真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松代大本営 吉田建技大尉の証言と朝鮮人労務者

2008年08月28日 | 国際・政治
 戦時中の証言については、自分にとって不都合なことは過小評価したり隠そうとし、都合のよいことは過大評価したり、大げさに証言する可能性を、常に頭において理解する必要があると考える。また、場面によっては、戦争による緊張状態や混乱状態の中で、間違った解釈をしたり、記憶違いがおきたり、単なる思いこみであったりすることも「あり得る」と考えなければならない。さらに、意図的な責任転嫁や歪曲などもあるであろう。したがって、客観的な事実をつかむためには、いろいろな立場の人たちの証言に当たる必要があると思う。そうしたことを踏まえて、「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)から抜粋する。(吉田建技大尉の証言にも、異なる証言があるが、様々な点で貴重な証言である)
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             吉田栄一 元東部軍経理部建技大尉

防諜

 特に私に命令されたことは、
地下壕工事が秘密工事であること、それをわからないようにやれといわれました。
 あの当時、あれだけの大工事で、大勢の労務者、厖大な資材、ダイナマイトの爆発音、それだけでもまともな工事じゃないことは、誰だってわかりますよ。
 私たちは直接工事をしないで、運輸通信省に委託していた。そこが
西松組に請け負わせ、さらに下請けに出したんです。

・・・
 
 最初、飯場工事を始めたのは、昭和19年9月20日前後です。その後からいよいよ工事に入ったのですよ。その前に、陸軍省の3人が現地調査をして、そこに軍属とか事務屋さんがいて、役場と交渉して土地を買収して、そこに縄を張って桑の木を切っているところに、われわれが行って建物を建てた。11月11日に第1回目の発破をかける予定なので、もう急がなくてはならない。1万数千人の労務者を入れるための建物だから突貫工事で大変でした(別のところでは、「全体の朝鮮人労務者は7000人で、その家族を入れると1万人以上はいたでしょう」とある)
 全体で410棟、3ヵ所に建てました。徴用工の大工とか勤報隊を100人のところを150人もらったので、予想外に早く建物ができました。2ヶ月の予定が、45日でできあがりました。そこへ朝鮮人労務者がどっと入ってきてくれて、11月11日に発破がかけられたんです。
 

・・・

 私は東京に帰ると空襲が激しくなったので、高射砲陣地をつくる計画を立てました。私は陸軍省の本部にいたから、作業中隊を督励したり、請負師を使ってこれも突貫工事でね。
 帝都を守る高射砲陣地ですよ。
 その作業を現地で指揮していると、東大の先輩から陸軍省に呼ばれました。
 「お前、松代のことをよく知っているから、すぐに松代にいってくれないか」
と いわれました。
 その時、はじめて陛下がお見えになると正式に聞き、大本営の移転計画の全体を知りました。ロ地区の地図を示され、鉛筆で場所を書いたが、目の前ですぐ消されてしまった。
 「これはお前だけに話すが、実はこういうことだ」
 それまでにもう計画書はできていたんですよ。
表面上は松代倉庫ということで、材料は発注する。セメント何俵、檜がどれくらい必要かと概算して、そこで請負師を決めなくてはならない。
 請負師を何人か陸軍省に呼んで、結局、
鹿島組がやりましょうということになった。入札したわけじゃなくて、確か天皇の御座所は150万円位じゃなかったかと思います。
 陛下の御座所になると、専門の建築屋がいるので、私よりも東大の建築学科で7年先輩の、関野助教授にお願いすることになりました。
 とにかく急を要することだし、労務者をどうして集めるか困り果てました。
 「鹿島のほうで何とかあつめられないだろうか?」
 私は頼んだ。
 「とにかく集めてみましょう。墜道工事専門の朝鮮人労務者なら、うちの工事現場で何とかなるでしょう」
 八ヶ岳か御嶽山でダム工事をしていた。そこに機械を借りに行った。
鹿島組の朝鮮人労務者を集めて3月24日なのかそれで天皇の御座所の工事が始まった。私が松代に行ったのが20日前後でしたから。
 東部軍から長野県へ交渉して、各郡から何名と徴用をかけて、毎日100人位送られてきました。私が彼らを受けて鹿島組に渡し、うちの連中がそれぞれの現場を監督しました。
 天皇の御座所は知られてはまずいと、防諜のために付近の住民は立ち退きをさせました。

焼却命令

・・・

 天皇の御座所の関係の180人が、突然いなくなったとよく質問を受けるんですが、そんな数の朝鮮人はいません。1ヵ所を両方から掘ったとしても、180人も必要ありませんから。
 松代の朝鮮人は、みんな終戦までいて、鉄道省と私たちが面倒を見て、貨物列車を仕立てて仙崎に、あるいは博多まで送らせました。9月の終わりから10月いっぱいかけてね。天皇の御座所を掘った鹿島組の朝鮮人は、西松組の7000人以上の朝鮮人とは、まったく別に帰国したんです。

 それらの鹿島組の朝鮮人は、御座所を掘ったということで消されたといっていますが、それは、うがった見方なんです。あの当時、人手が足りずに困っている時に、消してしまうなんて考えられないことです。殺したという人がいますが、そんなことは絶対にないですよ。実際に終戦までそこの飯場にいたわけですから、秘密工事をしたから殺すということはありえないことです。まるで私たちを罪人扱いにすることは問題ですね。それがどうのこうのといっても、私がいえばいいわけになりますからね。何でお前は知らないかといわれると、知る立場にある場合とない場合では違いますからね。
 私は松代大本営工事を、戦場みたいな扱いをすることは感心しません
私は朝鮮人を犠牲にした覚えはないんだよ。もうすこし歴史的な観点として見てもらいたい。地下壕をつくるのに私たちはどんなに苦労したことか。
 朝鮮は日本の植民地といっても、別に植民地の朝鮮人だから、無理に強制労働をさせたわけではなく、日本人の徴用とか勤労報告隊と同じ状況ですからね

 朝鮮人ばかりを強制労働させたといわれると、私自身としては心外だよ。今までどこでも働いてきたけど、朝鮮人の中には終戦後泣き別れた人もいるしね。そんなに植民地植民地だからというのではなく、日本の当時の政策としてやったわけだから、その責任をどうのこうのいわれる筋合いじゃないですよ
 あの頃は松代に限ったことではなく、日本全体がそうだったわけだから、朝鮮人問題を私の責任のように追及しないでほしいですね。
 そこのところは穏便にしてください。松代だけがそうだといわれると心外でね。
 朝鮮人が事故死したり苦労したといっても、あの松代大本営の工事というのは、誰も苦労していますよ。もう、あの当時というのは日本の末期症状で、それでもいいものをつくらなければということもありましてね。

   http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名および抜粋部分です。 

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