今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ボーイズビーアンビシャスデー

2006-04-16 | 記念日
今日(4月16日)は「ボーイズビーアンビシャスデー」
1877(明治10)年4月16日、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の基礎を築いた教頭 W・S・クラークが、「Boys,be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を残して帰国の途につくため北海道を去った。
1876(明治9)年8月14日、日本最初の官立能学校である札幌農学校が開校し、その初代教頭として日本政府の熱烈な要請を受けて招かれたのは、アメリカのマサチューセッツ農科大の学長だったW・S・クラーク(William Smith Clark)博士であった。日本側の熱烈な要請により農学、化学、英語教師そして教頭として、北海道開拓のための農業技術者を養成することを目的とする札幌農学校(現・北海道大学)に赴任してきたのは、1876(明治9)年7月のこと。17日から授業が開始された。ただし、「札幌農学校」(Sapporo Agricultural College)という校名に正式に改められたのは9月9日からである。1872(明治5)年に北海道開発に従事する人材を育成するために東京の芝増上寺に設けられた開拓使仮学校が、1875(明治8)年に札幌に移転して札幌学校と名を改め、さらに1876年に札幌農学校となった。今日の北海道大学の前身である。ちなみに当時の札幌はわずか戸数約900、人口3,000人弱だったという。彼は、マサチューセッツ農科大学の休暇を利用して訪日という形をとったようである。彼は札幌農学校の校則について、開拓使長官黒田清隆に「Be Gentlemanで十分である」と進言し、8ヶ月の在任中、クラークは黒田清隆の反対を押し切って学生たちに聖書を配り、キリスト教に基づく道徳教育を実践したといわれている。
そして、翌1877(明治10)年5月に離日するが、北海道を去る時島松の馬上で、見送った1期生の学生達に向って叫んだ言葉が前述の有名な言葉「Boys, Be ambitious!」だということになっている。しかしこの言葉が、本当にクラーク博士が口にしたかどうかの確証は残っていないようだ。
この言葉のことについては、以下参考の北海道大学 附属図書館 のW.S.クラーク博士関係文献目録にある"Boys, be ambitious!"についてで詳しく見解が述べられている。高校や中学の教科書の中にも次のような言葉がある。
 “Boys,be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not  for  that evanescent thing which 
 men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
この言葉がこのように広まったのは,昭和39.3.16の朝日新聞「天声人語」欄によるものらしく、「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」・・といったような訳文が添えられているようだが、ここてはクラーク博士の「大志」の内容は、富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。これは”Boys be ambitious in God”として,神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものである。しかし,この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには、いくつかの無理があり、まず、”Boys,be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので(第一期生大島正健博士の著書による)、その時の状況からみてこれは「さようなら」に代る別れの言葉であった。当時では、この言葉でさえ多くの学生たちが聞きとったことは疑わしい程である。、次に、クラーク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったようだ。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と責任を有する地位」に到達することをよびかけている。日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では、努力によっては国家の有為な人材となることを妨げるものは何もないことをのべ、学生たちの青年らしい野心(lofty ambition)を期待したのである。このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが、ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタンの精神がよくあらわれている。いずれにしても、この言葉が、クラークの言葉かどうかは、確実に証明するものはないようであるが、この言葉は長い間埋れたのち、札幌農学校が確固たる基盤を獲得し、学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に思い起され、特別の意味を与えられるようになったようである。・・と、結んでいる。
クラークは帰国後、スポンサーを募って7つの鉱山を買い占め、一時は順調に経営していたもののすぐに破綻し、出資者の一人である親族から訴えられてしまい、敗訴こそ免れたものの名声と信用を失ってしまったという。そして、帰国からわずか9年後、59歳で不遇の一生を閉じているそうだ。
1869(明治2)年新政府は激戦の後五稜郭を落城させた。同年7月北海道開拓にあたる官庁として開拓使が設置された。初代長官には、鍋島直正(佐賀賀藩)が任ぜられたが、すぐ病気辞任し、東久世道禧(ひがしくぜみちとみ)が後任となり、島義勇(しまよしたけ)判官らと函館に着任した。8月15日、蝦夷地を北海道と改称し、開拓史の出張所を函館に置いた。1882(明治15)年に廃止されるまでの、開拓史時代の始まりである。その後、兵部大丞黒田清隆は開拓次官に任じられた。この開拓次官に就任した黒田清隆は北海道の開拓のためには外国の技術の導入が不可欠と考え、1871(明治4)年自ら渡米し、当時アメリカ政府の農務局長であったホーレス・ケプロンを開拓顧問兼御雇教師頭取として招聘した。北海道の開拓はお雇いアメリカ人に負うところが多い。後に北海道畜産の父と呼ばれるエドウイン・ダンは,米国から牛140頭と緬羊180頭をつれて来日し、真駒内・新冠の牧場を開き酪農を指導した。札幌農学校の教頭クラークも僅か8ヶ月ながら、キリスト教精神に基づく人格教育をほどこして強い感化を残した。
札幌農学校は教頭クラークのほか新たに、マサチュ-セッツ農科大学出身のホイーラーとペンハローの2名のお雇い外国人教師が着任した。クラ-クは教頭(副校長)のかたわら農学、植物学および英語の授業を担当、ホイーラーは数学、工学および英学、ペンハローは植物学、化学、農学および英学を担当。翌年2月には、同じくマサチュ-セッツ農科大学卒業のウィリアム・ピー・ブルックス(William P.Brooks(B.S) が来校し、もっぱら農学を担当することになった。そもそも、札幌農学校設置の目的は北海道の開拓に有用な人材の養成にあったため、修業年限は4年、官費生は予算の関係上50名を限度としていた。はじめ1人1人1ヶ月金13円を支給し、卒業後は籍を北海道に移し、5年間道内に居住して、開拓使に奉職する義務が負わされたそうだ。ただし例外的に自費生も認められていたという。名は農学校ではあったが、内容は非常に広範にわたっており、名実がともなわない感じはあったが、当時北海道の拓殖上、さまざまな方面に活動する人材の育成を必要としていたからであり、それが学課のうえに反映されたとみられる。そしてこのことが、内村鑑三・新渡戸稲造ら特異な人材を輩出させることになったのだろう。第1期の生徒は、札幌学校からの者13名と、東京英語学校(東京大学予備門の前身)または東京開成学校(東京大学の前身)からの者11名、合計24名であった。もっとも、学力不足や病気などのため退学者が続出し、第1学年の課程を修了した者は16名であったという。クラークの後任には、ホイラーが教頭となり、ペンハロー、ブルックスの3人がクラークの意思をついだ。
最近のマスコミ報道を見ても、日本の若者には、将来に対する希望を持てていないものが多いと言う。ある意味で、現在社会が完成された社会となっており、個人の立ち入る余地がなくなってきた面があるのかもしれないが、それにしても、若者らの覇気のなさが気になるところである。クラークの言葉かどうかは知らないが、改めて、「青年よ、大志をいだけ(ボーイズビーアンビシャス)」と言いたい。
(画像は、北海道大学のクラーク像。週間朝日百科・日本の歴史より)
参考:
ウイリアム・スミス・クラーク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF
北海道大学 Hokkaido University
http://www.hokudai.ac.jp/
日本の科学技術史における北海道大学の122年
http://www.hps.hokudai.ac.jp/hsci/hokudai/table.htm
クラ-ク博士の遺徳の顕彰を中心として
http://www2.ocn.ne.jp/~hokudaic/index2.html
エドウイン・ダン記念館
http://www2.ocn.ne.jp/~caxton/edwin.html

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2 コメント

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北大 (Linda)
2006-04-16 19:12:31
よーさん、こんばんは。

北海道大学は僕を嫌いました。世田谷の日本大学で入学試験があったのですが、問題はかなり易しいと思ったのですが、見事に嫌われました。高校の担任も僕も合格するつもりだったのですが・・・。2期校へ行く気がなかったので、予備校に通っていたのですが、歴史が大嫌いでまた1年勉強しなければならないのは嫌だなーと思い始めて、結局2期校に行きました。

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入試 (よーさん)
2006-04-17 07:14:28
Lindaさん、そういえば、今は、センター試験制度、その前が共通一次試験制度、その昔は一期校、二期校制度があったんですよね。残念でしたね。
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