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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 京都師団歩兵第二十聯隊兵士の記録 NO2

2015年04月13日 | 国際・政治

 前項に続いて、下記も南京攻略戦に参加した京都師団歩兵第二十聯隊兵士の日記の一部である。下記の日記でも、南京陥落(1937年12月13日)前 には、激しい戦闘があえり陥落後には、武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述がある。そうした南京陥落前後の状況が記された部分を中心に「南京事件 京都師団関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)から抜粋した。また、合わせて「第四中隊陣中日誌」の一部も抜粋した。武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述は、明らかに戦闘行為による殺害ではなく、国際法違反の「捕虜虐殺」であり、正当化してはならないと思うからである。

 現在の日本は、安倍政権のもと、歴史の修正によって戦時中の日本を正当化しようとする動きがますます勢いを持ちつつあるように思う。
 ふりかえれば、大日本帝国憲法第11条で「天皇は陸海軍を統帥す」と定められ、戦争の最高指揮権を有していた天皇が、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で免責されたためか、戦後間もない頃から日本の戦争を正当化する主張があった。そして、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌い続けただけではなく、それらを国旗・国歌と定めるに至った(平成11年8月13日:法律第127号)。

 さらに、「逆コース」 といわれるGHQの占領政策の転換によって、公職追放を解除された大本営や参謀本部の元高官、帝国陸海軍軍人、当時の政権中枢の閣僚や政治家、軍国主義団 体の関係者その他、先の大戦を指導した軍人や彼等を支えた多くの人たちが、戦後の日本社会で復活し、要職に就いて再び力を発揮するようになった。

東條内閣当時、商工大臣や国務大臣を務め、A級戦犯被疑者として3年半東京の巣鴨拘置所に収監された岸信介(安倍首相の祖父)が、戦後内閣総理大臣 (第56・57代)となっていることはよく知られている。また、政界に入った軍人も多い。そのため、先の大戦に関する発言で辞任に至る閣僚や更迭される閣 僚も続いた。たとえば、羽田内閣の永野茂門法相(敗戦時:大日本帝国陸軍大尉)などは、「南京大虐殺はでっち上げだ」というような発言をし、事実上更迭される形で、在任わずか11日で辞任している。

 当然ともいえるが、そうした旧指導層を排除できなかった日本は、戦後も自らの加害責任にきちんと向きあってこなかった。だから、日本は、今も戦争に関わる様々な問題を引きずっているのだと思う。
 それは、戦後補償問題に象徴的にあらわれている。

 太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言執行のために日本において占領政策を実施したGHQは、日本を民主化するための一つとして、「軍人恩給廃止」の「連合軍最高司令部訓令」を発した。その時「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、また、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、日本の軍人恩給を廃止させたのである。
 にもかかわらず、日本政府はその軍人恩給を、サンフランシスコ講和条約締結によって日本国の主権が承認された直後に復活させている(1953年改正により復活:法律第155号)。

 したがって、日本の戦争被害者の補償は、戦時中の軍人を中心とするもので、その支給金額も、原則として当時の階級に応じた(仮定俸給年額:兵145万円~大将833万)ものになっている。軍人とその遣族に対する恩給法は、戦後も戦時中の考え方で貫かれているのである。

 また、元軍人やその遺族には手厚い援護をしながら、空襲被害者をはじめとする一般被害国民や国家総動員法で徴用された多くの人は、補償の対象外で「受忍」させらたままである。国籍により外国人を補償から排除するという問題も、戦後70年、いまだに解決していない。

 ドイツをはじめとする欧州諸国の戦後補償は、人権や国民の被害の平等負担という観点から行われた。しかしながら、日本の戦後補償は、基本的な部分で戦時中の考え方で行われているのである。

 したがって、旧指導層が甦り、いろいろな側面で戦時中と変わらない考え方を残した「戦後の平和憲法に基づく日本」の歩みは、戦後間もないころから危ういものであったといえるのではないかと思う。そして、「一強多弱」と言われる状況に至った現在の安倍政権は、内外の懸念の声をものともせず、歴史を修正し、いよいよ本格的に「平和憲法に基づく日本」をつくりかえようとしているように思われる。

 下記のような記録が多数存在し、元日本兵の証言も数え切れないほどあるのに、「捕虜虐殺はなかった」、「南京大虐殺なかった」というような歴史の修正を認め、教科書から加害の事実を削除することが許されていいのかどうか…。
 国際社会の信頼を得ることができるのかどうか…。 
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牧原日記

12月13日
13日の朝はあける。今日で西山高地の陣地を撤退し午前5時此の高地を出発。南京街道路に出る。
途中敵の遺棄死体や手榴弾及小銃弾が無数に捨てられている。 
話では、午前1時十一中隊の将校斥候が出発す。十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にかかり、3名即死し6名が負傷したそうである。
道々には地雷の掘り起こした穴がいくつもある。亦敵が敵の地雷にひっかかり手足がとび無ざんにも真黒になって4名死んでいた。大隊は城門手前4百米位の所にある遺族学校にて朝食をとり8時過ぎ出発し城門手前百米位の土手にて休憩する。
話によると攻城砲の破片が3百米も後方に飛んで来たという事だった。
新 聞記者も続々と嬉しそうに自動車や徒歩にて入城する。午前11時昼食を同学校で終わり、中山門に向う。大隊は師団の予備隊となり、一時兵力を西山の麓に集 結(大きな建物があったが名前は忘れた)。今晩は此の地で一泊する事になった。九中隊は紫金山の残敵掃討、十二中隊は当並に附近の警戒に当たる事に なった。MG中隊も一ヶ分隊が十二中隊に協力する事になった。MG中隊及大隊砲は大隊主力と離れ貧しそうな家に泊る事になった。家の中には馬が一匹死んで いた。支那人苦力は熱心によくついて来て呉れた。次の様な隊長訓示があった。
連日にわたる悪戦苦闘に諸子は誠に御苦労であった。光輝ある軍旗に一層の光輝をそえた。
戦車隊も9時頃から掃討に協力出動した。
昼間より大・小行李部隊も盛んに入城している。
〔欄外記入〕
自12月9日至同13日南京攻略に参加。同日南京入城。

12月14日
午前7時起床。午前8時半、一分隊は十二中隊に協力。馬群方面の掃討に行く。敵も食うに食なくふらふらで出て来たそうだ。直ちに自動車にて出発す。
しかし到着した時には小銃中隊だけで、三百十名位の敵の武装解除を終わり待っていたとの事。
早速行って全部銃殺して皈って来た。
昨夜はこの地にいた小行李部隊も敵の夜襲を受け戦死6名出たそうだ。

午 後2時大隊は山岳部の掃討に行く事になった。何でも5、6百の敵が現れたため師団命令により行動をおこした。行程は約7里位。鉄道に沿い揚子江の方に向 う。海軍部隊も看護兵が若干トラックにて来ていた。その兵隊達が言うのには、陸軍さんは暫く休んでいて呉れ、今度は海軍が英国をやってしまうから、と力ん でいた。岔路口手前約1里半の所で九中隊は1ヶ分隊の兵力で約千八百の支那軍を連れて皈って来るのに出合った。敵は食ふに食なくふらふらしていたのも可哀 想であった。また鉄道線路の沿道にあちこち敵の死体が転がっていた。また鉄道線路のすぐわきの所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵隊の夜襲を受け全滅して いた。

此の地で約30分休憩す。手榴弾、小銃弾、拳銃弾、 変り種では、鍋、書類、衣類、茶碗、それに衣類等々が所せましと散らばっている。午後6時同村に到着。死骸のある地から此所迄は全く地雷が多く埋られ危険 せんばんだ。或る場所では友軍の自動車がひっかかり、また敵が敵の地雷にひっかかって3名位がちりぢりばらばらになり、それ等の着物の一部が電線にひっか かり黒こげになっているのもあわれな光景だ。また6名の敗残兵の6名が捕えられ銃殺された。ただちにの掃討をやったが、唯の1名も居なかった。食事を準備し約2時間休憩して帰途につく。途中いたる所に地雷が埋もれているのを工兵隊が処理したと言っていたが、1発でも残っていたら一大事である。幸い無事だった。

 今一つの悲惨な光景は、とある大きな車庫の建物に百五、六十名の敵兵が油のようなものをふりかけられ焼死体となって扉から一生懸命のがれ様ともがいたまま倒れていた。而し今は僕達いくら死体を見ても何とも思わなくなった。
午後11時50分無事到着。

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東日記  本人著書「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)より抜粋(467)した関係で、ここでは省略。

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増田手記

                  「南京城内掃蕩ノ巻」
                                             第二小隊第三分隊
                                             増 田  六 助

  昭和12年12月13日、此の日こそ我が国史の上に永遠に燦として輝く南京陥落の日である。南京は言ふ迄もなく国民党の本拠、抗日排日の中心地である。そ の南京は一方大揚子江に臨み、三方は山岳、丘陵に囲まれた天然の要害地、攻めるに難く守るに易き城都である上に□□□□り至れり尽せりに防御工事を施した る陣地に頼り、蒋政権興亡の浮沈の最後の決戦を試みたのであった。然れ共破邪顕正の刃を止むる楯なく正義に剣とる我皇軍の前には一たまりもなく、僅か3日 間の攻撃にてもろくも破れた各城門には日章旗が翻翻と飜り、洪水に堤の切れたる如く城内になだれ込んだる皇軍勇士の凛とした顔には感激の涙さえ光ってい た。

 中山門を逸早く占領して武名を輝したる大野部隊の花 形たる坂隊は、午後1時犠牲者の遺骨を抱き血達磨隊長を先頭に堂々と入城したのであった。中隊は息つぐ遑もなく田中少尉指揮の下に城内敗残兵掃蕩を開始し た。中山門を入って5、6百米の南京大衆病院に這入った。鉄筋コンクリート4階建ての立派な建物が幾棟もある実に広壮なる病院だ。之は上海、常熱、無錫方 面より後送されたる戦傷患者を収容して居た所である。

各分 隊毎に一団となり、一兵たりとも許さじと意気込んで踏み込んだが、其処には血まみれの軍服や破れた帽子や毛布等があるばかりであったが、憎き支那軍の収容 所であった丈でも腹がたつ。戸棚と云はず机と言はず手当たり次第に打ち壊した。薬棚、器具、凾時計等の硝子戸も破壊した。色々の写真標本の類も、ことごと く銃剣で突き出した。

其処を引き揚げて中山北路へ出る道中一帯には、敗残兵の捨てた兵器、弾薬、被服の類から馬や車等が街路一杯に散らかって居る。建並ぶ商家は支那軍の為にすっかり持ち去られて何一つなく、人影どころか犬ころ一匹居ない死の街であった。

 其の夜は久し振りに家に泊まる事になった。掠奪はもとより本意ではないが、此処数日間殆ど飲まず食はず不眠不休で戦闘をしたのも全く今日をあらしめんが為では無いか。又今日あらしむる為に幾多の戦友が尊き犠牲となって居るのではないか。祝南京陥落、祝南京入城だ。

方々から徴発して来た洋酒、ビール、支那酒、色々の鑵詰類を集めて呑んだ、呑んだ。そして祝戦捷の歌を朗に唄った。2日間「グーグー」と泣いた腹へも米の飯をどんどん詰め込んだのであった。

明けくれば14日、今日は国際委員会の設置して居る難民区へ掃蕩に行くのである。

昨 日まで必死で抵抗して居た数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げて居ない。結局此の難民区へ逃げ込んで居るのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分け ても捜し出し、亡き戦友の恨を晴らしてやろうと意気込んで配置に付いた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑な支那家屋を一々索して男は全部取調べた。其□□ 大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と着換へつゝある所を第2小隊の連絡係前原伍長等が見付けた。それと言ふので飛び込んで見ると何の其の 壮々たる敗残兵だ、傍には小銃、拳銃、青龍刀等兵器が山程積んであるではないか。軍服の儘の者もあれば、早くも支那服を纏って居る者もあるが、何れも時候 はずれのものや不釣合の物を着て居るので、俄拵である事が一目で解った。

片っ 端から引張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂下っている電線で引くくり数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長を始め気の立って居る者共は木の枝 や電線で力任せにしばき付け乍ら「きさま達の為に俺達は此んな苦労をしてゐるんだ、エイ」ピシャン「貴様等の為にどんなに多くの戦友が犠牲となってゐるか 知れんのじゃ、エイ」ピシリ。
「貴様等のためにどんなに多くの国民が泣いているか知れんのだぞ」エイ。ピシリピシリ、エイ、此の餓鬼奴、ボン「こら此の餓鬼もだ。」ボン、素裸の頭と言はず蹴る、しばく、たゝく、思ひ思ひの気晴をやった。少くも3百人位は居る。一寸多すぎて始末に困った。

暫 くして委員会の腕章を付けた支那人に「你支那兵有没有(ニーツーナビンユーメーユ)」と聞くと、向の大きな建物を指差して「多々的有」と答へる。其の家に 這入って見ると一杯の避難民だ。其の中から怪しそうな者を一千名ばかり選び出して一室に入れ、又その中より兵隊に違いない者ばかりを選り出して最後に3百 人位の奴等を縛った。金を出して命乞する者もあったが、金に欲の無い我々は十円札、3枚5枚と重ねた儘ビリッビリッと引裂きポイッと投げる、又時計等出す ものがあれば平気で大地に投付け靴のかがとで踏付けて知らん顔して居る。

夕暗迫る頃6百人近くの敗残兵の大群を引立てゝ玄武門に至り其の近くで一度に銃殺したのであった。

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第四中隊陣中日誌

12月12日 晴 日  於八四・六高地
一、 黎明時敵ハ更ニ本戦場ノ要点タル西山高地ノ奪回ヲ企図シ執拗ニモ我左側ヨリ約50名ノ敵ハ猛烈ナル射撃ヲ浴セツヽ逆襲シ来ル 第二小隊及予備隊ハ一斉ニ熾 烈ナル火力ヲ発揚シ次イテ小隊長高倉准尉率先先頭ニ立チ奮戦格闘十数分後之ヲ西方ニ撃退セリ 本戦斗ニ於テ高倉准尉及福島伍長並ニ大隊砲小隊長梅川曹長ハ 格斗中敵弾ニ倒レ壮烈ナル最後ヲ遂ク

二、大隊主力正面ハ本朝来極力弾雨ヲ冒シテ前進ニ努メ我カ配属機関銃及軽機関銃ハ射撃ヲ以テ極力之ト協力シタルモ容易ニ前進スル能ハス 漸ク正午頃第二中隊ハ我カ中隊ノ北方西山高地ノ北部ヲ占領セリ 又第十一中隊ハ南部西山高地西北側ニ逐次進出セリ

茲ニ於テ中隊ハ第二中隊ニ連繋シ更ニ西北側ニ向ヒ攻撃シ遺族学校方向ニ敗退スル敵ヲ猛射シ敵第二線陣地ニ対スル攻撃ヲ準備セリ
我大隊ハ茲ニ於テ完全ニ西山高地上ノ敵ヲ撃退シ得タルモ敵ハ遺族学校南北ノ陣地ヨリ終日猛烈ニ高地上ニ射撃ヲ集中シ且又紫金山方向ヨリ猛烈ナル砲撃ヲ受ケ多数ノ死傷者ヲ生シタリ
中隊長ハ遺族学校附近ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ希望シ意見ヲ具申スル所アリシモ聯隊命令ニ依リ前進ヲ統制セラレ現在ノ態勢ヲ以テ日没トナル
敵ハ夜ニ入ルモ頑強ニ抵抗シ我中隊ニ於テモ敵砲弾ノ為中隊長以下数名ノ負傷者ヲ出スニ至レリ大隊ノ予備隊タリシ第三小隊、中隊ニ復皈ス

三、中隊ハ大隊命令ニ基キ現在陣地ヲ確保スルト共ニ中山門附近ノ敵情地形ノ偵察ニ努メ夜ヲ徹ス

四、本日戦死傷者左ノ如シ
  左記

日時 場所 部位 重軽傷 階級 氏名
12月12日午前7・20 孝陵衡84・6高地 頭部貫通銃創 即死 准尉 高倉亀之助
胸部貫通銃創 伍長 福島治郎
背部擦過左手貫通銃創 一等兵 田中数夫
同10、40 右下肢貫通銃創 一等兵 白米山利一郎
同午後7・40 右上膊頭部爆創 中尉 坂清
右手及耳朶爆創 上等兵 的場善夫
下顎及頭部爆創 一等兵 松岡京松
同午後8・05 右側腹爆創 一等兵 大江明
右側膊擦過銃創 伍長 河北喜八


五、火葬ノタメ進士伍長以下5名残置ス

六、現員  234名  内入院43名


12月13日   晴 月  於南京
一、西作命第167号ニヨリ午前7時30分東南方山麓ニ集結シ本隊トナリ中山門ニ向ヒ前進ス

二、中隊ハ午後1時40分中山門ヨリ入城、西作命第168号ニ依リ城内掃蕩ヲ実施ス

三、歩兵一等兵 須川淳
  歩兵上等兵 中島定助
  歩兵一等兵 瀬崎重吉
 右入院中ノ処12月5日退院、本日中隊ニ追及ス

四、進士伍長以下4名火葬ヲ終ヘ遺骨ヲ奉シ中隊ニ追及ス

五、尋常糧秣トシテ一日分ヲ受領ス
 
六、現在員   234名  内入院40名


12月14日 晴  火  於南京
一、西作命第170号ニヨリ午前10時ヨリ城内第二次掃蕩区域ノ掃蕩ヲ実施ス
 敗残兵328名ヲ銃殺シ埋葬ス

二、鹵獲兵器左ノ如シ

 品目 数量 品目 数量
小銃 180 拳銃 60
銃剣 110 眼鏡 2
小銃弾 4000発 手榴弾 20発
剣銃弾 5000発    


三、歩兵上等兵  山口定一
  同      中野修一
 入院中ノ処本日中隊主力ニ追及ス

四、尋常糧秣トシテ2日分ヲ受領ス

五、南京城内海軍部ニ於テ宿営ス

六、現在員  234名  内入院38名 
 

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