『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)を読んだ。そして感じたのは、著者は自分自身が指摘し、日本軍の南京大虐殺を認めている人々を「色眼鏡」かけていると批判しているにもかかわらず、自ら正反対の「色眼鏡」をかけて資料にあたり、日本の戦争を正当化するために、自分に都合のよい部分のみを取り上げ、自分に都合のよいように解釈して、客観的事実を見ていないのではないか、ということであった。
まずはじめに、目次の第一部、第一章に、「中国が知られたくない支那軍の実態」「恐るべき支那軍の焼土作戦」「支那軍の自壊と同志打ち」などという項目が並んでいることに驚いた。南京における日本軍の捕虜虐殺や強姦、略奪などの事実が検証されているのではなく、それらを「支那軍」によるものであるとして、責任逃れをしようとするものなのだと直感せざるを得なかった。いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと同じ論法で、「攻撃」は最大の「防御」ということなのだろうと思う。
また、不都合な事実の指摘を「伝聞」として否定するとらえ方も、いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと同じである。著者は日本軍による「南京大虐殺」の事実の認定が、当時の南京安全区国際委員会メンバーであった外国人の指摘によるものであり、それがほとんど中国人からの伝聞に基づくものであって証拠がないという。しかし、「伝聞」にもいろいろある。南京において、まさに進行中であった「捕虜虐殺」や「強姦」、「略奪」にかかわる被害者本人、またその関係者からの被害直後の「伝聞」を、中国人からのものであるということで否定してしまうような主張は、とても国際社会で受け入れらるものではない。
中国人同様、南京に留まった外国人も危険の渦中にあって、自らも被害を受けつつ、日本軍兵士の不法行為を見聞きし、くり返し南京日本大使館などに訴えていたのである。南京に留まった外国人は、日本人と中国人の見分けがつかなかったなどという憶測によって、彼らの訴えを否定するようでは、国際社会の信頼を得ることはできないと思う。
また、 日本大使館や日本軍に対するそうした不法行為の訴えが、実は「支那軍」によるものであったというのであれば、その事実を具体的に示す必要があると思う。同書には、世に知られていない新たな資料に基づくそうした事実の指摘は、残念ながら見つけることができなかった。それこそ、”証拠がない”のである。
資料を調べれば、当時南京攻略に関わった日本軍兵士の「捕虜虐殺」や「強姦」・「略奪」などの「軍紀・風紀」の問題は、軍部内で、南京攻略に向かう前にすでに心配されていたことがわかる。たとえば、多大な犠牲を強いられ、心身ともに消耗、疲弊した上海派遣軍の士気の低下、軍紀の弛緩、不法行為の発生は、陸軍中央にとっても深刻な問題になりつつあったことが、当時の陸軍省軍務局軍事課長、田中新一大佐の次のような文章で読み取れるのである。
”軍紀頽廃の根元は、招集兵にある。高年次招集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである……補給の停滞から第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる。
軍紀粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。後方諸機関の混乱は、動員編成上ならびに指導系統上の欠陥にももちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。
軍事的無智、無規律、無責任、怠慢などおよそ団体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を動揺せしめることにもなる。問題は制度や機構よりも人事的刷新にある。(「田中新一/支那事変記録 其の3」)”(「南京事件」笠原十九司(岩波新書)
上海居留民の保護が目的で派遣された上海派遣軍に、すでにこうした指摘があったにもかかわらず、無謀にもその上海派遣軍が、後方諸機関(兵站機関)の準備を整えることなく、もちろん人事的刷新もなく、そのまま南京攻略に向かったのである。食糧・物資の供給がない軍は「徴発」という「略奪」をくり返さざるを得ず、時に暴行、住民殺害に及んで、軍紀の破壊が一層進むことに不思議はない。さらには、「軍紀・風紀」を取り締まる正式機関も備えていなかったといわれていることも無視できない。
そうした南京攻略に至る流れを考えると、同書の著者がティンパレーについて語っている下記の文章も、いかがなものかと思う。(ティンパレーは南京城内の南京安全区国際委員会のメンバーであったフィッチやベイツからの報告を文書や記事にまとめたり、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集した人物)
”3月28日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。
(①374頁)
北支から中支、杭州から南京に至るあらゆるところでの日本軍暴行の証言を集めたにもかかわらず、自分がいる上海、しかも難民区第一号が設定された上海地区では、日本軍暴行の証拠をまったく見つけ出せなかったのである。結局、ティンパレーは、上海については暴行の代わりに空爆の記事をもって埋めたのだった。しかし、その空爆に比すべくもない規模の日本に対する無差別爆撃があったのは、それからわずか7年後のことである。
本当ならばティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。なぜ自分のいる上海に見出せず、自分が見ていない他のすべての地区では日本軍の暴行が起きているのか、そのカラクリに気づくべきだったのである。”
上記、田中新一大佐の文章にあるように、上海ですでに「軍紀頽廃」が日本軍内部で問題視され始めていたが、いまだ世に騒がれるほどにはなっていなかったと考えられる。ところが、そうした問題を抱えた上海派遣軍が、後方諸機関(兵站機関)の準備を整えることなく、人事的刷新もなく、そして、「軍紀・風紀」を取り締まる正式機関も備えず南京攻略に向かった結果、軍紀の破壊は現地司令官松井石根自身も認めざるを得ないほどに深刻な問題に発展し、海外でも知られることになったのであろう。
上海居留民の保護を名目に派遣された上海派遣軍は、上海戦では、多くの犠牲者を出したが、「捕虜虐殺」や「強姦」・「略奪」などの「軍紀・風紀」の問題においては、それほど内外に深刻な影響を与える問題に発展させてはいなかったが故に、ティンパレーが「上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません」とベイツに伝えたことは、南京に留まった外国人がみんな中国人にだまされていたり、ティンパレーがそのカラクリに全く気づいていなかったりしたからではなく、逆に、仲間にも正直に事実を伝えている証拠でさえあると思う。
それは、現地司令官松井石根の、「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章からも考えられることである。
”上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ 要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ムナキコトナリ。”
現地司令官松井石根は、軍紀風紀の乱れの原因も正しく分析しているのである。
「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ」したのは、「我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト」という松井石根の文章が意味するところを、しっかり受け止める必要があると思う。。
そうした事実を伏せて、戦争体験者が極めて少なくなった今になって、「南京大虐殺」の犯人は実は「支那軍兵士(便衣兵)」であったなどという歴史の修正が国際社会で通用するはずはない。
また、中支方面軍(1937年11月7日上海派遣軍および第十軍を編合:司令官松井石根)が、独断で制令線を突破し南京攻略に向かったことは、参謀本部が上海戦を一段落として、上海派遣軍の整理や休養を考慮していたやさきのことで、予想もしていなかったことであったということも、しっかりと踏まえておく必要があると思う。
当時 外務省東亜局長であった石射猪太郎は『外交官の一生』という回想録のなかで「南京アトロシティーズ」と題して
” 南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた”
と書いている。また、当時参謀本部作戦課員だった河辺虎四郎は、その「回想録」のなかで、
”…華北にせよ華中にせよ、戦場 兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わってくる。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下には浸透しなかったらし い。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現れた。”
と書いている。そして、参謀長 閑院宮載仁親王(カンインノミヤコトヒトシンノウ)の名で、松井石根方面軍司令官に対し、異例の「戒告」の文書を発したというのである。彼や軍当局が、そうした事実を認めたくなかったということは、その文書の中に「軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸(ヨウヤ)ク繁ヲ見 之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚(ナオ)疑ハザルベカラザルモノアリ」とあることで明確であるが、認めざるを得ない状況になっていたのである。
当時軍当局は、日本軍内部よりも、むしろ海外での事件の反響の大きさに苦慮して、現地軍司令官に異例の戒告文書を発したとも考えられるが、現地軍司令官松井石根も、頻発する掠奪、強姦、放火、虐殺は、実は支那軍の兵士(便衣兵)によるものであるなどということなく、その趣旨を隷下部隊にそのまま通牒している。その通牒の内容が、下記である。
下記資料も、南京における捕虜虐殺や強姦、略奪の多くが、実は支那軍兵士(便衣兵)によるものであったなどという主張が、国際社会では通用しないことを示すものの決定的な一つであると思う。
だから、「南京大虐殺」の犯人は、実は「支那軍兵士(便衣兵)」であったという主張は、南京に留まった外国人のみならず、現地司令官松井石根も参謀長閑院宮載仁親王を含めた日本軍関係者も、そして、日本の外交関係者も、みんな中国人にだまされていたということにならざるを得ない。そんなことはあり得ないことだろうと思う。
また、下記のような、多くの元日本兵の証言や陣中日記、手記、陣中日誌(その一部はすでに取り上げている)などが、捕虜虐殺や強姦、略奪の事実を明らかにして事実も、説明がつかないだろうと思う。
”…日本から食料を送ってくる間の時間が長いので、ほとんどは現地略奪やったな。現地の支那人が住んでいる所に行って、無理やりに物を盗ってきたんや。…わしらは結構悪いことをした。ぱっと大きな村に入っていくらでも物を集めてくるんや。豚でも牛でも食料でもなんでも盗ってきたな。反抗したら撃つのでな、村の人は反抗なんかできないわな。”(「452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言」)
ヘイトスピーチ同様、日本の歴史修正の動きは、日本の国際的信頼を損なうものであり、止めなければならないと思う。
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○軍紀風紀に関する参謀総長要望
中方参第19号
軍紀風紀ニ関スル件通牒
昭和13年1月9日
中支那方面軍参謀長 塚田 攻
両軍参謀長
直轄部隊長宛
中支監
一、 首題ノ件ニ関シテハ各級団隊長ノ適切ナル統率指導ノ下ニ之カ振粛ニ邁進セラレアルヲ信スルモ今回参謀総長宮殿下ヨリ別紙写シノ如キ要望ヲ賜リタルニ就テハ此際軍紀風紀ノ維持振作ニ関シ最大ノ努力ヲ払ハレ度尚軍紀風紀並ニ国際問題ニ関シテハ今後陸軍報告規定ニ準ジ其緩急ニ従ヒ電話・電信又ハ文書ヲ以テ迅速 ニ其概要ヲ報告シ更ニ詳細ナル報告ヲ呈出セラレ度
右依命通牒ス
(別紙)
顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半蔵ニ邇シ其行ク所常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク之ヲ絶讃シテ止マズ 皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ヘハ未タ瑕瑾ノ尠カラザルモノアルヲ認ム
就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ
惟フニ1人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルモノニ至ラン
須ク各級指揮官ハ統率ノ本義ニ透徹シ率先垂範信賞必罰以テ軍紀ヲ厳正ニシ戦友相戒メテ克ク越軌粗暴ヲ防キ各人自ラ矯テ全隊放縦ヲ戒ムヘシ特ニ向後戦局ノ推移ト共ニ敵火ヲ遠サカリテ警備駐留等ノ任ニ著クノ団隊漸増スルノ情勢ニ処シテハ愈々心境ノ緊張ト自省克己トヲ欠キ易キ人情ヲ抑制シ以テ上下一貫左右密実聊 モ皇軍ノ真価ヲ害セサランコトヲ期スヘシ
斯ノ如キハ啻ニ皇軍ノ名誉ト品位トヲ保続スルニ止マラスシテ実ニ敵軍及第三国ヲ威服スルト共ニ敵地民衆ノ信望敬仰ヲ繋持シテ以テ出師ノ真目的ヲ貫徹シ聖明ニ対ヘ奉ル所以ナリ
遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難ナラシメル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ 或ハ沍寒ニ苦シミ或ハ櫛風沐雨ノ天苦ヲ嘗メテ日夜健闘シアル外征将士ノ心労ヲ深ク偲ビツツモ断シテ事変ノ完美ナル成果ヲ期センカ為茲ニ改メテ軍紀風紀ノ振作ニ関シ切ニ要望ス
本職ノ真意ヲ諒セヨ
昭和13年1月4日
大本営陸軍部幕僚長 載仁親王
中支那方面軍司令官宛
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