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3月1日 小説家・劇作家・俳人の久米正雄の1952(昭和27)年の忌日。
俳号の三汀から三汀忌、久米が「微笑」と「苦笑」を合わせて作った造語「微苦笑」から微苦笑忌と呼ばれている。大正末期から鎌倉に居を構えて中央文壇と鎌倉の文学者グループと活躍し、終戦前の1945(昭和20)年5月、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊。鎌倉ペンクラブ初代会長としても活躍。自らの文学を「微苦笑芸術」と呼んだ彼自身も鎌倉文士の1人である。
私は、久米正雄について、それくらいのいことは、知っていても彼の本や詩を読んだことがないので正直言って、彼のことは余り知らない。ただ、彼が作った造語「微苦笑」というのが面白くてとりあげた。
「微笑」は、「思わずほほえみを浮かべる」とかいうように微かに笑うこと。「苦笑」は「痛い所をつかれてにがわらいをする」とかいう風に心中の不快や動揺などをまぎらす笑いのことである。その2つをあわせての「微苦笑」というのは、イメージは出来るが、最近はとんとそういうものに出くわさなくなってしまった。前にも書いたことがあるが、かって、「面白さ」と言うものは、「面白半分」が常識で、「面白全部」は下品なものとして嫌われたものであったが、そんな「面白半分」が通じない世の中になって久しい。最近は、テレビなど見ていても、「もう、これ以上落せない」・・と言えるほどに、「おふざけ」が過ぎている感じ。人間、いつもいつも刺戟の強いものを食べていると段々と強い刺戟に慣れてしまい、普通のものでは美味しいともなんとも感じなくなるものであるが、今時、お笑いの世界だけでなく、全てにおいてやることなすことが過剰気味になってきている。一度箍(たが)が外れるというか、節度と言うものが守れなくなるとどんどんと行き着くところ(悪い方へ)行くものであろう。これ以上書くといやみになるので止めるが、いよいよ行き着くところまで来ているなというのが正直な私の感想である。
それは、さておき、造語「微苦笑」をつくった、久米正雄について、改めて蔵書を読んだり、以下参考に記載の Wikipedia他、久米関係ものを見て簡単に久米ものことに触れておこう。
久米正雄は、 1891(明治24)年11月23日、長野県上田市生まれの大正から昭和初期にかけての小説家、劇作家。
以下参考に記載の Wikipediaや、久米正雄[こおりやま文学の森資料館] などによると、彼の父は現在の上田市立清明小学校の校長だったが、1897(明治30)年、明治天皇の行在所(あんざいしょ。天皇が外出したときの仮の御所。)だった女子校舎が火災により焼失した責任を負って自殺しため、正雄は母の故郷である福島県郡山に移り住み、旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)では教頭西村雪人(以下参考に記載の「雪人西村岸太郎、俳句」参照)の指導で新傾向俳句を学び開成山の三つの池にちなみ俳号を三汀と号した。このころから既に俳壇で有望視され、第一高等学校英文学科に無試験で推薦入学した秀才であったという。在学中同期に芥川龍之介や、菊池寛がいたことも、文学開眼に大いに影響したようだ。東京帝大在学中の1914(大正3)年2月に一高同期の菊池寛や松岡譲 らととともに同人誌『新思潮』(第三次)を刊行、この時、菊池は菊池比呂士 の名で作品を発表している。又、久米は第2号(3月号)で、戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表しこれが有楽座で上演され好評を博し、劇作家としても認められることになった。(以下参考に記載の「文芸誌ムセイオン 「新思潮」を読む」参照)。「新思潮」は9月で終刊。1915(大正4)年に、夏目漱石の門人となる。翌1916(大正5)年2月に、第四次の『新思潮』が創刊し、翌6年1月に終刊を迎えた。この時参加した主な同人は、久米のほか菊池・松岡・芥川・豊島与志雄・成瀬正一らである。この創刊号に掲載された芥川の「鼻」が漱石に激賞された。 久米は,同年大学を卒業。年末には漱石が死去する。以下Wikipediaによれば、その漱石の長女筆子に久米,は恋していたらしいが、筆子は松岡譲を愛していたそうだ。それに加えて、筆子の学友の名を騙る何者かが、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した(関口安義『評伝松岡譲』によると、この怪文書の作者は久米と長年にわたり反目していた山本有三だったという)。この事件では一時的に筆子の同情を勝ち得た久米だったが、じきに自分が筆子と結婚する予定であるかのような小説を発表し、さらには「漱石令嬢、久米正雄と結婚」という情報を自ら雑誌に流すなどの行動が嫌われて恋に破れ、夏目家からは出入りを差し止められたという。久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、1918(大正7)年再上京し、「受験生の手記」などを発表する。これは大学受験の失敗と失恋の苦悩を綴ったもので、同年の短編集『学生時代』に収められ、長く読まれたという。しかしその4月、松岡と筆子の結婚が報じられると、久米は恨みをこめた文章をあちこちに書いたという。菊池が同情して、『時事新報』に「蛍草」を連載させ、この通俗小説は好評を博した。
以下参考に記載の作家別作品リスト:久米 正雄に「良友悪友」があったので読んでみた。松岡と筆子の結婚後1年半ほど後の1919(大正8)年10月の作品である。
”失恋のあとの落寞(らくばく。なんともいえないものさびしいさま)たる心持を癒すための変つた刺戟剤を、必要としているときにY氏やTがやつて来て、自分をあの遊蕩(いうたう)の世界へ導いて行つてくれた”とあるようにこの短編では登場人物の名にローマージを宛てて、良友悪友のことを論じ合っている。最後、”芸者をあげて又一頻(ひとしき)り、異ふ意味での談話が盛つたが、それでも二時近くになると皆引き揚げてゆき、Tと私とは、すつかり皆の帰つて了つた後に、女気なしで寝る蒲団を敷かせた。二人は何か二人きりで、話したくてならぬ事があるやうな気持だつた。「おい。まだ寝ないのかい。」と私は声をかけた。「まだだ。どうも寝つかれない。」私はそこで暫らく暗い天井を凝視(みつ)めてゐた。さうして一人でふゝと笑つた。「何を笑つたんだい。」Tが闇の中から訊(たづ)ねた。「なあに、奴らは、僕がかうして君と、此処に寝てゐるのを、夢にも知るまいと思つて。」Tはすぐには答へなかつた。そして暫らく経つてから、まるで別人のやうな静かな声音で、「併し君は幸福だよ。さう云ふ友だちを持つてるだけでも羨(うらや)ましい。」と云つた。「うむ……。」私は答ふる暇もなく、不意に瞼(まぶた)が熱くなつて来るのを感じた。”・・・ここでで「ふゝ」と笑っている・・・のが、「微苦笑」だろう。このころ、中条百合子(後に宮本顕治と結婚している)と交友関係があったという。百合子の祖母は久米 が育った開成山に在住していたので、彼女は幼少時代より毎年開成山に滞在していたことから、開成山での体験が小説『貧しき人々の群』(大正5年)として「中央公論」に発表している(以下参考に記載の「作家別作品リスト:宮本 百合子」で、『貧しき人々の群』が読める)。
1922(大正11)年になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を発表。これによって、主に女性読者から同情を集めたが、松岡は社会から指弾を受け、文壇で永らく不遇をかこったというが、これは関口安義の説であり、今東光は松岡の不遇につき「何もあの連中(久米たち) が村八分にしたから小説家としてダメになったんじゃなく、最初から小説家としての才能がなかっただけの話」と『極道辻説法』の中で評している。 (以下参考に記載の「小説家松岡譲について・その1」 参照)。
この翌年・1923(大正12)年久米31歳のとき結婚し、11月17日、帝国ホテルで結婚披露宴をしている(冒頭に貼付の写真)。「失恋以来、結婚理想論者になったから、たやすく相手がみつからなかった」など、辛口の祝辞を芥川・菊池寛らから浴びせられたという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。
「夜寒さを知らぬ夫婦と別れけり」 龍之介
1923(大正13)年11月17日久米正雄宛。芥川が詠んだ句。東京神楽坂「ゆたか」から。久米の結婚披露宴の後、小山内薫、直木三十五(この時は三十三のペンネーム)、菊池寛らと共に待合「ゆたか」から寄書したものものだそうだ(以下「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」より)。
又、以下参考に記載の「図書カード:芥川 竜之介「久米正雄」」では、ー傚(なら・う)久米正雄文体ーとして、”……新しき時代の浪曼主義者(ロマンチシスト)は三汀久米正雄である。「涙は理智の薄明り、感情の灯し火」とうたえる久米、真白草花の涼しげなるにも、よき人の面影を忘れ得ぬ久米、鮮かに化粧の匂える妓の愛想よく酒を勧むる暇さえ、「招かれざる客」の歎きをする久米、――そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。この久米はもう弱気ではない。そしてその輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。(中略)・・・愛すべき三汀、今は蜜月の旅に上りて東京にあらず。…………”と書き、「小春日や小島眺むる頬寄せて 」 と三汀の句を載せている。結婚した頃から、親友芥川の久米の評価もも大分良くなっているようだ。
ちょっと、又、時間を遡るが、以下参考に記載の「■幸福感満喫の1冊 夏目漱石書簡集 」 夏目漱石(金之助)の大正5年(1916年)8月24日付久米正雄・芥川龍之介あて手紙には、以下のように書かれている。
”・・・芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。决してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。(夏目金之助)”
漱石の門人となった年、第四次の『新思潮』創刊の頃のものであるが、漱石は芥川の作品に関しては大きく評価をしていたようだが、このころ、久米の小説には出来不出来が多いと書いている。俳句にしても芥川のものの方を好ましく思っていたようだ。だが、畫や絵は久米の方が上手いと驚いている。そして、最後に”牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。”・・と。
今東光は、先に紹介した「小説家松岡譲について・その1」 の中で、”当時、漱石の家へは、菊池、久米、芥川、松岡が出入りしていた。そして、長女筆子をめぐる漱石門下の葛藤があり、久米対松岡のライバル関係、そして悲恋の久米に同情したのが菊池と芥川。しかし、漱石が本当に婿に欲しかったのは芥川だったのだといっている。久米は醜男だし、小説を書く方もどうも態度がよくないというんで、久米は落第。漱石門下は評論家が多くて非常に厳重な考え方を小説に対して持っていた。松岡は稀な美男だったようでそれで、松岡になったのだろう”といっている。 確かに、久米や松岡など当時は知られた作家ではあったかもしれないが、今では芥川などの名に隠れてしまって、その作品を読んだ人がどれほどいるだろうか?
久米は関東大震災に遭遇した折、長谷寺へ避難したことが縁となり、1925(大正14)年から亡くなるまで鎌倉に居住。1932(昭和7)年、鎌倉の町議にトップ当選したが、1933(昭和8)年、里見ら3人のほか川口松太郎らと共に久米夫婦らも自宅などから召還され、花札の賭博で警察に検挙されている。これは、ダンスホールの男性教師と有閑マダムの不倫事件を捜査していていた警視庁が賭博現場などで有名作家ら15人を検挙、召還した事件が意外な方向に展開したものであった。有名作家ら15人の身柄を引き取ったのは菊池寛であったそうだ。
青空文庫に久米の「私の社交ダンス」(1931〔昭和6〕年1月)がある。当時社交ダンスが流行っていたらしいが、その地位は低く、風営法の規制対象とされていたようだ。その辺のことは以下参考に記載の「誰か昭和を想わざる 昭和8年・情痴ダンスで色魔のステップ 」を見ればよく判るよ。
第二次世界大戦後のことは、冒頭で書いた通りである。菊池寛との友情は長く続き、二度も盗作事件を起こしながら葬られずに済んだのは文壇の大御所菊池の後ろ盾があったからだそうだ。晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。死の直前に松岡と和解しているという。ちょっと調べてみると結構、「お騒がせ」な人だったようだね~。
忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる。
(画像は、192311月17日久米正雄結婚。帝国ホテルでの結婚披露宴のときの写真。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
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クリック→三汀忌、微苦笑忌、久米正雄の忌日
俳号の三汀から三汀忌、久米が「微笑」と「苦笑」を合わせて作った造語「微苦笑」から微苦笑忌と呼ばれている。大正末期から鎌倉に居を構えて中央文壇と鎌倉の文学者グループと活躍し、終戦前の1945(昭和20)年5月、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊。鎌倉ペンクラブ初代会長としても活躍。自らの文学を「微苦笑芸術」と呼んだ彼自身も鎌倉文士の1人である。
私は、久米正雄について、それくらいのいことは、知っていても彼の本や詩を読んだことがないので正直言って、彼のことは余り知らない。ただ、彼が作った造語「微苦笑」というのが面白くてとりあげた。
「微笑」は、「思わずほほえみを浮かべる」とかいうように微かに笑うこと。「苦笑」は「痛い所をつかれてにがわらいをする」とかいう風に心中の不快や動揺などをまぎらす笑いのことである。その2つをあわせての「微苦笑」というのは、イメージは出来るが、最近はとんとそういうものに出くわさなくなってしまった。前にも書いたことがあるが、かって、「面白さ」と言うものは、「面白半分」が常識で、「面白全部」は下品なものとして嫌われたものであったが、そんな「面白半分」が通じない世の中になって久しい。最近は、テレビなど見ていても、「もう、これ以上落せない」・・と言えるほどに、「おふざけ」が過ぎている感じ。人間、いつもいつも刺戟の強いものを食べていると段々と強い刺戟に慣れてしまい、普通のものでは美味しいともなんとも感じなくなるものであるが、今時、お笑いの世界だけでなく、全てにおいてやることなすことが過剰気味になってきている。一度箍(たが)が外れるというか、節度と言うものが守れなくなるとどんどんと行き着くところ(悪い方へ)行くものであろう。これ以上書くといやみになるので止めるが、いよいよ行き着くところまで来ているなというのが正直な私の感想である。
それは、さておき、造語「微苦笑」をつくった、久米正雄について、改めて蔵書を読んだり、以下参考に記載の Wikipedia他、久米関係ものを見て簡単に久米ものことに触れておこう。
久米正雄は、 1891(明治24)年11月23日、長野県上田市生まれの大正から昭和初期にかけての小説家、劇作家。
以下参考に記載の Wikipediaや、久米正雄[こおりやま文学の森資料館] などによると、彼の父は現在の上田市立清明小学校の校長だったが、1897(明治30)年、明治天皇の行在所(あんざいしょ。天皇が外出したときの仮の御所。)だった女子校舎が火災により焼失した責任を負って自殺しため、正雄は母の故郷である福島県郡山に移り住み、旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)では教頭西村雪人(以下参考に記載の「雪人西村岸太郎、俳句」参照)の指導で新傾向俳句を学び開成山の三つの池にちなみ俳号を三汀と号した。このころから既に俳壇で有望視され、第一高等学校英文学科に無試験で推薦入学した秀才であったという。在学中同期に芥川龍之介や、菊池寛がいたことも、文学開眼に大いに影響したようだ。東京帝大在学中の1914(大正3)年2月に一高同期の菊池寛や松岡譲 らととともに同人誌『新思潮』(第三次)を刊行、この時、菊池は菊池比呂士 の名で作品を発表している。又、久米は第2号(3月号)で、戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表しこれが有楽座で上演され好評を博し、劇作家としても認められることになった。(以下参考に記載の「文芸誌ムセイオン 「新思潮」を読む」参照)。「新思潮」は9月で終刊。1915(大正4)年に、夏目漱石の門人となる。翌1916(大正5)年2月に、第四次の『新思潮』が創刊し、翌6年1月に終刊を迎えた。この時参加した主な同人は、久米のほか菊池・松岡・芥川・豊島与志雄・成瀬正一らである。この創刊号に掲載された芥川の「鼻」が漱石に激賞された。 久米は,同年大学を卒業。年末には漱石が死去する。以下Wikipediaによれば、その漱石の長女筆子に久米,は恋していたらしいが、筆子は松岡譲を愛していたそうだ。それに加えて、筆子の学友の名を騙る何者かが、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した(関口安義『評伝松岡譲』によると、この怪文書の作者は久米と長年にわたり反目していた山本有三だったという)。この事件では一時的に筆子の同情を勝ち得た久米だったが、じきに自分が筆子と結婚する予定であるかのような小説を発表し、さらには「漱石令嬢、久米正雄と結婚」という情報を自ら雑誌に流すなどの行動が嫌われて恋に破れ、夏目家からは出入りを差し止められたという。久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、1918(大正7)年再上京し、「受験生の手記」などを発表する。これは大学受験の失敗と失恋の苦悩を綴ったもので、同年の短編集『学生時代』に収められ、長く読まれたという。しかしその4月、松岡と筆子の結婚が報じられると、久米は恨みをこめた文章をあちこちに書いたという。菊池が同情して、『時事新報』に「蛍草」を連載させ、この通俗小説は好評を博した。
以下参考に記載の作家別作品リスト:久米 正雄に「良友悪友」があったので読んでみた。松岡と筆子の結婚後1年半ほど後の1919(大正8)年10月の作品である。
”失恋のあとの落寞(らくばく。なんともいえないものさびしいさま)たる心持を癒すための変つた刺戟剤を、必要としているときにY氏やTがやつて来て、自分をあの遊蕩(いうたう)の世界へ導いて行つてくれた”とあるようにこの短編では登場人物の名にローマージを宛てて、良友悪友のことを論じ合っている。最後、”芸者をあげて又一頻(ひとしき)り、異ふ意味での談話が盛つたが、それでも二時近くになると皆引き揚げてゆき、Tと私とは、すつかり皆の帰つて了つた後に、女気なしで寝る蒲団を敷かせた。二人は何か二人きりで、話したくてならぬ事があるやうな気持だつた。「おい。まだ寝ないのかい。」と私は声をかけた。「まだだ。どうも寝つかれない。」私はそこで暫らく暗い天井を凝視(みつ)めてゐた。さうして一人でふゝと笑つた。「何を笑つたんだい。」Tが闇の中から訊(たづ)ねた。「なあに、奴らは、僕がかうして君と、此処に寝てゐるのを、夢にも知るまいと思つて。」Tはすぐには答へなかつた。そして暫らく経つてから、まるで別人のやうな静かな声音で、「併し君は幸福だよ。さう云ふ友だちを持つてるだけでも羨(うらや)ましい。」と云つた。「うむ……。」私は答ふる暇もなく、不意に瞼(まぶた)が熱くなつて来るのを感じた。”・・・ここでで「ふゝ」と笑っている・・・のが、「微苦笑」だろう。このころ、中条百合子(後に宮本顕治と結婚している)と交友関係があったという。百合子の祖母は久米 が育った開成山に在住していたので、彼女は幼少時代より毎年開成山に滞在していたことから、開成山での体験が小説『貧しき人々の群』(大正5年)として「中央公論」に発表している(以下参考に記載の「作家別作品リスト:宮本 百合子」で、『貧しき人々の群』が読める)。
1922(大正11)年になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を発表。これによって、主に女性読者から同情を集めたが、松岡は社会から指弾を受け、文壇で永らく不遇をかこったというが、これは関口安義の説であり、今東光は松岡の不遇につき「何もあの連中(久米たち) が村八分にしたから小説家としてダメになったんじゃなく、最初から小説家としての才能がなかっただけの話」と『極道辻説法』の中で評している。 (以下参考に記載の「小説家松岡譲について・その1」 参照)。
この翌年・1923(大正12)年久米31歳のとき結婚し、11月17日、帝国ホテルで結婚披露宴をしている(冒頭に貼付の写真)。「失恋以来、結婚理想論者になったから、たやすく相手がみつからなかった」など、辛口の祝辞を芥川・菊池寛らから浴びせられたという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。
「夜寒さを知らぬ夫婦と別れけり」 龍之介
1923(大正13)年11月17日久米正雄宛。芥川が詠んだ句。東京神楽坂「ゆたか」から。久米の結婚披露宴の後、小山内薫、直木三十五(この時は三十三のペンネーム)、菊池寛らと共に待合「ゆたか」から寄書したものものだそうだ(以下「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」より)。
又、以下参考に記載の「図書カード:芥川 竜之介「久米正雄」」では、ー傚(なら・う)久米正雄文体ーとして、”……新しき時代の浪曼主義者(ロマンチシスト)は三汀久米正雄である。「涙は理智の薄明り、感情の灯し火」とうたえる久米、真白草花の涼しげなるにも、よき人の面影を忘れ得ぬ久米、鮮かに化粧の匂える妓の愛想よく酒を勧むる暇さえ、「招かれざる客」の歎きをする久米、――そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。この久米はもう弱気ではない。そしてその輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。(中略)・・・愛すべき三汀、今は蜜月の旅に上りて東京にあらず。…………”と書き、「小春日や小島眺むる頬寄せて 」 と三汀の句を載せている。結婚した頃から、親友芥川の久米の評価もも大分良くなっているようだ。
ちょっと、又、時間を遡るが、以下参考に記載の「■幸福感満喫の1冊 夏目漱石書簡集 」 夏目漱石(金之助)の大正5年(1916年)8月24日付久米正雄・芥川龍之介あて手紙には、以下のように書かれている。
”・・・芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。决してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。(夏目金之助)”
漱石の門人となった年、第四次の『新思潮』創刊の頃のものであるが、漱石は芥川の作品に関しては大きく評価をしていたようだが、このころ、久米の小説には出来不出来が多いと書いている。俳句にしても芥川のものの方を好ましく思っていたようだ。だが、畫や絵は久米の方が上手いと驚いている。そして、最後に”牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。”・・と。
今東光は、先に紹介した「小説家松岡譲について・その1」 の中で、”当時、漱石の家へは、菊池、久米、芥川、松岡が出入りしていた。そして、長女筆子をめぐる漱石門下の葛藤があり、久米対松岡のライバル関係、そして悲恋の久米に同情したのが菊池と芥川。しかし、漱石が本当に婿に欲しかったのは芥川だったのだといっている。久米は醜男だし、小説を書く方もどうも態度がよくないというんで、久米は落第。漱石門下は評論家が多くて非常に厳重な考え方を小説に対して持っていた。松岡は稀な美男だったようでそれで、松岡になったのだろう”といっている。 確かに、久米や松岡など当時は知られた作家ではあったかもしれないが、今では芥川などの名に隠れてしまって、その作品を読んだ人がどれほどいるだろうか?
久米は関東大震災に遭遇した折、長谷寺へ避難したことが縁となり、1925(大正14)年から亡くなるまで鎌倉に居住。1932(昭和7)年、鎌倉の町議にトップ当選したが、1933(昭和8)年、里見ら3人のほか川口松太郎らと共に久米夫婦らも自宅などから召還され、花札の賭博で警察に検挙されている。これは、ダンスホールの男性教師と有閑マダムの不倫事件を捜査していていた警視庁が賭博現場などで有名作家ら15人を検挙、召還した事件が意外な方向に展開したものであった。有名作家ら15人の身柄を引き取ったのは菊池寛であったそうだ。
青空文庫に久米の「私の社交ダンス」(1931〔昭和6〕年1月)がある。当時社交ダンスが流行っていたらしいが、その地位は低く、風営法の規制対象とされていたようだ。その辺のことは以下参考に記載の「誰か昭和を想わざる 昭和8年・情痴ダンスで色魔のステップ 」を見ればよく判るよ。
第二次世界大戦後のことは、冒頭で書いた通りである。菊池寛との友情は長く続き、二度も盗作事件を起こしながら葬られずに済んだのは文壇の大御所菊池の後ろ盾があったからだそうだ。晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。死の直前に松岡と和解しているという。ちょっと調べてみると結構、「お騒がせ」な人だったようだね~。
忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる。
(画像は、192311月17日久米正雄結婚。帝国ホテルでの結婚披露宴のときの写真。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
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