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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久

2014年09月02日 | 国際・政治

 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久の供述調書のごく一部、毒瓦斯攻撃や慰安所 設置の命令、「三光政策」に関わる命令などの記述が含まれている部分を抜粋したものである。

 第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久が拘留された中国の撫順戦犯管理所で、日本人戦犯が厚遇されたことはよく知られている。それは、周恩来を中心とする中国の、将来を見据えた戦犯政策によるものである。食糧不足にもかかわらず、食事内容では、主食は全員白米と小麦粉とし、日本民族の風俗習慣を尊重した献立にすることが指示された。さらに、戦犯の管理は厳重にするが、ひとりひとりの人格を尊重し、決して殴ったり罵ったり侮蔑したりしないことなどが職員に徹底されたという。そういう戦犯政策を、被害者である中国人職員に納得させることは容易ではなかったようである。

 厚遇され続けた撫順戦犯管理所の日本人戦犯たちに変化があらわれるのは、およそ半年ほど後である。どんな侮蔑的言葉を投げかけても、平然とした態度で、献身的に世話を続ける職員たちに、日本人戦犯たちは次第に心を動かされ、尊敬の念さえ抱くようになっていったというのである。そして、日中戦争中の自分たちの行為、中国人を差別し、侮蔑し、殴り、拷問を加え、殺した行為と重ね合わせ、胸が痛んだで自分たちの過ちを認め、心から謝罪する気持ちに変わっていったというのである。

 しかし、過ちを認め謝罪する気持ちになっても、ひとりひとりが自らの残虐行為や陵辱行為を、具体的に告白することは簡単なことではない。大変な勇気を必要とする。その罪行告白の突破口になったのが、全戦犯が集められた管理所の中庭で壇上に立った、元第39師団第232聯隊第1大隊中隊長・宮崎弘の「担白(タンパイ)(すべての罪をさらけ出し告白すること)」であったという。それは、

 「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」、「三光政策を積極的に進めることが、忠君愛国の道、戦争勝利の道」だと信じて行動してきたが 振り返ってみると、自分は「初年兵教育の教官だったとき、模範を示すために十数名を刺突し」、「襲撃時には老人や子どもを銃剣で突き刺し」、「逃げ遅れた妊婦を裸にして殺し」、「村中に放火する」という残虐行為を繰り返してきたに過ぎなかった、と涙ながらに「担白」し、「わたしは人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民に心からおわびし、このうえはいかなる処罰も受ける覚悟です」というような内容であった。

 その「担白」が戦犯の罪行告白の流れをつくり、それが次第に佐官や将官級にも及んでいったという。 

 そして、54年1月から、中国政府の戦犯に対する本格的な罪状調査が始まるのである。審問は決して強制せず、自白を尊重し、罪行は事実のみを正確に、拡大せず縮小もしないで記録することが重視されたとのことである。調査団は、中国各地の被害者や遺族の告訴状などをもとにした証拠を揃えながらも、戦犯自ら告白するまで、それらを突きつけて自白を迫ることは極力避けたという。
 尉官以下級の罪行が固められると、それをもとに佐官、将官級の罪行が追及されたので、それは網羅的で詳細である。

 また、供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出しながら語り合って、事実をつき合わせた結果であるという。

 1956年6~7月、瀋陽と太原で「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれた。起訴されたのは45名。その判決に、死刑や無期刑の者はひとりもいなかった。最高が禁固20年で、それにはソ連での抑留5年と中国で戦犯として拘留された6年が算入され、ほとんどが満期前に釈放され帰国したのである(鈴木啓久も満期前の63年6月に釈放されている)。他の1016名は、不起訴即時釈放で帰国している。
 
 撫順と太原の戦犯管理所で、自らの罪行と向き合った多くの人びとは、帰国後、中国帰還者連絡会(略称:中帰連)を結成し、自分たちの罪行を語り伝えるとともに、「戦争反対」「日中友好」を訴え続けたが、そういう意味では、周恩来の戦犯政策に基づき、戦犯管理所が行ったことは、天皇制軍国主義に染まった日本人戦犯の再教育であり、人間性を呼び覚ます実践であったといえると思う。

 但し、中帰連の名簿に「鈴木啓久」の名前が見当たらず、後に、彼は”審問には不本意ながら同意せざるを得なかった部分がある”というような内容のことを言ったとされていることが、気になるところである。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述
              第117師団師団長・陸軍中将 鈴木啓久

 第2 罪行


 4 歩兵第67聯隊長の時の罪行

 1940年8月、私は第15師団歩兵第67聯隊長として南京に侵入し、南京市及其の附近の警備並に南京蕪湖間鉄道一部の警備の任務を受けました。
 之れが為め私は一般方針として部下に指示しました。即ち「南京市は日本の中国侵略の中枢地であるからよく治安を保持し、警戒心を高め管内に於ける抗日勢力を徹底的に掃滅せねばならぬ。之れが為め常に積極的に行動し荀(イヤシ)くも間隙を与ふるが如きことあってはならぬ」
 (1)1940年8月下旬、南京北方六合附近の侵略作戦に参加し、同地北方約40粁(キロ)に於て某村落を占領して居った解放軍百余名を攻撃し、解放軍約20名を殺害し、又砲撃に依り中国人民家屋約10戸を破壊しました。又六合北方約30粁に在る中国人民村約200戸を、私は焼却を命令しました。

 (2)9月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁附近に於て、抗日国民党軍の旁系軍50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第1大隊長角田少佐に毒瓦斯攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (3)9月下旬、当塗東方約40粁に在る高淳に私が蟠居を命じた中隊が、抗日紅槍会団の反撃を受けましたとき、此の中隊が紅槍会員20名を殺害しました。

 (4) 1941年1月─2月間私は第11軍第17師団に臨時配属せられ軍司令官園部中将の指導せる漢口北方遂平、泌陽附近の侵略作戦に於てだ17師団長平林中将指揮の下に此の作戦に参加しました。
 本侵略作戦中、私は1月下旬、駐馬店西側に於て、抗日国民党旁系軍約100名が村落を占領しあるに対して包囲攻撃を行ひ、其の20名を殺害し、中国人民の家屋2戸を焼却しました。
 次で私は遂平を占領しありし抗日国民党軍を攻撃し、其の10名を殺害し、又私は西平に於て同地を占領しありし抗日国民党軍に対し一部を以て其の正面より、私自身は主力を以てその側面より包囲する如く攻撃し、抗日国民党軍30名を、又抗日国民党軍に属する愛国工作員1名を殺害し、重機関銃1を掠奪しました。此際砲撃等に依り中国人民の家屋5戸を焼却し10戸を破壊しました。

 2月上旬、泌陽平地東北角に於て、抗日国民党軍に属する後方部隊を発見し、私は、其の後方より攻撃を行ひ、機関砲弾薬十数箱、医療薬品数箱を掠奪しました。

 (5) 4月、私は第15歩兵団長赤鹿少将の実施せる襄安、盛家橋附近の侵略作戦に参加し、襄安に於ては抗日国民党軍の同地周辺を防御しあるを包囲攻撃し、抗日国民党軍10名を殺害し、軽機関銃2挺を掠奪し、盛家橋附近に於ては同地附近に在る抗日国民党に対し私は先づ第1大隊長角田少佐をしてその側面より攻撃せしめ、私自身は聯隊主力を指揮して第1大隊と連繋して包囲殲滅せんことを期しましたが、抗日国民党軍の大部は後退せる為め其の一部を攻撃し抗日国民党軍20名を殺害し、迫撃砲2門を掠奪しました。
 此の侵略作戦に於て中国人民の家畜、家禽数百を掠奪した。


 (6) 次で、抗日国民党軍の反撃に備へ、私は大隊長松尾少佐をして2中隊を指揮せしめ、盛家橋に蟠居(注1)せしめたるに対し5月下旬抗日国民党軍約500名反撃し来りしとき、同軍約10名を殺害しました。
 而して私は師団命令により主力を巣県に集結し淮南鉄道一部の警備に任ぜしめられました。

(7) 5月下旬、私は巣県東方和県附近に侵略行軍を実施しました時、抗日紅槍会団約300名を攻撃し、その40名を殺害しました。

 (8) 7月中旬、私に対し抗日国民党旁系軍劉工作を某は機関銃4を有する約1000名と共に帰順を申し出でて来ましたので私は之を許可し其の軍の原駐地たる巣県西方地区に於て反共工作を行ふ様命令しました。

 (9) 私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ、中国人及朝鮮人婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10) 7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下に在る陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪の為来りしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。


 5 第27歩兵団長の時の罪行

 1941年10月、私は第27歩兵団長として天津に侵入し、間もなく滄県に蟠居し該地区の鉄道、交通路等の警備及同地区内の、治安維持をの任務を受けました。依って私は部下に対し次の如き指示を与へたのであります。
「治安維持とは当方面に於ては剿共を以って根元とするものである。剿共なくしては治安維持は達せられないのである故に、八路軍の情報を迅速確実に獲得する如くし、創意工夫を廻らし、積極的に討伐を実施すべきである」此の指示の意とする所は積極的に且つ凡有方法手段を竭(ツク)して八路軍及其の関係員を剿滅すべきことを示したのであります。

 当時私の指揮下に在るものは、天津に蟠居せる第2聯隊と、滄県に蟠居せる第3聯隊とを指揮しました。而して第2聯隊の2大隊は天津に、1大隊は其北方4粁の地点に蟠居せしめ、第3聯隊の1ヶ大隊は河間に、1ヶ大隊は滄県に、他の1ヶ大隊を棗強に蟠居せしめ各々地域を与えて八路軍の剿滅に努力せしめたのであります。
 (1)1941年11月下旬より12月上旬に亘り、私は第3聯隊の大部分と第2聯隊の一部とを指揮し、献県附近の八路軍に対し侵略討伐を実施し致しました。
 此の間私は各部隊をして密偵を使用せしめ、八路軍の工作員を逮捕する如く命じたる為、多くの村落に於て中国人民を逮捕し数十名拷問致しました。又此の行動間に於て家畜約百頭、野菜多量を掠奪しました。


 (2)11月下旬頃、私の平時の命令に基づき、棗強に蟠居せる第3聯隊第3大隊長小川少佐は、棗強南方地区に八路軍が活動中なりとの情報の下に直ちに出動、八路軍を攻撃して八路軍約10名をを殺害し、且つ約600戸ある村落を2個焼却し、此の時中国人民の農民100名を致しました。

 (3)12月中旬、私は第3聯隊の約1大隊半を直接指揮し、滄県東方戟門附近侵略作戦を行ひました。此の際行軍途上に於て八路軍の情報を得る為、中国人民を捕へ八路軍の情報を尋ねしときに情報を提供せざるの故を以て中国人民十数名を殴打拷問しました。

 (4)12月中旬頃、滄県に蟠居中の第3聯隊の一中隊は滄県西方地区に於て八路軍約100名が活動中なりとの情報を得、私の平素の命令により此の八路軍を攻撃し自転車を利用せる追撃戦を戦い行ひ、八路軍約10名を殺害し、小銃十数挺を掠奪しました。

 私は1941年12月下旬頃、第27師団長冨永中将の命令に依り唐山に移り第1聯隊と次いで増加し来たりし第3聯隊とを合わせ指揮し、兵力を2倍となし、唐山地区に於ける鉄道、交通路の警備及び治安維持の命令の下に華北侵略拠点の侵略の任務に服したのであります。


 本地区は八路軍の活動極めて活発であるのと、日本帝国主義者の華北侵略の為めの重要なる拠点であるので、私は部下に対し内容次の如き命令を下し、平素に於ける政策となしたのであります。即ち
「此の地区は日本の中国を侵略する基点となるのであるから、我々は此の地区を確保し得ると否とは日本の中国侵略を実現する為めに重大なる重大なる関係を持つのであるから、我々は凡有方法と手段を尽して此の仕事を完遂せねばならぬ。故に若し日本軍の意図に背くものあらば徹底的に覆滅し、又物資の如きはなし得る限り日本軍の掌握下に置かねばならぬ」
 右の命令によりて、最も惨酷なる「三光」政策を採用せるものでありまして、総てが此の命令を基礎とし、又其の目的を達成する為めには如何なる手段をも選ぶことがないのであります。

 又八路軍に対しましても、右の政策を根基として、大要次の如き方策を実行する様命令したのでああります。

(イ)八路軍は徹底的に殲滅すべし
(ロ)八路軍に属する愛国工作員、通信員、又は八路軍との通謀者は悉(コトゴト)く剿滅すべし
(ハ)反共自衛団は極力支援すべし
(ニ)反共教育を行ふものあらば極力支援すべし
(ホ)前記愛国工作員等を剿滅する為め必要に応じて徹底的に剔抉(テツケツ)粛清を実施すべし
(ヘ)八路軍を消滅する為め、又はその活動を阻害する為め、遮断壕及附属望楼を構築すべし
(ト)長城線附近2粁以内に於て八路軍の根拠地となり、又は八路軍の利用し得る所の住民を悉く追い払ひ、無住地帯となすべしとの北支方面軍司令官岡  村寧次の命令を厳に実行すべし
(チ)日本侵略軍の蟠居地附近一帯の中国人民をして極力八路軍に反対せしめ、且つ八路軍の情報は自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべ  し
(リ)偽軍、偽県警備隊を指導支援し、又督励して八路軍の活動を妨害せしむべし
 
 私は唐山に侵入するや直ちに各隊を巡視して、此の政策の実施を督励し、且つ聯隊本部の蟠居地を指定し、且つ各聯隊の警備担任地域を示したのであります。

 ・・・(以下略)

蟠居:(バンキョ)占拠のこと。広い土地を占領し勢力を張るという意味で、中国共産党側が日本軍に対して使用した。 
剿共:(ソウキョウ)共産党や共産軍の勢力を滅ぼしつくすこと。日本軍側の用語
 


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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