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東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅰ)

2010-03-22 | 歴史
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
明治から大正昭和初期にかけての重要な乗り物の1つであった人力車も都市圏では昭和元年頃、地方でも昭和10年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底(ふってい)・燃料難という事情から僅かに復活したこともあるが、現在では、主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。
その人力車の日本での発明は諸説あり、本当のところはよくわからないが、広辞苑にも、和泉要助鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日朝日百貨 「日本の歴史」106号近代1-⑦博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により明治3年(1870年)に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。冒頭掲載の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたようなものだ。
Wikipedia によれば、和泉要助は筑前国鞍手郡平泉村生まれで、姓は「長谷川」とも表したそうだが、筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めたという。和泉要助は1869(明治2)年東京で西洋から入ってきた馬車を見て、それを人間が引いたらどうなるかと考え人力車を発想し、鈴木徳次郎、高山幸助らと製作。翌・1870(明治3)年4月22日(旧暦3月22日)、東京府に人力車の製造と営業の許可を得て、東京日本橋を拠点に人力車業を開業したという。
この時の条件として“人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨」”あり、この許可をもって彼らを「人力車総行司」とした。つまり、東京府は、人力車を新たに購入し営業をする場合には、この3人の人力車総行司のいずれかから許可をもらうこととしたのだ。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。許可された業者の看板には「御免人力車処」と掲げられていたという。「御免」とは、旗本退屈男の「天下御免の向こう傷!」ではないが、「免許の尊敬語」であり、「お上のお許し」を言っている。
江戸時代には、荷物を運ぶだけに利用されていた車輌が、明治に入り、人が乗るための車輌としての「乗り物」が生み出されたのだが、日本では、それまで一般市民が乗る車がなかっただけに、歩きや駕籠(かご)よりも圧倒的に便利な移動手段であり、人力車の登場は爆発的人気で迎えられ、翌1871(明治4) 年には、人力車は駕籠に変わって、東京府下だけでも1万台を越え、数年後には全国的に普及した。しかし、和泉要助らは、人力車総行司となったものの、人力車普及につれ特許制度の不備も重なり専売としての権利を維持することはできず特権を失ったとようだ。
又、この年、太政官布告第265号によって、
「今般東京府下道路修繕ニ付商売所用大小ノ車取入賃銀百分ノ三ヲ以テ右入費ヘ為差出候間在府ノ諸官員及華士族卒タリ共馬車人力車所持致候者右定額ニ準ジ入費可差出事」
・・として、東京府下において、主として人力車を対象にして車税を徴収し、道路修繕費に当てることを定めている。
明治は、新政府が、欧米列強の植民地化を免れる為に強引に近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代でもあった。新政府は殖産政策に力を入れ、それ故に新技術の開発の促進や役に立ちそうな事業には国なり府県なりが率先して援助を与えていた。
明治開国後、日本にはじめて欧米の特許制度を紹介したのは、福沢諭吉の「西洋事情外編」(1867年)である。しかし、専売特許条例が施行されたのは1885(明治18)年7月1日からのことである。ただし、それ以前の1871(明治4)年には、「専売略規則」(明治4年太政官布告第175号)を制定したものの、1件の出願もなく、1年で廃止されている。理由は、専売権を与えるには、発明の内容があまりにも劣悪だったことと、対応する政府組織も確りしたものが確立していなかった(申請された発明の審査する人材不足など)ためのようだ。
日本での特許制度の誕生をうながしたものとして和泉要助の人力車の発明があげられるが、人力車は明治になってから出来たものではなく、江戸末期には既に東海道を往来していたようであり、人力車の構造は、大八車のようなものであったらしいという。冒頭掲載の人力車と何処がどう違っていたのだろう? 
ひょとしたら、支柱と屋根がなかったぐらいの違いだろうか。しかし、貴族が牛車に乗る以外一切の人の乗車が禁じられていた位であるから、普通の人が乗車するという事は画期的な事であったろう。以下参考に記載の※:「専売特許条例制定の周辺」によれば、【1865(慶応元)年(丑)10月の伺書に次のようなものがあるという。
「本郷五丁目 良七店松兵衛
 右の者儀 近来御用につき道中筋通行の者多く宿々の人足引き足り兼ね 渾賃銭格別価に相成り旅人共の難儀不少候につき 駕篭の代りに小車を造り旅人を乗せ往来致し候宿々も有之候間 右に傲ひ御当地にても小車を造り旅人並諸荷物を乗せ 品川 板橋 四谷 千住 四宿往来其外等にも相用ひ候はば弁利の儀ト存奉候間……(以下略)」・・と。
そしてこれに対し町奉行は、
Γ書面伺の通り相心得 先づ車数五輛を限り製造差免し弥々便利にて差障り候筋も無之候はば其節猶ほ委細取調べ相伺ひ可巾右被仰渡奉承知候」と答えたという。
しかし江戸府内全部で5台の小車では無いに等しく、従って維新になり株(株仲間参照)も何もない状態で人力車が登場した時は、その流行は爆発的なものであった・・と。
ここでは、“和泉要助等が人力車を発明したのは明治8年8月であるが・・“・・としており、発明の年月にちがいがあるのは気になるがそれは、横に置いておいて、東京府役所は発明者等にその製造を許可し、人力車発起人並加入人にその使用を許可し、利益の一部を発明者に渡せとしたが、人力車夫が増えるに従いこの発起人会も統率する能力を失い無意味となってしまったようだ。又、この当時(明治4年)、先にも書いた「専売略規則」が布告されたが、人力車の発明はこの布告以前だったのでその対象とはならかった。以降、東京府は発明者を人力車夫の総行事にしてみたり、又金員を授けたりしたが、度重なる金員の請求と支給に手を焼いたらしく、又、当局も運用ができなかったため1873(明治6)年に和泉要助等に、金2000円の下賜金を付与して打止めとしたという。要するに人力車総行司の権限を失うかわりにその穴埋めの金を支払ったというところか・・。
「専売略規則」を廃止した1873(明治6)年には、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布され、総行司の仕事でもあった車税の取り集め(徴収)や検印などは戸長の手に移ることとなった。尚、この1875(明治8 )年2月20日 「車税規則ヲ定ム」(大政官布告第27号)を発布の上、国税を実施(税率1円)し、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」は廃止されている。
人力車も最初の発明より、その後改良が積み重ねられ、衝撃を和らげる工夫として、座席と車輪の間にバネを入れたり、鉄輪であった車輪はゴムタイヤとなり、質的にも向上してゆくが、1870年代半ばには、東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助は、幌(ほろ)や梶棒、座席の形状、車輪の泥除けなども改良し、性能を高め贅を凝らした現在見るよう人力車を考案し、1877(明治10)年上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に人力車を出品し鳳紋章を受賞し、その多くを中国等に輸出して大きな富を得たそうだ。
しかし、同第一回内国勧業博覧会で、最優秀賞を受賞したのが、信州の臥雲辰致(がうんたつむね)がつくった紡績機械(木綿糸機械)であったが、1873(明治6)年に専売略規則が廃止されて以降、専売免許制度整備について論議はされてきたものの、当時はまだ特許制度が出来ていなかったため、同業者に模造機械をたくさん製造されてしまった。この発明は当時の他の発明品とは異なり、大変優れものであったため、地域産業の振興発展に貢献したものの、発明者にはロイヤリティーも入らず、生活は困窮を極めたそうである(以下参考の※:「第一回内国勧業博覧会出品・臥雲辰致の綿紡機復元機の設計」参照)。このように、折角立派な発明をした発明者になんの特典もなく、模倣をされ損になってしまうのをなくすために、これ以降特許制度の必要性が強く論じられるようになり、日本の本格的な特許制度の誕生をうながした。そして、1884(明治17)年に商標条例が公布されたのに続いて、翌1885(明治18)年4月18日に本格的な特許法である専売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施行された。
明治、大正のころ、重宝された人力車であるが、「半七捕物帳」などで有名な明治の小説家、劇作家である岡本綺堂の随筆にいろいろ登場する。
「御堀端三題」の三 三宅坂には、遭難談として、“明治35年5月1日岡本綺堂が26歳の初夏の出来事として、半蔵門外の堀端を通った京橋に住む知人の家に男の児(こ)が生まれ、この五月が初節句と言うので人力車に乗って、祝物の人形をとどけに行った。その時、三宅坂上の陸軍衛戍(えいじゅ)病院の前に来かかった時、前を走っていた軍医を乗せた車夫が急転回をしたためその車と衝突し顛覆(てんぷく)。前の車の軍医殿も綺堂も地上に投げ出された。そこへその後方から外国人を乗せた二頭立の馬車が来て轢かれたと思った”・・・といったことが書かれている。又「 有喜世新聞の話」には、明治15年頃の話のなかに“ 電車や自動車はなし、自転車も極めて少ないこの時代における交通事故は、馬車と人力車にきまっていた。馬車もさのみ多くはなかったが、人力車が衝突したとか人力車に轢かれたとかいう事故は、毎日ほとんど絶えなかった。”とも書いている(以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.82作家名: 岡本 綺堂」参照)。
まだ、今の時代のように車道が整備されていない中、人力車や馬車が数多く走り回ればそりゃ~人力車の事故も多かったことだろう。
一世を風靡した人力車も、明治中期から自転車が普及していき、又、1882(明治15)年に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として新橋と日本橋の間を結んで営業を開始したのを機に馬車が普及し、日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。1903年(明治36年)8月22日には、東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで東京市内に初めて路面電車(東京電車鉄道【東電】)を誕生させ、品川 - 新橋間を開業した。
東京市内の人力車夫は、この電車鉄道の延長と共に自分等の営業の範囲を狭められ、廃業に追い込まれる者も出てきた。彼らは10月4日、各区の組合で集会を開き、車税の減税を府会議員らに歎願する運動を始めたことが1903(明治36年)年10月16日付万朝報で報じられている。
又、「7月1日から水戸市内に民営乗合自動車が開通したが、これは死活問題だと水戸駅構内の人力車夫が騒ぎ出し、4日には朝から120台の車を休んで一杯機嫌の協議会を開き、書き入れ時の夏だけでも乗合の運転を休止せよとバス経営者に交渉をしたが折り合わず、百余人が店に押しかけて厳談に及んだ。水戸署長の調停で一応納まったが、夜になってますます気勢が上り、水戸署への陳情の帰り、空車を引いてきた男と口論になり、袋叩きにして瀕死の重傷を負わせる事件まで起こしたことが7月6日東京朝日新聞によって報じられているという(朝日クロニクル「週間20世紀」)。随分、荒っぽい話だが、先に、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布され、車税の徴収などが戸長の手に移ることとなった旨書いたが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「碑」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕碑」などと呼んでいるのだろう。


※参考は、東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅱ)に記載しています。

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