「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)は、木戸孝允(桂小五郎)が、1868年(明治元年)12月14日、岩倉具視に宛て、朝鮮を攻め日本国内の反政府気勢を海外へ向けるとともに、朝鮮領土に勢力を広げ利益をあげようという内容の建議をしたことを、文書を示して明らかにしている。また、翌年には、大村益次郎に宛て、「天皇の陸海軍だけで、朝鮮の釜山付近を開港させる以外に天皇の国を万代も長く栄えさせる道はない」と朝鮮攻略を仔細に指示したことも明らかにしている。
日本の朝鮮に対する侵略的姿勢や韓国併合まで続く武力を利用した威圧外交は、明治政府がそのスタート時点から日本の外交路線としたようである。下記は、明治政府威圧外交の端緒ともいえる江華島事件に関する部分の抜粋であるが、事件の顛末や木戸建議などを考え合わせると、日本側の「自作自演」に違いないことがわかる。
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江華島事件勃発
同年(1975年)9月19日、漢城(現在のソウル)入口江華湾を航行中の「聖なる日章旗」が砲撃されるという大事件が起きた。明治政府は天地がひっくり返ったように騒ぎたて、内心ほくそ笑んだ。この江華島事件は、閔(ミン)王妃殺害事件(1895年。後述)とともに、朝鮮民族の進歩を半世紀にわたって遅らせたうえ、今日なお国家分断に苦しむことになった根源の事件である。また、皇国日本を東洋平和を口実にして戦争に明け暮れさせ、アジア諸国の人々と日本国民にはかり知れない災難をおよぼした根源である。
・・・
事件の顛末は次のようなものである。
江華湾は首都防衛の要塞地帯であった。1875年9月20日軍艦雲揚は朝鮮側から攻撃、撃沈されることを期待して、飲料水を求める口実で無断で湾内に入り、ボートを降ろした。ところが期待に反してボートが第1、第2砲台を通りすぎても砲撃がなかった。ボートは奥深く第3砲台まで遡って、砲台の内部を事細かに偵察していた時、朝鮮側から空砲による警告を受けた。
しびれを切らしていた雲揚はこの警告をきっかけに一斉に砲門を開いたのだ。後に引用する雲揚の井上艦長報告でわかるように、永宗島を占領して砲台を打ち壊し、戦利品として38門の砲を分捕り、民家を焼きはらい、裸で川を泳いで逃げる朝鮮兵を片っ端から撃ち殺した。朝鮮側の砲台がたとえ多少でも応戦していたら、第3砲台付近は狭いうえ、ちょうど上げ潮時で潮の勢いが強くて引くに引けなかったといっているから、ボートは沈められたはずである。
飲料水を求めるボートを降ろしたというが、それなら建物と城兵の数までわかるほど接近し、偵察をして通り過ぎた第1砲台で何故水を求めなかったのか。艦長報告によればボートは漢江まで遡っている。これが朝鮮と日本の近代史のなかで特筆すべき江華島(湾)事件勃発の真相である。
木戸孝允は、自分を事件処理に弁理大臣に任命してくれという上申書のなかで、故なくして日本帝国の旗章に向かって暴撃をしたとして朝鮮の「罪」を責め、しかるべき「処分」を求めて日本の名誉を守ると主張した。百歩譲って朝鮮側から先に発砲があったとしても、江華湾は日本でいえば東京湾の品川沖である。東京湾に比べると奥行きが遙かにない。他国の軍艦が日本沿海を測量し、東京湾に侵入して要塞施設を偵察し、たとえば隅田川の永代橋まで遡って来ても、日本は黙視しただろうか。朝鮮側からの発砲はなかった。かりにあったとしても、無断で他国の湾内深く侵入し、測量や偵察をした主権侵害とスパイ行為は正当化できるものではない。
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各国公使に釈明
江華島事件発生と同時に各国公使から明治政府に真相の説明を求める抗議があった。説明は雲揚の井上艦長がしている。
朝鮮国トノ通交ニ関スル件
10月9日 寺島外務卿ト英国公使トノ対話書
江華島事件経過ニ関スル件 第138号
明治8年10月9日於本省寺島外務卿英国公使ハークス応接記
「雲揚艦船将井上氏御着ノ趣朝鮮戦争ノ詳説承ケタマワリ度ク候」(ハークス)
我ガ雲揚牛荘辺ヘ通航ノ砌リ9月20日朝鮮江華島ノ近傍ニ碇泊シ、飲料ノ水
ヲ得ルタメ端船ヲ卸シテ海峡ニ入ル。第1砲台・周囲凡我2里(8キロ)周囲ニ城
壁ヲ築キ4門開ケリ。城兵凡5百余名。城中ノ家屋ハ皆兵営ノ様子ナリノ前ヲ過
ギ第2砲台ノ前ニ至ル。
第1砲台ト第2砲台トハ遙ニ遠ク離レ、第2砲台ト第3砲台トハ、第1ト第2砲台
ノ中間ホド離レタリ。第2砲台ハ空虚ノ様子ニシテ人影ヲ見ズ。
第3砲台ハ巨大デ、牆壁ヲ築キ壁ニ砲門ヲ開キタリ。備ウル所ノ大砲ハ凡12
~13斤位ニシテ真鍮砲ナリ。小銃ハ我ガ2~3匁位ニシテ火縄打チナリ。城兵ノ
柵門ヲ出入スルヲ見ルモ、本艦ハ見エズ。船近ヅクノ時小銃ノ声ヲ聞キタルモ他
事ノ砲声ト想イ敢テ気ニセザリシニ、復一声ヲ聞ク(弾丸ハ来ラザル由)ト斉シク
大小砲ヲ列発シテ我ガ端船ヲ襲撃ス。端船応戦スル能ハズ退カントスルニ折ア
シク満潮(上げ潮のことだろう)狭隘故、潮勢甚シクテ退クヲ得ズ、止ムヲ得ズ小
銃ヲ発シテ本艦ヘ合図セリ。本艦コノ号砲ヲ聞キテ直ニ進ミ来レリ。(中略)且ツ
砲台ヲ毀シ民家5,6軒アルヲ以ツテコレニ火ヲ放チテ焼ク。コレニヨツテ城中動
揺シテ走ル。然ルニ其遁路万世橋ニハ我兵ヲ率イテコレヲ守ル。逃ルニ道ナク、
衣ヲ脱シテ水ニ投ズル者幾許ナルヤヲ知ラズ。我兵追ツテコレヲ狙撃セリ。我レ
全勝ヲ得テ後、彼ノ囚人(捕虜)ヲ使役シテ旌旗ト金及ビ大小砲37門ホド分捕リ
テ本艦ニ帰ル(後略)(日本外交文書第8巻)
江華湾の第3砲台付近の干満の差は9メートルもあって、満ちる時、引く時は小汽船では下ることも上ることもできない。井上艦長の説明によれば、朝鮮の砲の射程距離は6,7丁(7、8百メートル)ほどだといっている。「本艦ハ見エズ」といっているから、朝鮮砲台の砲ではとても対抗できなかったので、朝鮮兵は「走ル(逃げた)」。
井上艦長の説明によれば、砲台内の様子がわかるほどボートは接近していた。川幅が狭くて上げ潮の勢いが強いので、引くに引けなかったといっているから、砲撃されたのが本当なら、いくらちゃちな朝鮮の鉄砲でも近くに来たボートくらいは沈めることができたはずである。ボートが無事であったということは、朝鮮側の発砲がなかったからである。
江華島事件は、朝鮮を開国させるための日本側の一方的攻撃で起こったもので昭和期に入っての満州と支那事変と同じデッチ上げの手法であった。イギリスのほかアメリカ、ロシア、フランス、イタリアなどいくつかの国の公使にも説明しているが、いずれも植民地支配者としての同じ穴のムジナだから、これらの国からこれといった強い抗議はなかった。
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「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)は、飲料水を求めて江華湾の奥深くに入った雲揚艦が「9月20日に江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っている」ことから、飲料水不足は口実であろうことを指摘している。
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日本の朝鮮に対する侵略的姿勢や韓国併合まで続く武力を利用した威圧外交は、明治政府がそのスタート時点から日本の外交路線としたようである。下記は、明治政府威圧外交の端緒ともいえる江華島事件に関する部分の抜粋であるが、事件の顛末や木戸建議などを考え合わせると、日本側の「自作自演」に違いないことがわかる。
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江華島事件勃発
同年(1975年)9月19日、漢城(現在のソウル)入口江華湾を航行中の「聖なる日章旗」が砲撃されるという大事件が起きた。明治政府は天地がひっくり返ったように騒ぎたて、内心ほくそ笑んだ。この江華島事件は、閔(ミン)王妃殺害事件(1895年。後述)とともに、朝鮮民族の進歩を半世紀にわたって遅らせたうえ、今日なお国家分断に苦しむことになった根源の事件である。また、皇国日本を東洋平和を口実にして戦争に明け暮れさせ、アジア諸国の人々と日本国民にはかり知れない災難をおよぼした根源である。
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事件の顛末は次のようなものである。
江華湾は首都防衛の要塞地帯であった。1875年9月20日軍艦雲揚は朝鮮側から攻撃、撃沈されることを期待して、飲料水を求める口実で無断で湾内に入り、ボートを降ろした。ところが期待に反してボートが第1、第2砲台を通りすぎても砲撃がなかった。ボートは奥深く第3砲台まで遡って、砲台の内部を事細かに偵察していた時、朝鮮側から空砲による警告を受けた。
しびれを切らしていた雲揚はこの警告をきっかけに一斉に砲門を開いたのだ。後に引用する雲揚の井上艦長報告でわかるように、永宗島を占領して砲台を打ち壊し、戦利品として38門の砲を分捕り、民家を焼きはらい、裸で川を泳いで逃げる朝鮮兵を片っ端から撃ち殺した。朝鮮側の砲台がたとえ多少でも応戦していたら、第3砲台付近は狭いうえ、ちょうど上げ潮時で潮の勢いが強くて引くに引けなかったといっているから、ボートは沈められたはずである。
飲料水を求めるボートを降ろしたというが、それなら建物と城兵の数までわかるほど接近し、偵察をして通り過ぎた第1砲台で何故水を求めなかったのか。艦長報告によればボートは漢江まで遡っている。これが朝鮮と日本の近代史のなかで特筆すべき江華島(湾)事件勃発の真相である。
木戸孝允は、自分を事件処理に弁理大臣に任命してくれという上申書のなかで、故なくして日本帝国の旗章に向かって暴撃をしたとして朝鮮の「罪」を責め、しかるべき「処分」を求めて日本の名誉を守ると主張した。百歩譲って朝鮮側から先に発砲があったとしても、江華湾は日本でいえば東京湾の品川沖である。東京湾に比べると奥行きが遙かにない。他国の軍艦が日本沿海を測量し、東京湾に侵入して要塞施設を偵察し、たとえば隅田川の永代橋まで遡って来ても、日本は黙視しただろうか。朝鮮側からの発砲はなかった。かりにあったとしても、無断で他国の湾内深く侵入し、測量や偵察をした主権侵害とスパイ行為は正当化できるものではない。
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各国公使に釈明
江華島事件発生と同時に各国公使から明治政府に真相の説明を求める抗議があった。説明は雲揚の井上艦長がしている。
朝鮮国トノ通交ニ関スル件
10月9日 寺島外務卿ト英国公使トノ対話書
江華島事件経過ニ関スル件 第138号
明治8年10月9日於本省寺島外務卿英国公使ハークス応接記
「雲揚艦船将井上氏御着ノ趣朝鮮戦争ノ詳説承ケタマワリ度ク候」(ハークス)
我ガ雲揚牛荘辺ヘ通航ノ砌リ9月20日朝鮮江華島ノ近傍ニ碇泊シ、飲料ノ水
ヲ得ルタメ端船ヲ卸シテ海峡ニ入ル。第1砲台・周囲凡我2里(8キロ)周囲ニ城
壁ヲ築キ4門開ケリ。城兵凡5百余名。城中ノ家屋ハ皆兵営ノ様子ナリノ前ヲ過
ギ第2砲台ノ前ニ至ル。
第1砲台ト第2砲台トハ遙ニ遠ク離レ、第2砲台ト第3砲台トハ、第1ト第2砲台
ノ中間ホド離レタリ。第2砲台ハ空虚ノ様子ニシテ人影ヲ見ズ。
第3砲台ハ巨大デ、牆壁ヲ築キ壁ニ砲門ヲ開キタリ。備ウル所ノ大砲ハ凡12
~13斤位ニシテ真鍮砲ナリ。小銃ハ我ガ2~3匁位ニシテ火縄打チナリ。城兵ノ
柵門ヲ出入スルヲ見ルモ、本艦ハ見エズ。船近ヅクノ時小銃ノ声ヲ聞キタルモ他
事ノ砲声ト想イ敢テ気ニセザリシニ、復一声ヲ聞ク(弾丸ハ来ラザル由)ト斉シク
大小砲ヲ列発シテ我ガ端船ヲ襲撃ス。端船応戦スル能ハズ退カントスルニ折ア
シク満潮(上げ潮のことだろう)狭隘故、潮勢甚シクテ退クヲ得ズ、止ムヲ得ズ小
銃ヲ発シテ本艦ヘ合図セリ。本艦コノ号砲ヲ聞キテ直ニ進ミ来レリ。(中略)且ツ
砲台ヲ毀シ民家5,6軒アルヲ以ツテコレニ火ヲ放チテ焼ク。コレニヨツテ城中動
揺シテ走ル。然ルニ其遁路万世橋ニハ我兵ヲ率イテコレヲ守ル。逃ルニ道ナク、
衣ヲ脱シテ水ニ投ズル者幾許ナルヤヲ知ラズ。我兵追ツテコレヲ狙撃セリ。我レ
全勝ヲ得テ後、彼ノ囚人(捕虜)ヲ使役シテ旌旗ト金及ビ大小砲37門ホド分捕リ
テ本艦ニ帰ル(後略)(日本外交文書第8巻)
江華湾の第3砲台付近の干満の差は9メートルもあって、満ちる時、引く時は小汽船では下ることも上ることもできない。井上艦長の説明によれば、朝鮮の砲の射程距離は6,7丁(7、8百メートル)ほどだといっている。「本艦ハ見エズ」といっているから、朝鮮砲台の砲ではとても対抗できなかったので、朝鮮兵は「走ル(逃げた)」。
井上艦長の説明によれば、砲台内の様子がわかるほどボートは接近していた。川幅が狭くて上げ潮の勢いが強いので、引くに引けなかったといっているから、砲撃されたのが本当なら、いくらちゃちな朝鮮の鉄砲でも近くに来たボートくらいは沈めることができたはずである。ボートが無事であったということは、朝鮮側の発砲がなかったからである。
江華島事件は、朝鮮を開国させるための日本側の一方的攻撃で起こったもので昭和期に入っての満州と支那事変と同じデッチ上げの手法であった。イギリスのほかアメリカ、ロシア、フランス、イタリアなどいくつかの国の公使にも説明しているが、いずれも植民地支配者としての同じ穴のムジナだから、これらの国からこれといった強い抗議はなかった。
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「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)は、飲料水を求めて江華湾の奥深くに入った雲揚艦が「9月20日に江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っている」ことから、飲料水不足は口実であろうことを指摘している。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。