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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅱ)

2010-03-22 | 歴史
明治20年代初頭、鉄道、紡績、鉱山、重工業などの殖産企業が勃興するが、飛躍的な日本の資本主義化の礎になったのが、過酷な労働ときびしい階層制的低賃金体系による労働者の酷使にあったことは忘れてはならない。当時の日本の主力輸出産業である紡績産業に農村から大量に狩り出した婦女子労働者の酷使があったことついては「女工哀史」でよく知られているところであるが、三井や三池それ以前の、元自民党総裁であり第92代総理大臣であった麻生太郎の曽祖父・麻生 太吉の創業した麻生炭鉱などの炭鉱労働の過酷さも言語を絶するものであったことが知られている。
江戸後期からの農村構造の変質・崩壊を背景に、没落小農・貧農・小作人農の口減らしとして、喰わんが為のやむにやまれぬ手段としてそのような劣悪な労働条件で働かされていたのであった。当時の農民労働者の悲惨な就労の状態は何も彼らだけの特殊なものではなかった。明治の日本の産業革命に伴なって、資本主義化が進み、都市、特に東京・大阪などの大都市に労働人口が集中していった。そうした農村部からの流入人口が直ぐに工場労働者として処遇されたわけではない。彼らは、いわば生きるために無理矢理流出してきたので都市の下層社会に集住せざるを得なかった。
当時の民権新聞として鳴らした『朝野新聞』(ちょうやしんぶん。Yahoo!百科事典参照)の1886(明治19)年3月25日から同年4月8日まで8回にわたって連載された記事に「東京府下貧民の真況」があり、冒頭で「東京府下にては細民..の飢凍を嘆くもの、日々に増すとこそ聞け減ると云ふことの嘗て耳に入らず」と述べたあとすぐに、「貧民..の最も多く巣居を構へたるは、四ツ谷鮫ヶ橋(さめがばし)町若しくは麻布谷町(現:東京都港区にあった谷町)及び箪笥町(たんすまち。新宿区)等なり」と記している。この記事では下層の貧しい人々「細民」を「貧民」として把握しており、その「「貧民」の職業は人力車挽(ひき)がもっとも多く、それに次いで左官や土方などの手伝..がおり、最底辺に紙屑拾い、乞食が存在するとされているようだ。そして、ここでは、工場労働者はまったく存在しないことはもちろん、左官(職人)や土方が「貧民」とは区別されているという(以下参考の※:「【PDF)】産業革命期日本における重工業大経営労働者の「都市下層民」的性格について(下)」参照)。
松原五郎の『最暗黒の東京』(明治30年刊)や、横山源之助『日本の下層社会』(明治32年刊)もそうした地域を貧民窟(スラム(slum))と名付けた。横山は、当時の大貧民窟といわれた四谷鮫ヶ橋・下谷万年町(上野駅のそば)・芝新網町(港区JR浜松町駅近く)の様子をルポルタージュし、貧民としかいいようのない彼らの労働・生活状態を明らかにしている。その基本的な性格は日露戦争(1904=明治37年2月6日 ~1905年=明治38年9月5日)後も引き続いていたことは、1911(明治44)年、以降に内務省地方局が調査・発表した『細民調査統計表』(明治44年の主要調査対象は東京・下谷・浅草地域)を見れば、判別し、それによると、都市下層民(細民=貧民)の住居は平屋建て普通長屋の4畳半1室または3畳1室で、夫婦及び家族1~2人で居住していた。そして、都市雑業層と呼ばれる彼らの収入は女房の稼ぎを含めても日清戦争(1894=明治27年7月~1895=明治28年4月)後期と同水準のその日暮らしで松原や、横山が観察したように『残飯』を相変わらず必要としたという。冒頭の画像は、東京四谷の南側低地にあったという鮫ケ橋の貧民窟で、風俗画報明治36年10月25日号からのもの(週間朝日百科「日本の歴史」108号より)。
また、以下参考の※:「最暗黒の東京・下層社会を行く」には、「朝野新聞」に掲載された記事の中で、人力車夫の生活ぶりについて次のように書かれていることが紹介されている。
「50過ぎの人力車の車夫。不景気と駅への立ち入り制限で、朝から夜の12時まで働くも、収入は1日2銭のみ。1日5銭の借車代も払えない。妻は刷毛(はけ)作りを内職にしていて、1日5~6銭の手間賃収入。これではお粥もすすれない。」・・・・・・と。
馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業であるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったらしい。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
先にあげた地域については、明治初期から中期にかけてスラムといわれた多くの地域から、代表として抜き出したものにすぎず、横山は、東京の下層社会25年の変化を、「貧街十五年間の移動」(明治45年)で 『…十数年前までは、東京の貧民窟といえば、「万年町」「鮫ヶ橋」「新網」の三ヶ処にトドメを指したものだが今はそうでない、比較的市の中央を離れて、本所、深川の場末に移った。豊島、葛飾、荏原等のに襤褸(ぼろ)の世界は形作られている』と書いている。
市街地の区画整理も行なわれ、同時に種々の取締も行なわれていくが、それで貧民窟=都市下層集住地がなくなったわけではなく、“あらたな貧民窟=都市下層集住地が、長屋と共に、下谷、浅草、本所、深川や、その周辺の入谷、日暮里、巣鴨、千住、大塚、はてまた新宿、豊島、葛飾などの郊外にも瞬く間に増殖して行った”という(以下参考の※:「笠井和明著作選」底辺下層に組み込まれた労働者がたどる最下層の還流点参照)。下層社会の女性の救済を訴える立場から、横山は、晩年の樋口一葉のもとを何度か訪ね、親交を結んだというが、樋口一葉の住んでいたことのある下谷龍泉寺町のような小規模な細民街まであげると、その合計はじつに70数カ所。下町から山手まで万遍なくスラムが見うけられたというのが明治中期の東京の実相だったようだ。
明治になっての居留地の外国人住宅や銀座煉瓦街の景観は,住民にとって、幕末開港より20余年後に出現した日本のなかの“異国”であり、文明開化の象徴でもあったがそれは当時の日本の表の顔であった。
今は京都の町などの観光用の人力車を、若い人達が観光客相手に引いており、その姿がカッコイイ・・・と見られる。明治時代とは雲泥の差、本当に今は良い時代になったものだ。
人力車夫と言えば、私など、福岡県小倉(現在の北九州市)で、荒くれ者で評判だった人力車夫・「富島松五郎(通称無法松)」と、そのよき友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた映画「無法松の一生」を思い浮かべる。1942 (昭和17)年、文学座が舞台化したあと、翌年には、映画「無法松の一生」が主演:阪東妻三郎【富島松五郎】で公開され人気を博した。映画は4回作成されているが、特に有名なのは脚本伊丹万作、監督:稲垣浩によるこの作品とこの戦前の作品が内務省による検閲により松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが10分カットされたためそのリメイク版として、同コンビで、戦後の1958(昭和33)年に作られた三船敏郎主演によるものであろう。
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
この映画のラスト近くで、無法松が夢うつつの中で過去を振り返るシーンが出てくる。映像としては、無法松の顔や、人力車の走行シーンや、祭りの情景などが、走馬灯のように現れては消える。時の流れを人力車の車輪の大写しで効果的に見せた。
侠客の結城が死んだ松五郎の柳行李の中を調べると、吉岡家からもらった数々のご祝儀の品々が手をつけられずに保管されていた。その奥底にあった敏雄と夫人宛の貯金通帳には500円も残されていた。「なんと言う奴だあの男は・・・あの暮らしのなかで・・・」 熊吉は言った。「あいつはそういう男だったんです」
当時の貧民の代表とまでされる人力車の俥夫の悲しいまでに美しい愛。愛・愛と騒いでいる昨今の人達にこのような愛・・・は存在するのだろうか・・・。今の人達の愛とはどういうものをいっているのだろうか?・・とふと考えてしまう。
以下で、夏休みに小倉の祇園太鼓を聞きたいという大学の先生を連れて帰ってきた敏雄と久しぶりに会い、敏雄とその先生を案内しながら祇園太鼓の解説をしていた松五郎が、2人の為に太鼓を打つラストシーン。この映画の名場面が以下で見れる。ちょっと、名画を思い出してみますか・・・。
無法松の一生
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/muhoumatu.htm
(画像左:東京・鮫ケ橋の貧民窟。風俗画報明治36年10月25日号から。国立国会図書館蔵。、週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
※:専売特許条例制定の周辺
http://t4tomita.lolipop.jp/ip/izen.html
※:第一回内国勧業博覧会出品・臥雲辰致の綿紡機復元機の設計
http://www.tcp-ip.or.jp/~ishida96/ih-aichi/report/menboki_fukugen.html
※:青空文庫:作家別作品リスト:No.82作家名: 岡本 綺堂
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html#sakuhin_list_1
※:ジェトロ - 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_x1_d02.html
【PDF)】産業革命期日本における重工業大経営労働者の「都市下層民」的性格について(下)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/569/569-09.pdf
※:笠井和明著作選
http://www.d9.dion.ne.jp/~rojuku/kasaiFolder/kasai.html
※:東 京 街 歩 き:鮫河橋
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Samegabashi/Tky030122.htm
※:最暗黒の東京・下層社会を行く
http://www.tanken.com/hinminkutu.html
※:最暗黒の東京【本紹介】
http://www.rin-5.net/001-250/065-saiankoku-tokyo.htm
日本の自転車税の歴史
http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/history/topix01.htm
自転車の歴史探訪
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi17.html
成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け (壺齋閑話)
http://blog.hix05.com/blog/2008/10/post_792.html
自動車-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A
特許 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%B1
西洋事情 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E4%BA%8B%E6%83%85
旗本退屈男- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E9%80%80%E5%B1%88%E7%94%B7
株仲間 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%AA%E4%BB%B2%E9%96%93
戸長- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%95%B7
女工哀史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B7%A5%E5%93%80%E5%8F%B2
麻生鉱業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E9%89%B1%E6%A5%AD
横山源之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E6%BA%90%E4%B9%8B%E5%8A%A9
小倉祇園太鼓 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A4%AA%E9%BC%93

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