今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

双六を禁止:参考

2009-12-08 | 歴史
参考:
※:d-score 楽譜 - 道中双六 
http://www.d-score.com/ar/A03052401.html
※:d-score あがり目さがり目
http://www.d-score.com/ar/A03021702.html
ゲームの日本史
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/rekisi01.htm
※:47ニュース「漢字物語」
http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/index.php
※:青空文庫:「葉」太宰治
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2288.html
※:青空文庫:作家別作品リスト:No.1074:水谷 まさる
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1074.html
※:万葉集に親しむ
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/manyou.htm
※:万葉集
http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html
※:クレオールタミル語による記紀万未詳語の解読
http://homepage3.nifty.com/umoregi/index.htm
※:続日本紀
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syokuki/syokuki.html
※:長谷雄草紙(絵巻物)
http://homepage2.nifty.com/orphoe/haseohsoshi2.html
※:双六ねっと
http://www.sugoroku.net/history/index.html
※:東京学芸大学附属図書館ホームページ
https://library.u-gakugei.ac.jp/top.html
※:講演「絵双六の世界」:学芸大図書館
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/tenjikai/koenkai_h17.html
青空文庫:与謝野晶子訳:源氏物語 目次
http://attic.neophilia.co.jp/aozora/genjimonogatari/htmlfiles/index.html
源氏物語現代語版メニュー
http://www7a.biglobe.ne.jp/~aoikankou/newpage40.html
『増殖する俳句歳時記』季語検索「春」
http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/kigo.html#winter
国立国会図書館:貴重書画像データーベース:錦絵:双六
http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_ni_detail.jsp?syubetu=3&syosi=2&data_id=SN000843
すごろく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%8F
綺陽会
http://www.kariginu.jp/
長奥麻呂(長意吉麻呂) 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okimaro.html
ボードウォーク・コミュニティー
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/bwc.htm
斎宮歴史博物館
http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/index.htm
双六 の画像検索結果
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E5%8F%8C%E5%85%AD&lr=&um=1&ie=UTF-8&ei=M1CGSoj5NY6IkQWQ5cWlBw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1
想像力とメディア :「双六」から「コンピュータゲーム」まで
http://www.hino.meisei-u.ac.jp/is/nishigaki/GAME.html
「源氏物語」の遊びについて*双六
http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/kisoen-02.htm
高浜虚子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
万葉集 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
タミル語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%AB%E8%AA%9E
長谷雄草紙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%9B%84%E8%8D%89%E7%B4%99
続日本紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
源氏物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

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「北国の宿」「星影のワルツ」などの作曲家・遠藤実の忌日

2009-12-06 | 人物
「北国の宿」「星影のワルツ」など多くのヒット曲で知られる作曲家・遠藤実が亡くなったのが昨:2008(平成20)年12月6日のことであった。
遠藤実は、東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)にて1932(昭和7)年7月6日に生まれた。この年は上海事変(第1次上海事変)の起った年だ。この後、1937(昭和12)年7月7日盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件(盧溝橋事件)が日中戦争(支那事変)の直接の導火線となり、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと繋がってゆく。遠藤はこんな第二次世界大戦時の最中に、新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)に疎開して、生活を送り、戦後間なしの1947(昭和22)年 同町にある小学校高等科を卒業したという。
新聞の報道によれば、この第二次世界大戦時の新潟での疎開生活が人生を決めたという。極貧の生活を味わい、家の床は砂地に板を並べて筵(むしろ)を敷いただけ。天上のない屋根からは雪が舞い込み、東京言葉をからかわれ、いじめにもあったという。だが、新潟には、民家の門前で越後獅子瞽女(ごぜ)など、芸を披露して金品をもらう「門付(かど)け」( Yahoo!百科事典参照)の伝統があり、歌で門付けを始めた16歳の遠藤少年に、人々は優しかった。「小さな家の人々ほど優しく、招き入れて、ご飯を食べさせてくれた。あの温かさに教えられました」。仏教に関心を持つきっかけになり、「門付けは托鉢と同じ」「歌謡曲は一番身近なお経」と語っていたという(2008・121・12付け朝日新聞)。
中学校にも行けず、1949(昭和24)年、歌手を志して17歳の時に上京し、8年間は行商や日雇い、流しの歌手をしながら作曲を独学で学んだ。1952(昭和27)年頃から、日本マーキュリーレコード(当時:タイヘイ音響、現在:廃業)の専属作曲家となり、本格的な創作活動をはじめ、1957(昭和32)年 「お月さん今晩わ」のヒットで、歌手としてより作曲家として認められ、これを機に作曲家(当時の芸名は星幸男)として活躍を始めるようになる。
日経新聞朝刊の最終面(文化面)に連載されている「私の履歴書」は、1956(昭和31)年3月からにスタートして今も続いている連載読み物であるが、連載開始当初より、その時まだ、活躍中の人物の連載を基本としており、私も現役時代はずっと愛読していたものであるが、現役を引退して、以降は、購読している一般紙だけでは経済状況など詳しく分らないので、時々購入して読む程度であるが、そんな「私の履歴書」に遠藤氏が亡くなられる2年ほど前に遠藤氏の記事が掲載されていたことがあり、その中に、初めてヒットしたこの曲を作ったときの状況が書かれていたのを思い出した。調べてみると、それは、2006(平成18)年6月掲載だったようだ。以下参考の※:「あおみ労務事務所_経営情報」の□2006.06.17(Sat)のところに、その時の概略が記されている。
“田舎から歌手を目指して上京するも果たせず、歌手を諦め、流しをしながら作曲家を目指して勉強していたが、「お月さん今晩わ」を作曲し、自作の曲を流しで歌っていると店での手ごたえが今までとは違った。しかし、所属していたレコード会社からは何の音沙汰もないまま時が過ぎ、翌:春の桜も過ぎた頃、「もう、この曲がヒットしなければ新潟に帰ろう。才能も運もなかったのだと思おう」・・・と、そんなことを考えながら部屋にいたとき、チンドン屋のクラリネットの音で自分の曲を聞き、はじめて自分の曲のヒットを知った。”・・・という。

こんな寂しい田舎の村で 
若い心を燃やしてきたに
・ ・・中略・・・
リンゴ畑のお月さん今晩わ 
噂を聞いたら教えておくれよなあ

「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、作曲:遠藤実、唄:藤島桓夫)・・MIDIは以下参考の※:「二木紘三のうた物語」のここで聞ける。
以下参考の※:「遠藤実再発見 ! - Haiの日記」」には、“「我が夢追い人生」遠藤実 作曲家・ 対談 上野繁樹 ディレクター ”として2人の対談(何時どこでのものかはわからないが・・)が詳しく記されているが、この曲に関するところには、以下のようなことが記されていた。
“農家に住み込みに行った時、砂山の畑の中に立ってお月さんを見て明日は東京に行こうと思うんだ。お月さん、いままで自分には幸せがありませんでした。東京に行ったらね歌い手に成れるのかね?いいことがあるのかね?今夜の夢でいいから教えてください。と懇願した事がある“そして、”昭和24年7月の20日に新潟から母親にも黙って、鈍行列車にのって上野まで十何日間かけて行った。そして、「歌い手になって必ず錦を飾って故郷に帰ってくる」というはがきを母親に投函した“ことを思い出される”・・・と。又、そこから最初歌詩は「砂浜のお月さん今晩は」にしようと思ったらしいが、砂は色も香りもロマンも無く悲しすぎると思い、三橋美智也の「りんご村から」という歌が流れてきたのを聞き、「林檎畑のお月さん今晩わ」にしようということになったらしい。「りんご村から」の歌は以下で聞ける。
YouTube -三橋美智也 リンゴ村から 
http://www.youtube.com/watch?v=OxUI5InCCvE&feature=related
この曲が流行した頃、この他にも「早く帰ってコ」「ぼくは泣いちっち」など、東京へ行ってしまった家族や恋人を思う歌や、「別れの一本杉」「お下げと花と地蔵さんと」「柿の木坂の家」など、故郷に残してきた家族や恋人を東京で偲ぶ歌が続けざまに出ているよね~。本当に歌謡曲と言うのはその時代背景をよく映している。
対談を読むと、新潟での体験が以下に遠藤少年の歌に影響を与えたかが知れる。
流しを経験した歌手は多くても門付けまで経験した遠藤の苦労はゼロからの出発などと言う生易しいものではなかったようだ。そんな、少年時代からの悔し涙や笑顔、ささやかな夢と家庭のぬくもり・・このように少年時代に人の何倍もの苦労をしてきた経験や新潟の自然豊かな田園地帯での、そして酷寒の厳しい環境の中で生活をしてきた経験が、人の心に訴える「歌って泣く」というスタイルの歌に結実したようだ。
新潟の紡績工場の工員をしていたとき工場に来ていた楽団の専属となり、最後のステージとなる豪雪地帯の長岡のとある駅から、1メートル先も見えない風が下から煽りあげてくる地吹雪のなか小太鼓と楽譜の入ったトランクを持って歩いた時、手の感覚がなくなり、荷物を投げ出し、自分の小便を手にかけて暖をとったという。その時、風に温かいものを感じは自分にはまだこんな温かいものが残っている。そして、俺は負けないぞ、やるんだという執念の様なものがその時わいてきたと。そして、あっという間に嘘のように今までの吹雪が収まった。そして空を見上げた時もう冬空満天の星だった。それがフイルムのように自分の脳裏に残っていて、それが、後の名曲「星影のワルツ」(唄:千 昌夫)を書かせることになったという。
遠藤実の作品には、この歌のほかやはり千昌夫の唄った「北国の春」(1977=昭和52年発売)があるが、千の岩手弁なまりの素朴な歌唱が遠藤のおおらかで暖かみのある曲の特徴を増幅している。
1958(昭和33)年発売の「からたち日記」(歌:島倉千代子)は、マーキュリー専属の遠藤が米田信一の匿名で初めてコロンビアの仕事をした作品。遠藤は作詞をし西沢 爽の詩に徹底的な一音符一音主義で、詩の抑揚に忠実に、しかも感情を込めて話しかけるような流れのメロディーをつけた。全体を詩の感じに合わせて作詞しているため、三拍子と二拍子が入り混じっているが、聞くたびに美しさと安らぎを感じさせる。島倉千代子にとって、初めての台詞入りの歌謡で、ドラマ仕立ての構成になっている。1958年当時、台詞入りの歌はヒットしないというジンクスがあったが、一番の歌詞につづく「幸せになろうね、あの人はいいました。・・」の台詞は一種の流行語になるほどのヒットをした。この歌は失恋の歌であるが、ただ寂しいだけでく、温かみのあるのが遠藤メロディーの良いところである。ただ歌の上手い島倉ではあるが、年をとってからの歌い方はやはり若いときの歌から見れば大分声量が落ち、歌い方が苦しそうである。コロンビアで発売当時の若い頃の歌は以下で聞ける。
YouTube -からたち日記 島倉千代子
http://www.youtube.com/watch?v=Q4Wk7Vy_f0A&feature=related
「一音符一語主義」は日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた山田耕筰が称えた作曲の方法で、これは、文字通り一つの語に一つの音符をあてはめる方法で、例えば「からたち日記」の一番の一節「 こころで好きと叫んでも」は「ココロデスキト サケンデモ」と12の音符をつけて表現する方法であり、作曲の視点を「日本語のもつ抑揚(イントネーション)」にあて、これを活かしたメロディーで多くの作品を残している(「一音符一語主義」のことについては、以下参考の※:「音楽と言葉」の○音楽と言葉・その12:豊かな抑揚への憧れ。また、※:「鶴の隠れ家」の◆音楽と言葉などを参照)。
遠藤の曲には、これらのほか、「高校三年生」(1963=昭和38年、唄:舟木一夫)など、大ヒットと同時に長く歌い継がれている歌が多くある。以下で、「高校三年生」の歌が聞ける。
YouTube- 舟木一夫 高校三年生
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=DA_W24hIRb0&feature=related

ついてくるかい 何も聞かないで
ついてくるかい 過去ある僕に
君を愛して いればこそ
生まれ変われた 僕なのさ
ついてくるかい 涙をわけあい
ついてくるかい 僕を信じて

「ついてくるかい」(歌:小林旭)
いま、ブライダルソングとして定着している思いやりの心、男の胸の温かさを感じるこの歌は、1971(昭和46)年4月マイトガイ小林旭が唄ってヒットした。日本マーキュリーレコードの専属から形式上の社長にも就任にしていたが、このレコード会社を辞して、再びフリーの一作曲家に戻った身辺の激変で、去る人、励ましてくれる人、今まで以上に声をかけれくれる人などいろいろな人が見えたが、外出の朝振り返るとそこには妻と自分の影しかないのを見て、遠藤はいつまでも側についてきてくれた妻の存在に改めてハッと気づき、妻に対する感謝の気持ちを込めてこの歌を作ったという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」。
先にも紹介した以下参考の※:「遠藤実再発見 ! - Haiの日記」の遠藤と上野繁樹との対談の中にあるところによると、新潟から東京に来てまだ流しをしていて「お月さん今晩は」が売れる前、食べるものにも不自由をしていたとき、三鷹のライス食券食堂でいつも食べたくても食べられない夢にまで見ていたでかくて厚いカツ丼の蝋で作った見本を恨めしげに見ながら定食の秋刀魚の開きをパクついていた時、それを同情したのか、頼みもしないカツ丼をドンと前に出され、こんなもの頼まないと言おうとしたら、女の子が側に来て「私のオゴリ」って言ってくれたという。それが嬉しくて涙して食べた。その女の子が後に結婚し妻となった人だそうだ。歌の詩通り、極貧の中苦労を共にしながら遠藤を支えてくれたのだろう。
テレビなどに出てくる遠藤の顔や話方などを聞いていても、遠藤と言う人は心底優しい人だということが感じられたよね~。
他にも「せんせい」(森 昌子)、「くちなしの花」(渡 哲也)、「すきま風」(杉 良太郎)「夢追い酒」(渥美 二郎)など、ヒットを曲を放ち生涯に手掛けた作品は5000曲以上に及ぶという。2003(平成15)年、歌謡界から初めて文化功労者にも選出された。
次々と昭和を代表する人達が亡くなり、本当に寂しい。今までの歌謡界の作詞家・作曲家は、西洋などの新しいものを次々取り入れながらも、日本の言葉や文化を大切にし、それを生かすようにして曲をつくってきた。最近は、そんな歌が少なくなり、若い人の日本語では歌っているがどこの国の人が歌っているのか分らないような歌詞や歌い方の曲を聴いていると、本当に歌謡曲華やかなりし頃が懐かしくて仕方がない。
好きな曲が多いが、その中で、私の最も仲の良かった飲兵衛仲間(数年前亡くなった)が、いつもカラオケで歌っていた渡 哲也の「くちなしの花」を聞いて、遠藤実をそして、亡くなった友人を偲ぶことにしよう。以下で「くちなしの花」が聞ける。
YouTube - 渡哲也 - くちなしの花
http://www.youtube.com/watch?v=26bsZe86X-I
(画像は、2007年、遠藤作品を歌う歌手が大勢参加した音楽祭。写真は記者会見に参加した左から小林旭、島倉千代子、遠藤実、千昌夫。2008・121・12朝日新聞より)
参考:
※:あおみ労務事務所_経営情報
http://www.aomi.jp/page40.html
※:遠藤実再発見 ! - Haiの日記
http://d.hatena.ne.jp/Hai/20060219
※:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_0e00.html
※:音楽と言葉
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh37.htm
※:鶴の隠れ家
http://gunmaopera.mizubasyou.com/turu-kakurega.html
遠藤実 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%AE%9F
財団法人 遠藤実歌謡音楽振興財団
http://www.minoru-endo.com/index1.html
1932年 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1932%E5%B9%B4
越後獅子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E7%8D%85%E5%AD%90
瞽女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%BD%E5%A5%B3
作曲家の遠藤実さん死去、「北国の春」など5000曲以上 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/music/081206/msc0812061240002-n1.htm
私の履歴書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E6%9B%B8
藤島桓夫 追悼盤〜藤島桓夫(オブさん)のすべて〜
http://listen.jp/store/cddetail_4988006112667.htm
山田耕筰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%B0

東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日

2009-12-04 | 歴史
1945 (昭和20)年8月15日 日本の無条件降伏により、第2次世界大戦が終結した。
第2次世界大戦の後半、1941(昭和16)年12月 太平洋戦争の戦端が開かれると、前半は攻勢であったものの1943(昭和18)年5月に前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島アッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)以降米軍の反撃が始まり、日本は、じりじりと敗戦に追い込まれるが、1945 (昭和20)年2月、硫黄島の戦いが始まった頃には、増援や救援の兵隊どころか、迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると米軍は特攻への対策法を編み出していたようだ。この特攻隊員に指名された者の死亡者も多いが生還したという例も結構多いようだ(特に沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上るという)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々のようである。第二次世界大戦中に日本海軍航空隊の戦闘機パイロットで、戦後、その経験を綴った著書『大空のサムライ』が世界的ベストセラーともなった坂井三郎は、戦後、「当時の新聞等で、特攻で士気があがったと書かれているが大嘘。士気は低下しました。全員死んでこいと言われて士気があがりますか。間違いなく士気はさがったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」と加藤寛一郎によるインタビュー(『零戦の秘術』講談社文庫P.304)に答えており、日本最大の撃墜王といわれた岩本徹三氏も、著書の中で特攻が知れ渡ると全軍の士気は目に見えて落ちたと述べているという(Wikipedia及び以下参考の:※:「零戦撃墜王―空戦八年の記録」のなかに書かれている読書感想文など参照)。
日本は1942(昭和17)年以降の戦局悪化で戦死者数が増加。従来、兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、東條内閣は1943(昭和18)年に兵力不足を補うため、在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布・施行。高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を中心に在学途中で徴兵し出征(学徒出陣参照)させた。同年10月21日、全国を代表して明治神宮外苑競技場で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が東條英機首相、岡部長景(東條内閣で文部大臣を勤め、学徒動員、勤労動員を実施)文相らの出席のもと実施された。文部省が壮行会を実施した目的は、学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚することにあった。そのため大観衆が集められ、女子学生や旧制高校生が動員されたという。2000(平成12)年8月14日、NHKスペシャル「 雨の神宮外苑〜学徒出陣・56年目の証言」では、当時のフィルムに記録された壮行会の様子を追いながら、戦争に直面した 若者たちの心の動きを生き残った人たちの証言および見送った女子学生の証言で描いているが、その証言の記録は以下参考に記載の※:「雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言」を見られると良い。この壮行会で送り出された出陣学徒25,000人のうち、3,000人以上が戦死したといわれているが、さらに、翌・1944(昭和19)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、この大戦で、次々送り出された学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されるようだ。その中の多くの学徒兵が戦没している。その中には敵と戦うというよりも、生きて帰って来れぬことを承知の上で、特攻隊員として、ただ機械の如く敵艦に体当たりすることを指名とされ、あたら短い命を散らしていったものも多い。このよう学徒動員を実施した東條は戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受け1948(昭和23)年に刑死したが、岡部は、戦後、戦犯容疑で逮捕されたが、のち東京国立近代美術館館長、国際文化振興会理事長などを務めた後、1970(昭和45)年に亡くなっているという(Wikipedia)。
戦争に駆り立てられたどちらかと言うと当時の日本においては知的エリート階級に属していた学徒兵達。そんな学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947(昭和22)年には東京大学の戦没学徒兵の手記をまとめた『はるかなる山河に』(東大学生自治会編)が刊行された。以下参考の※:「j-texts「はるかなる山河に」でその手記が読めるが涙なしには読めないだろう。
続いて1949(昭和24)年には、この手記を母体として東大出身者に限らず、BC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒の手記、遺書、日記などを遺族から募ったものを精選した遺稿集として『きけ わだつみのこえ』 (副題「戦没学徒の手記」)が出版された。この本を読めば、あの暗い時代に、人間の尊厳を失わず懸命に生きた若者像が浮かび上がって来る。戦後、日本人が戦争を問い直す原点ともなったといえるだろう。以下参考の※:「愛国顕彰ホームページ:祖国日本」の中の軍事裁判>の中にBC級戦犯者とされ無実の罪で処刑された木村 久夫の遺書が記されている。学徒兵には予備学生として特攻戦死者が多い。特攻作戦は無謀残酷なものあったが、戦没者は当時のマスコミから神鷲として崇められたが、戦犯刑死者にはなんの栄誉もない。戦勝国の復讐心を満たしただけで、戦犯の汚名をそそぐすべもなく絞首台の露と消えた。この遺書を読むと、当時の為政者に戦争責任があるのは当然のこととして、それとは、別に、このような無謀な戦争に日本の軍部が突き進んでいったことには、当時のマスコミ、それに、日本の全国民にいくばくかの責任があることを知らされるだろう。
本の題名の由来は、学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった中から京都府在住の歌人で学徒出陣兵であった藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷氏のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、応募用紙に以下の短歌は添えられていた。
なげけるか いかれるか はた もだせるか
       きけ はてしなき わだつみのこえ
「わだつみ」は日本神話に登場する海の神である「ワタツミ」つまり、「わた(海)のかみ」を意味しており、この詩は同書の巻頭に記載されている。
この本は大きな反響を呼び、初版発売後版を重ねベストセラーとなっていった。その後もカッパ・ブックスや岩波文庫となって多くの読者を獲得し、2度にわたり映画化された。
この本の刊行収入を基金にして刊行元である東大消費生活協同組合を中心に、1950(昭和25)年4月22日、「日本戦没学生記念事業会」が設立された。当会はのちに「日本戦没学生記念会」(通称:わだつみ会第1次)に名称変更し、平和運動組織体へと発展し、現在に至るまで『きけ わだつみのこえ』の編集を主要な活動としている。
わだつみ会の最初の事業としては戦没学生を記念する「わだつみ像」を制作することであった。こ会の活動を全学連(1948年9月誕生)も支援した。この像の制作は、彫刻家本郷新に依頼され、同・1950(昭和25)年8月15日、日本敗戦の記念日に、反戦平和の像「戦歿学生記念像・わだつみのこえ」として完成した。しかし、この像は、東京大学構内に設置することになっていたようであるが、東大評議会が同年の12月4日「わだつみ像」の学内設置を拒否したという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。何故、東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否したかについて、詳しいことは分らないが、以下参考の※:「『立命館百年史』編集室だより(「わだつみ像」建立50年)」には以下のように記されていた。
“像は東京大学構内に設置することで、当時の東大総長南原繁の内諾が得られていた。その台座も工学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12月8 日の太平洋戦争開戦記念日を期しての除幕に向け、準備が進められていた。ところがその直前の4日になって、東大の最高議決機関である評議員会が開催され、そこで構内への建立が拒否された。拒否は明らかに政治的理由であった。GHQ(占領軍総司令部)の意向があったとも噂された。わだつみ会は直ちに「わだつみ像設立拒否反対集会」を開き、建立を求める署名活動なども行ったが、大学の拒否の姿勢は変わらなかった。東大当局のこの姿勢は、社会的にも影響し、敢えてこの像の設置をひきうける大学は現れなかった。像は、それから2年余、本郷新のアトリエでねむりつづけた。”・・・と。
反戦平和運動を標榜するわだつみ会が制作を依頼した反戦平和の像を作成中の6月に奇(く)しくも、朝鮮戦争が始まっている。
第二次世界大戦終結後、GHQは日本の「民主化・非軍事化」を推進していたことから、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化していた。しかし、1949(昭和24)年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、GHQは今までとは逆に弾圧する方針に転じたことから、1950昭和25)年5月30日には日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突する事件(人民広場事件参照)が起り、6月に朝鮮戦争が勃発すると、戦後行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージが本格化した。いわゆる「逆コース」といわれるものである。そのような時世から考えて、ここに書かれているように、GHQあたりからの圧力など何らかの政治的理由があった故に、東大評議会が構内に設置することを拒否したものだろう。
わだつみ会が呼びかけた反戦平和運動は、当時の青年学生の心をとらえ、全国の大学・高校に急速にわだつみ会の支部がつくられてゆき、1951(昭和26)年春、立命館大学に「わだつみ会立命支部」が結成されると、同時期に結成された「反戦学生同盟立命支部」と共に、学友会をはじめとする学内諸団体に呼びかけ、太平洋戦争開戦10年目にあたるこの年、立命館学園関係戦没者の慰霊祭の開催を呼びかけ実行委員会により、太平洋戦争開戦日にあたる12月8日、「全立命戦没学生追悼慰霊祭」が行われ、「わだつみ像」を立命館大学に迎えることが提案され、満場一致の決議となり、2年後の1953(昭和28)年12月8日、像は広小路学舎校庭で除幕式を迎えた。この像が11月11日立命館へ到着し、立命館大生を中心とする歓迎デモ隊が市中を行進している日、立命館大において開催中の学園復興会議の集会に合流するためこれに合流しようとしていた京都大学の学生が荒神橋上にさしかかったとき、不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった機動隊と衝突し、多数が鴨川に転落・負傷するという事件(荒神橋事件)が発生。このことに対して京都市警に抗議デモをした学生たちと市警との間で「京都市警本部前事件」という学生運動史上に残る2つ事件が起こっている。
学園では翌1954(昭和29)年12月8日、像建立1周年を記念して、この像の前で「第1回不戦のつどい」を開催。それ以来、激動の大学紛争のさなかも含めて毎年、1度も休むことなく、全大学構成員参加の下に「つどい」が開催されてきたとう。この間、1969(昭和44)年5月20日に、「全共闘」を名乗る集団によって構内の「わだつみ像」が引き倒されて破壊されたが、新しく造り直され12月8日除幕、披露された。その後、暫くの間は、箱入り像として保護されていたようだ。(冒頭の画像左が新しく造り直されたわだつみ像右は、5月20日に破壊された像であろう。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
第1次わだつみ会の時代には学生層が中心となり、運動の政治化・先鋭化とそれをめぐる対立が激化したため、1958(昭和33)年の第9回大会をもっていったん解散した。
会は解散から間もない翌1959(昭和34)年6月には再結成され(第2次わだつみ会)、それまでの活動の反省を踏まえて反戦運動・政治運動からは距離を置いた。このため会の運営はやや年上の戦中派世代の知識人・著名文化人が中心となった。しかし今度は戦争経験を持たない若い世代との対立が激しくなり、1969(昭和44)年の立命館大学に設置の「わだつみ像」破壊事件などをきっかけに若い会員が大量に脱退。戦中派世代だけで再建された第3次わだつみ会では少年兵経験を持つ渡辺清が運営の中心になり、機関誌『わだつみのこえ』で「天皇制特集」を企画するなどして再び会員層を広げ、現在に至っているという(Wikipedia)。
先の戦争に対する考え方も時代、世代によって受け止め方は異なるであろうし、ベストセラーとなった同書に登場する学徒兵の戦争体験、戦死への旅立ちについての共感、反感、反省なども時代と共に評価は異なるであろう。
『きけ わだつみのこえ』は、戦争の被害者としての若い世代ということを強調しようということから、軍国主義的内容に共感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、初版本において、編集側の方針で削除されていたよう(Wikipedia)であり、こうした文章の改編に対してすべてを客観的事実として掲載するべきであるとの批判もある。また、東大出版会の学術書刊行方針により重版が途絶えていた10年後に、再建わだつみ会(第2次わだつみ会)の最初の仕事として、光文社「カッパ・ブックス」より「新版」と銘打って発刊された(1959年10月)た後、岩波文庫からも「新版」が発刊されている。ところが、この岩波文庫の1995年版の「新版」が勝手に改変されたとして、遺族二人が同会と岩波書店を告訴をしている(以下参考の※:「日本ユニ著作権センター/裁判の記録1998下」参照)。私には、何がどのように違うのかよくわかないが、以下参考の※:「日本戦没学生の思想(PDF)」に詳しく書かれているのでそれを見られると良い。
(画像は、左:1969年5月20全共闘学生により引き倒し破壊された立命館大学構内の「わだつみ像」。右:翌年新しく作り直され12月8日序幕・披露された同像。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
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クリック⇒東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日:参考

東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日:参考

2009-12-04 | 歴史
参考:
※:零戦撃墜王―空戦八年の記録 (光人社NF文庫、岩本 徹三 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982050X/ref=asc_df_476982050X87093/?tag=nicovideojp-22&creative=380333&creativeASIN=476982050X&linkCode=asn
※:旧制高校等の学徒出陣・応召学徒に関する記録のリンク
http://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/~dosokai/dosokai/enkaku/7kou/sensou/oushou/link.htm
☆末川博(すえかわひろし)☆
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/suekawahirosi.htm
※:わだつみ像==未来に生きる
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/wadatumizou.htm
※:雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/gakuto/sub_gakuto.html
※:j-texts「はるかなる山河に」:東大学生自治会編
http://j-texts.com/sheet/haruka.html
※:愛国顕彰ホームページ:祖国日本
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/index.htm
※:『立命館百年史』編集室だより(「わだつみ像」建立50年)
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/hyakunen/newsletter/361hyakunen.htm
※:『占領と平和』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0504mc.htm
※:法政大学:大原社会問題研究所「日本労働年鑑」
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/
※:日本ユニ著作権センター/裁判の記録1998下
http://www31.ocn.ne.jp/~jucccopyright/trial/trial-1998-2.html
※:日本戦没学生の思想(PDF)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/579/579-03.pdf#search='きけわだつみのこえ 初版本 編集側の方針で削除'
最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇』(森口 豁 著 講談社文庫)を読んで
http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/257066/blog_id/100298
BC級戦犯の声を聞く-(BC級戦争裁判とは 後編)
>http://www.nichibun-g.co.jp/magazine/history/017.html
連合国軍最高司令官総司令部 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/GHQ
丹下健三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89
戦争と日記
http://www.geocities.jp/meitoreo/index.html
渡辺清『戦艦武蔵の最期』
http://www32.ocn.ne.jp/~everydayimpress/sennkannmusasinosaigo.htm
わだつみ会
http://www.wadatsumikai.org/home
わだつみ像-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%BF%E5%83%8F
NHKアーカイブス 保存番組検索
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/search/?q=%E5%87%BA%E9%99%A3

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手帳の日

2009-12-01 | 記念日
今日・12月1日は「手帳の日」だそうである。
日本記念日協会の由緒を見ると、「師走に入り、手帳を活用して1年を振り返り、新しい手帳を準備する時期であることから、ビジネス手帳の元祖能率手帳」を製造販売している株式会社日本能率協会マネジメントセンターが制定した日だそうで、この日には、書店や文具店などの手帳売り場でのキャンペーンなどを行っているようだ。。
能率手帳は、日本能率協会のコンサルタントが使っていた手帳を会員向けに配布したのが起源だそうで、 時間管理(タイムマネジメント)の行える手帳としては、日本最初と言われている。 能率手帳が元となりシステム手帳のBindexが生まれたと言われている。
私も現役時代、仕事上のスケジュール管理のためなど、システム手帳を使っていた。システム手帳に変わる新兵器として電子手帳が1983(昭和58)年、カシオ計算機より発売されると、翌・1984(昭和59)年にはシャープが発売と次々発売された。私など、好奇心旺盛で物好きな人間は、直ぐにそれに反応し、1993(平成5) 年発売された8ビットCPUとモノクロ液晶を使用したシャープの「 ザウルス(Zaurus)」PIシリーズ を購入した。手書き認識が出来るというので買ったのだが、確かに、正確に書けば認識するが、仕事などで、使ってみると特に私のように、下手な字を書くと殆ど認識しない。それでゆっくり書くと会議などのメモ帳としては、使えず、ネットと接続すればメールの受発信にも使えたのだが、そのようなネットとの接続もしていないので、結局は、スケジュール管理と住所録に使用していたようなものである。メモ帳としては、普通の手帳を使用したので、それなら、最初からシステム手帳を使えばよかったのである。結局、電子手帳は使いこなせず高いおもちゃとなってしまった(^0^)。
どこの会社もそうであろうが、私が、現役時代勤めていた会社の総務部門や営業部門に、取引先などから年末の挨拶時にカレンダーと供に多く贈呈されていたのが手帳であり、私は、営業や総務にも顔が利く関係で、責任者に自分の好みの手帳を申し述べ毎年その手帳を貰うようにしていた。会社からは、会社の事業年度(決算期)に合わせたスケジュール表付の会社専用手帳が従業員全員に配布されていたのだが、私には、私の仕事上利用のしやすい大きさや仕様などがあるので、そうさせてもらっていた。しかし、もう、現役を退いた私など、スケジュール表の入った手帳など必要もなく、医者の定期健診日など僅かの予定日は、カレンダーへの書き込みで十分事足りてしまっている。
手帳は、その人の職業柄また好みでいろいろな手帳が使われるだろう。専門的な職業の人が使う手帳としては、会計手帳や、税務手帳が有名であり私も簡単な会計や税務の法規が綴りこまれているのでこれを地擁したことがある。そのほか、記念日や名言・格言、占い手帳まで今では種類は豊富だ。
近年の手帳は、新年からではなく、前年の12月から始まっているものも多くなっているので、12月になったら早々に新しい手帳にかえてしまう人も多いだろう。
私など、現役時代には、よく、松下幸之助の一日一話 (PHP総合研究所編)など、参考にし、自分の行動指針として、また、何かの時のネタに気に入ったものは、手帳にメモって置いたことがある。そんなことを思い出して、今日・12月1日の<松下幸之助一日一話>を見ると、「自分の最善を尽す」があり、”太閤秀吉という人は、ぞうり取りになれば日本一のぞうり取りになったし、炭番になれば最高の能率を上げる炭番になった。そして馬回り役になったら、自分の月給をさいてニンジンを買い、馬にやったという。このため嫁さんが逃げてしまったということだが、そこに秀吉の偉大さがある。馬番になったが「オレはこんな仕事はいやだ」などと言わずに、日本一の馬番になろうと努力した。つまり、いかなる環境にあっても、自分の最善を尽し、一日一日を充実させ、それを積み重ねていく。それが役に立つ人間であり、そのようなことが人を成功に導いていく道だと思うのである。 ”・・・とあった。
これを読んでいると、『人事を尽くして天命を待つ』のことわざを思い出す。
広辞苑によれば、「人間として出来るかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」・・ということであり、これは、南宋初期の中国の儒学者胡寅(こ・いん)の書『読史管見(とくしかんけん)』に出てくることばだそうだ。
由緒については、Yahoo知恵袋に「人事を尽くして天命を待つの由来は何ですか?」の問いに回答が寄せられているのでそれをみられると良い。以下参照。
人事を尽くして天命を待つの由来は何ですか?」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410790124
今、日本は、アメリカのサブプライムローン問題に端を発したリーマン・ショック以降、内需が落ち込み先行き不透明な状況にある。しかし、そうだからと言って、先のことを考えてくよくよしていても仕方がない。悪い結果ばかり考え心配していると心を労する。今はただ、自分のできる最善を尽くしてその先どうなるかの結果は天に任せるしかない。結果をあれこれと考える時間があればその分、今出来ることをやりつくすことだろう。そう考えて、最も自分に必要と思われる名言や諺を、来年の手帳の端々に、記しておいて、座右の銘としてはどうだろう。そして、自分の能力を100%出し切り、自分の良かれと思うことにただひたすらにつつき進む。その上で、上手くゆけば、その時期に感謝し、上手く行かなければ、今はそのような時期ではなかったのだと思って、次に向けて頑張るしかない。
今年・2009(平成21)年1月から、NHK大河ドラマ「天地人」が放映されている。主人公は上杉家の家臣として上杉景勝を生涯支え続けた直江兼続である。以下参考の※:「NHK「天地人」番組ホームページ(放送サイト)」の企画意図にも書かれているように、上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、「利」を求める戦国時代において、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将であり、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代社会に通じる問題をテーマーに盛り込みながら、兼続の生涯を描いたとされている。原作は火坂雅志氏の同名小説(NHK出版)である。
タイトル「天地人」の由来は、1698(元禄11)年成立の越後上杉氏の軍記物(史書というより伝承の集大成といったもの)『北越軍談』の中の謙信の言葉(謙信公語類)からきているという。
輝虎(謙信)公曰く。「天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というは、和漢両朝上古(じょうこ)にだも聞こえず。いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっともこの三事整うにおいては、弓矢も起こるべからず、敵対する者もなし」
つまり、「天の巡り合わせが良く(天の時)、地勢の有利さに恵まれ(地の利)、家臣・領民がよくまとまっている(人の和)、この3つの条件が揃うことが理想だが、そんな人物は日本や中国の歴史どころか神話の時代にも聞いたことがない。もっともこんな3つの条件が揃うようなら、戦も起こらないし、その大将に敵対する人物も現れないだろう」と語っているのだ。
この謙信の言葉には、さらに語源があり、孟子の教え「孟子曰、天時不如地利、地利不如人和・・・(以下略)」(孟子は言う。天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず。・・・)を引用したものと考えられているようだ。
ここでは、必ず天の与えたチャンスがいつかはあったはずだ。それなのに勝てないのならば、その理由は天の時すなわちチャンスをうまく掴んでも、地の利を覆すことはできない。地の利すなわちトータルな客観的状況を充分に利用しても、人の和すなわち人の心の団結力を覆すことはできない。・・・と言っており、結論として、人の上に立つものであろうとそうではない普通のものであろうと、仁義の道に外れた者に勝機はないと言っているようだ。以下参考の※:「孟子を読む」の公孫丑章句下 :一を参照されるとよい。含蓄のある言葉だ。この孟子の言葉を信じて行動した謙信を尊敬していた兼続もその言葉を信じて行動したのであろう。
世間に「他力本願」と言う言葉があるが、これを、“他人を当てにして自分では何もしないことというのは誤用である。この言葉は仏教用語の「他力」と「本願」から来ているが、仏教の「他力」とは仏・菩薩などの働きをいっており、縁起を根本とする仏教の考えからすれば、自己の行為()は全て「他力」とも考えられている。「本願」は仏や菩薩が過去において立てた誓願を指すが、私は仏教の専門家ではないので、詳しいことは説明出来ないので興味のある人は自分で調べられると良い。要するに、自分は自分自身の力で自分になったのではなく、様々な縁に支えられて自分になったということを意味している。
だから「人事を尽くして天命を待つ」と言うよりも、むしろ、「人事をつくすことが天命」である・・・ということを知って行動することが肝要ではないかと思うのだが・・・。「手帳の日」つまらぬことを書いてしまったが、あなたの来年の手帳に何を書き込むか・・・。仕事や、行楽などのスケジュールだけでなく、「自分の最善を尽す」為に、どのように一日一日を充実させ、それを積み重ねていくか・・・そのために、賢人の格言やことわざなどをメモっておいて時々読み返すの良いのでは・・・。
(画像は、2010年版 能率ダイアリーB5に、火坂雅志氏の小説「天地人」などを合成したもの。)
参考:
※:NHK「天地人」番組ホームページ(放送サイト)
<ahref=http://www3.nhk.or.jp/taiga/>http://www3.nhk.or.jp/taiga/
※:孟子を読む
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius.html
能率手帳 - Wikipedia
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PHP研究所ホームページ
http://www.php.co.jp/
hi-ho日めくりカレンダー
http://kurashi.hi-ho.ne.jp/cale/index.html
胡寅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%AF%85
歴史書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%9B%B8
非理法権天 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%86%E6%B3%95%E6%A8%A9%E5%A4%A9
天-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%A4%A9/
リーマン・ショック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF
天地人 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia
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北越軍談 - Wikipedia
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孟子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
故事 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E4%BA%8B
他力本願 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
株式会社日本能率協会マネジメントセンター(JMAM)
http://www.jmam.co.jp/company/top.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html