真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日清戦争「開戦」と「朝鮮王宮占領」の真実

2009年10月29日 | 国際・政治
 歴史的には日清戦争に至るそれなりの必然性があったのかも知れないが、今、その経過をふり返ると随分酷い話である。「朝鮮の独立」を口にしながら、実質的には朝鮮を属国扱いし、日清戦争開戦の道具に使ったのである。もし、朝鮮と日本の立場が逆であったら、これを許す日本人は一人もいないのではないかと思う。
 『歴史の偽造をただす ── 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)からの抜粋である。
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       1 日清戦争がなぜ朝鮮王宮占領から始まるのか

 最初の武力行使=朝鮮王宮占領

 日清戦争は「朝鮮の独立」のために戦われた戦争であったと、学校で教わった人は多いだろう。日清戦争の宣戦の詔勅にも、「朝鮮は帝国がその始に啓誘(けいゆう)して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国」である、それなのに清国は「朝鮮をもって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉し……帝国が率先してこれを諸独立国の列に伍せしめたる朝鮮の地位」と「これを表示するの条約」をないがしろにしている、この清国中国の非望ののために日本はやむなく戦争をせざるを得ないのだと述べていた。
 朝鮮を「独立国」とする日本と「属国」とする清朝中国とが戦った戦争、朝鮮を「属国」とする清朝中国は「野蛮国」であり、日本は「文明国」である、日清戦争は「野蛮」に対する「文明」の戦争であったと喧伝された戦争であった。

 宣戦の詔勅は、日本国としての戦争目的を内外に明らかにしたものである。また、開戦後、朝鮮政府と結んだ「大日本大朝鮮両国盟約」(1894年8月26日調印)には、「この盟約は清兵を朝鮮国の境外に撤退せしめ朝鮮国の独立自主を鞏固にし日朝両国の利益を増進するをもって目的とす」(第1条)とうたわれていた。さらに日清講和条約(下関条約)では、第1条に「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す……」と明記されたことはよく知られている。


 日本は、日清戦争は「朝鮮の独立」のための戦争であったと内外にくりかえし宣明し国際的な約束事としたのである。
 その戦争における日本軍の最初の武力行使が朝鮮の王宮占領であったというのは、どういうことなのか、けげんに思われる読者も少なくないのではないか。また、日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸、仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦であると思っている人も多いだろう。

 しかし、日清戦争における日本軍の最初の武力行使は、ほかならぬその「独立」のために戦うといった朝鮮に、それもよりによって国王のいる王宮に向けてのものであったのである。豊島沖の海戦に先立つ2日前、7月23日の未明から早朝にかけて、日本軍は朝鮮の王宮を占領し、日清戦争の口火をきったのである。「朝鮮独立のための戦争」が、なぜその王宮、景福宮(キョンボックン)の占領から始まったのか。

 「名分」に困った日本政府  略
 
 清韓宗属問題問題を口実に  略

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                 2 王宮占領計画

 「王宮威嚇」の目的

 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実問題になった。大鳥公使の意を受けて、7月20日午後1時、本野一郎参事官が第5師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するために王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦史』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治27、8年日清戦史第2冊決定草案、自第11章至第24章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来たれり。因って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出でんがため、本日該政府に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応(イハウン)〕を推して入闕せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。


 この申し入れに対し、南方に陣取っていた清朝中国の軍隊を攻撃するため準備していた大島旅団長であったが、すでに清国軍増派の知らせもあるこの時、南下を延期するのは戦略上、不利なのは言うまでもないが、「開戦の名義の作為もまた軽んずべからず、ことに朝鮮政府に対し日本公使の掌中に在らば、旅団の南下の間、京城の安全を保つに容易にして、またその行進に関しては軍需の運搬、徴発、皆便利を得べし」と、この公使の提案に同意した。

 つまりこの王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などをすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。


 作戦計画の立案

 大島旅団長は、翌21日、大鳥公使を訪ね「1個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略し直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵21連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなものであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

  朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画
(長文のため省略)

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コメント (3)
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