「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。
甲1855部隊
先ず、甲1855部隊である。北京には1855部隊の施設が三つあった。
一つは1939年、天壇行園の南西に設置された西村英二陸軍軍医大佐を隊長とする本部および司令部で、13もの出張所を持っていたという。ネズミの飼育舎は4列の舎屋があり、70室余りの部屋があった。そして、どの部屋でも数百匹から千匹ものネズミの飼育が可能であったというから大変な規模である。731部隊と同じように、内地(日本)からネズミを調達し、ペストノミを大量生産していたというのである。
二つ目は静生生物調査所。ここは中国最大の生物研究機関だったが、1941年1855部隊によって占拠され、第2分遣隊が置かれた。ここではノミの大量生産をやっていた。
三つめは北京協和病院。ここも接収され第一分遣隊が置かれた。ここでは人体実験が行われていたという。
「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育資料出版会)には1855部隊で働いたという伊藤影明さんの証言が紹介されているので、証言を含めたその一部を抜粋する。
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1855部隊員の証言
伊藤さんは、この部隊でノミの飼育をしていた。「ノミを飼育するためにネズミを飼う。フンドシ一つになってネズミに餌をやる仕事をしていた。馬鹿だってできるよ」と語る。19室800個近い石油缶を担当した。ノミに血を吸わせるためにネズミを入れる毎日。「人間習うより慣れろでしだいにノミに愛着を感じるようになった。44年から急に増産が叫ばれ、5人だった飼育係が50人になる。一時は将校までも裸になって飼育に当たったほどだ」。その中には、ペスト感染してしまった伊藤さんの同期生もいた。埼玉でも急速なネズミ増産が始まるころである。
1945年2月、伊藤さんは「マルタ」を見た。静生生物調査所の3階が留置所として使われ、伊藤さんはその留置所を覗き穴から盗み見た。覗いたとき「マルタ」と目があった。目だけがギョロッとしていて、いかにもうらめしそうだった。1855部隊では、静生生物調査所(第二分遣隊)で「マルタ」にペスト菌を打ち、北京協和病院(第一分遣隊)で生体解剖した。伊藤さんが見たのは、すでにペスト菌を打たれ、北京協和病院へ運ばれる直前の「マルタ」だった。「その形相が忘れられない」と伊藤さんは苦しむ。この証言からは、1855部隊も大量のネズミを消費し、ペストノミを生産し、人体実験をしていたことが分かる。
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栄1644部隊
南京城内にあった栄1644部隊は「多摩部隊」とも呼ばれ、731部隊とともに細菌戦実行部隊として知られているが、「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者の埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、その部隊員であったという小沢武雄さんと小沢さんの同期生だったEさんの証言を得て、その内容を紹介している。下記はその一部である。
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・・・
……その後衛生兵教育に入ると、小沢さんは細菌戦攻撃を2回命令される。
1回目は、その年の8月頃だった。5人ずつ選抜され、2機のの飛行機に分乗した。1機は離陸に失敗、小沢さんら5人だけが南京から南西方面に40里(約150キロメートル)ほど飛んだ。飛行機は敵地の飛行場に着陸した。すでに日本軍の砲撃で、敵は陣地から撤退していた。戻ってくる敵兵を狙って、敵陣にペストノミをばらまくのが5人の任務だった。
ペストノミはサイダービンに入れコルクで蓋をした。ビンはノミでいっぱいだった。小沢さんはそのビンを腰に15本ぶらさげ、さらに手に抱えられるだけ持ち、敵地に乗り込んだ。足にゲートルを巻いているものの、特別な装備はなく、手袋は軍手だった。予防接種もしていない。ノミに食われれば自分も死ぬ。ビンの蓋を開け、軒下にノミをばらまいた。無我夢中だった。作業を終えると、空きビンを土中に埋め、5人は集結した。行きは飛行機だが、帰りは歩いて戻る計画だ。陣地に戻った中国の斥候兵に見つかり、機銃を浴びた。九死に一生をを得、南京に向かって炎天下を10日間歩いた。途中で病気になったが、別部隊に救われた。
2回目の命令はその1ヶ月後だった。チャンチューカメ(紹興酒の甕)にコレラ、ペスト菌液を詰める。1ビンに1斗ぐらい入る。それを15個トラックに積み、南京城外の村々の井戸に甕ごと投げ込む。1つの井戸に1ビンずつだった。作業は秘密なので小隊長と小沢さん、それにもう1人の3人で行った。細菌戦の典型的な謀略活動である。
・・・
小沢さんの同期生だった1644部隊員Eさんが、同じ埼玉県の加須市に住んでいる。Eさんも1943年、北支など他の細菌戦部隊と「マラリア工作隊」という特殊部隊に所属しパラオ島に向かった経験がある。電話取材だけだったが、Eさんは、1644部隊のネズミ飼育班に属していた。1942年ネズミの「増殖実験」を担当し、120匹ほどのラットを飼育する。ネズミそのものを増やすのが目的で、トウモロコシとコウリャンが餌だった。部隊全体でラットが何匹いたかは分からない。ラットは1644部隊の資材調達官が直接内地に行き、飛行機で運んできた。それを「動物受領」と言っており、モルモットなども運んだ。月1回くらいのペースだった。……
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http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
甲1855部隊
先ず、甲1855部隊である。北京には1855部隊の施設が三つあった。
一つは1939年、天壇行園の南西に設置された西村英二陸軍軍医大佐を隊長とする本部および司令部で、13もの出張所を持っていたという。ネズミの飼育舎は4列の舎屋があり、70室余りの部屋があった。そして、どの部屋でも数百匹から千匹ものネズミの飼育が可能であったというから大変な規模である。731部隊と同じように、内地(日本)からネズミを調達し、ペストノミを大量生産していたというのである。
二つ目は静生生物調査所。ここは中国最大の生物研究機関だったが、1941年1855部隊によって占拠され、第2分遣隊が置かれた。ここではノミの大量生産をやっていた。
三つめは北京協和病院。ここも接収され第一分遣隊が置かれた。ここでは人体実験が行われていたという。
「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育資料出版会)には1855部隊で働いたという伊藤影明さんの証言が紹介されているので、証言を含めたその一部を抜粋する。
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1855部隊員の証言
伊藤さんは、この部隊でノミの飼育をしていた。「ノミを飼育するためにネズミを飼う。フンドシ一つになってネズミに餌をやる仕事をしていた。馬鹿だってできるよ」と語る。19室800個近い石油缶を担当した。ノミに血を吸わせるためにネズミを入れる毎日。「人間習うより慣れろでしだいにノミに愛着を感じるようになった。44年から急に増産が叫ばれ、5人だった飼育係が50人になる。一時は将校までも裸になって飼育に当たったほどだ」。その中には、ペスト感染してしまった伊藤さんの同期生もいた。埼玉でも急速なネズミ増産が始まるころである。
1945年2月、伊藤さんは「マルタ」を見た。静生生物調査所の3階が留置所として使われ、伊藤さんはその留置所を覗き穴から盗み見た。覗いたとき「マルタ」と目があった。目だけがギョロッとしていて、いかにもうらめしそうだった。1855部隊では、静生生物調査所(第二分遣隊)で「マルタ」にペスト菌を打ち、北京協和病院(第一分遣隊)で生体解剖した。伊藤さんが見たのは、すでにペスト菌を打たれ、北京協和病院へ運ばれる直前の「マルタ」だった。「その形相が忘れられない」と伊藤さんは苦しむ。この証言からは、1855部隊も大量のネズミを消費し、ペストノミを生産し、人体実験をしていたことが分かる。
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栄1644部隊
南京城内にあった栄1644部隊は「多摩部隊」とも呼ばれ、731部隊とともに細菌戦実行部隊として知られているが、「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者の埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、その部隊員であったという小沢武雄さんと小沢さんの同期生だったEさんの証言を得て、その内容を紹介している。下記はその一部である。
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……その後衛生兵教育に入ると、小沢さんは細菌戦攻撃を2回命令される。
1回目は、その年の8月頃だった。5人ずつ選抜され、2機のの飛行機に分乗した。1機は離陸に失敗、小沢さんら5人だけが南京から南西方面に40里(約150キロメートル)ほど飛んだ。飛行機は敵地の飛行場に着陸した。すでに日本軍の砲撃で、敵は陣地から撤退していた。戻ってくる敵兵を狙って、敵陣にペストノミをばらまくのが5人の任務だった。
ペストノミはサイダービンに入れコルクで蓋をした。ビンはノミでいっぱいだった。小沢さんはそのビンを腰に15本ぶらさげ、さらに手に抱えられるだけ持ち、敵地に乗り込んだ。足にゲートルを巻いているものの、特別な装備はなく、手袋は軍手だった。予防接種もしていない。ノミに食われれば自分も死ぬ。ビンの蓋を開け、軒下にノミをばらまいた。無我夢中だった。作業を終えると、空きビンを土中に埋め、5人は集結した。行きは飛行機だが、帰りは歩いて戻る計画だ。陣地に戻った中国の斥候兵に見つかり、機銃を浴びた。九死に一生をを得、南京に向かって炎天下を10日間歩いた。途中で病気になったが、別部隊に救われた。
2回目の命令はその1ヶ月後だった。チャンチューカメ(紹興酒の甕)にコレラ、ペスト菌液を詰める。1ビンに1斗ぐらい入る。それを15個トラックに積み、南京城外の村々の井戸に甕ごと投げ込む。1つの井戸に1ビンずつだった。作業は秘密なので小隊長と小沢さん、それにもう1人の3人で行った。細菌戦の典型的な謀略活動である。
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小沢さんの同期生だった1644部隊員Eさんが、同じ埼玉県の加須市に住んでいる。Eさんも1943年、北支など他の細菌戦部隊と「マラリア工作隊」という特殊部隊に所属しパラオ島に向かった経験がある。電話取材だけだったが、Eさんは、1644部隊のネズミ飼育班に属していた。1942年ネズミの「増殖実験」を担当し、120匹ほどのラットを飼育する。ネズミそのものを増やすのが目的で、トウモロコシとコウリャンが餌だった。部隊全体でラットが何匹いたかは分からない。ラットは1644部隊の資材調達官が直接内地に行き、飛行機で運んできた。それを「動物受領」と言っており、モルモットなども運んだ。月1回くらいのペースだった。……
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一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。