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今日(3月24日)は、「マネキン記念日」
1928(昭和3)年の今日、上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で高島屋呉服店が日本初のマネキンを登場させた。
「マネキン」というと、一つは、デパートなどで衣服展示などに使われる等身大の人形をさすマネキン人形を略していう。マネキン人形は、ヨーロッパで始まったもので、マヌカン人形ともいわれているが、「マネキン」はフランス語の「mannequin」が語源とされている。この語は、もともと中世のオランダ語で「人間」を意味するmanの愛称形であるmannekijnに由来するものと言われている。もう一つは、この「マネキン人形」を意味する以外に、現代では、商品である衣服を着用したり、また、衣服などの販売などに従事する人をも意味する「マネキンガール」のことを言っている。
「マヌカン」が「客を招かん」「招金」に通じるということで、フランス語の「マヌカン」ではなく英語の「マネキン」という言葉を使ったとも言われているが・・・その真実はよくわからない。
しかしこれらの呼び方は、あくまでも業界用語であり、一般にこの用語を使うと差別的表現、意思のある人間に使うべき言葉ではないとの批判的意見もある。今では、毎年様々なファッションが、ファッションデザイナーによって生み出されており、ファッションの流行を紹介するファッションショーが世界各地で行われている。その時のファッション・モデルも昔はハウスマヌカンと呼んでいたのかな??
1928(昭和3)年と言う時代は、日本において、三越、大丸、白木屋がいっせいに呉服店からデパートに衣替え、それと相前後して、商戦も本格化した時である。このことは前の私のブログ「ファッションショーの日 」で、採りあげたのであるが、その中心になったのは、三越で、1927(昭和2)年4月、大増築を行って、牛肉、豚肉、石炭など日用品を扱い始めた。今までのように贅沢さを売り物にするだけでは、発展は望めないという思いの表れだったが、それに対抗して白木屋は無料送迎バスを導入、まだ珍しかった車の魅力で集客を図った。そんな中で、三越が、1927(昭和2)年9月に、日本で初めてのファッションショーを開いて、その言葉を定着させると、高島屋では、1928(昭和3)年3月の今日(3月24日)、御大礼記念博覧会に日本初のマネキンガール(このときの新聞などには「マニキンガール」と記載して入る)を登場させて話題になった。この時のマネキンは人形のマネキンではなく、着物姿の美しい女性をガラス越しに見えるサロン風セットのソファにポーズを決めて座らせたもので、生きた飾り人形といったもの。この年、ショーウインドーやデパートの陳列台の上に立って、流行の衣装や装身具を身につけ宣伝の一翼をになう、という新しい婦人の職業 「マネキンガール」が流行語にもなり、他のデパートでも次々と採用され、翌年3月には、山野千枝子が東京マネキン倶楽部を結成。現在のファッションモデルのように雑誌にも登場するようになり、当事大卒サラリーマンの3倍近い給与が与えられたとはいうが、夏などは、大変だったろうと思うと、以下参考に記載の「【読売新聞9】に見る女のクロニクル90年) を見ると、1929(昭和4)年8月15日付け新聞に、”何が辛い?夏の職業婦人”と言う皮肉なタイトルで「さてもお暑い方々へ、皮肉ならぬお暑さの辛さを伺う」として、・・「妾達(せふたち。妾=めかけ。そばめ。てかけ。女性が自分をへりくだっていう語。わたくし。)の一番辛いこと、それは身づくろひをしていよいよこれからウインドウの中へ這入る時の気持ちです。扇風機や氷柱はあっても九十度百度のむし暑さを想像すると思はず二の足をふみたくなります。・・・「汗は出ても拭ふことすら出来ず、そうした時に若い同性からのさげすんだ批評を窓越しに聞くことはマニキンをやってこそ知る辛さです」とかかれている。さもあろうと思う。
当時まだ、主流だった、着物の柄も、大正時代から昭和初期にかけて大柄で斬新な色使いのモダンなものが流行した。この当時、大阪市営バスの女性車掌の服装となった帽子、ネクタイ、ズボンにブーツというスタイルはモダンだと評判を呼んだ。又、警視庁は1928(昭和3)年11月20日にダンスホール取締令を実施して、出入りのモボ・モガの風俗規制をしているが、モガたち出現の背景には、女性の職場進出などがあった。わが国の初スチュワーデス第1号といえる「エアガール」が採用されたのは1931(昭和6)年のことであった。又、美容や流行のファッションのPRに活躍したマネキンガールが、今のデパートのマネキンガールの様に商品の説明や売り込みをするようになったのは1931(昭和6)年の歳末の売出しからだったという。現在では、このマネキンガールの「販売する」と「見せる」役割が分化され、「見せる」マネキンガールが「ファッションモデル」と呼ばれるようになったと言われている。
時が経ち、1982(昭和57)年 ファッション誌「オリーブ」創刊。 このころDC(デザイナーズキャラクター)ブランドブームとなる。婦人服のブティックで自社製品の販売をする女性を「ハウスマヌカン」と呼んだ。ハウスマヌカン」、これは英語由来の houseと、フランス語由来のmannequinを組み合わせた造語である。この言葉、DC時代のアダ花のように彗星のように現れ、消えていったがこの当事「ハウスマヌカン」は最先端の職業だった。「ハウスマヌカンは、服を売るだけでなく、実際に自分の店で売っている服を着て、来店客に”私もそのような服を着てみたい”という気にさせる必要があった。だから、商品知識があることは当然スタイリストとしてのファッションセンスもすぐれていなくてはならなかった。つまり、マネキンとファッションモデル的なことを備えていなければならなかったのである。販売能力は勿論、店の客の好みをキャッチし、売れる服を仕入れる、という、いわゆるバイヤーとしての仕事もこなしていたのである。1983(昭和58)年ヘアースタイルはストレートパーマが登場、女性の刈上げなど、女性の短いヘアが個性的な女性に人気を呼んだ。
はやりすたりに 命をかけた あさはか女の私でも
あおいうなじは 心意気 ふれてください 後から
夜霧のハウスマヌカン 刈りあげても 剃りあげても
夜霧のハウスマヌカン 又 毛がはえてくる ・・・ ♪
何か聞いたことのある歌でしょう!
「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。
「夜霧のハウスマヌカン」当時の風俗をよく表している。
私も若い頃ファッションと関係のある仕事をしていたので、百貨店の衣料品販売のマネキンや化粧品販売のマネキンのことは、仕事上の関係もあり、良く知っているつもりであるが、店頭で綺麗な女性がニコニコしながら客と応対しているところなどは、とても華やかでよいが、一歩裏へ廻れば、客の取り合いなどで結構色々揉め事があり、場合によっては「ちょっと、裏へいらっしゃい!」などと言った怖い状況になっているのを目にした事もある。女ばかりの社会での女の戦いと言うのは結構すごいものだよ・・・。
(画像は、やや「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。たゆねの音楽堂)
参考:
マネキン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%AD%E3%83%B3
七彩マネキン物語
http://www.nanasai.co.jp/story/mokuji.htm
ハウスマヌカン
http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/housemanukan.htm
ファッションショーの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060921
What'sMannequin/㈱アカシマネキン紹介所
http://www.akashi-m.co.jp/Mannequin.htm
1928年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1928.html
山野千枝子
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamano_c.html
時代の特徴・動き 時代の美容 流行ファッション・ヘアスタイル
http://cosmetic-web.jp/nenpyou.html
マネキン - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/dvd/detail/D111088750.html
DCブランド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
[PDF]「読売新聞」に見る女のクロニクル90年。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0207.pdf
1928(昭和3)年の今日、上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で高島屋呉服店が日本初のマネキンを登場させた。
「マネキン」というと、一つは、デパートなどで衣服展示などに使われる等身大の人形をさすマネキン人形を略していう。マネキン人形は、ヨーロッパで始まったもので、マヌカン人形ともいわれているが、「マネキン」はフランス語の「mannequin」が語源とされている。この語は、もともと中世のオランダ語で「人間」を意味するmanの愛称形であるmannekijnに由来するものと言われている。もう一つは、この「マネキン人形」を意味する以外に、現代では、商品である衣服を着用したり、また、衣服などの販売などに従事する人をも意味する「マネキンガール」のことを言っている。
「マヌカン」が「客を招かん」「招金」に通じるということで、フランス語の「マヌカン」ではなく英語の「マネキン」という言葉を使ったとも言われているが・・・その真実はよくわからない。
しかしこれらの呼び方は、あくまでも業界用語であり、一般にこの用語を使うと差別的表現、意思のある人間に使うべき言葉ではないとの批判的意見もある。今では、毎年様々なファッションが、ファッションデザイナーによって生み出されており、ファッションの流行を紹介するファッションショーが世界各地で行われている。その時のファッション・モデルも昔はハウスマヌカンと呼んでいたのかな??
1928(昭和3)年と言う時代は、日本において、三越、大丸、白木屋がいっせいに呉服店からデパートに衣替え、それと相前後して、商戦も本格化した時である。このことは前の私のブログ「ファッションショーの日 」で、採りあげたのであるが、その中心になったのは、三越で、1927(昭和2)年4月、大増築を行って、牛肉、豚肉、石炭など日用品を扱い始めた。今までのように贅沢さを売り物にするだけでは、発展は望めないという思いの表れだったが、それに対抗して白木屋は無料送迎バスを導入、まだ珍しかった車の魅力で集客を図った。そんな中で、三越が、1927(昭和2)年9月に、日本で初めてのファッションショーを開いて、その言葉を定着させると、高島屋では、1928(昭和3)年3月の今日(3月24日)、御大礼記念博覧会に日本初のマネキンガール(このときの新聞などには「マニキンガール」と記載して入る)を登場させて話題になった。この時のマネキンは人形のマネキンではなく、着物姿の美しい女性をガラス越しに見えるサロン風セットのソファにポーズを決めて座らせたもので、生きた飾り人形といったもの。この年、ショーウインドーやデパートの陳列台の上に立って、流行の衣装や装身具を身につけ宣伝の一翼をになう、という新しい婦人の職業 「マネキンガール」が流行語にもなり、他のデパートでも次々と採用され、翌年3月には、山野千枝子が東京マネキン倶楽部を結成。現在のファッションモデルのように雑誌にも登場するようになり、当事大卒サラリーマンの3倍近い給与が与えられたとはいうが、夏などは、大変だったろうと思うと、以下参考に記載の「【読売新聞9】に見る女のクロニクル90年) を見ると、1929(昭和4)年8月15日付け新聞に、”何が辛い?夏の職業婦人”と言う皮肉なタイトルで「さてもお暑い方々へ、皮肉ならぬお暑さの辛さを伺う」として、・・「妾達(せふたち。妾=めかけ。そばめ。てかけ。女性が自分をへりくだっていう語。わたくし。)の一番辛いこと、それは身づくろひをしていよいよこれからウインドウの中へ這入る時の気持ちです。扇風機や氷柱はあっても九十度百度のむし暑さを想像すると思はず二の足をふみたくなります。・・・「汗は出ても拭ふことすら出来ず、そうした時に若い同性からのさげすんだ批評を窓越しに聞くことはマニキンをやってこそ知る辛さです」とかかれている。さもあろうと思う。
当時まだ、主流だった、着物の柄も、大正時代から昭和初期にかけて大柄で斬新な色使いのモダンなものが流行した。この当時、大阪市営バスの女性車掌の服装となった帽子、ネクタイ、ズボンにブーツというスタイルはモダンだと評判を呼んだ。又、警視庁は1928(昭和3)年11月20日にダンスホール取締令を実施して、出入りのモボ・モガの風俗規制をしているが、モガたち出現の背景には、女性の職場進出などがあった。わが国の初スチュワーデス第1号といえる「エアガール」が採用されたのは1931(昭和6)年のことであった。又、美容や流行のファッションのPRに活躍したマネキンガールが、今のデパートのマネキンガールの様に商品の説明や売り込みをするようになったのは1931(昭和6)年の歳末の売出しからだったという。現在では、このマネキンガールの「販売する」と「見せる」役割が分化され、「見せる」マネキンガールが「ファッションモデル」と呼ばれるようになったと言われている。
時が経ち、1982(昭和57)年 ファッション誌「オリーブ」創刊。 このころDC(デザイナーズキャラクター)ブランドブームとなる。婦人服のブティックで自社製品の販売をする女性を「ハウスマヌカン」と呼んだ。ハウスマヌカン」、これは英語由来の houseと、フランス語由来のmannequinを組み合わせた造語である。この言葉、DC時代のアダ花のように彗星のように現れ、消えていったがこの当事「ハウスマヌカン」は最先端の職業だった。「ハウスマヌカンは、服を売るだけでなく、実際に自分の店で売っている服を着て、来店客に”私もそのような服を着てみたい”という気にさせる必要があった。だから、商品知識があることは当然スタイリストとしてのファッションセンスもすぐれていなくてはならなかった。つまり、マネキンとファッションモデル的なことを備えていなければならなかったのである。販売能力は勿論、店の客の好みをキャッチし、売れる服を仕入れる、という、いわゆるバイヤーとしての仕事もこなしていたのである。1983(昭和58)年ヘアースタイルはストレートパーマが登場、女性の刈上げなど、女性の短いヘアが個性的な女性に人気を呼んだ。
はやりすたりに 命をかけた あさはか女の私でも
あおいうなじは 心意気 ふれてください 後から
夜霧のハウスマヌカン 刈りあげても 剃りあげても
夜霧のハウスマヌカン 又 毛がはえてくる ・・・ ♪
何か聞いたことのある歌でしょう!
「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。
「夜霧のハウスマヌカン」当時の風俗をよく表している。
私も若い頃ファッションと関係のある仕事をしていたので、百貨店の衣料品販売のマネキンや化粧品販売のマネキンのことは、仕事上の関係もあり、良く知っているつもりであるが、店頭で綺麗な女性がニコニコしながら客と応対しているところなどは、とても華やかでよいが、一歩裏へ廻れば、客の取り合いなどで結構色々揉め事があり、場合によっては「ちょっと、裏へいらっしゃい!」などと言った怖い状況になっているのを目にした事もある。女ばかりの社会での女の戦いと言うのは結構すごいものだよ・・・。
(画像は、やや「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。たゆねの音楽堂)
参考:
マネキン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%AD%E3%83%B3
七彩マネキン物語
http://www.nanasai.co.jp/story/mokuji.htm
ハウスマヌカン
http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/housemanukan.htm
ファッションショーの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060921
What'sMannequin/㈱アカシマネキン紹介所
http://www.akashi-m.co.jp/Mannequin.htm
1928年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1928.html
山野千枝子
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamano_c.html
時代の特徴・動き 時代の美容 流行ファッション・ヘアスタイル
http://cosmetic-web.jp/nenpyou.html
マネキン - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/dvd/detail/D111088750.html
DCブランド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
[PDF]「読売新聞」に見る女のクロニクル90年。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0207.pdf
ファッションショウを実際に見たことはありませんが、時々TVで見る限りではモデルさんは随分怖い顔をして歩いていますね。ニタニタするのもおかしいかもしれませんが「もう少しにこやかにしたらどうなんや」と思ってしまいます。不機嫌な顔を人前にさらして、高額の収入を得るのですね。中には睨みつけるような人も居ますね。
私は、ファッション関係でもした下着の方を扱っていましたので、自分で作ったスリップやナイトウエアーなどスタジオを借りてモデルに着せて写真撮りなどもしたことがありますが、下着のモデルの場合はそんなにぶっ超ずらした人はいなかったようなんですがね。