今日(3月26日)は、硫黄島の戦いが集結した日
硫黄島の戦いは、1945(昭和20)年の太平洋戦争(大東亜戦争)末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍の間に生じた戦闘である。
硫黄島は、東京から南へ約1,250km、父島から南へ約280kmに位置(北緯24度47分、東経141度19分)、グアムの北1,130キロに位置する、硫黄列島中最大の、東京都小笠原村に属する東西8km、南北4kmの島(火山島)である。一番標高の高い地点は摺鉢山(169m)。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。
1941(昭和16)年、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって開戦した太平洋戦争は、開戦以降、日本軍が快進撃を続けていたが、その戦いの転機となったのがミッドウェー海戦での敗北ある。この戦いの敗北の結果、国力に劣る日本は守勢に追い込まれていった。以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦では勝利を手にするものの、ニューギニアやマキン・タラワ島をめぐる戦いで敗北を喫するなど、1年を経たずに日本の戦局は徐々に悪化した。開戦後2年が経った1943(昭和18)年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、1944(昭和19)年2月には、アメリカ軍はトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻しこれを占領。そして、アメリカによる占領後のサイパン島、グアム島、テニアン島はアメリカによる日本本土に対する戦略爆撃の基地として利用され、日本列島の本州への直接の空襲が可能になった。
この絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことはこの後の日本の敗戦を決定的にしたといっていいだろう。
大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官に栗林忠道中将が就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。
1944(昭和19)年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略して後、11月以降、B-29 による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし、しばしば日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。そこで、アメリカ統合作戦本部は、日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地の撃滅、硫黄島レーダー監視所による早期警報システムの破壊、硫黄島を避ける為の爆撃機の航法上のロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地として、硫黄島の占領を決定した。
栗林中将は当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は硫黄島へ進攻すると判断、無防備に等しかった硫黄島へ直ちに司令部および第109師団を移動させた。制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。しかし栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をした。そして、防御計画の第一歩として民間人の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設された。
1945(昭和20)年2月19日、アメリカ海兵隊の上陸が開始された。それから、1カ月以上もの米軍と激しい熾烈な戦いが繰り広げられ、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死。アメリカ側には、日本軍の損害を上回る戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を与えたという。
太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島の戦いで、摺鉢山に星条旗を立てた米兵らを追ったAP通信の写真家ジョー・ローゼンタールの写真(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")が同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞した。そして、その写真に写された海兵隊員たちのドラマを描いたジェイムズ・ブラッドリーの”Flags of Our Fathers”を原作とした作品が映画化された。
アメリカ映画『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)である。監督はアカデミー監督賞を二度受賞したクリント・イーストウッド。製作にはスティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスも参加している。
これは、太平洋戦争の激戦地となった硫黄島の戦いを61年が経過した今、改めて、日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。この映画は2006(平成18)年10月公開された。私は、映画を見ていないが、この作品は、戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる米軍の兵士を写した1枚の写真は、アメリカにとって勝利のシンボルとも言えるものであるが、この1枚の写真によって英雄に祭り上げられた若きアメリカ兵のその後の人生?を追ったものと言う事である。
また、同年の12月より「硫黄島プロジェクト」の日本側視点から描いた作品『硫黄島からの手紙』が連続公開された。監督やスタッフは『父親たちの星条旗』と同じくクリント・イーストウッドらがそのまま手掛けた。映画は、5日で落ちるとされた硫黄島戦を圧倒的な兵力のアメリカ軍を相手に36日間もの死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による日本軍将兵と、祖国に残された家族らの想いが描かれ、ストーリーはタイトルとなっている栗林中将や西郷が家族へと向けた手紙を基に展開されるた。『父親たちの星条旗』と共に第79回アカデミー賞の対象作となり、作品賞・監督賞・脚本賞・音響編集賞の4部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞した。
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続・硫黄島の戦いが集結した日
硫黄島の戦いは、1945(昭和20)年の太平洋戦争(大東亜戦争)末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍の間に生じた戦闘である。
硫黄島は、東京から南へ約1,250km、父島から南へ約280kmに位置(北緯24度47分、東経141度19分)、グアムの北1,130キロに位置する、硫黄列島中最大の、東京都小笠原村に属する東西8km、南北4kmの島(火山島)である。一番標高の高い地点は摺鉢山(169m)。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。
1941(昭和16)年、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって開戦した太平洋戦争は、開戦以降、日本軍が快進撃を続けていたが、その戦いの転機となったのがミッドウェー海戦での敗北ある。この戦いの敗北の結果、国力に劣る日本は守勢に追い込まれていった。以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦では勝利を手にするものの、ニューギニアやマキン・タラワ島をめぐる戦いで敗北を喫するなど、1年を経たずに日本の戦局は徐々に悪化した。開戦後2年が経った1943(昭和18)年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、1944(昭和19)年2月には、アメリカ軍はトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻しこれを占領。そして、アメリカによる占領後のサイパン島、グアム島、テニアン島はアメリカによる日本本土に対する戦略爆撃の基地として利用され、日本列島の本州への直接の空襲が可能になった。
この絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことはこの後の日本の敗戦を決定的にしたといっていいだろう。
大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官に栗林忠道中将が就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。
1944(昭和19)年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略して後、11月以降、B-29 による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし、しばしば日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。そこで、アメリカ統合作戦本部は、日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地の撃滅、硫黄島レーダー監視所による早期警報システムの破壊、硫黄島を避ける為の爆撃機の航法上のロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地として、硫黄島の占領を決定した。
栗林中将は当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は硫黄島へ進攻すると判断、無防備に等しかった硫黄島へ直ちに司令部および第109師団を移動させた。制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。しかし栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をした。そして、防御計画の第一歩として民間人の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設された。
1945(昭和20)年2月19日、アメリカ海兵隊の上陸が開始された。それから、1カ月以上もの米軍と激しい熾烈な戦いが繰り広げられ、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死。アメリカ側には、日本軍の損害を上回る戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を与えたという。
太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島の戦いで、摺鉢山に星条旗を立てた米兵らを追ったAP通信の写真家ジョー・ローゼンタールの写真(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")が同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞した。そして、その写真に写された海兵隊員たちのドラマを描いたジェイムズ・ブラッドリーの”Flags of Our Fathers”を原作とした作品が映画化された。
アメリカ映画『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)である。監督はアカデミー監督賞を二度受賞したクリント・イーストウッド。製作にはスティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスも参加している。
これは、太平洋戦争の激戦地となった硫黄島の戦いを61年が経過した今、改めて、日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。この映画は2006(平成18)年10月公開された。私は、映画を見ていないが、この作品は、戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる米軍の兵士を写した1枚の写真は、アメリカにとって勝利のシンボルとも言えるものであるが、この1枚の写真によって英雄に祭り上げられた若きアメリカ兵のその後の人生?を追ったものと言う事である。
また、同年の12月より「硫黄島プロジェクト」の日本側視点から描いた作品『硫黄島からの手紙』が連続公開された。監督やスタッフは『父親たちの星条旗』と同じくクリント・イーストウッドらがそのまま手掛けた。映画は、5日で落ちるとされた硫黄島戦を圧倒的な兵力のアメリカ軍を相手に36日間もの死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による日本軍将兵と、祖国に残された家族らの想いが描かれ、ストーリーはタイトルとなっている栗林中将や西郷が家族へと向けた手紙を基に展開されるた。『父親たちの星条旗』と共に第79回アカデミー賞の対象作となり、作品賞・監督賞・脚本賞・音響編集賞の4部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞した。
ブログの文字数制限から続き以下のページに書きました。
続・硫黄島の戦いが集結した日