今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

まがたまの日

2011-09-06 | 記念日
日本記念日協会の今日・9月6日の記念日に「まがたまの日」 がある。
記念日の由来には、“「古くから健康を守り、魔除けとなり、幸運を招くとされる勾玉(まがたま)。その出雲型勾玉を皇室や出雲大社に献上している島根県松江市に本拠を置く株式会社めのや(※1)が制定。日付は数字の6と9の形がまがたまの形と似ていることから、この二つの数字を組み合わせた6月9日と9月6日を「まがたまの日」とした。”・・・とあった。
勾玉は、日本では古墳時代の遺跡からも発掘されているように、古代日本における装身具の一つであった。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細はよく分からないようだ。
日本独自に発達した不思議な形の玉(ぎょく)で、多くは、Cの字形またはコの字形に湾曲した、玉から尾が出たような形をしており、丸く膨らんだ一端に孔(穴)を開けて紐を通し、首飾りとしたようである。孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼ぶそうだ。
多くは翡翠(ヒスイ)瑪瑙(メノウ)水晶(石英)滑石琥珀(コハク)鼈甲などで作られている。
冒頭の画像は、島根県の東部(出雲地方)に位置する松江市内の骨董店で買ってきた翡翠の勾玉であるが、別に骨董品と言うわけではない。私は、現役時代出張が多く、社用で山陰地方へもよく行ったが、骨董好きの私は出張の序でに時間があると土地の骨董店などを覗いて歩いたものだが、同骨董店の主人によればこのような石(翡翠)は、昔、店の近くでよく採れたものだが、今はもう採れなくなったと言っていた。
この勾玉は、そこの主人が、相当前に自ら採取してきたものをつかって、自分で作ったものだと言う。色は深い緑色で見た目には余り美しいものではないjが、みやげ物店などで売っている色の綺麗な輸入物の細工品ではなく、これは正真正銘この地で採取した貴重なものだというので、松江へ行った記念として、骨董品を買った序でに家人への土産用に買ったものだ。もう30年以上も前のことである。
その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがあるようだが、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古く、現在では縄文時代極初期の玦(けつ)状耳飾り(※2、※3参照)が原型であると考えられており、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化するが、縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかったようだ。
語の初出は記紀で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られるが、語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力。ただ、「曲がる」という言葉には悪い意味合いもあることから今日では「勾玉」と記すのが一般的になっているようだ。
「まがたま」と言えば、」なんと言っても、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物(三種の神器)の一つとして知られている。
三種の神器とは、以下の3点である。
「神璽」=「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま。または「八坂瓊の御須麻流五百箇御統(御須麻流)」〔やさかにのいおつみすまる〕)
「神鏡」=「八咫鏡」(やたのかがみ)
「神剣」=「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ。別名 草薙剣〔日本書紀〕ともいう)
鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、とくに皇宮に永く継承されている「三種の神器」は、日本全体の祖神ともいうべきアマテラス(天照大御神、天照大神)の時代に端を発し、それが現在まで継承されているものであり、日本の歴史においては特別重要な意味をもっている。
記紀神話によれば、国産み神産みにおいて、神世七代イザナギ(伊邪那岐、伊弉諾)が、黄泉の国から帰還したあと、日向の地で(みそぎ)を行なうと様々な神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ(月夜見尊、月読命)・スサノオ(素戔嗚尊、建速須佐之男命)の三貴子を生み、イザナギは、三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
しかし、『古事記』によれば、末子のスサノオがそれを断り、母神イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)のいる黄泉国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまうが、根の国(黄泉の国への入口とされている)へ向う前に姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、アマテラスに彼が高天原に攻め入って来たと疑われ、誤解を解くためアマテラスとの誓約(占い)によって潔白を証明し、高天原に滞在することになったものの、その後のスサノオの粗暴な行為に怒ったアマテラスが天の岩屋に引き篭ってしまった(岩戸隠れ)為、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々(※4、※5参照)が天の安河(かってアマテラスとスサノオが制約に際し向かい合った河)の川原に集まり、どうすればいいか相談をし、オモイカネ(思金神)の案により、アマテラスを岩戸から連れ出すためのさまざまな儀式をおこなった。
先ず、常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせ、天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラ(天津麻羅)を探し、後の鏡作部の祖神イシコリドメ(伊斯許理度売命、石凝姥命)に命じて八咫鏡を作らせ、後に玉造連(部)の祖神となるタマノオヤ(玉祖命。『古事記』に登場。『日本書紀』では、豊玉神(トヨタマノカミ)」〔第二の一書〕)に命じて、八坂瓊の五百箇の御須麻流の珠(「八尺」は通常よりも大きいことを意味し、「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙(メノウ)のことであるという。御須麻流は、日本書記では御統。みすまる。多くの勾玉や管玉を、紐で貫いてまとめて輪にしたものらしい)を作らせ、八咫鏡と共にフトダマ(布刀玉命、太玉命)が捧げ持つ榊の木に掛けられている。岩戸の前でアメノコヤネ(天児屋命、天児屋根命)が祝詞(のりと)を唱え、アメノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、力強くエロティックな動作で踊ると、高天原が鳴り轟くように八百万一斉に大笑いした。この声を聴いたアマテラスが何事かと岩戸を少し開き、「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜ、アメノウズは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」というと、アメノコヤネとフトダマが、アマテラスの前に鏡を差し出し、鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたとき、岩戸の脇に隠れていたアメノタヂカラオ(天手力雄神、天手力雄神)がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマ注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」と言った。こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。高天原に光が戻った後、八百万の神は、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放する。(※6、※7の『古事記』上巻、『日本書紀』巻第一・第六段、第七段参照)。
因みに、『古事記』では、この説話の後に、スサノオとオオゲツヒメ(大気都姫神)による食物起源神話が挿入されているが、『日本書紀』では同様の話が、ツクヨミがウケモチ(保食神)を斬り殺す話として出てくる。又、高天原を追放され、出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていたヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)に食われることになっていた少女クシナダヒメ(奇稲田姫、櫛名田比売)と出会う。両親より、クシナダヒメを妻として貰い受けることでヤマタノオロチの退治を請け負い、クシナダヒメの形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。そしてヤマタノオロチの尾から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をアマテラスに献上した( これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もある)。これで、三種の神器が揃ったことになる。
葦原中国平定が終わった後に、アマテラスの命を受けて、アマテラスの孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が、天孫として、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤノミコトの五伴緒(いつとものお)を従えて、葦原中国を統治するため高天原から地上(日向)に天降りしている(天孫降臨)。
地上に降りる際、さらに、アマテラスは、ニニギノミコトに三種の神器とオモイカネ、アメノタヂカラオ、アメノイワトワケ(天石門別神)を副えとくに「神鏡」については、「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った・・・という。〔※1:※2:の日本書紀第九段一書(一)のところを参照〕。
アメノイワトワケは又の名をクシイワマドノカミ(櫛石窓神)、トヨイワマドノカミ(豊石窓神)といい、御門の神であると記されている。天孫降臨の段に登場する神の多くはその前の岩戸隠れの段にも登場しているが、この神だけは岩戸隠れの段には見えない。アメノイワトワケは古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神であり、フトダマの子ともいう。
このニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が皇室の祖先になったとされている神であり、「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきた。
しかし、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇と言われている第10代崇神天皇の5年(紀元前93年)に、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた為、翌・6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた二神(天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
その際、「神璽」はそのまま皇居に置き、「神鏡」と「神剣」は、天照大神の神霊と共に、同天皇が皇女である豐鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)が斎王(いつきのみこ)としてあずかり、笠縫邑(現在の桜井市 三輪)の檜原神社に祀ることとなった。
更に、理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命がこれを引き継いで、垂仁天皇25年(紀元前5年)に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座したといわれている(詳細は元伊勢参照)。尚、同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる。
「三種の神器」の内の「神剣」は、次の第12代景行天皇の御宇になって皇子の日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征の途、伊勢神宮で叔母の倭姫命より授けられ、東征途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えたとする説が広く流布している。
 日本武尊は東征の後、尾張国で結婚した宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に剣を預けたまま近江国の伊吹山の荒ぶる神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で悲運の死を遂げ、ヤマト(大和)に帰ることができなかったが、宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てたという。
そのため、八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているという。
ところで、スサノヲがイザナギの怒りを買って高天原を追放れる前にアマテラスに別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、アマテラスに彼が高天原に攻め入って来たと疑われ、誤解を解くためがアマテラスとの誓約をして潔白を証明し、一時、高天原に滞在することになったことを先に書いたが、イザナギを迎えた時、アマテラスは、すぐに八坂瓊之五百箇御統珠を、その頭髪と腕に巻きつけ、弓、剣を携えて対決姿勢をとっている。そして、記紀では、この二神は天は安河を挟んで誓約(宇気比・誓約)の際に、まず、アマテラスがスサノヲの持っている「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれ、次にスサノオが、アマテラスが持っていた「八坂瓊之五百箇御統珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神(五皇子)が生まれた。これによりスサノヲの心が清いことが証明されたと書かれている。
しかし、『日本書記』には各段に補足として、色々書かれているが、第六段一書(二)には、“スサノヲが天に昇ろうとする時に、一柱の神・名はハカルタマ(羽明玉)がお迎えして、瑞八坂瓊之曲玉を献上した。スサノヲはその玉を持って天上を訪れた”としている(※7参照)。
島根県松江市玉湯町玉造には、『延喜式神名帳』や『出雲国風土記』にも記載のある古社玉作湯神社がある(※8の玉作湯神社も参照)。その祭神は風土記には、意宇郡の忌部神戸(いんべのかんべ。現在の忌部神社が鎮座している地域)として、「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る・・・」とあり、境内には玉作部の足跡を示す遺跡が出ており(※9、※10 も参照)、当社の祭神の櫛明玉命(クシアカルタマ)は、“出雲国の玉作の祖”と平安時代の神道資料である『古語拾遺』(※11)に出ている。
ここの祭神には、別名が多く、羽明玉・豊玉・天明玉・櫛明玉など、があるが、『日本書記』第六段一書(二)でスサノヲが、高天原に上るとき、ここの祭神である羽明玉(古語拾遺に櫛明玉命)がつくった勾玉がスサノヲ通じて、アマテラスに献上されたとしている。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて此の地方に居住し、命の子孫一族が此の地の原石を採って宝玉の製作を司ったと伝えられる。
櫛明玉命の別名をみると、すべて玉に関する神の名のようであるが、古代、玉に関する氏族には、玉作連と玉祖連の系統があったようで、ここ、櫛明玉命は玉作連の系統で、玉祖に関しては、周防国(山口県)の玉祖神社が有名(※8の玉祖神社)のようだ。
大阪府八尾市神立にある玉祖神社(※12)は、710年(和銅3年)に周防国の玉祖神社から分霊を勧請したもので、その際、住吉津から上陸し、恩智神社(※12)に泊まった後、現在地に祀られたとされており、天明玉命(櫛明玉命)を祭神としているそうだ。又、八尾市大窪521番地には、御祖神社跡地があり、社殿もなく、ただ跡地には碑のみが立っているが、ここの神は今は、玉祖神社に合祀されているという。以下は、『河内名所図絵』に描かれた玉祖神社である(※13の5-15に玉祖神社の画像あり)。

又、大阪市中央区に玉造稲荷神社がある(※12、※14)。
宇迦之御魂大神(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命稚日女命月読命軻偶突智命を配祀し、社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していたという。
蘇我氏物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承もあるそうだ。
豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、当時は豊津稲荷社と称していた。以下は、寛政8年から10年(1796~98)に刊行された摂津国の観光案内書『摂津名所図会』に掲載されている豊津稲荷社である(※15の巻之三 東生郡 ・西成郡2-36に画像ある。以下の画像もクリックで少し大きなものに拡大する)。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされるなど、昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。
現在の「玉造」の社名は、鎮座地の地名によるもので、同社鳥居の横には玉作岡と云う石碑があり、碑文の裏には、難波の高台の内に位する玉造稲荷社の所在地は、古代には玉作岡と言われて、このあたり一帯には古代、玉作部に所属する曲玉作りの集団の居住地であったという伝承が記されている。
この地に居住していた玉造部と、先に述べた高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれているそうだ。又、玉作岡の石碑裏には、その後に、この高台一帯が仁徳天皇の営まれた高津宮であり、難波長柄豊埼宮であり、後期難波の宮の地であったと言ったことも書かれている(昭和49年、大島靖大阪市長書)。だから、大阪で、最も古くからの由緒あるところだという。
なにか、勾玉のことを書こうと思っている間に、神代の話をだらだらと書いてしまったが、最後に、以下参考の※16:「オロモルフのホームページ」の『卑弥呼と日本書紀』第四版 第九章の“九・五 『倭姫命世記』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路”の中で、書かれていることを追記しておこう。
“神武天皇が即位してからずっと皇宮に祀られてきた天照大神の神霊と「神鏡」「神剣」の伊勢神宮への巡幸は、“大和朝廷の勢力を周辺に定着させ、同時に鉄や玉や稲の産地を確保し、そして東海方面への出口にあたる伊勢に新しい根拠地をもうける・・・といったさまざまな意図があった”と推理している。だから、“皇女が神子(巫女)となっての御巡幸ではあるが、その実体は多くの武人をしたがえ、各地方の豪族たちを威圧する堂々たる大和朝廷軍の行軍だったろうと考えており、だからこそ日本武尊が東国に遠征したとき、最初にこの”伊勢神宮“に寄って、「天叢雲剣(草薙剣)」を倭姫命から借り受けたのであろう・・・”としている。
天子の位を受け継ぐために践祚し皇位を継承するには「三種の神器」を先帝から受け継ぐことが必要とされるが、天皇さえもその実見を許されないといわれる神宝とは本当はどんなものなのだろうか・・・。
過去の歴史を検証すると、古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室だけに特有のものではなく、大和王権に臣従する過程で、各地の豪族が恭順の意を表すためにこの三品を差し出しており、また壱岐市の原の辻遺跡では最古の鏡、玉、剣の組み合わせが出土されているように、今では、各地の豪族が一般に支配者の象徴としていたものと考えられているようであり、後鳥羽天皇など神器がない状態で即位した場合もあり、必ずしも「三種の神器」の継承が即位の絶対条件ではなかった場合もある。
又、皇位そのものの証明が三種の神器の所持を以て挙げられるため、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つともなっている。
そのため、明治天皇が身罷り、大正天皇が即位の際、「三種の神器」として歴代の天皇によって受け伝えられてきた「剣」「璽」「鏡」が、旧皇室典範(※16の“伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳”を参照)で、「祖宗(そそう)の神器」として始めて公的性格を与えられ、1909(明治42)年公布の登極令 (明治42年皇室令第1号)で、践祚にさいしての「剣璽渡御(けんじとぎょ)」が規定された。
そして、践祚にあたり、神器の剣(草薙の剣)の形代と璽(じ)の八坂瓊勾玉が、侍従によって明治天皇のもとから新天皇のもとに移された。なお、三種の神器のうち神鏡は宮中三殿の賢所の神体であるため、この儀式では動かない。
先にも書いたように、現在、皇位継承のシンボルともいえる三種の神器は、歴史上の記述から、崇神天皇の御宇に「神鏡」と「神剣」は伊勢神宮、熱田神宮に、「神璽」のみが皇居に保管されていることになっているので、皇居には、八咫鏡と天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の形代は宮中三殿賢所に、天叢雲剣の形代は八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされている。
天皇が即位のときに継承される三種の神器のうち「八坂瓊勾玉」以外は、後に、新たに作られたものと言うことになるのだが・・・・。
このようなこと、あまり、詮索はしたくないが、皇位継承問題では、このような物の承継よりも、これからの皇位継承者(皇嗣)の方がどうなってゆくのかが心配だ。
肝心の「まがたま」そのもののことは、殆ど書いていないが、そのことは、参考に記載の※1、や※17。※18など見られると良い。
参考:
※1:株式会社めのや 本社 : ショップリスト- アナヒータストーンズ
http://www.anahitastones.com/shop/details/000372.html
※2:けつ状耳飾けつ状耳飾(玦状耳飾)
http://www.awakouko.info/modules/xpwiki/301.html
※3:玦状耳飾系統・起源論概観(Adobe PDF)
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/study/kannihonkai.pdf#search='玦状耳飾り'
※4:八百万の神々
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/
※5:八百万の神々
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/index.htm
※6:古代史獺祭 列島編 メニュー 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/index.htm#map_shoki
※7:日本神話の御殿
http://j-myth.info/index.html
※8:玄松子:全掲載神社
http://www.genbu.net/
※9:出雲国風土記登場地
http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/izumofudoki/fudoki/fudokif/
※10:古代豪族入門
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
※11 :古語拾遺
http://www.kamimoude.org/jshiryo/kogojyuui.html
※12:神奈備神社名鑑
http://kamnavi.jp/index2.htm
※13:早稲田大学コレクション:河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_02472/index.html
※14:玉造稲荷神社公式サイト
http://www.inari.or.jp/
※15:早稲田大学コレクション:摂津名所図会. [正,続篇] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03651/index.html
※16:オロモルフのホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/
※17いずもまがたまの里「伝承館」
http://www.magatama-sato.com/
※18第241回活動記録 謎の四世紀 成務天皇の時代 勾玉の起源
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm
今日のことあれこれと・・・「明治最後の日」2005-07-30 | 記念日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A4%DE%A4%AC%A4%BF%A4%DE
戸原のトップページ
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/index.html

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4 コメント

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よーさん、☆お(^O^)☆は(^o^)☆よ(^0^)☆う(^ー^☆♪ (リリピィ)
2011-09-14 10:23:42
勾玉、数年前から、神社で買ったものをお守りでいつも持っています。
今は、神田大明神で購入した物。
平将門とも関係あるのかな?

ふと見たら、同じ日に、黒豆の記事もあったんですね。
ちょうど昨夜の夕食で、黒豆ご飯を食べました。
今日も残りを食べてます ww
もともと、献立は、それなりに考えてきたつもりだけど、自分は元より、家族の健康のために、今までよりもっと体に良い食事を作るようにしなければいけないな、とやっと気づきました (^_^;)
お料理が好きになって4,5年。
そういうことも考えるのにちょうど良い時期なのかもしれないなと思ったりしています。

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リリピィさんへ (よーさん)
2011-09-16 17:42:09
リリピィさん書き込み有り難う!
神田神社が、勾玉とどのような関係があるのかは知らないが、神田神社の元の名は神田明神らしいが、現在の大手町・平将門首塚があるあたりに、出雲族の末裔である真神田臣(まかんだおみ)によって創建された神社で、当時の祭神は、出雲大社の神と同じ大己貴命。同じ大己貴命は別の名を大国主命であり、少彦名命と共に国造りをした神。 
だから、少しは関係があるのかも知れないね。

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こんにちは (^^) (リリピィ)
2011-09-24 16:22:28
そうだったんですか!
他にも勾玉のアクセサリーも持っています。
なんか心魅かれる形ですよね。。。(^^)
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リリピィさんへ (よーさん)
2011-09-26 12:01:21
リリピィさんブログへの書き込み有り難う!
神社以外の勾玉のアクセサリーももっているとか・・・大事にしてくださいね。
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