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近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』に登場するおさんと茂兵衛が姦通罪で処刑された日

2011-09-22 | 歴史
「おさん、茂兵衛」というのは、江戸時代に実際に京都で起きた今で言うところの不倫事件を脚色した小説、戯曲の登場人物であり、近松門左衛門の浄瑠璃、世話物『大経師昔暦』(だいきょうじむかしごよみ。)に、その実名で登場する。当作は、『堀川波鼓』(ほりかわなみのつづみ。)、『鑓の権三重帷子』(やりのごんざかさねかたびら。)とともに近松三大姦通物といわれている(※1の世話物24作品参照)。
京都・烏丸通の大経師・浜岡権之助(のち意俊〔いしゆん〕)の女房さん(当時19才)と手代の茂兵衛が下女たまの手引きによって密会を重ね、のち、駆け落ちし、3人は丹波国柏原挙田(アグタ)に隠れ住んだものの、天和3年(1683年)8月9日、幕吏(幕府の役人)手下の者に見つけ出され捕縛連行された。奉行所において詮議の末、不義密通(姦通)の罪で、獄(罪人を閉じ込めておく所【獄舎】)に繋がれ、同天和3年9月22日(グレゴリオ暦1683年11月10日)、市中引き回しの上、九条山(三条通り東山につきあたるところ)西麓の粟田口(京の七口の1つ)処刑場において、さんと茂兵衛は(はりつけ)、たまは獄門に処せられた。
『諸式留帳』には、「天和三年十一月 からす丸四条下る大きやうし(大経師)さん 茂兵衛 下女 右三人 町中御引渡し 粟田口にて 磔-さん 茂兵衛 獄門-下女たま」とあり、処刑ののち、5日間、ここで晒された。のちになって粟田口刑場跡からさんと茂兵衛の墓が発見され、山科区大塚西浦町の宝迎寺の墓地に移されたそうだ(※2)。
この実際に起きた事件を題材に、いち早く小説に取り上げたのは、当時浮世草子作家として地位を築いていた井原西鶴であり、この姦通事件のあった3年後の貞享3年(1686年) には、『好色五人女』(5巻5冊)の「中段に見る暦屋物語(おさん茂右衛門)」として書き上げていた(茂右衛門、実説は茂兵衛)。それから33 年後、近松が、その三十三回忌を当て込んで近松の『暦屋物語』(※3参照) を脚色し、『大経師昔暦』の題で、人形浄瑠璃として書き上げ、正徳5年(1715年)春ごろ大坂・竹本座(コトバンク参照)で初演をし大ヒットした。
同題材を、おさんの積極的な恋情と、それにつき動かされていく茂兵衛(近松では茂右衛門)・・・といったおさんの愛欲本位に扱った西鶴の『好色五人女』に対し、近松は、姦通の動機を、おさんが夫意俊(いしゅん)の下女お玉(近松ではおりんの名で出てくる)への邪恋を懲らしめるため、お玉と寝所を取り替えたことによる、暗闇の中での人違いでおきた偶然の過ちとし、事件がおさんの両親、お玉の伯父赤松梅竜(ばいりゅう)など、周囲に及ぼす悲劇を克明に描いている点に特色がある。又、二人が京の町を引き回された後、処刑されようとするとき、おさんの父母の菩提寺・黒谷の東岸和尚が駆けつけ、衣の徳によって二人の命を救う・・・・といった結末になっているのは、この作品が年忌浄瑠璃として作られたものだからだろう。
当作品は元文5年(1740年)近松門左衛門の十七回忌追善の切浄瑠璃として、『恋八卦柱暦』(原本本文は※4:「近代デジタルライブラリー」でみることが出来る)と改題して上演され、その後もっぱらこれが上演され、さらに増補され、歌舞伎や浄瑠璃で上演された。
近代以降は新解釈脚本も多くつくられ、第二次世界大戦後は、『大経師昔暦』を、下敷きにした作家の川口松太郎の小説(オール読物所載「おさん茂兵衛」。後に『近松物語』と改題。1954年)が劇化され新派(コトバンク参照)の当り狂言になり、続いて、当小説を、依田義賢が脚本を執筆し、溝口健二監督が『近松物語』と題して映画化した(※5、※6参照)。
冒頭掲載の画像が、1954(昭和29)年11月公開の大映映画『近松物語』のポスターである(Wikipediより)。
舞台は暦発行の権利を持つ大経師の家。主人の以春は金にも厳しいが、女狂いも絶えず、そんな夫を諌めるつもりで女中部屋に寝ていたおさんと、お玉に礼を言いに来た茂兵衛が鉢合わせになり、そこへ主人がやって来るという、偶然が誤解を招き、二人の逃避行が始まる。逃避行の間に、二人は真実の愛に目覚め至福のまま、磔の刑場に運ばれて行く。
茂兵衛役の長谷川一夫香川京子(おさん)の息もぴったり合って、二人の愛を知った演技に説得力がある。それにしても、進藤英太郎(大経師以春)の憎たらしい演技は天下一品である。
1950年代は日本映画の黄金期であり、当時映画を見るのは、時代の最先端の情報を全身に浴びているような充実感があった。特に「近松物語」が公開された1954(昭和29)年は質的にも日本映画史上のひとつのピークだったといえる。黒澤明の「七人の侍」(ベネチア国際映画祭銀賞)はこの年に公開され、世界のトップクラスの監督にも大きな影響を与えた。前年の衣笠貞之助は、「地獄門」がこの年カンヌ映画祭でグランプリを得た。
これらに負けない素晴らしい映画を作ったのが溝口健二監督である。
彼は、ベネチア国際映画祭で、前々年の「西鶴一代女」(☆)、前年の「雨月物語」(☆)に続いて「山椒大夫」(☆)で銀賞を受賞と、3年連続で入賞するという快挙を成し遂げている。そして、この年に「近松物語」(☆)に公開した。
余談だがこの年には、木下恵介の「二十四の眸」が大ヒットした。十五年戦争の被害をしみじみと語ったこの映画は全国民に感銘の渦を巻き起こし、戦争・再軍備への警鐘をならした。又、特撮怪獣映画「ゴジラ」の第1作もこの年だが、単に怪獣映画ではなく、水爆実験反対と言うメッセージが含まれていた。
このころスターで輝いていた女優は、「二十四の眸」(☆)の高峰秀子、美人の鏡と仰ぎ見られていた原節子(「山の音」など)、それに、「近松物語」(おさん)や、「山椒大夫」(安寿役)などで清純さと懸命さを与えていた香川京子であった。
当時、時代劇では、いかにも強そうなスターたちが、英雄豪傑を演じ、ラブシーンなど抜きで、チャンバラを演じていた。その代表が、「七人の侍」の三船敏郎であるが、歌舞伎ゆずりの和事演技で成熟に達していたのが長谷川一夫である。お子様向き連続時代劇で人気上昇を続けていたのは中村(萬屋)錦之助であった。そして、この頃の悪役の代表が、進藤英太郎であり、「山椒大夫」での進藤演ずる山椒大夫のいかにも憎々しげな演技は、今でも強烈に私の脳裏にも焼きついているが、「近松物語」でも、大経師以春で、その憎らしさを思う存分発揮している。
そんな中で、関西歌舞伎の和事の女形だった長谷川も剣をもって華麗なチャンバラを演じていたが、余り強そうでないので、子供たちには人気は高くなく私も余り見ていなかったが、当たり役となった「銭形平次」などは面白かったので殆ど見ている。
だから彼のファンの中核をなしたのは、女性層であった。二枚目スターとは、本来、歌舞伎の言葉で、ラブシーンのある美男子のこと(※8参照)。一見して頼りないくらいの優男が演じ、立ち回りは殆どやらない。そんな二枚目の典型のような長谷川の人気の源は、相手役の女性との粋で色香の匂うやり取りだ。恋愛がらみの情緒纏綿(じょうちょてんめん。=情緒が深くこまやかなさま。情緒が心にまつわりついて離れないさま)たる演技はお手のもの。
彼は、映画館の客席の女性がみんな自分にウインクされたと思い込むような演技を心がけたというが、そんな、彼の“流し目”は誰も真似の出来ない色気たっぷりのものである。多くの話題作があるが、大衆映画一筋だった彼が例外だが、本格的な芸術作品に取り組んだのがこの溝口の「近松物語」である(今までの映画のところで、☆印のあるものは、以下参考の※9:「懐かしの映画館 近松座」で名場面のワンシーン入り解説があるので参照されるとよい。
この映画「近松物語」は、近松の浄瑠璃「大経師昔暦」をベースに、西鶴の「好色五人女」の中の「中段に見る暦屋物語(おさん茂右衛門)」を組み合わせてよりリアルな感じ(人間の真実を描いたもの)に仕上げられている。
西鶴と近松の作品の扱い方などは先に簡単に触れたが、以下参考の※10:「国立劇場二月文楽・・・「大経師昔暦」 - 熟年の文化徒然雑記帳」を見ると分かり易いだろうから、これから映画「近松物語」のDVDなど見るのであれば、その違いを知っておくのも良いだろう。
この映画の結末は、映画が始まって直ぐのシーンとそれを眺めながらの登場人物の会話で暗示されている。

ある日、縛られ馬に乗せられ不義密通の罪で刑場に運ばれていく一組の男女が町を通り過ぎる。
その時、商家からその光景を眺める以春は、傍らの妻に言った。

「これから磔にかかって、晒し者にされんのや。本人だけやない。家の恥や。女子のすることは恐ろしい。武家が不義者を成敗することができなんだら、家は取り潰しや」
「あんなあさましい目に遭うくらいなら、いっそご主人に討たれてしまった方がええのに・・・」
大経師の若い妻、おさんがそれを眺めていた。そんな夫婦の会話から離れたところで、女中たちの正直な反応がある。
「男はどんな淫らな真似もできるのに、女子も同じことしたら、何で磔になるのやろ。えらい片手落ちの話やな」とお玉。
「人を殺したり、お金盗んだのと違うのに」、「ほんまに、あんなの可哀想や!」と別の女中達。
「それは可哀想や。気の毒やと思うけど、人の道はずしたらいかん。それが御政道の決まりや」・・・女中たちに不満をぶつけられて、茂兵衛はそう答える。

この時、この光景と同じようなことが自分たち、大経師の家で起こるとは誰もが、想像だにしなかっただろう・・・。
現代で言う不倫は、古くは姦通、不義密通といった。今の世と違って、姦通罪は、立派な犯罪行為であり、その罪は死罪と相場が決まっていた(※11 )。
特に問題となったのは人妻が他の男と関係を持った場合であり、夫が武士である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認められており、姦通の現場を見つけたら、夫はこれを成敗しても罪に問われることはなく、逃げたら追いかけて討ち果たしても良い。と言うよりも武士にとってはそれが義務でもあった。
しかし、本当に妻を斬り殺してしまうのは可哀想だとか、大騒ぎして「御家の恥」を世間に知られると恥になるので、穏便に済ますことも多かったようだ。尚、正妻のある男が他の婦女と私通(夫婦でない男女がひそかに肉体関係をもつこと。密通)しても姦通罪は成立しない。
姦通罪は、夫を告訴権者とする親告罪とされていたので、被害者が訴えない限り表沙汰にならない。姦通現場に乗り込むなど動かぬ証拠を掴まないかぎり奉行所など司法機関が訴えられた二人の関係を見極めるのが難しい。
一時の感情のもつれで訴えられればきりがなく、当事者間か双方の家主地主など土地の顔役が話し合う内済(示談のようなもの)を命じ、お互い冷静に話し合い、それでも成立しなければ訴訟を受け付けていたようだ。内済を経て訴えるため、実際には内済金を支払って解決することが多かったようであり、内済金の相場もその土地や身分などで自然と決まり、世間では常識のように知られていたようだ。武家は訴えると「御家の恥」を世間に知られるだけでなく、当主の「家内不取締り」を理由に減俸などの処分を受けることがあり、訴えるリスクが高く、一時的な激情で行動をするものではない限り、まともな武士は内済金で済ませるのがふつうだった。
このような姦通罪には、明治に入って文明開化の時代になって以降も旧刑法が適用されていたが、同法は、第二次世界大戦後施行(1947年に5月)された日本国憲法の男女平等が定められ(14条)、同条に違反するとされ、同年10月26日の刑法改正によって廃止されるまでは存在していた。
しかし、不義密通は大罪にも関わらず、研究によると、江戸時代には、奔放な浮気妻は意外に多かったようであるが、夫の寛容に許されている事も多く、特に、幕府のお膝元の江戸とは違って、関西地方ではその反応も微妙に異なり、姦通の罪を犯した者の過半が当事者間の金銭の遣り取りなどの内済で処理されていたようであり、その意味から、一般庶民の恋の暴走などがそれ程、世論の好奇の対象となるほどのものではなかったがようなのだが、このおさんと茂兵衛は、町人であるのに、どうして、このような重罪に課せられ、そして大事件になってしまったのだろうか・・・?
それは、事件の舞台となった大経師の家の家柄とその家の妻と手代による不倫であったからのようだ。
もともと、不義密通の罪は、武家を初めとして社会的に影響力のある者がこのような世界に踏み込んだときの大罪であり、一夫一婦制を範とすべき者たちが侵した秩序破壊に対するペナルティーとして科せられたものであった。
経巻や書画類を表装・表具を職とする表具師のことを「経師(きょうじ)」(※13参照)というが、大経師は、その元締めであり、朝廷の御用を務め、更に、を扱い、造暦にあたった賀茂・幸徳井両家(暦道参照)から新暦を受け、『大経師暦』(※5)を発行する権利を与えられ、町人階級ながら、苗字帯刀をも許された、学識もあり、格式の高い由緒ある家柄であった。
しかも、この暦の発刊の独占権により相当な財を成していたようである。だから、おさんとて、大変な家のお内儀なのであった。そんな格式ある大経師の家の内儀と手代との不義密通であったから、世間での好奇の対象ともなり噂も拡大し、内済ではすまされず、厳しい法に照らして処罰されたのだろう。
それと、この事件が起こった背景には、大経師の以春とおさんの年令も関係しているようだ。
西鶴の書いているところによると、大経師の美人女房と歌われたおさんは、京の男たちの注目の的になるほどの美しい女であった。なかなかうるさい男であるが、もうすっかりやもめ暮らし(妻をなくして一人生活をしていた男の意)が長くなっていた大経師の以春が藤の花見時期に藤の一房をかざして歩いて来るその美しい姿を見た途端、これこそが望み通りの女であると、決めたが最後、大枚をはたいて仲人女を立て、あっという間に女房にしてしまったというから、以春はこのおさんには惚れており、大事にはしていたようで、おさんもまた、望まれて輿入れした幸せを実感しながら、仲睦まじく3年の月日を送っていたという。
輿入れから3年経った年におさんは、茂兵衛と不義を犯し、捕らわれ処刑されるが、この時、19歳だったと言うから、裕福な商家に育った美しい少女だったおさんは世間のことも恋愛のことも、まだよくわかっていない14歳のときに、傾き始めた実家の為に30歳も年上の以春の後添え(後妻に同じ)に入っていたことになる。
事件は、実家が金に困り家を質に入れたその金の利子にも詰まっていると実の兄から泣きつかれたおさんが、亭主に何とかしてもらおうとすがるが、吝嗇(りんしょく)家故に断られ、そのくせ女狂いの絶えない以春は妻以外の女中のお玉に恋慕(れんぼ)している。このような中、お玉の寝所に忍び込む以春の魂胆の醜悪さをお玉の口から知ったおさんが、それを懲らしめようとして女中部屋に寝ていたお玉と寝所を取り替えたことによる、暗闇の中での人違いでおきた偶然の過ちと・・・というか、まだ少女のように幼い若妻の浅はかな振る舞いが誤解を招いたことが種で不義密通の疑いをかけられ、二人の逃避行が始まるのだが、この事件、不義密通というよりも、恋に目覚めた少女と若い美男手代との純で激しい恋物語であった言えるだろう。
戦国時代からの家父長権の確立の過程で、女性にだけ貞節を求め、近世に至って「武家も町家も不義は御法度」と家父長制的家(家制度参照)の存続、血統の維持から、自由恋愛、自由結婚(当時は、馴合夫婦〔婚姻届けを出さずに夫婦として暮らしている〕と呼ばれていた)は法的に強力に禁じられていた。一方、男性は武家も町家も経済力さえあれば、何人でもを囲うことができ、そうした意味では明らかに近世社会では性規範のダブルスタンダードがまかり通っていたといえる。
おさんは金銭万能の社会に絶望し、愛にも失望していた。一方の茂兵衛は主人以春の誤解から、不興を買い、手代の地位を追われる。亭主に愛想をつかし、家に見切りをつけたおさんは、自分の実家のための金の工面に奔走している茂兵衛を追って逃走する。不義密通となれば、家の暖簾に傷がつくどころか取り潰しになる。以春は大経師の家を傷つけることを恐れて追っ手を出し懸命におさんを捜し求めた。だが、おさんは彼の家へ戻る気持はなかった。そんな二人が運命の必然によって結びついていき、逃避行を重ねる。
封建社会の矛盾やエゴイズム、そんな不条理に追いつめられた二人は、逃避の間に一度は琵琶湖畔で死を覚悟し死への道行きをする。
映画の中盤、行き場のなくなった、おさんと茂兵衛が湖に浮かぶ小舟の上で遂に「死」の選択をするシーンは、この映画の見せ場にもなっている。
参考の※9:「懐かしの映画館 近松座」の「近松物語」でそのシーンを見ることが出来る。それがここ である。
徐々にスクリーンの上手から現れてくる一隻の小舟にはおさんと茂兵衛の二人が乗っている。

茂兵衛 「いまわのきわなら罰もあたりますまい。この世にこころが残らぬよう一言お聞きくださりまし。茂兵衛はとうからあなた様をお慕い申しておりました。」
おさん 「えっ、私を。お前の今の一言で死ねんようになった。死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛・・・。」

宮川一夫のカメラが映し出す徹底した映像の静寂と沈静。そこに醸し出される調和の美は、モノクロ画面の極致であり、溝口の演出の妙である。
実際に死のうと決心していたおさんが、茂兵衛の「愛」の告白によって、真実の愛に目覚め狂ったように激しく燃え上がった。そして、心中の道を選ばず、愛に生きることへ転換する。ここで二人の間は、それまでの主従の関係から恋人同士に変わると共に、以後の運命が決定され、ラストの「愛の勝利」へと加速度的に流れていくことになる。
逃避行中に役人に捕らわれた二人の罪状は、「不義密通の罪」。
背中合わせに縛られ馬に乗せられ、磔の刑場へ運ばれていく。
その光景は、彼らがこの映画の冒頭で見た引き回しの男女の表情と決定的に違っていた。その時の男女の顔はうな垂れて、晒し者にされる羞恥心に懸命に耐える者の表情だった。しかし、おさんと茂兵衛の表情は背中合わせになりながら、手を固く握り合って何と幸福そうなことか。
二人は「不義密通の罪」の罪で処罰されることを承知の上で、当時の不条理な法に敢然と立ち向かって処刑され道を選んだ。映画では、原作のおさんを現代風に解釈し、自分をはっきりと主張する凛とした女に描いており、それを、見事に香川が演じている。
大経師の家は、不義者を出したかどで取りつぶしになった・・・・・・。

しかし、大経師家が断絶をしたのは貞享元年(1684年)12月のことで、姦通事件は副次的なもので、断絶の理由は主として「当該役所の京都所司代を差し越えて、江戸奉行所へ暦板行(印刷し発行すること)の独占権を願い出、京都所司代稲葉丹後守の怒りを買ったこと」によるものらしい(※14、※2参照)。
おさんと茂兵衛の不義事件の後、続いて「浜岡権之助改易事件」という当時の暦の改易事件によって、格式の高い暦屋の大経師家が取り潰される事件が起こった(闕所〔けっしょ〕処分が下され、繁栄を誇った大店は没収。以春は京を追放された)。だから、このような大事件を取り上げた西鶴が、『好色五人女』の巻三の題を『暦屋物語』とし、近松も作品に『大経師昔暦』と題しているのだ(当時の暦の改易については(貞享暦を参照))。
尚、西鶴の『好色一代女』が本当に「好色」であるのと違い、『好色五人女』に登場する五人は皆、一途に恋する女たちである。私は近松よりも西鶴のこのような作品が好きである。
近松の『大経師昔暦』は菊池寛の『藤十郎の恋』(※15)の下敷きにもなっており、「藤十郎の恋」は、松竹から東宝への移籍第1回作品(1938年公開)である。監督は、山本嘉次郎が監督し、助監督は黒澤明が勤めた。長谷川は、前年松竹からの東宝への移籍のごたごたで暴力団員に顔を切りつけられ、再起不能といわれていたが、芸名も松竹時代の林長二郎から長谷川一夫と改め、この作品で入江たか子と共演、見事復帰した。
この映画は、1954年公開の「近松物語」に次いで、翌・1955(昭和30)年6月にも大映映画へ社長として迎えられていた長谷川と京マチ子の共演で、森一生監督作品として作れれている。
近松は、浄瑠璃だけでなく、歌舞伎の作者としても優れた作品を書いており、特に、坂田藤十郎という名優のため、多くの作品を提供した。
元禄時代(1688年~1703年)の文化は、元禄文化と言われるが、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展した文化である。特色として庶民的な面が濃く現れているが、必ずしも町人の出身ばかりでなく、元禄文化の担い手として武士階級出身の者も多かった。
歌舞伎は上方(京都・大坂)を中心に、元禄歌舞伎(※16)と称される一時代を迎えるが、この時期、近松は歌舞伎作者として、上方の歌舞伎で活躍していた。「西の藤十郎・東の團十郎」と江戸にも名優が登場し、江戸歌舞伎の萌芽が見て取れる。
江戸の初代市川團十郎は猛々しい荒事芸を創造し人気を得ていたが、上方では、後の細やかな情を表現する「和事」(わごと。※16)に繋がる「やつし事」(やつしごと。※16)が評判を呼んでいた。「やつし事」とは、身分の高い人物が、地位を追われて流浪するさまを演じる芸であり、藤十郎は、落ちぶれた若殿が、町人に身をやつして遊郭へ通う「やつし事」を得意としていた。
映画では、「元禄11年(1698年)春、京都四条河原の都万太夫座(現:京都南座。コトバンク参照)の一代の名優坂田藤十郎と、布袋屋梅之丞座(コトバンク参照)に江戸より初上りの中村七三郎コトバンクも参照)との競演が人気を煽っていた。藤十郎は七三郎の初日の舞台をひそかに見て、さすが江戸髓一の七三郎の芸と気魄に、油断ならぬ相手と痛感せずには居られなかった。」・・・そして、藤十郎は、近松の『大経師昔暦』の濡れ場をいかにしてリアルに演ずればよいか悩み、女(四条の料亭「宗清」の女房お梶)を自殺させてまでもその芸をきわめようとする残酷非情な藤十郎の芸道精神を描いた大作である(ストーリーは、 goo映画参照)。
この作品を観た観客は、主演の長谷川一夫と藤十郎をダブらせてしまうではないか。そして、今の女性なら全く不実な役どころを演じているのが、もし、長谷川一夫じゃなかったら・・・その役者をブン殴ってやりたいくらい憎いだろう。
元禄時代以降、近松は歌舞伎の世界を離れ、浄瑠璃作者に専念するが、近松と上方歌舞伎の繋がりは、その後も続いた。

ところで、不倫の話だが、今の時代、男性の74%は不倫経験アリ(週刊ポスト2010年9月24日号。※17参照)というのだから、これが本当なら、もう、一般人の殆どの男性が不倫しているということであり、こうなると「結婚式」などで愛を確認しあっているのは何のためだろうかと思ったりする。
最も、自然界でオスが次々とメスを求めるのは、強い子孫を残すための自然の成り行きだとも言うが・・・。最近、日本では、かっての肉食系男子は減少し、草食系男子が増えていると言われている(女性は男性と逆)。
この「肉食系」と言葉は、もともと主に若者の傾向を表す言葉であることから、肉食系は、恋愛に関して異性に対しての振る舞いや積極性の強さの度合いを表す時に用いられており、その対義語が草食系である(Wikipedia)・・・らしいが、そうすると、上述の最近の男性の不倫が増えている理由は、草食系の男性が肉食系女性に食い物にされているということになるのかな~。
今の時代、男性の不倫が家庭で発覚すればそのリスクは恐らく女性の不倫よりもズット代償が大きいと思うのだが、そんな危険を顧みず、大胆不敵にも74%もの男性が不倫をしているのかと、最初は、一寸、今時の男性もたいしたもんだ・・・と思ったりもしたのだが、・・・・。よくよく考えると、今の世の中、昔と違って、女性化した男性が、男性化した女性に適当に遊ばれているのかも知れないな~。
冒頭の画像は、1954年11月公開大映映画『近松物語』。.Wikipediaより)
参考:
※1:南条好輝の近松二十四番勝負
http://www.k.zaq.jp/nanjo/nk5.html
※2:京風:おさん・茂兵衛
http://blog.goo.ne.jp/ue1sugi2/e/ee81114d48202756e1b94045afcd8abc
※3:生きて想いをさしょうより
http://www.libresen.com/rosehp/day/dayikite/ikite-index.html
※4:近代デジタルライブラリー:-恋八卦柱暦-本文 -
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992831
※5 :近松物語 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12360/index.html
※6:人生論的映画評論: 近松物語(1954年) 溝口健二
http://zilge.blogspot.com/2008/12/54.html
※7完璧な映像芸術の粋   溝口健二 「近松物語」
http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/62453581.html
※8:二枚目(にまいめ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ni/nimaime.html
※9:懐かしの映画館 近松座
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/movie.htm
※10:国立劇場二月文楽・・・「大経師昔暦」 - 熟年の文化徒然雑記帳
http://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/8e20746b9a136b92ba49b087295baabf
※11:江戸時代の刑罰
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
※ 12:国立国会図書館 「日本の暦」―日本全国の地方暦
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_chihou.html
※13:経師・表具師
http://tobifudo.jp/newmon/name/kyoji.html
※14:諏訪春雄通信54
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa54.htm
※15:青空文庫・菊池寛 藤十郎の恋
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/503_19916.html
※16:文化デジタルライブラリー:歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/main.html
※17:男性の74%は不倫経験アリ、相手の3分の1超が仕事関係(NEWSポスト)
http://www.news-postseven.com/archives/20100927_1263.html
「近世女性の罪と罰-不義密通の世界」
http://homepage2.nifty.com/akibou/kennkyuuno-to.htm
良香の文楽・浄瑠璃メモ
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/193057/49983/62005383
藤十郎の恋 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p24335/
西鶴一代女 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14923/index.html
Yahoo!百科事典トップ
http://100.yahoo.co.jp/
コトバンク
http://kotobank.jp/
京都の史跡を訪ねる会ブログ
http://blog.kyotokawaraban.net/
昔の暦キャッシュ
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=B9ODdZbEohAJ&p=%E5%A4%A7%E7%B5%8C%E5%B8%AB%E5%AE%B6+%E6%96%AD%E7%B5%B6+%E7%90%86%E7%94%B1&u=www.jlogos.com%2Fdictionary%2F5040023%2F%25C0%25CE%25A4%25CE%25CE%25F1

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