「日本人戦犯自筆供述書」は、当初反抗的であった戦犯容疑者たちが、強制や強迫によることなく、戦犯管理所の人道的な処遇や忍耐強い教育に心を動かされて自己変革を成し遂げ、自発的にその罪行を綴ったものである。
下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、佐々眞之介(さっさしんのすけ)が、師団長の立場にあった期間の罪行の一部分を抜粋したものであるが、彼も、中国における様々な第39師団の「罪行(中国人民に対する殴打、虐待、殺害や掠奪、民家焼却、毒瓦斯使用攻撃、慰安婦強制等)」が、自分の師団長としての命令の結果であることを一件一件丁寧に記述し認めている(認罪)。
撫順の日本人戦犯管理所で書かれた自筆供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出し、時に批判しあいながら、事実をつき合わせ、認罪を深めていった結果であるといわれていることには、すでに「日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久」(425)で触れた。
『中国侵略の証言者たち──「認罪」の記録を読む』岡部牧夫 荻野富士夫 吉田裕(岩波新書)によって、つけ加えれば、そうして得られた自供内容を、被害者の告訴状と照らし合わせ、また、検察官等が被害地で犯罪調査をして、詳細な裏づけをとる手続きもなされたという。被害者からの告訴状も複数の裏づけをとる念の入れようであったとのことである。その上で、日本人戦犯ひとりひとりに対峙し、時にその罪行の修正を求め、異議があれば申し出が許されたというのである。もちろん、異議に対しては再調査が行われ、ミスがあれば訂正されたのである。したがって、日本側で、日本人戦犯の自筆供述書の内容を、「事実に反する」ということは、ほとんど不可能ではないかと思う。
だから、日本の戦争が侵略戦争であったことを認めたくない人や、中国における日本軍の戦争犯罪を認めたくない人たちは、「日本人戦犯自筆供述書」を、頭から全て否定するしかないのだと思う。「洗脳」しか語れないのである。
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第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述 陸軍第39師団師団長・陸軍中将 佐々眞之介
第13、前日本陸軍中国派遣軍第6方面軍第34軍第39師団陸軍中将師団長任期間罪行
1、状況説明 ・・・ 略
2、罪行
〔1~14は略〕
15以下19迄襄樊作戦に関する行動及罪行
1945年2月上旬、師団は第34軍司令官より襄陽樊城(ジョウヨウハンジョウ)方面への作戦参加の内命を受け、各部隊長を当陽師団司令部に集めて師団作戦計画案を示し、且作戦参加部隊の編成を内示しました。1945年3月上旬、師団は第34軍司令官より襄樊作戦参加の命令を受領し、各部隊長を当陽師団司令部に集めて命令を下しました。沙市の歩兵旅団長村上少将には印刷の命令を送附しました。師団命令の要旨は次ぎの如くでありました。
(1)「師団は軍命令に基き第12軍の老河口作戦に協力する為、3月20日頃、荊門附近より行動を開始し襄陽樊城に向ひ作戦を行ふこと、
(2)之が為作戦参加部隊は3月18日迄に兵力を荊門東北方地区に集結し準備を 行ふこと、
(3)師団作戦参加部隊の編成は師団司令部、歩兵第231聯隊、歩兵第232聯隊、(2大隊)、歩兵第233聯隊(2大隊)野砲兵第39聯隊、(1大隊、山砲、野砲、1中隊、重砲1中隊編成)、工兵第39聯隊(2中隊)、(註:工兵聯隊主力は、是より先2月下旬、桂林方面第11軍より帰還)、輜重兵第39聯隊(自動車2中隊、車輌1中隊)。野戦病院、野戦病馬廠、師団通信隊、他兵団より配属の独立歩兵4大隊より成ること。歩兵第232、第233聯隊は協力部隊を以て担架隊を編成すること。歩兵第233聯隊は、第1挺進隊(歩兵約1小隊、之には協力部隊より所要の俘虜を参加せしめ又重慶軍の兵器及服装を用ふること)を編成し師団司令部は歩兵第232聯隊の曹長(第11軍桂林作戦に挺進隊として参加しました)及師団通信無線1分隊を以て第2挺進隊(服装は変装すること)を編成すること、挺進隊は総て精強の者を以て充当すること。尚任務達成の為には所要に応じ人民を監禁し殺害し、家屋等を破壊し焼却し、毒瓦斯(ガス)を使用し、人民の食糧を掠奪することを得、
(4)各部隊長は其責任に於て之を確認の上重慶軍の兵営、倉庫、使用家屋を焼却すべきこと。尚重慶軍の軍用塩、木材を鹵獲し漢口に後送を準備すること。
(5)各部隊の作戦間の給養は徴発証明書に依り人民の糧秣を徴発したものを以て行ふこと、
(6)各部隊は作戦開始前準備訓練を行ひ、夜間行動殊に方向維持を訓練すること。各歩兵聯隊は3月11日より、抗日団に対する弾圧行動と欺瞞宣伝しつつ沙潭鎮附近に至ること。
(7)師団作戦出動間沙市の独立歩兵旅団長村上少将は、師団長に代り師団留守部隊を併せ指揮し守備及警備に任ずること。又部隊を以て活発に陽動を行ひて当面の重慶軍を欺瞞牽制して師団の作戦企図を秘匿し、師団の作戦行動を容易にすること。
(8)歩兵第231聯隊長梶浦大佐は師団出動間師団留守部隊を指揮し、村上少将の指揮を受け師団地区の守備、警備に任ずること。」
右師団命令に基き各部隊は夫々任務に従ひて作戦を準備し、且行動を開始しました。作戦参加歩兵聯隊は3月中旬始め沙潭鎮に向ひ夜間訓練を行ひつゝ前進しました。此行動は夜間訓練なれば夜間に於て睡眠中の人民を脅威し、又夜間演習を終りて不意に睡眠中の人民を起して家屋を奪取し、糧秣を掠奪して宿営し中国婦人に対する強姦事件や正義行動に出づる中国人民に対し殴打、虐待等の事件を諸所に起して重大な罪悪を犯しました。是れ私の命令に基く罪行でありまして、私の責任重大な事を認罪します。
16
1945年3月16日、私は沙潭鎮に於て各部隊長及他兵団より師団に配属の独立歩兵大隊長を集めて所要の指示を為し、且3月18日迄に夜間行動を以て行動を秘して荊門東北方地区に兵力を集結することを命じました。3月19日師団参加部隊長全員を荊門北方8粁のに集めて作戦指導計画を指示し、作戦発起の命令を下しました。
作戦計画の要旨。師団は3月21日夜より作戦行動を起し、先づ主力を以て当面の重慶軍に対して急襲し爾後急追して武安堰東西の線に進出し、重慶軍の状況を見る、其主力武安堰北方になければ速に南漳を占領し、之を保持しつつ主力は反転して襄陽樊城を攻略す。此間一部を以て常に襄陽方面に対して警戒し師団の右側を掩護せしめ、又挺進隊を以て武安堰北方地区を擾乱せしむ。
作戦命令の要旨。第1挺進隊は3月20日夜出発行動を秘匿しつゝ武安堰北方地区に挺進し、重慶軍の後方を擾乱すること。第2挺進隊は3月20日出発武安堰北方襄陽─南漳道附近に挺進し其方面に於ける重慶軍の兵力及行動を偵察し、報告すること。其他の部隊は、3月21日夕行動を起し、独立歩兵1大隊は襄陽方向に前進し、師団の右側を警戒すること。師団主力は当面の重慶軍陣地を其左翼より包囲する如く、翌22日仏暁より攻撃を開始すること。但し歩兵第232聯隊は、石橋駅方面より陣地の正面を攻撃すること。砲兵隊は、石橋駅北方及東北方に陣地を占領して第1線の攻撃に協力すること、但し野砲1中隊と重砲1中隊は本陣地攻撃に協力した後は作戦参加を中止し、駐屯地に帰還せしむること。工兵は砲兵の陣地進入援助及朱家埠─襄陽道、朱家埠─武安堰道を自動車を通ずる如く、補修すること。輜重隊は弾薬等の補給輸送及患者、鹵獲品の後方輸送を行ふこと。師団司令部其他部隊は概ね歩兵第232聯隊右翼後方を前進すること。尚師団の作戦企図秘匿の為、歩兵233聯隊は21日夕迄第1線守備陣地線に於ける警戒を厳にし、一般人民の交通を遮断すること。
右交通遮断の師団命令に基き、各部隊は一般人民の交通を遮断しました。之に依て一般人民は不意打的大兵力の進入投宿と交通遮断に伴ひ、大きな脅威を受けました。他所に避難逃走を企つるもの、正義行動に出づるものあり、侵略日本軍隊は之に対し弾圧を加へ殴打、虐待、殺害又掠奪等の罪悪を犯しました。石橋駅東方約8粁の道路附近に於て約3名の人民の通行を阻止し、殺害した外、その他の、道路等に於て人民を逮捕虐待し、十数名を殺害しました。是れは日本帝国軍隊が侵略戦争の為不意に交通遮断を強行し何も知らぬ無辜の中国人民に加へた罪悪であります。此罪行は師団命令に基づくものであり、私は重大な責任あることを認罪します。
17 略
18
(1)重慶軍戦士殺害約3500名、(此内には俘虜殺害若干を含みます)
歩兵第232聯隊の兵某は聯隊が南漳方面作戦中、中国人民4名が負傷した重慶軍戦士12名を担架にて運搬中なるを発見し、其負傷戦士12名を殺害し、且逃げる運搬中なりし人民4名を射殺しました。
第1挺進隊は3月25日仏暁武安堰北側に於て重慶軍隊を奇襲し約20名を殺害しました。師団が武安堰占領直後某歩兵聯隊の下士官が重慶軍俘虜2名を師団司令部に連行交付せんとした所、師団司令部情報係将校が殺せと指示したので同下士官は此俘虜2名を殺害しました。
各歩兵部隊は攻撃戦闘間毒瓦斯(ガス)を用い、砲兵は瓦斯弾を発射し重慶軍隊に損害を与へました。歩兵第231聯隊の大隊は3月29日襄陽攻撃に於て漢水右岸堤防上を退却する重慶軍歩兵約1大隊を急追し、其の逃場を失て武装の儘漢水に跳び込み、逃走せんとするを射撃し、全滅しました。溺死したもの多かったようであります。右罪行は私の発した師団命令に依るものであることを認罪します。
(2)歩兵第232、第233聯隊は各々其協力部隊の俘虜約50名を以て担架隊を編成し、本作戦間酷使しました。歩兵第233聯隊の俘虜2名は茨河子に於て重慶軍飛行機の爆撃に依り死亡しました。之は日本軍が作戦に使用したことに起因する殺害であります。歩兵第233聯隊は第1挺進隊に協力部隊の俘虜数名を編入酷使しました。師団司令部は楽園部隊の俘虜約20名をを作戦間連行し通訳として酷使しました。右罪行は私の発した師団命令に基くものであることを認罪します。
(3)中国人民殺害約200名(推定)。第2挺進隊は襄陽─南漳道方面行動中、其行動を秘匿する為人民約13名殺害しました。第1挺進隊に於ても同様の目的の為に無辜の人民を殺害しました。各部隊に於ては密偵容疑者として、人民を逮捕し調査し殺害しました。又戦闘に依る人民の蒙った死傷の損害も若干ありましす。
人民の酷使は約1万名(推定)、工兵隊は道路補修の為連日多数の人民を酷使しました。各部隊は患者輸送、掠奪物運搬等に人民を酷使しました。
中国婦人の強姦を受けた数約50名(推定)襄陽西方及南方、南漳及武安堰附近等に於て作戦間、作戦第2、第3日の戦場附近、武安堰、南漳、襄陽、茨河子附近にては住民避難逃走して殆ど其姿を認めませんでした。襄陽占領直後師団は命令を出して一般軍隊の入城及宿営を禁じ不祥事の発生を予防しました。「キリスト」教会に於て婦人数十名を収容保護して居ました。(憲兵報告)。其他の諸に於ては大概大部の人民が居りました。平常通り営業をやって居た所も見受けました。以上の罪行は私の発した命令に基くものにて私の責任なることを認罪します。
(4)略
(5)略
(6)師団は人民の多量の糧秣を掠奪しました。即ち米約500屯。肉類約55屯。野菜約550屯、食油約6屯、塩約6屯、高粱(馬糧)約750屯、藁約900屯、薪約2200屯(推定)。此内作戦地域に於て掠奪量は其約五分の三を占めて居ます(約30日間)。其中襄陽附近に於けるもの最多く、南漳、武安堰、茨河子に於けるものは之に次ぎます。右、剰余の約五分の二(約20日間)は、作戦準備及作戦終了後の解放期間に於ける所要であります。其中最多き地区は荊門附近であります。本作戦期間所要糧秣徴発は微発証明書を位て行ひました。然れども作戦地域に於ては殊に住民の避難に依り、徴発は多くは其留守の間に行はれ、従て証明書を交付することは不可能であり、又縦(タト)ひ交付し得る状況にありても果たして確実に各部隊に於て此規定を実行したか否や疑問であり、又縦ひ証明書を渡したとしても受領した人民が遠距離危険地を通過して日本軍隊の所に行って代金を請求することは恐らく不可能であり、又縦ひ証明書を以て請求に行ったとしても当事者たる当師団は作戦終了後移動したので他兵団としては当師団に代りて支払ふや否や、軍より之等兵団に支払の処置を為したか否か、恐らく出来て居ないと思ひます。然らば此徴発行為は全く掠奪であります。証明書(後日代金支払の)を以て徴発するものであると云ふ仮面を装ふた掠奪でありました。私は作戦師団各部隊をして此悪質な掠奪を行はしめた罪悪を犯したことを認罪します。
(7)3月30日、師団が命令して歩兵第232聯隊をして漢水を渡河し、樊城を占領せしめた時、同聯隊は其附近にありし人民の船約6艘を肆(ホシイママ)に奪取使用しました。本渡河以後に於ても諸種の用途に継続使用したと思はれます。従て旧位置に之等の船を返還せしや疑はしくあります。4月始、師団が茨河子附近前進した時患者及鹵獲品を襄陽に後送する為民船約4艘を奪取使用しました。元より之が返還は不可能でありました。船は此の持主に取りては全財産であり住居でもあります。唯一の営業機関でもあります。之を奪取された人民は、爾後職を失ひ生活に非常な苦難を蒙ったこと明らかであります。此罪行は私の発した師団命令に基くものであります。私は其責任者たることを認罪します。
(8)略
(9)略
(10)略
21
1945年1月下旬頃、師団の某歩兵聯隊尉官1名は聯隊命令に依り抗日団弾圧行動中、某に於て50歳位の中国婦人1名を強姦したのでありました。又同5月上旬、第132師団編成要因として師団に増加配属せられた他兵団の歩兵大隊が宜昌に向ひ十里堡(当陽東南方約40粁)附近を行軍中、同隊の兵1名が其附近に於て中国婦人1名強姦しました。私は5月11日、此事件を師団副官より報告を受けましたが、既に其の兵は私の指揮下を離れ、第132師団長の隷下に入て居ましたので同師団に之が処理を依頼しました。
師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強制的に収容せられ賤業に服して居たのでありました。宜昌、荊門にも同様の慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基くものにて私の重大な責任であることを認罪します。
22
師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありました。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第39師団司令部が荊門より当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援の下に経営し日本将兵の慰安に併用して居たものでありました。春屋の主人は師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ野菜等を師団の威力を背景に利用して、中国人民より安価収買して各部隊に供給し、中国人民より利益を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認められます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安しつつ中国侵略戦争を実行して居たのであります。此等罪行は私が認可したことであり私の責任であることを認罪します。
(23)略
(24)略
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下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、佐々眞之介(さっさしんのすけ)が、師団長の立場にあった期間の罪行の一部分を抜粋したものであるが、彼も、中国における様々な第39師団の「罪行(中国人民に対する殴打、虐待、殺害や掠奪、民家焼却、毒瓦斯使用攻撃、慰安婦強制等)」が、自分の師団長としての命令の結果であることを一件一件丁寧に記述し認めている(認罪)。
撫順の日本人戦犯管理所で書かれた自筆供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出し、時に批判しあいながら、事実をつき合わせ、認罪を深めていった結果であるといわれていることには、すでに「日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久」(425)で触れた。
『中国侵略の証言者たち──「認罪」の記録を読む』岡部牧夫 荻野富士夫 吉田裕(岩波新書)によって、つけ加えれば、そうして得られた自供内容を、被害者の告訴状と照らし合わせ、また、検察官等が被害地で犯罪調査をして、詳細な裏づけをとる手続きもなされたという。被害者からの告訴状も複数の裏づけをとる念の入れようであったとのことである。その上で、日本人戦犯ひとりひとりに対峙し、時にその罪行の修正を求め、異議があれば申し出が許されたというのである。もちろん、異議に対しては再調査が行われ、ミスがあれば訂正されたのである。したがって、日本側で、日本人戦犯の自筆供述書の内容を、「事実に反する」ということは、ほとんど不可能ではないかと思う。
だから、日本の戦争が侵略戦争であったことを認めたくない人や、中国における日本軍の戦争犯罪を認めたくない人たちは、「日本人戦犯自筆供述書」を、頭から全て否定するしかないのだと思う。「洗脳」しか語れないのである。
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第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述 陸軍第39師団師団長・陸軍中将 佐々眞之介
第13、前日本陸軍中国派遣軍第6方面軍第34軍第39師団陸軍中将師団長任期間罪行
1、状況説明 ・・・ 略
2、罪行
〔1~14は略〕
15以下19迄襄樊作戦に関する行動及罪行
1945年2月上旬、師団は第34軍司令官より襄陽樊城(ジョウヨウハンジョウ)方面への作戦参加の内命を受け、各部隊長を当陽師団司令部に集めて師団作戦計画案を示し、且作戦参加部隊の編成を内示しました。1945年3月上旬、師団は第34軍司令官より襄樊作戦参加の命令を受領し、各部隊長を当陽師団司令部に集めて命令を下しました。沙市の歩兵旅団長村上少将には印刷の命令を送附しました。師団命令の要旨は次ぎの如くでありました。
(1)「師団は軍命令に基き第12軍の老河口作戦に協力する為、3月20日頃、荊門附近より行動を開始し襄陽樊城に向ひ作戦を行ふこと、
(2)之が為作戦参加部隊は3月18日迄に兵力を荊門東北方地区に集結し準備を 行ふこと、
(3)師団作戦参加部隊の編成は師団司令部、歩兵第231聯隊、歩兵第232聯隊、(2大隊)、歩兵第233聯隊(2大隊)野砲兵第39聯隊、(1大隊、山砲、野砲、1中隊、重砲1中隊編成)、工兵第39聯隊(2中隊)、(註:工兵聯隊主力は、是より先2月下旬、桂林方面第11軍より帰還)、輜重兵第39聯隊(自動車2中隊、車輌1中隊)。野戦病院、野戦病馬廠、師団通信隊、他兵団より配属の独立歩兵4大隊より成ること。歩兵第232、第233聯隊は協力部隊を以て担架隊を編成すること。歩兵第233聯隊は、第1挺進隊(歩兵約1小隊、之には協力部隊より所要の俘虜を参加せしめ又重慶軍の兵器及服装を用ふること)を編成し師団司令部は歩兵第232聯隊の曹長(第11軍桂林作戦に挺進隊として参加しました)及師団通信無線1分隊を以て第2挺進隊(服装は変装すること)を編成すること、挺進隊は総て精強の者を以て充当すること。尚任務達成の為には所要に応じ人民を監禁し殺害し、家屋等を破壊し焼却し、毒瓦斯(ガス)を使用し、人民の食糧を掠奪することを得、
(4)各部隊長は其責任に於て之を確認の上重慶軍の兵営、倉庫、使用家屋を焼却すべきこと。尚重慶軍の軍用塩、木材を鹵獲し漢口に後送を準備すること。
(5)各部隊の作戦間の給養は徴発証明書に依り人民の糧秣を徴発したものを以て行ふこと、
(6)各部隊は作戦開始前準備訓練を行ひ、夜間行動殊に方向維持を訓練すること。各歩兵聯隊は3月11日より、抗日団に対する弾圧行動と欺瞞宣伝しつつ沙潭鎮附近に至ること。
(7)師団作戦出動間沙市の独立歩兵旅団長村上少将は、師団長に代り師団留守部隊を併せ指揮し守備及警備に任ずること。又部隊を以て活発に陽動を行ひて当面の重慶軍を欺瞞牽制して師団の作戦企図を秘匿し、師団の作戦行動を容易にすること。
(8)歩兵第231聯隊長梶浦大佐は師団出動間師団留守部隊を指揮し、村上少将の指揮を受け師団地区の守備、警備に任ずること。」
右師団命令に基き各部隊は夫々任務に従ひて作戦を準備し、且行動を開始しました。作戦参加歩兵聯隊は3月中旬始め沙潭鎮に向ひ夜間訓練を行ひつゝ前進しました。此行動は夜間訓練なれば夜間に於て睡眠中の人民を脅威し、又夜間演習を終りて不意に睡眠中の人民を起して家屋を奪取し、糧秣を掠奪して宿営し中国婦人に対する強姦事件や正義行動に出づる中国人民に対し殴打、虐待等の事件を諸所に起して重大な罪悪を犯しました。是れ私の命令に基く罪行でありまして、私の責任重大な事を認罪します。
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1945年3月16日、私は沙潭鎮に於て各部隊長及他兵団より師団に配属の独立歩兵大隊長を集めて所要の指示を為し、且3月18日迄に夜間行動を以て行動を秘して荊門東北方地区に兵力を集結することを命じました。3月19日師団参加部隊長全員を荊門北方8粁のに集めて作戦指導計画を指示し、作戦発起の命令を下しました。
作戦計画の要旨。師団は3月21日夜より作戦行動を起し、先づ主力を以て当面の重慶軍に対して急襲し爾後急追して武安堰東西の線に進出し、重慶軍の状況を見る、其主力武安堰北方になければ速に南漳を占領し、之を保持しつつ主力は反転して襄陽樊城を攻略す。此間一部を以て常に襄陽方面に対して警戒し師団の右側を掩護せしめ、又挺進隊を以て武安堰北方地区を擾乱せしむ。
作戦命令の要旨。第1挺進隊は3月20日夜出発行動を秘匿しつゝ武安堰北方地区に挺進し、重慶軍の後方を擾乱すること。第2挺進隊は3月20日出発武安堰北方襄陽─南漳道附近に挺進し其方面に於ける重慶軍の兵力及行動を偵察し、報告すること。其他の部隊は、3月21日夕行動を起し、独立歩兵1大隊は襄陽方向に前進し、師団の右側を警戒すること。師団主力は当面の重慶軍陣地を其左翼より包囲する如く、翌22日仏暁より攻撃を開始すること。但し歩兵第232聯隊は、石橋駅方面より陣地の正面を攻撃すること。砲兵隊は、石橋駅北方及東北方に陣地を占領して第1線の攻撃に協力すること、但し野砲1中隊と重砲1中隊は本陣地攻撃に協力した後は作戦参加を中止し、駐屯地に帰還せしむること。工兵は砲兵の陣地進入援助及朱家埠─襄陽道、朱家埠─武安堰道を自動車を通ずる如く、補修すること。輜重隊は弾薬等の補給輸送及患者、鹵獲品の後方輸送を行ふこと。師団司令部其他部隊は概ね歩兵第232聯隊右翼後方を前進すること。尚師団の作戦企図秘匿の為、歩兵233聯隊は21日夕迄第1線守備陣地線に於ける警戒を厳にし、一般人民の交通を遮断すること。
右交通遮断の師団命令に基き、各部隊は一般人民の交通を遮断しました。之に依て一般人民は不意打的大兵力の進入投宿と交通遮断に伴ひ、大きな脅威を受けました。他所に避難逃走を企つるもの、正義行動に出づるものあり、侵略日本軍隊は之に対し弾圧を加へ殴打、虐待、殺害又掠奪等の罪悪を犯しました。石橋駅東方約8粁の道路附近に於て約3名の人民の通行を阻止し、殺害した外、その他の、道路等に於て人民を逮捕虐待し、十数名を殺害しました。是れは日本帝国軍隊が侵略戦争の為不意に交通遮断を強行し何も知らぬ無辜の中国人民に加へた罪悪であります。此罪行は師団命令に基づくものであり、私は重大な責任あることを認罪します。
17 略
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(1)重慶軍戦士殺害約3500名、(此内には俘虜殺害若干を含みます)
歩兵第232聯隊の兵某は聯隊が南漳方面作戦中、中国人民4名が負傷した重慶軍戦士12名を担架にて運搬中なるを発見し、其負傷戦士12名を殺害し、且逃げる運搬中なりし人民4名を射殺しました。
第1挺進隊は3月25日仏暁武安堰北側に於て重慶軍隊を奇襲し約20名を殺害しました。師団が武安堰占領直後某歩兵聯隊の下士官が重慶軍俘虜2名を師団司令部に連行交付せんとした所、師団司令部情報係将校が殺せと指示したので同下士官は此俘虜2名を殺害しました。
各歩兵部隊は攻撃戦闘間毒瓦斯(ガス)を用い、砲兵は瓦斯弾を発射し重慶軍隊に損害を与へました。歩兵第231聯隊の大隊は3月29日襄陽攻撃に於て漢水右岸堤防上を退却する重慶軍歩兵約1大隊を急追し、其の逃場を失て武装の儘漢水に跳び込み、逃走せんとするを射撃し、全滅しました。溺死したもの多かったようであります。右罪行は私の発した師団命令に依るものであることを認罪します。
(2)歩兵第232、第233聯隊は各々其協力部隊の俘虜約50名を以て担架隊を編成し、本作戦間酷使しました。歩兵第233聯隊の俘虜2名は茨河子に於て重慶軍飛行機の爆撃に依り死亡しました。之は日本軍が作戦に使用したことに起因する殺害であります。歩兵第233聯隊は第1挺進隊に協力部隊の俘虜数名を編入酷使しました。師団司令部は楽園部隊の俘虜約20名をを作戦間連行し通訳として酷使しました。右罪行は私の発した師団命令に基くものであることを認罪します。
(3)中国人民殺害約200名(推定)。第2挺進隊は襄陽─南漳道方面行動中、其行動を秘匿する為人民約13名殺害しました。第1挺進隊に於ても同様の目的の為に無辜の人民を殺害しました。各部隊に於ては密偵容疑者として、人民を逮捕し調査し殺害しました。又戦闘に依る人民の蒙った死傷の損害も若干ありましす。
人民の酷使は約1万名(推定)、工兵隊は道路補修の為連日多数の人民を酷使しました。各部隊は患者輸送、掠奪物運搬等に人民を酷使しました。
中国婦人の強姦を受けた数約50名(推定)襄陽西方及南方、南漳及武安堰附近等に於て作戦間、作戦第2、第3日の戦場附近、武安堰、南漳、襄陽、茨河子附近にては住民避難逃走して殆ど其姿を認めませんでした。襄陽占領直後師団は命令を出して一般軍隊の入城及宿営を禁じ不祥事の発生を予防しました。「キリスト」教会に於て婦人数十名を収容保護して居ました。(憲兵報告)。其他の諸に於ては大概大部の人民が居りました。平常通り営業をやって居た所も見受けました。以上の罪行は私の発した命令に基くものにて私の責任なることを認罪します。
(4)略
(5)略
(6)師団は人民の多量の糧秣を掠奪しました。即ち米約500屯。肉類約55屯。野菜約550屯、食油約6屯、塩約6屯、高粱(馬糧)約750屯、藁約900屯、薪約2200屯(推定)。此内作戦地域に於て掠奪量は其約五分の三を占めて居ます(約30日間)。其中襄陽附近に於けるもの最多く、南漳、武安堰、茨河子に於けるものは之に次ぎます。右、剰余の約五分の二(約20日間)は、作戦準備及作戦終了後の解放期間に於ける所要であります。其中最多き地区は荊門附近であります。本作戦期間所要糧秣徴発は微発証明書を位て行ひました。然れども作戦地域に於ては殊に住民の避難に依り、徴発は多くは其留守の間に行はれ、従て証明書を交付することは不可能であり、又縦(タト)ひ交付し得る状況にありても果たして確実に各部隊に於て此規定を実行したか否や疑問であり、又縦ひ証明書を渡したとしても受領した人民が遠距離危険地を通過して日本軍隊の所に行って代金を請求することは恐らく不可能であり、又縦ひ証明書を以て請求に行ったとしても当事者たる当師団は作戦終了後移動したので他兵団としては当師団に代りて支払ふや否や、軍より之等兵団に支払の処置を為したか否か、恐らく出来て居ないと思ひます。然らば此徴発行為は全く掠奪であります。証明書(後日代金支払の)を以て徴発するものであると云ふ仮面を装ふた掠奪でありました。私は作戦師団各部隊をして此悪質な掠奪を行はしめた罪悪を犯したことを認罪します。
(7)3月30日、師団が命令して歩兵第232聯隊をして漢水を渡河し、樊城を占領せしめた時、同聯隊は其附近にありし人民の船約6艘を肆(ホシイママ)に奪取使用しました。本渡河以後に於ても諸種の用途に継続使用したと思はれます。従て旧位置に之等の船を返還せしや疑はしくあります。4月始、師団が茨河子附近前進した時患者及鹵獲品を襄陽に後送する為民船約4艘を奪取使用しました。元より之が返還は不可能でありました。船は此の持主に取りては全財産であり住居でもあります。唯一の営業機関でもあります。之を奪取された人民は、爾後職を失ひ生活に非常な苦難を蒙ったこと明らかであります。此罪行は私の発した師団命令に基くものであります。私は其責任者たることを認罪します。
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1945年1月下旬頃、師団の某歩兵聯隊尉官1名は聯隊命令に依り抗日団弾圧行動中、某に於て50歳位の中国婦人1名を強姦したのでありました。又同5月上旬、第132師団編成要因として師団に増加配属せられた他兵団の歩兵大隊が宜昌に向ひ十里堡(当陽東南方約40粁)附近を行軍中、同隊の兵1名が其附近に於て中国婦人1名強姦しました。私は5月11日、此事件を師団副官より報告を受けましたが、既に其の兵は私の指揮下を離れ、第132師団長の隷下に入て居ましたので同師団に之が処理を依頼しました。
師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強制的に収容せられ賤業に服して居たのでありました。宜昌、荊門にも同様の慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基くものにて私の重大な責任であることを認罪します。
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師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありました。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第39師団司令部が荊門より当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援の下に経営し日本将兵の慰安に併用して居たものでありました。春屋の主人は師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ野菜等を師団の威力を背景に利用して、中国人民より安価収買して各部隊に供給し、中国人民より利益を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認められます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安しつつ中国侵略戦争を実行して居たのであります。此等罪行は私が認可したことであり私の責任であることを認罪します。
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