今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

電気自動車の日 (Ⅱ)

2010-05-20 | 記念日
1955年から高度経済成長と共にガソリン車が順調に成長をしていくが、1965(昭和40)年頃には、急激なモータリーゼーション(自動車の大衆化)の進展による排出ガスや騒音などの自動車公害(大気汚染)が大きな社会問題となり、電気自動車への関心が再び高まり、電気自動車の開発が再スタートした。1970 (昭和45)年日本で初めて開催された大阪万国博覧会では、電気自動車は、展示物と言うよりも会場内の交通機関の一つとして活躍し、来場者用のタクシーのほか、放送用機材を運搬するプレスカーや施設管理用のパトロールカーなどに使われた(ダイハツが開発したEV Taxi。以下参考の※10参照)。
1971(昭和46)年には、米国で「マスキー法」が制定された。これは自動車の排気ガスに含まれる一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を現在の10分の1に削減することを義務付けた大気汚染防止法で、この基準をクリアできない自動車は販売が認められないことから、1971年~1976年に、当時の通産省(現:経済産業省)による電気自動車の研究開発の大型プロジェクト(自動車・電機・電池メーカーが参加)が設立された。
1976(昭和51)年には、(財)日本電動車両協会が設立(設立目的等以下参考の※9参照)され、産・官・学一体となって普及への取り組みが推進され電気自動車に大きな期待が寄せられた。又、こうした国の動きとは別に、自動車メーカー各社も新たな触媒の開発やクルマの電子制御化に力を注いだ(>ホンダは低公害エンジン「CVCC」の開発に着手)。しかし、このときはガソリン車の排出ガス浄化技術の性能が飛躍的に向上したが、電気自動車の性能や価格などは、まだ、商品としての評価を得られず世の中から姿を消していったが、このころが、第二次電気自動車ブーム時代といえるだろう。
1990年代になると、都市郊外や地球温暖化がより社会問題化し、さらに、石油枯などのエネルギー問題などへの対応、また、米国カリフォルニア州でZEV(ゼロミッションビークル)規制(以下参考の※11参照)が制定されたことにより電気自動車の開発が再開された。
政府は電気自動車実用化の鍵を握る「EV用電池開発プロジェクト」を1992(平成4)年から発足し、実用化の鍵を握るリチウムイオン電池の技術開発をスタートさせた。そして、1995(平成7)年 には、政府公用車の10%を低公害車とする閣議決定模された。
1996(平成8)年には、EV車の総合的な評価試験が行われ、今までの電気自動車とは性能が格段に向上した第2世代と言われる新しい電気自動車が登場し脚光を浴びるようになった。今までの電気自動車(第1次世代。1973年実験)が指摘されていた多くの課題を解決したしたものであるが価格が依然高いことから大量販売には至らなかった。この時代(1990年~2000年)に開発された電気自動車には、トヨタの『RAV4L V EV』やホンダの『EV PLUS』があり、ハイブリッド車『プリウス』もこの頃に誕生した。価格もそれまでの電気自動車に比べると大幅に安価で売れることから販売目標台数を上回り、生産台数も半年後には倍に達する売れ行きとなった。
2005(平成17)年愛知万博略称:「愛・地球博」では、「自然の叡智 Nature's Wisdom」 “人と自然がいかに共存していくか”、というテーマを掲げた上で、環境万博を目指して開催された。同万博では、会場内交通手段(長久手会場内の駅とモリコロメッセの前にあるメッセ前バス停の4か所を結ぶ)の一つとして、トヨタグループが開発した、IMTS(電波磁気誘導式のバス)が登場。長久手会場と瀬戸会場間は燃料電池ニッケル水素電池を動力源としトヨタ・FCHV-BUS(ハイブリッドカー)で結ばれた。
又、会場を一周するように設置されたグローバル・ループ(水平回廊)には、電気自動車グローバル・トラムを日本通運が運営し、同ループ上を、ブリジストンサイクル・ナショナル自転車工業・ヤマハ発動機などの電動アシスト自転車タクシーが走った。
そして、2009年からいよいよEVの量産・市販化がスタートした。ついに電気自動車“元年”到来か?・・・といった記事が日経新聞を賑わしたが・・・(以下参考の※12参照)。
これが、第三次自動車ブームの到来と言うことなのだろうが・・・さて、これから先どうなることだろうか・・・?
(画像向かって、左:エジソンと1914年型 Detroit Electric モデル47、右:愛知万博で活躍したトヨタの「FCHV-BUS」、いずれもWikipediaより)

参考:
※1:GSYUASAホームページ
http://www.gs-yuasa.com/jp/
※2:環境ナノテクがエレクトリック・カーの未来を開く(環境省HP)
http://www.env.go.jp/policy/tech/nano_tech/review/theme/03/01.html
※3:自動車について
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/KADAI/28KI/kadair23.htm
※4:ずんぐり車図鑑・自動車年表
http://www.pupukids.com/jp/hobby/zunguricar/htmls/car-chronology.html
※5:ニッ サンは日本の電気自動車の草分けか(PDF)
http://www.ne.jp/asahi/yada/tsuneji/history/EV-japan.pdf#search='日本電気自動車製造'
※6:機械技術研究所 写真で見る25年史
http://www.mel.go.jp/soshiki/tokatsu/25nensi/index.htm
※7:トヨタ博物館ブログ・目次
https://gazoo.com/G-Blog/tam/4121/Category.aspx
※8:トミカコレクション
http://homepage2.nifty.com/ozawa2001/catalog_frame.htm
※9:EICネット[環境機関情報 - 日本電動車両協会]
http://www.eic.or.jp/org/?act=view&serial=261
※10:ダイハツ用語集
http://homepage1.nifty.com/movinmove/daihatsu%20corner/yougosyu/yougosyu%20am/Yougosyu.htm
※11:ZEV規制 - 日経エレクトロニクス - Tech-On!
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/WORD/20080123/146089/
※12:2008年12月14日付けの日本経済新聞朝刊は「2009年は量産化された電気自動車が町中を走る“元年”になる」と報じた。
http://premium.nikkeibp.co.jp/em/column/torii/42/index.shtml
自動車の電池課について(PDF)
http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g80425d04j.pdf#search='EV用電池開発プロジェクト'
ahead Vol.72 SPECIAL 特集 READY to EV
http://www.ahead-magazine.com/articles/72_special_2.html
EVヒストリー EV MUSEUM|一般社団法人 次世代自動車振興センター
http://www.cev-pc.or.jp/NGVPC/museum/history.html
電気事業―Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E4%BA%8B%E6%A5%AD/
(社)自動車技術協会「日本の自動車技術240選」
http://www.jsae.or.jp/autotech/
石油減耗時代が到来? −石油枯渇に関する国際ワークショップの議論から−(PDF)
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2005/11/05_11_02.pdf#search='石油減耗時代が到来? −石油枯渇に関する国際ワークショップの議論から−(PDF)'
電気自動車の LCA 調査研究(PDF)
http://isw3.kankyo-u.ac.jp/project/2004/project/1013001.pdf#search='1965年 通産省 電気自動車 研究開発プロジェクト'
電気自動車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

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切り絵作家・滝平二郎忌日

2010-05-16 | 記念日
今日・5月16日は、切り絵作家・版画家の滝平 二郎(たきだいら じろう)の2009(平成21)年の忌日である。
滝平 二郎(たきだいら じろう)は、茨城県に生まれる。絵は独学で勉強をしたそうだ。
太平洋戦争で沖縄戦に従軍、復員後に木版画家として独立。1960年代後半から、木版画に似ているからと切り絵を手掛けた。1967(昭和42)年児童文学作家の故・斎藤 隆介と組んだ絵本『ベロ出しチョンマ』(以下参考の※1.※2参照)の切り絵を挿絵画で注目され、「切り絵」を用いた絵本「八郎」「モチモチの木」「花さき山」など多くのロングセラーを生み出したが、正直、私は、これらの本を読んでいないので内容のことは良く知らない(絵本のことは以下参考の※3:絵本ナビを参照)。
1970(昭和45)年9月から1978(昭和53)年1月にかけ朝日新聞の日曜版に独自の切り絵を連載し、好評を博すと共に名が広まった。
私にとっては、内容は覚えていないが新聞などでよく観た絵が懐かしい。かっての農村風景や庶民の暮らしを詩情豊に描いていた作品は生まれ故郷の茨城県をイメージしてのものだろうか。そういえば、私は切手も少し収集していたので、この分野にも興味をもっているが、郵便切手の「昔ばなしシリーズ」第3集「一寸法師」の「おわんの船」「打出の小槌」「鬼退治」(以下参考の※4参照)、や「日本の歌シリーズ」第1集「荒城の月」(以下参考の※5参照)の原画も書いている。
私は、多少絵にも興味があるので、滝平の切り絵は、興味を持って観ていたが、冒頭掲載の左:画像は、どこであったかよく覚えていないが、神戸の百貨店(恐らく三宮そごうと思う)での滝平の切り絵展を見に行ったときに買った色紙『銀杏』(印刷物)である。特別な趣味があるわけでもなく、凝り性の飽き性。ただ、何にでも興味を持つ私は、現役時代の後半少し生活にも時間的にもゆとりが出来始めた頃の一時期、暇つぶしに切り絵作りにも没頭していたことがある。
切り絵の基本は白黒のモノクロ画で、カッターナイフなどを使って黒い紙を切り抜き、白い紙に貼り付けるという手法で制作する。そして、切った時にバラバラに離れてしまわないように、輪郭線は全て繋がるように切るのが原則である。しかし、そうでなく、線が切れているのもあるし、白黒ではなく、カラーの切り絵もある。カラーの場合は、色紙の方に絵の具を塗ったり、色物や柄物の和紙を貼り付けたりといろいろな方法があるが、私の場合、風景や童話などの場合は、無地の和紙を使うが、浮世絵写しの美人画や時代物の場合には人形の着物を作る場合などに使われる柄物の和紙を使っていた。作るのが好きで、出来上がってしまうと余り興味がなく、完成品は、会社の気の合う仲間や知り合いなどにあげたりしていたので、自分の手元には、あまり残っていないが、冒頭掲載中央のものは、九州へ仕事に行ったときにどこかで買った駅弁の包装紙が面白かったので保存していたものより、そのデザインを少しアレンジして作ったものである。図柄は、見ての通り、有名な加藤 清正の虎退治の図である。拡大が像はここ
肥後熊本藩初代藩主となった加藤 清正は、幼い頃より豊臣秀吉の家臣として仕え各地を転戦しているが、文禄の役で朝鮮に出兵したおり、得意の十字槍を使って虎を退治したという伝説がある。この作品は、色紙(27cmx24㎝)に虎と人物の全図を描いており、その清正のの鎖状の網目、また、小さな顔の目や口、髭など非常に細かいことから、市販のカッターナイフで切るのにしても私の目には見えず、細部は自分の感を頼りに切って作った。冒頭右図(清正の顔部分拡大図)参照。自分ながら根気のいる大仕事をしたものと感心をしたいところなのだが、最後の最後に大失敗をしているのである。
絵を描くときなど使われる「画竜点睛(がりょうてんせい))は、一見小さなことではあるが、それを加える事によって物事を完璧に仕上げることを言うが、それとは逆の「画蛇添足(がだてんそく)=蛇足」不必要なものをつけ足してしくじっているのである。
それは、中央画像を良く観てもらえばわかるが、清正の右横につけている家紋である。この絵が完成した後、何を思ったか台紙に使っている色紙の金雲模様に合わせて、雲間から覗いた月に見立てて自分の家の家門(丸に剣片喰)を入れてしまったのだ。清正の場合甲冑には「蛇の目紋」(この絵のの紋。)が使われている(他にも用途によって「桔梗紋」を使うが)。色紙に、紋を貼り付けてしまってから気づいたが、剥がすと汚くなるのでそのままにしてあるがおかしなことにしたものだ。調子に乗りすぎて完全なやりすぐだ。(^0^)。
滝平 二郎のことは、切り絵のこと意外よく知らないのに、色紙作りで、大失態したことを思い出して、今日このブログを書いた。自分では大変な労力を使っての自信作のつもりが、・・・要らぬことをして大失敗作にしてしまったことから、その後、気が抜けて、切り絵作りを止めてしまった。もう、年もとって、目も悪くなったし、根気もなくなったので、又、切り絵作りを再開することはないだろう。そういえばその当時の和紙など沢山残っているのでもう処分しておこうっと・・・。
(画像左:滝平 二郎切り絵色紙『銀杏』【印刷物】。中央:私の作った切り絵「加藤清正の虎退治」右:顔部分の拡大図)
※1:anashi・ベロ出しチョンマ
http://www.catv296.ne.jp/~kodomonokazuki/hanashi.htm
※2:児童文学書評・べろ出しチョンマ
http://www.hico.jp/sakuhinn/6ha/bero.htm
※3:絵本ナビ作家紹介 - 滝平 二郎(たきだいらじろう)
http://www.ehonnavi.net/author.asp?n=177
※4:キッテコム・日本 > 昔話シリーズ
※5:http://kitte.com/catalogue/jpnseries2170_001/
キッテコム・日本 > 日本の歌シリーズ > 第1集 荒城の月
http://kitte.com/catalogue/jpn19790824_01/
滝平二郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B9%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E

陶工・青木木米忌日

2010-05-15 | 人物
天保4年5月15日(1833年7月2日)は、江戸時代後期の京都の陶工・青木木米(あおき もくべい) の忌日である。
識字陶工として知られており永樂保全仁阿弥道八とともに京焼の幕末三大名工のひとりとされる。・・・と言っても、私自身木米の詳しいことを知っているわけでもないので、私の蔵書『やきもの辞典』(光芸出版)やネットのWikipedia、Yahoo!百科事典その他以下参考に記載の木米に関するものなどによれば、木米は、江戸時代後期の明和4年(1767年) 、京都祇園縄手の料理茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれた。幼名は八十八(やそはち)、のち、家督を継いで代々の名佐兵衛と改名した。通称木屋佐兵衛。木米は号で、茶屋の名から1字をとり、八十八を米として付けられたもの。晩年、耳が不自由になり米(ろうべい)と称した。号はこの他にも、青来・九九鱗・百六散(山)人・古器観・亭雲楼など多くあるようだ。幼い頃、書画・篆刻(てんこく)に優れ、学者でもある高芙蓉に学び絵画や書の手ほどきを受けた。木米は古銅器や古銭の鑑賞が高じて鋳金技術も習得していたといわれている。元来、大変器用な人物で何でもこなしたようだが、後に木米が陶工の道を選んだ動機は、大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)宅で中国清朝の朱笠亭(しゅりゅうてい)の著『陶説』を読んだことによるという。実技に入ったのは30歳頃のようだ。江戸後期に流行した中国趣味に存分に浸って成長した木米は、書画、工芸諸般の技術を体得したが、結果としては南画煎茶(せんちゃ)道具を主体とする陶磁器に彼の才能は絞られていった。
陶工としての木米は、建仁寺に住んでいた奥田穎川(えいせん)に師事したと伝わるが、粟田の雲林院文造(うじいぶんぞう。宝山ともいう。以下参考の※1参照)の教えも受けたようだという。その才能は数年で表れ、その名が広まり、紀州徳川治寶(とくがわ はるとみ)に招かれたり、文化2年(1805年)には、青蓮院宮の御用釜を粟田に築いたりした。翌年には加賀窯業復興のため前田家の招聘を受け金沢へ行き、卯辰山山麓に春日山窯を翌年に起した。文化5年(1808年)帰京(春日山窯のことは以下参考の※5を参照)。以後は、京都にて製陶に励んだ。
作品は、穎川の始めた磁器製法を煎茶道具に応用し、中国の染付(そめつけ)、赤絵青磁交趾(こうち)焼の技術と様式を受け止めつつ、南蛮焼(東南アジアの焼締陶。以下参考の※3:参照)、朝鮮李朝(りちょう)時代の陶磁の作風も加味して、江戸後期らしい多種多彩な焼物を残した。彼の作画や作陶がもっとも円熟した時期(文政7年=1824年、58歳のころといわれる)に聾米の号を使い始めたようだ。この件について、“木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。 そのため木米の耳はいつも赤く腫上がったがその手法を変えることはせず完治する間もないほど作陶を続けたため晩年、音を失くしたことから。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号した。”・・・というエピソードがあるようだ(Wikipedia )。
又、頼 山陽田能村竹田らとの親交も深く、その影響をうけて書画詩文にも巧みであった。南画家としても独自の画境を開き、「兎道朝暾図」(うじちょうとんず)が著名であ(以下参考の※2参照)。
冒頭の画像・茶道具の「振り出し」は、近くのお寺の弘法市で飼ったものだが、一応、底面には「木米」と書かれている。こんな名工の作品が、手頃な値段で私などの手に入るわけがないが、見たときには一瞬どきりとした。売っている人は、プロではなく家の不用品を処分に来ているだけで、これが何かもわからずに、安い値段で処分していた。安いから買ったのだが、これが、本物の木米の作品などとは思っていない。再興九谷は、金沢に春日山窯の開窯をきっかけに、次々と多くの窯が開窯し、古九谷の技法を受継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって新しい作風(画風)がうち立てられいったが、青木木米は、人物を主に九谷の五彩を用いて描き、全面に赤をほどこした中国風の画風を確立、それが冒頭掲載の茶道具の1つである「振り出し」(口細の小形の容器。小粒の菓子や香煎【こうせん】を入れる)に見られるような図柄のものである(以下参考の※4参照)。紛らわしいが、底面に書かれている「木米」は、この作品が木米という作家が作ったものを表しているというのではなく、木米の指導によって確立された画風である木米風の九谷焼であることを意味しているという点においては、これは本物とも言えるのである。我楽多好きの私が、たまたま、この様なものを持っていたので、今日、木米について書いてみた。
(画像は、九谷焼・木米「振り出し」)
※1:茶の湯の楽しみ>茶道用語>雲林院寶山
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_u.html
※2:東京国立博物館・文化遺産オンライン・兎道朝暾図(うじちょうとんず)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=66412
※3:沖縄の魅力と歴史>琉球の焼物の歴史>南蛮焼について
http://www.zyyms.net/yakimononanban.htm
※4:いいねっと金沢九谷焼とは(金沢市公式HP)
http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/kougei/tougei/kutani_what.jsp
※5:春日山窯
http://www.yamazakiart.com/kasugayama.html
青木木米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%9C%A8%E7%B1%B3
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
陶磁器- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%A3%81%E5%99%A8
美と技の都京都
http://www.kougei.or.jp/crafts/kyoto/index.html
各陶家歴代詳細/青木 木米
http://www.awatayaki.com/awatayaki-kakuierekidai.htm
陶工伝・青木木米
http://www.ne.jp/asahi/kotouji/suenokomichi/urahp/toukouden/aokimokubei.htm
国際日本文化研究センター|平安人物志データベース
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/heian_jinbutsu.html

レゴの日

2010-05-05 | 記念日
「こどもの日」の5月5日は0505で「レゴレゴ」と読むこともできることから、ブロック玩具のレゴジャパン株式会社が制定した日。2002(平成14)年にデンマークでレゴ社が設立されてから70周年、日本で販売されてから40周年に当たることから、この年に、より多くの人にレゴブロックをアピールするのが目的で設定されたそうだ。
「レゴ」つまり、レゴブロックとは、レゴ社のプラスチック製の組み立てブロックの玩具であり、1934(昭和9)年に「よく遊べ」を意味するデンマーク語 "leg godt" から社名を「 LEGO」 とした。最初は木製玩具を作っていたが、1949(昭和24)年からプラスチック製玩具を作り始めたそうだ。
今のようなブロックの上部に数個の突起(ポッチ)があり、底は長方形の空洞になっており、互いにくっ付くが、外す事が出来ない程きつくはないものがつくられ、それに、LEGO Mursten 即ち LEGO Bricks (レゴブロック)の名称で発売されたのは、1953(昭和28)年のことのようだ。この頃のブロックには技術的な面で、結合力に限界があり、作れる形に限りがあった。今日見られるブロックのデザインが出来上がったのは1958(昭和33)年の事。改良点はブロックの裏側の空洞に配した円筒で、これによって、底面の結合力が増し、色々な形を作れるようになった。
1962(昭和37)年、貿易商社の朝日通商が窓口(販売代理店)となって日本市場でもレゴブロックの販売が開始されるようになった。しかし、当初は都市部のデパートや、大きな玩具店などにしか出回ることがなかったうえ、その価格も当時で数百円から数千円と非常に高価(当時の物価などは以下参考の※A参照)であり、裕福な家庭の親が買い与える知育玩具、というイメージが強かった。その後、レゴブロックが広く知れ渡るにつれ、似たアイデアのものが1960年代を中心に日本市場にも出回った。このうち特に有名なものは河田ダイヤブロック任天堂N&Bブロックであった。(N&Bブロック、どのようなものがあったかサンプル以下参考の※2参照)
ダイヤブロックは、1955(昭和30)年にある文具メーカーから発売されていた二股に分かれて鉛筆を2本同時に差し込めるキャップが、売れずに大量の在庫を抱えてしまい、本来の目的ではないキャップを積み重ねて遊ぶ玩具として在庫処分のような形で販売されていた。この「ブロックキャップ」と名付けられいた商品を創業間もないゲーム問屋であった河田が買いつけ1958(昭和33)年から販売していたものを、その後改良し、1962(昭和37)年10月に発売開始された。初代のものは白以外はすべて透明のカラーリングなのが特長で、美しい透明のブロックで作った作品がまるでダイヤモンドのようだった事から『ダイヤブロック』という名前が付けられたそうだ(以下参考の※1参照)。「複数の突起を持った表側とこれをはめ込む裏側のある直方体形状」という構造は似ているが、規格寸法は異なる。ダイヤブロックの凸部は他社のブロック玩具に比べて長いが、これは原形が鉛筆キャップであった名残だそうである。今では日本においてはレゴと並ぶシェアを占めているようだ。
N&Bブロックは、任天堂から、1960年代終わりから発売さていたもので、一時は任天堂を代表する玩具の一つであったが、基本となる直方体の形状と寸法がレゴブロックと寸分たがわず、訴訟にもなった。従来のブロック玩具との相違点として、世界で初めて円型や半円型、円錐型のブロックを採用したことがあげられる。1970年代に任天堂がエレクトロニクス(電子工学)玩具分野に軸足を移したことで、数年で撤退した。任天堂は今や家庭用ゲーム機業界では日本、世界問わず最大級の企業に成長している。
しかし、両社共にその発売年からみて、やはり、レゴ社のブロックを参考に(真似て)作られた様に思うようね~。今中国など、後進の経済発展国の特許権侵害がとやかく言われているが、かっての日本にも、物真似をしたものが結構あったように思うよ。
1969(昭和44)年からはレゴの販売権が朝日通商から知育玩具輸入販売会社不二商へ移行 していたが、1978(昭和53)年、レゴ社は日本に現地法人「日本レゴ株式会社」(1989年、レゴ ジャパン【株】に社名変更)を設立し直接輸入販売を手掛けた。レゴブロックは、当時まだ国産品に比して高価であったうえ、ヨーロッパから非常に遠いアジアの市場規模では需要も決して多いとはいえず、発売されるアイテム数も本国に比べると非常に見劣りするものであったが、徐々に日本市場へ浸透していった。
1969(昭和44)年には、1歳半以上の子供向けの新システム、デュプロの販売が始まった。デュプロブロックは、幼児が飲み込まないようにレゴブロックより大きくなっているが、従来のレゴブロックと結合できるように設計されており、子供が成長してデュプロブロックを卒業しても、それらを捨てることなく新しいレゴブロックと一緒に遊ぶことができるように考えられている。又、1990年代中盤以降の一時期、製品の部品構成の簡素化が進み、車なら車の形状がある程度できあがっているようなセットすら登場したこともあったが、2000年代に入ってからはこうした製品は影をひそめ、きちんと段取りを踏んで形を作る製品が復活しているというがその方が良いだろう。
思い起こせば、昭和40年代のこと、私に子供が出来、自分でいろいろ考えて遊ぶようになったころ買い与えたのはレゴではなく、ダイヤブロックであった。当時家人の郷からはレゴを貰ったが、その頃、まだ、私はそんなに生活にゆとりのあるほうではなかったので、私達が買い与えたのはレゴよりも安価であったダイヤブロックであるが、本当によく遊んでいた。仕事が忙しく、当時なかなか子供の遊び相手になってやれなかったので、このブロックでのモノづくりが数少ない家での子供とのお遊びだったかもしれない。子供を相手にモノを作りながら、結構自分自身も楽しんでいた。子供も非常に気に入っていたので、少しずつパーツも増やし、ながい期間遊んでいた。このせいだろうか、子供は文系ではなく理数系の子供に育ち、大手のエレクトロニクス関係の会社に就職し、いろんな会社関係のソフトをつくるのための基本ソフトなどの開発に携っているようだ。
子どもたちは遊びの中で様々な発見をする。遊びには子どもたちの好奇心や探究心をかき立てる無限の可能性があり、そうした遊びの中で子どもたちは多くの知識を自然に体験し学んでいくものだろう。ブロック遊びでは、組み立てる段階から創造力を働かせ試行錯誤をしながらイメージを形にしてゆく。1つできれば次々ともう少し良いもの、新しい発想のモノを作りたくなるが、その形は無限大に出来る。徐々に高度なものをつくってゆくには、自分で設計し、工程なども考えながらつくらなければならず、思考型のゲームとしては非常に良いと思う。
私の孫なども一緒だが、今の子供たちは、小さな頃からテレビゲームなどエレクトロニクスゲームに親しんではいるが既に完成されたものを、ただ器用に使いこなしているだけである。
もっとさかのぼり、私たちが子供の頃は、戦争で何もない時代だったので、そこらにある木切れや竹・針金などを使って、竹とんぼや凧、竹馬など遊ぶおもちゃは自分達で作り、その出来栄えを競ったり、出来たおもちゃを使って友達同士で遊んでいた。最近は、小刀で鉛筆1つ削れない子が多いともいう。時代の流れとは言え、小さな子供のころから、このようなブロック遊びなどで、モノを作る楽しみを教えてやりたいね~。
1968(昭和43)年にレゴ発祥の地で、本社のあるビルンにレゴランドが開園した。これは、レゴ社が開設したレゴのテーマパークで、自社の製品であるレゴブロックを使ってどんなものができるかという可能性を紹介し、休日を楽しめるようにと企画されたものだそうだ。私は知らないが、画像など見ていると楽しそうで、その後、イギリス、アメリカ、ドイツにも開設され大人気だそうだ。
日本でも千葉県が千葉市美浜区の県立幕張海浜公園にレゴランドを誘致し、当初は2002(平成14)年の開園が予定されていたが、不況の影響で出資企業が集まらず、翌年に誘致を断念したそうだ。2011年にはフロリダとアラブ首長国連邦・ドバイで、2013年にはマレーシア・ジョホール州での開園が予定されているという。ただ、レゴ社は3年おきにレゴランドを開設する計画であったそうだが、世界的な玩具市場の縮小などによる深刻な経営不振のため、2005(平成17)年6月にレゴランドの経営権をニューヨークに本拠をおく投資会社、ブラックストーン・グループに売却。これに伴ってブラックストーンの傘下でテーマパーク経営実績のあるマーリン・エンタテイメントとレゴ社の合弁企業(持株比率:ブラックストーンが70%、レゴが30%)が設立され、レゴランドの経営に当たているそうだ。
神戸など空港をつくるためにつくった空港島は、その後の経済不況から企業誘致が出来ず広いスペースがある。このような人気のあるテーマーパークが誘致できたら、観光客も増え、空港の利用客も増えて良いのだが・・・・。これは夢だろうかな~。
(画像は、向かって左:レゴ、右:レゴランド・ドイツ。Wikipediaより)
※A:昭和37年値段(東京):大卒初任給17,130円、ラーメン50円、ソバ40円、ビール115円、新聞代1ヵ月390円、映画封切館200円、国鉄初乗り10円パーマネント724円(総理府統計局、「週間朝日編『値段の風俗誌』アサヒクロニクル週間20世紀より)
※1 :ダイヤブロックとは
http://www.diablock.co.jp/about/
※2:マメッチョマメリン: 任天堂ブロック
http://www.mamechyo.com/2006/08/nbblock.html
レゴ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B4#.E3.83.AC.E3.82.B4.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
レゴブロック専門店〜レゴブロック・ドットコム〜
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LEGO ショップ:レゴ通販ショップの紹介:2010年の新製品
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