で指摘しているように、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であった可能性が極めて高いという。その明瞭な論理にもかかわらず、その結論を努めて嫌う傾向は、この問題が邪馬台国と同様政治的になお微妙な状況にあるからであろうという。
兎に角、光秀には天下統一の偉業は達成出来なかったが、もし、光秀の子が逃げ延びて、家康の天下統一を助けたというのなら、秀吉に対する仇討ちをもしたことになるよね。
『三日天下』と言う言葉がある。明智光秀が、6月2日、本能寺の変で織田信長を倒してから僅か13日で豊臣秀吉に倒された出来事に因んで「三日天下」と呼ぶようになったが、「三日」というのは僅かの間という意味であり、明智光秀が天下を取った期間が短かったことを指して言う。又、転じて、極めて短い間しか権力や地位を保てないことをいうようになった。
今年(2006年05月14日、日本ハムは横浜札幌ドームで3―4で負けた。接戦を落とし連勝が3で止まると、夜には西武勝利の一報が届いた。12日に単独首位に立ってから3日。打線が投手陣を援護できず、“三日天下”で首位の座から陥落した。・・・これなんか、あちこちの新聞で揶揄されていたが本当に3日間だけの天下だったね~。
『三日天下』と同義の言葉として『三日坊主』と言うのがある。もともとは、出家してはみたが、寺の修行のきつさに堪えられず、すぐに辞めてしまうということであったが、転じて、飽き易くて、何をしても長続きしないこと。また、その人。・・・をいうが・・・これは、私に当てはまりそうだな~・・・。(×_×)
(画像は、明智光秀画像。本徳寺蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
資料 本能寺の変
http://www.sky.sannet.ne.jp/kyoshio/HJ/index.html
明智光秀-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
あの人の人生を知ろう~明智 光秀
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.html
立花京子氏の朝廷黒幕説
http://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/hon-nohji/fault/3.htm
信長と十字架』(立花京子著、集英社新書)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~koshi/syohyou/syohyou05.htm
天海が明智光秀だったと言うのは義経が蒙古に渡ってジンギスカンになったと言うのと同じで、殺したくない人が居たのでしょうね。天海のほうがジンギスカンよりまだ可能性が高いと思いますが。
奇しくも今日は義経の首実検をした日ですね。
そしてもう一つ、近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併話が報道された日。
そうそうもう一つ、僕の誕生日。
家人も誕生日です。昨日、社会保険事務所へ年金の手続きに行って、きました。これで、家人も僅かですが年金がもらえるようになり、ほくほくしています。
帰りに今日の誕生日祝いを兼ねてお昼に少し贅沢をしました。今までで、昨日の家人は、最もご機嫌良刈田です。
頼朝は、義経の首実験をすることもなく、江ノ島の北にあるこの地に埋めたとか。
1号線の傍らにあります。
筒井順慶にからんで「元の木阿弥」と「洞が峠を決め込む」の二つも故事をもっているというのは珍しいですね。
ところで、滝廉太郎作曲「ハトぽっぽの碑」が浅草寺境内にあります。