新妻ファイルの中の一つ「田中淳雄少佐尋問録」には「蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス」という一文がある。ペストノミ増産のために、ネズミ不足に陥ったという記録である。まさにその時、内地(日本)でネズミの生産を飛躍的に拡大していたところがあった。埼玉県の春日部と庄和を中心とするネズミ生産地である。ペストノミ増産のために、「絶対ニ白鼠ヲ必要トス」というのであるが、「白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能」ということで、ネズミ生産地が増産体制に入ったのである。そのネズミ生産地の飼育農家を中心に聞き取り調査を行い、731部隊との関係を明らかにしたのが、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭である。「高校生が追うネズミ村と731部隊」<教育史料出版会>から、ところどころ何カ所か抜粋したい。
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高校生が追うネズミ村と731部隊
埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(同校教諭)
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ところで、増産計画の中心は埼玉県の春日部、庄和などの古くからのネズミ生産地だった。ネズミは内地から満州へ空輸されていたのだ。私たちの町では戦時中、どこの家でもネズミを飼っていた。私の父も、生徒の家族も飼育者だった。飼育のノウハウを知っている地域でなければ、この急場は凌げなかった。731部隊の「ネズミ不足」に応えて、私たちの町のネズミ生産は、爆発的に拡大する。それは、満州がネズミ取りに明け暮れたのと同時期のできごとだった。
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ネズミ飼育は特殊な産業で、生産地は埼玉と岐阜くらい。戦時期には埼玉が全国の7割を占めていた。ミカン箱程度の飼育箱にオス一匹、メス五匹を入れ繁殖させる。「ネズミ算式」に増える子ネズミを、「ネズミ屋」と呼ばれる仲買人が買いにくる。貧しい小作人の多かったこの地域では、ネズミ飼育は副業として歓迎された。
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飼育箱は、昭和初期まではミカン箱だったが、専門に作る箱職人が現れた。50センチほどの木箱で、側面の一つだけが編張りになっている。飼育の規模は、5箱程度が普通。1軒1箱の家から、軒下すべてを使い100箱飼った家まで千差万別だ。なかには、専業になり500箱飼った家もある。「100箱飼えば蔵が建つ」と言われたが、実際はそれほど儲からなかった。
飼育はおもに年寄りの仕事だった。戦後50年がたち、飼育経験者が亡くなっている場合が多かった。子どもがペット代わりに飼う例もある。子ども同士でネズミが売買され、なかにはネズミ屋とつるんで儲ける子どももいた。ネズミを売った金を貯めて自転車を買った子どもまでいたという。しかしそういう子どもは例外で、収入は小遣い程度だったという人がほとんどである。戦時中でラットが1円、マウスが10銭ぐらい。副業として特別割がよいわけではない。
餌はコザキを与える。コザキとは実らなかった屑米である。農家にとってはただだ同然のもので、餌代はかからなかった。コザキ以外には野菜の屑を入れておけば十分だった。床どこにはワラを敷き、ネズミはそのワラで巣を作った。ネズミは尿が濃い生物で、ワラを変えるときの臭さがこの副業のつらいところである。
・・・
病気も悩みの種だった。ネズミはすぐ風邪をひく。病気が流行るとあっというまに全滅した。ネズミのようすに注意するのが大変だった。餌をあげないと子ネズミは食べられてしまう。ネズミ同士の「いじめ」もあった。夏は暑さで死に、冬は寒さで死んだ。油断しているあいだに逃げられた(庄和町には、野生化した白ネズミが生息している)。……
国立国会図書館憲政資料室には、アメリカから返還された膨大なGHQ文書がマイクロフィルムになっている。当時は軍需工場の調査が目的で、1944年夏、私はここに通っていた。18歳未満お断り、といういかがわしい場所と同じ入場制限があるため、生徒は入れないのだ。すでに埼玉県が目録を作っているので、それに従い県関係のGHQ文書をピックアップしていくその過程で、GHQによるネズミ生産者の調査報告書を偶然発見したのである。
この文書には、飼育農家が6000軒もあったこと、集荷ルートから中間業者の利益、生産量から納入先まで詳しく書かれていた。地域のネズミ生産の概略がつかめる内容である。
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本書で骨格をなす情報は、そのほとんどがネズミ屋によるものである。農民アンケートはたしかに膨大な量に達したが、基本的には意識調査だった。飼育農家が知っているのは近隣のようすだけで、ネズミ生産全体のシステムについては知らなかった。飼育農家が直接会うにはネズミ屋だけで、ネズミがその先どうなるのかについては興味もなかった。
ネズミ屋は違った。毎日飼育農家をまわる彼らは、飼育状況を把握していた。また、集荷したネズミはネズミ屋が直接、軍や研究所に納めた。当然、軍や研究所の人々と知り合いになり、そこでさまざまな情報を得た。内容は飼育方法や値段にとどまらず、今後の実験動物がどう進み、何が要求されるのか、将来の展望にも及んだ。ネズミの量と質を高めるため、軍や研究所はネズミ屋に情報を与える必要があった。彼らは頻繁に会い、強いつながりを形成していった。
・・・
ネズミ屋の小規模な世界を一変させたのが、田中一郎の登場である。田中は短期間にほとんどのネズミ屋を傘下に組み込み、戦時期にはほぼ独占状態を形成した。田中の組織化により、この地域のネズミの生産は飛躍的に増大。満州で731部隊が大量のネズミを「消費」していたとき、埼玉では田中がネズミ産業の活況を演出していた。
当時の新聞にこんな記事がある(『埼玉新聞』1943年12月10日付)
「粕壁(春日部)で小動物増産協議会
陸軍軍医学校特定埼玉県農会指定の医科学実験動物生産実行組合主催の小動物増産協議会は、9日午後1時より粕壁町東武座において開会、国民儀礼後、田中一郎組合長の挨拶に続いて協議に移り、小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり、終わって小動物増産に邁進しつつある組合員に対する慰労会に移り、講談浪花節漫才等の余興を開催した
」
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様々な苦難に直面しつつも調査を続け成長していく高校生の姿が随所に記録されている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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高校生が追うネズミ村と731部隊
埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(同校教諭)
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ところで、増産計画の中心は埼玉県の春日部、庄和などの古くからのネズミ生産地だった。ネズミは内地から満州へ空輸されていたのだ。私たちの町では戦時中、どこの家でもネズミを飼っていた。私の父も、生徒の家族も飼育者だった。飼育のノウハウを知っている地域でなければ、この急場は凌げなかった。731部隊の「ネズミ不足」に応えて、私たちの町のネズミ生産は、爆発的に拡大する。それは、満州がネズミ取りに明け暮れたのと同時期のできごとだった。
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ネズミ飼育は特殊な産業で、生産地は埼玉と岐阜くらい。戦時期には埼玉が全国の7割を占めていた。ミカン箱程度の飼育箱にオス一匹、メス五匹を入れ繁殖させる。「ネズミ算式」に増える子ネズミを、「ネズミ屋」と呼ばれる仲買人が買いにくる。貧しい小作人の多かったこの地域では、ネズミ飼育は副業として歓迎された。
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飼育箱は、昭和初期まではミカン箱だったが、専門に作る箱職人が現れた。50センチほどの木箱で、側面の一つだけが編張りになっている。飼育の規模は、5箱程度が普通。1軒1箱の家から、軒下すべてを使い100箱飼った家まで千差万別だ。なかには、専業になり500箱飼った家もある。「100箱飼えば蔵が建つ」と言われたが、実際はそれほど儲からなかった。
飼育はおもに年寄りの仕事だった。戦後50年がたち、飼育経験者が亡くなっている場合が多かった。子どもがペット代わりに飼う例もある。子ども同士でネズミが売買され、なかにはネズミ屋とつるんで儲ける子どももいた。ネズミを売った金を貯めて自転車を買った子どもまでいたという。しかしそういう子どもは例外で、収入は小遣い程度だったという人がほとんどである。戦時中でラットが1円、マウスが10銭ぐらい。副業として特別割がよいわけではない。
餌はコザキを与える。コザキとは実らなかった屑米である。農家にとってはただだ同然のもので、餌代はかからなかった。コザキ以外には野菜の屑を入れておけば十分だった。床どこにはワラを敷き、ネズミはそのワラで巣を作った。ネズミは尿が濃い生物で、ワラを変えるときの臭さがこの副業のつらいところである。
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病気も悩みの種だった。ネズミはすぐ風邪をひく。病気が流行るとあっというまに全滅した。ネズミのようすに注意するのが大変だった。餌をあげないと子ネズミは食べられてしまう。ネズミ同士の「いじめ」もあった。夏は暑さで死に、冬は寒さで死んだ。油断しているあいだに逃げられた(庄和町には、野生化した白ネズミが生息している)。……
国立国会図書館憲政資料室には、アメリカから返還された膨大なGHQ文書がマイクロフィルムになっている。当時は軍需工場の調査が目的で、1944年夏、私はここに通っていた。18歳未満お断り、といういかがわしい場所と同じ入場制限があるため、生徒は入れないのだ。すでに埼玉県が目録を作っているので、それに従い県関係のGHQ文書をピックアップしていくその過程で、GHQによるネズミ生産者の調査報告書を偶然発見したのである。
この文書には、飼育農家が6000軒もあったこと、集荷ルートから中間業者の利益、生産量から納入先まで詳しく書かれていた。地域のネズミ生産の概略がつかめる内容である。
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本書で骨格をなす情報は、そのほとんどがネズミ屋によるものである。農民アンケートはたしかに膨大な量に達したが、基本的には意識調査だった。飼育農家が知っているのは近隣のようすだけで、ネズミ生産全体のシステムについては知らなかった。飼育農家が直接会うにはネズミ屋だけで、ネズミがその先どうなるのかについては興味もなかった。
ネズミ屋は違った。毎日飼育農家をまわる彼らは、飼育状況を把握していた。また、集荷したネズミはネズミ屋が直接、軍や研究所に納めた。当然、軍や研究所の人々と知り合いになり、そこでさまざまな情報を得た。内容は飼育方法や値段にとどまらず、今後の実験動物がどう進み、何が要求されるのか、将来の展望にも及んだ。ネズミの量と質を高めるため、軍や研究所はネズミ屋に情報を与える必要があった。彼らは頻繁に会い、強いつながりを形成していった。
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ネズミ屋の小規模な世界を一変させたのが、田中一郎の登場である。田中は短期間にほとんどのネズミ屋を傘下に組み込み、戦時期にはほぼ独占状態を形成した。田中の組織化により、この地域のネズミの生産は飛躍的に増大。満州で731部隊が大量のネズミを「消費」していたとき、埼玉では田中がネズミ産業の活況を演出していた。
当時の新聞にこんな記事がある(『埼玉新聞』1943年12月10日付)
「粕壁(春日部)で小動物増産協議会
陸軍軍医学校特定埼玉県農会指定の医科学実験動物生産実行組合主催の小動物増産協議会は、9日午後1時より粕壁町東武座において開会、国民儀礼後、田中一郎組合長の挨拶に続いて協議に移り、小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり、終わって小動物増産に邁進しつつある組合員に対する慰労会に移り、講談浪花節漫才等の余興を開催した
」
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様々な苦難に直面しつつも調査を続け成長していく高校生の姿が随所に記録されている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。