今日(3月27日)は、天保8年3月27日( 1837年5月1日)の大塩平八郎 (陽明学者,大坂町奉行与力) の忌日。
大塩平八郎(寛政5年1月22日( 【1793年3月4日】~天保8年3月27日【1837年5月1日】)は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を勤めていた。「大塩平八郎の乱」を鎮圧され自害している 。
明治の文豪・森鴎外の書いた『大塩平八郎』に書かれている【大塩平八郎年譜】には、以下のように書かれている。
”寛政五年癸丑(一七九三年)大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地(さいち)を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲(つ)がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子(ばつし)大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒(をか)す。敬高大西氏を娶(めと)る。文之助を生む。名は後素。(後素は、諱)字(あざな)は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)"・・・と。()書き幸田とあり、幸田成友(日本史学者。幸田露伴【幸田成行】の弟)著(1873 ~1954)『大 塩 平 八 郎 』の引用であろう。
幼くして、両親に先立たれた大塩(平八郎)は、もっぱら祖父政之丞(まさのじょう)の薫陶を受け、早くから志を立てていたとう。性格は峻厳、容易に人に従わぬというところがったようだが、与力として手腕を、振るい大坂にその名を知られるころには、高井山城守らの引き立てをうけるなど、自己の信条に共鳴する人たちにも恵まれていたという。
江戸後期の文化・文政期米価は低落傾向にあり、上方筋の摂津・河内・和泉の村々は、大坂市中の特権商人を相手に国訴と呼ばれるユニークな訴願運動を展開していた。そして、綿や菜種・油などの流通の自由を求めたもので、大坂町奉行所を舞台に1千ケ村の村々が連合し一定の成果をあげ、一部には、マニュファクチュア(manufacture)ともいうべきものが始動し大坂市中や農村も次第に変貌し始めていた。大塩は、この文政の大国訴(前田愛子「氷室の狼煙」1参照)が展開したとき、与力として町奉行所にあり、白洲で訴願する村役人の姿に考えさせられ、自らの学問を鍛えたのであろう。この大坂東町奉行所与力の時代は誘惑の多い役職にありながら精錬潔白な人柄で知られ、知行合一を信じて、大坂天満の自宅で洗心洞という私塾を開き、公務のあい間には求めに応じて陽明学を講じ、頼山陽に「小陽明」と評される程、陽明学者としても有名だった。大塩平八郎の乱は、このような時期に起こった。
11代将軍・徳川家斉の治世、松平信明の後任で老中・水野忠成らの悪政によって幕府の財政は破綻し、人心は疲弊していった。そこへ、天保3~4年から飢饉の様相が現れ、潤っていた農村は天保の大飢饉の追い討ちにより、不作・飢饉に連年見舞われる事になる。天保7年頃ともなると大坂の町中で餓死者が出るまでになってきたという。
この天保の大飢饉に、幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、大塩は、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請したが、まったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたがこれも実現しなかったという。その後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行や豪商らに対して天誅を加える以外に根本的解決は望めないと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。(茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱参照)
決起直前に内部に離反者が出たために準備の整わぬままに1837(天保8)年2月19日早朝、屋敷に火をかけ決起した。現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、奉行所の兵に半日で鎮圧され、大塩は40日余り潜伏した後に大坂に舞い戻ったが、逃げ込んだ先の美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町にあった)に出入りする奉公人から大坂城代土井利位に通報され、火薬を使って自決したという。
この乱は乱としては一日で収束し、失敗に終わったものの、この大塩の乱は、当事各地に起こっていた百姓一揆以上の衝撃を全国に与えた。それは、棒火矢・大砲を用いて火を放ち、市中の5分の1を焼失していること、下級幕史と百姓の連合軍であったこと、銃撃戦が展開されたこと、檄文による政治思想の主張を示していたこと、一部被差別部落住民の参加があったこと、幕政の革新を求め学者であったもと与力の首謀者であったこと等々、この乱は、これらの点で、今までの一揆とは違った特徴を持っていた。そして、新しい「世直り」「世直し」の契機となった。
大塩の乱は、大塩平八郎の陽明学的信念に基づいて起こされた事はいうまでもないが、その檄文には「都而(すべて)中興神武帝御政道之通、寛仁大度取扱」にすることが目標とされており、それは、祭政一致をのべた慶応4年10月13日の新政府の布告が「此度王政復古、神武創業ノ始ニ被レ為レ基レ、諸事御一新・・・」(レはレ点として読んでください)とはじめられていることに、はるかに呼応していたが、神武天皇の時代に復古しようというのは、どちらかと言うと秩序や制度や知識人の側からの発送であり、民衆の心をひきつけるためには、もっと、根源的な太古のユートピアがふさわしかったと思われる。その意味では、大塩の檄文も「堯舜(ぎょうしゅん)天照皇太神之御代に復シがたく共、中興之気象(注=神武天皇の支配をさす)ニ快復(かいふく)とて立ち戻り申べく候」と、その理想を二段構えにしており、天照大神の時代に、より根源的なユートピアがもとめられていたとしてよいだろう(週間朝日百科「日本の歴史」)
大塩の乱資料館>「大塩檄文」参照
http://homepage3.nifty.com/oshio-revolt-museum/gekibun-n.htm
この大塩の乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。檄文は木版刷りであり、 門下生や周辺の農村に向けたこの檄文は乱後奉行所は差し出すよう命じたが、幕府の取締りをかいくぐって写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万(いくたよろず)が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。
先にも書いたように、幸田成友に『大塩平八郎』があり、鴎外に幸徳事件を意識して書かれた小説『大塩平八郎』がある。
ただ、私には、いくら大儀のためとはいえ、大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛めて決起したはずなのに、たった一日も持たない乱を起こし、大坂の町に大火を起こしその民衆が困るような事をなぜしなければならないのか承服しかねる。
政治に関わるものが、業者と癒着し汚いお金との縁が切れないのは、今の世も同様である。昔から、政治的になどと言う言葉は、日本ではよいことに使われることはなかった。日本の社会では、昔から政治はきれいごとでは治まらないのが当たり前のようになっていた。最も、今では、民間人も、モラルは低下しており、金金金の世の中。どうしてこのようなと思うような人を毎回選挙で選んでいる人たちも多くいるのだから、どうしようもないよね~。こんなことで、クーデターを起こし街に火を放っていたら、今頃、日本中が火の海になっているだろうね~。
(画像は。大塩平八郎の似顔絵。大坂の町医者が文化3年(1806年)から、40年間にわたって世事を記録していた『浮世の有様』に描かれたもの。国立国会図書館蔵。週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
大 塩 の 乱 資 料 館
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) -大塩平八郎
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?keyword=%C2%E7%B1%F6%CA%BF%C8%AC%CF%BA+&and_or=AND&within_category=09_01_03
作家別作品リスト:No.129 森 鴎外(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html
洗心洞跡
http://www.road.osaka-city.or.jp/orc/rekishi/nakaturu/p45.htm
平成18年度一橋大学附属図書館企画展示・国訴
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/okadake/case9.html
徳川家斉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
打ちこわし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
堯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
大塩平八郎(寛政5年1月22日( 【1793年3月4日】~天保8年3月27日【1837年5月1日】)は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を勤めていた。「大塩平八郎の乱」を鎮圧され自害している 。
明治の文豪・森鴎外の書いた『大塩平八郎』に書かれている【大塩平八郎年譜】には、以下のように書かれている。
”寛政五年癸丑(一七九三年)大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地(さいち)を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲(つ)がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子(ばつし)大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒(をか)す。敬高大西氏を娶(めと)る。文之助を生む。名は後素。(後素は、諱)字(あざな)は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)"・・・と。()書き幸田とあり、幸田成友(日本史学者。幸田露伴【幸田成行】の弟)著(1873 ~1954)『大 塩 平 八 郎 』の引用であろう。
幼くして、両親に先立たれた大塩(平八郎)は、もっぱら祖父政之丞(まさのじょう)の薫陶を受け、早くから志を立てていたとう。性格は峻厳、容易に人に従わぬというところがったようだが、与力として手腕を、振るい大坂にその名を知られるころには、高井山城守らの引き立てをうけるなど、自己の信条に共鳴する人たちにも恵まれていたという。
江戸後期の文化・文政期米価は低落傾向にあり、上方筋の摂津・河内・和泉の村々は、大坂市中の特権商人を相手に国訴と呼ばれるユニークな訴願運動を展開していた。そして、綿や菜種・油などの流通の自由を求めたもので、大坂町奉行所を舞台に1千ケ村の村々が連合し一定の成果をあげ、一部には、マニュファクチュア(manufacture)ともいうべきものが始動し大坂市中や農村も次第に変貌し始めていた。大塩は、この文政の大国訴(前田愛子「氷室の狼煙」1参照)が展開したとき、与力として町奉行所にあり、白洲で訴願する村役人の姿に考えさせられ、自らの学問を鍛えたのであろう。この大坂東町奉行所与力の時代は誘惑の多い役職にありながら精錬潔白な人柄で知られ、知行合一を信じて、大坂天満の自宅で洗心洞という私塾を開き、公務のあい間には求めに応じて陽明学を講じ、頼山陽に「小陽明」と評される程、陽明学者としても有名だった。大塩平八郎の乱は、このような時期に起こった。
11代将軍・徳川家斉の治世、松平信明の後任で老中・水野忠成らの悪政によって幕府の財政は破綻し、人心は疲弊していった。そこへ、天保3~4年から飢饉の様相が現れ、潤っていた農村は天保の大飢饉の追い討ちにより、不作・飢饉に連年見舞われる事になる。天保7年頃ともなると大坂の町中で餓死者が出るまでになってきたという。
この天保の大飢饉に、幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、大塩は、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請したが、まったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたがこれも実現しなかったという。その後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行や豪商らに対して天誅を加える以外に根本的解決は望めないと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。(茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱参照)
決起直前に内部に離反者が出たために準備の整わぬままに1837(天保8)年2月19日早朝、屋敷に火をかけ決起した。現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、奉行所の兵に半日で鎮圧され、大塩は40日余り潜伏した後に大坂に舞い戻ったが、逃げ込んだ先の美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町にあった)に出入りする奉公人から大坂城代土井利位に通報され、火薬を使って自決したという。
この乱は乱としては一日で収束し、失敗に終わったものの、この大塩の乱は、当事各地に起こっていた百姓一揆以上の衝撃を全国に与えた。それは、棒火矢・大砲を用いて火を放ち、市中の5分の1を焼失していること、下級幕史と百姓の連合軍であったこと、銃撃戦が展開されたこと、檄文による政治思想の主張を示していたこと、一部被差別部落住民の参加があったこと、幕政の革新を求め学者であったもと与力の首謀者であったこと等々、この乱は、これらの点で、今までの一揆とは違った特徴を持っていた。そして、新しい「世直り」「世直し」の契機となった。
大塩の乱は、大塩平八郎の陽明学的信念に基づいて起こされた事はいうまでもないが、その檄文には「都而(すべて)中興神武帝御政道之通、寛仁大度取扱」にすることが目標とされており、それは、祭政一致をのべた慶応4年10月13日の新政府の布告が「此度王政復古、神武創業ノ始ニ被レ為レ基レ、諸事御一新・・・」(レはレ点として読んでください)とはじめられていることに、はるかに呼応していたが、神武天皇の時代に復古しようというのは、どちらかと言うと秩序や制度や知識人の側からの発送であり、民衆の心をひきつけるためには、もっと、根源的な太古のユートピアがふさわしかったと思われる。その意味では、大塩の檄文も「堯舜(ぎょうしゅん)天照皇太神之御代に復シがたく共、中興之気象(注=神武天皇の支配をさす)ニ快復(かいふく)とて立ち戻り申べく候」と、その理想を二段構えにしており、天照大神の時代に、より根源的なユートピアがもとめられていたとしてよいだろう(週間朝日百科「日本の歴史」)
大塩の乱資料館>「大塩檄文」参照
http://homepage3.nifty.com/oshio-revolt-museum/gekibun-n.htm
この大塩の乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。檄文は木版刷りであり、 門下生や周辺の農村に向けたこの檄文は乱後奉行所は差し出すよう命じたが、幕府の取締りをかいくぐって写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万(いくたよろず)が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。
先にも書いたように、幸田成友に『大塩平八郎』があり、鴎外に幸徳事件を意識して書かれた小説『大塩平八郎』がある。
ただ、私には、いくら大儀のためとはいえ、大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛めて決起したはずなのに、たった一日も持たない乱を起こし、大坂の町に大火を起こしその民衆が困るような事をなぜしなければならないのか承服しかねる。
政治に関わるものが、業者と癒着し汚いお金との縁が切れないのは、今の世も同様である。昔から、政治的になどと言う言葉は、日本ではよいことに使われることはなかった。日本の社会では、昔から政治はきれいごとでは治まらないのが当たり前のようになっていた。最も、今では、民間人も、モラルは低下しており、金金金の世の中。どうしてこのようなと思うような人を毎回選挙で選んでいる人たちも多くいるのだから、どうしようもないよね~。こんなことで、クーデターを起こし街に火を放っていたら、今頃、日本中が火の海になっているだろうね~。
(画像は。大塩平八郎の似顔絵。大坂の町医者が文化3年(1806年)から、40年間にわたって世事を記録していた『浮世の有様』に描かれたもの。国立国会図書館蔵。週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
大 塩 の 乱 資 料 館
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) -大塩平八郎
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?keyword=%C2%E7%B1%F6%CA%BF%C8%AC%CF%BA+&and_or=AND&within_category=09_01_03
作家別作品リスト:No.129 森 鴎外(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html
洗心洞跡
http://www.road.osaka-city.or.jp/orc/rekishi/nakaturu/p45.htm
平成18年度一橋大学附属図書館企画展示・国訴
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/okadake/case9.html
徳川家斉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
打ちこわし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
堯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
例え、正義のためであっても、軍事力を使えば、苦しむのは庶民です。絶対に軍事力行使は避けないとアカンと思います。
アメリカのイラク攻撃の大義が嘘っ八であってガラガラと崩れたにもかかわらず、日本は依然としてその片棒を担いでいます。
皆が真剣に考え、選挙をすればきっと変わると思うのですが、国民は諦めムードですね。