真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 京都師団歩兵第二十聯隊兵士の記録 NO1

2015年04月06日 | 国際・政治

  下記は、南京攻略戦に参加した京都師団歩兵第二十聯隊兵士の日記の一部である。いずれの日記にも、南京陥落(1937年12月13日)前には、激しい戦闘の記述があり、陥落後には、武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述がある。下記は、そうした記述のある南京陥落前後の部分を中心に「南京事件 京都師団関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)から抜粋したものである。武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述は、明らかに戦闘行為による殺害ではなく、国際法違反の「捕虜虐殺」であることがわかると思う。

 それは、「中国が知られたくない支那軍の実態」とか、「南京防衛軍司令官・唐生智にまつわるいくつかの疑問」などと支那軍の問題点を指摘することでなかったことにできるものではない。したがって、当時の支那軍がどうあれ、居留民の保護を名目に軍を進めた日本が、居留民の保護とは関係のない「暴支膺懲」などをかかげて他国の首都に攻め込み、「捕虜虐殺」の国際法違反を犯した事実は、正当化できるものではないと思うのである。

 また、「徴発」という言葉で表現された「略奪」が、常態化していた事実も読み取れるが、見逃すことはできないと思う。

 先日、安倍晋三首相は、中国政府が9月に行う「抗日戦争勝利70周年」の記念行事に招待を受けたが欠席する見通しだということが報道された。欠席の詳しい理由はよくはわからないが、ひっかかるものがある。どうも、安部首相は村山談話・河野談話を受け継ぐと言いながら、 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国 の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」ということを、受け入れてはいないように思われるからである。

 「国策を誤り」を受け入れていれば、招待されているのに断ることはないのではないかと思う。欧州では、第2次世界大戦を連合国側の勝利に導いた「ノルマンディー上陸作戦」から70年を迎えた2014年6月6日の記念式典に、旧連合国はもちろん、旧敵国ドイツの首脳らがともに出席しているのである。早くそうした共存共栄の関係を築くべきだと思う。
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増田日記

・・・

12月12日 敵ノ大胆ナル逆襲ヲ数度撃退ス。午前5時小隊長高倉准尉連絡係福島伍長及米田名誉の戦死ヲ遂ゲラル。実ニ戦場ノ恒トハ言ヘ果ナシ。第二中隊ト協力シ完全ニ占領ス。
嗚呼又悲□□深シ激戦ノ跡、日ハ又西ニ没ス。明日ノ命ヲ誰カ知ル

12月13日 未明ニ山ヲ下リテ南京ニ向フ。聞ケバ今朝3時半第2大隊全軍ニ魁ケテ南京中山門ヲ占領セリト。午後2時我大隊及聯隊旗モ晴ノ入城。
全軍ノ将士ハ勿論故国ノ官民等等シク今日ノ入城ヲドノ位待ッタ事カ。其ノ一番乗ヲセルハ其ノ功云フベカラス。引続キ城内掃蕩ス。夜ハ宿舎ニ就キ大イニ祝福ス。手近ニ酒有リミルク在リ。呑ンダ呑ンダ唄ッタ。大隊副官ノ注意ヲ受クル迄多クノ戦友ヲ犠牲ニシ数ヶ月ノ労苦ハ今日晴レテ忘レントス。アゝ思ヘハ尊シ犠牲ノ英霊ヲ弔フ。命ヲ全シ此ノ栄アル入城セシ我等ノ幸福又之ニ過グルモノナシ。

12月14日国租界ニ入リ避難民中ニ居ル敗残兵ヲ掃蕩ス。第四中隊ノミニテモ5百人ヲ下ラス。玄武門側ニテ銃殺セリ。各隊ニテモ又同シト云フ。

12月15日 中嶋部隊ハ本日午後2時ヨリ4時迄入城式(中山門)ヲ行フト云フニ、一大隊ハ市内ノ掃蕩ヲ変更シテ城外馬群ニ警戒勤務ニ就ク事トナリ出発ス。第一番乗ノ勲功ノ待遇トシテ城外ノ掃蕩警備トシテハ余リナリ。夜ハ馬屋位ノトコロニドシ込テ宿営。

12月6日 アノ山城デ山々ノ要点各所ニ警戒兵ヲ出シテ警備ニ就ク。
午後目的地ニ着ク。夜山上下士哨ニ服務。

12月17日 出発シ白水橋ニ帰リ一週間ノ予定ニテ駐屯勤務。
敗残兵ノ掃蕩ヲ行フ。
多数ノ捕虜広場ニ居ルヲ見ル。

・・・以下略

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上羽日記

第拾六師団 衛生隊
 車輌中隊第貳小隊
 第壱分隊第貳班
       上羽 武一郎

 陣中日記

・・・

 12月12日
砲撃はげし。ゐんゐんたる重砲のうなりを立てゝとんで行く。
耳もつぶれる様だ。
新聞社の自働車がうようよ。朝日・毎日は自働車にトーキー班を設けカメラに収める。無電で第一線の記者よりのれんらく等物々しい。
午後4時より患者収容に出る。松田部隊長も兄の着物を着て其の上にがいとうを着て、抗にパンをかじってがんばってゐる。

12月13日 日本晴
飛行キの活躍ばかり。
小銃の音はたと止み、重砲のみ南京城内のつるべ打ち。
中山陵園患者収容。
午前11時南京に入城したそうな。

12月14日
飛行キ残敵掃とう。
患者第二病院、南京中国病院へ運ぶ。
城へき、中山門の砲の弾こん物すごし。門は土のうをつんで入口を閉してあったらしい。
12月13日 午前3時10分
大野部隊占領、意気高し。午前2時半、工兵今中隊爆薬でとつげき路を開き、3時10分福知山二十の大野隊が一番に占領したと太々と記してあるを見た時、ほんとうにうれしかった。
無錫
大江貞美君が戦死したそうな。実におしい人をなくした。
夕方7時我々車輌病院へ行く途中敵しうに合い生きた気持ちせず、どんどんぱちぱち。歩兵がトラック、ダンットサンに分乗、早速かけつけて何なくげきたいする。話に依れば3百人程の兵を武装解除して倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時此を見た中のやつがあばれ出し、7、8人で守って居た我兵の内三八の銃をもぎとられ交戦し、其れが逃げてきたらしい。彼等は武装解除して使役にでも使われると思ったらしい。

12月15日 南京滞在
中山陵出発、病院横に宿る。
各部隊の入城式花々しい。タンク、砲車、海軍の陸戦隊、そうこう車等市内を大行進。さすが首都だけの名にはじず道路はアスハルト、街路樹等、烏丸等より以上だ。
家屋も大きな建物が一ぱいだ。中にも戸をしめた各種の銀行等、平井、吉岡に市内残てきそうとうのかへりに出会ふ。

12月15日
話に依れば、地内北方に敵武装解除したる兵1万5千人居て、此れを機関銃で囲んでいるそうな。又紫金山のトーチカ内に一個師団程度居て、此も囲んで守って居るそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引ぱり出してさがして行く。

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北山日記

12月13日
 昨夜、夜通し砲撃の音がしてゐる。朝方から砲銃声の音が絶へる。さてはと思ってゐると前進命令。”
”中山門ニ向ッテ前進スベシ”さあ入城だ。直に整列、出発。前進して政治学校までくるとこゝで大休止だとの話である。円ピ、十字鍬、巻脚絆、弾薬、防毒面、靴、雑嚢、毛布、随分ほってある。西山を一廻りして下りて来ると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人達が集ってヤイヤイ云ってゐる。
紅顔の美少年である。シャツは抗日救国聯合会の著名人のものを着てゐる。祖国中華民国を守れと随分苦労したらう余り皆んが惨酷な殺し方をし様とするので見るに忍びず僕が銃殺し様とするが、皆が承知しない。
戦友が無残な死に方をしたので唯の殺し方では虫が納まらぬのだと云ってゐる。無理からぬこと。
だが余りに感情的ではないだろうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてだるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだらうか
少しの抵抗もせず、こゝを撃って殺して呉と喉を示して哀願するのを、寄ってたかって虐殺するのは、日本兵の恥である。
大隊長代理森尾大尉の労苦を謝すの簡単な挨拶の後、附近の民家に宿営。中隊は観音堂の入る。
観音様も兵隊様の御詣りには閉口だらう。
遂々一番乗りは第一大隊らしい。

12月14日
今日は入城だらう。3時頃から起きてワイワイ騒いで準備する。
何時迄経っても命令が来ない。
昼食後、山本、田辺と一緒に城内へ入って見る。
中山門相当に砲撃が加へてある。鉄の扉に記された”12月13日午前3時40分大野部隊占領”の文字。手を握って喜合ふ。
未だ城内は残敵掃蕩の最中らしい。
徴発は一切厳禁。仕方なく引き返す。
新聞社通信社の自動車が幾十台となく城内へ入る。空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回してゐる。午後2時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。
午後12時過ぎ掃蕩から皈る。8百名程武装解除したらしい。
皆んな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞと想ってゐまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山居たと云ふ。
生かして置けば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだらうが惜しいものだ。尊い生命が何の(チューチョ)もなく失はれて行く戦争の酷烈な姿をつくづく感じる。

12月15日
愈々南京入城である。前線も銃後もいかに今日の日を待った事か。今日のため、今日のよろこびのため皆んなすべてを犠牲にし、いかなる苦しみも堪へ忍んで来たのだ。
さあ皆んな出す出す。勝利の時振って喜べとの背嚢の国旗が小銃の先頭に、馬の背中に、車輌にハタハタと翻ってゐる。軍装も完全。午後2時30分、道路上に整列。軍司令官閣下を迎へ、閣下を先頭に入城。入城近く大津新聞の記者が来る。余り苦しそうなので背負袋を車輌に積んでやる。大変喜んでバットを拾個くれる。重宝な煙草である。皆んなに分配してやる。3時堂々入城。新聞社のカメラマンが活躍してゐる。国民政府、参謀本部、中央医院どれもこれも堂々たる建物である。未だ2日前には党や政府の要人達がこの辺りを忙しく右往左往したことだらう。
小憩後宿舎に入る。宿舎は医者の別荘風な上品な構えの家である。
長い間使役に従事した你(中国人・你公ニイコーは中国人の蔑称という))等が解放され喜しそうに皈ってゐく。
 はらからの 待つこと比さし 今日の日の
   この喜びぞ 響け 銃後に

12月16日
戦銃隊は城内敗残兵掃蕩に行く。炊事場、入浴場、厩舎なぞ設備する。国際委員会管理下に避難民区と云ふ特別な地域が定めてある。入って見る。随分収容してゐる。皈る途中北洋飲料店と書いた店屋がある。入って見るとサイダーが山程積んである。一本抜いて見る。甘いなんとも云ひ得ない美食い味だ。早速附近で人力車を一台徴発し、你公(ニイコー・中国人の蔑称という)に一ぱい載せて曳いて皈る。
外の者も寝台、家具、酒、砂糖、飴、蓄音機なぞ沢山もって皈ってゐる。ストーブをゴンゴンたいて、ビール、サイダーを呑み乍ら12時近く迄話す。

12月17日
小隊の連中が是非教へてくれと云ふので各分隊から2名づゝ連れて朝食後サイダー取りに車輌を曳いて行く。
昨日から早や大分減してゐる。車に2台、2ダース箱を60近く持って皈る。鉛筆、石鹸、銀製のフォークなぞ徴発してゐる。
午後城内を見て廻る。美しい衣服の家を見付ける。

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