真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 「山田日記」と「両角業作手記・日記」

2015年06月02日 | 国際・政治

 『南京大虐殺」への大疑問』(展転社)の著者・松村俊夫氏が指摘する「捕虜釈放」の内容を確かめるべく、著者の記述にあった「南京戦史資料集Ⅱ」の319ページを開いたが、版が違うのか、そにには著者の指摘した「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の「捕虜釈放」の記述はなく、そのページの前後は「山田栴二日記」であったことを、<457「南京大虐殺」への大疑問?NO3> で書いた。そして、「山田栴二日記」には捕虜に関して「釈放」ではなく、下記のような記述があることも書いた。
 
12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス
 
 「山田栴二日記」には「捕虜釈放」の記述とは反対の、「皆殺セトノコトナリ」との命令を受けた記述があったのである。
 ところが、これまたおかしなことに、第13師団歩兵第百三旅団(山田栴二少将)の指揮下にあった歩兵第六十五連隊(会津若松)を率いた両角業作大佐が、下記のような捕虜釈放に関する手記を残しているという(『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)。この手記は怪しげであると、いろんな論者が指摘しているが、この手記を取り上げている『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)でさえも、

山田支隊の基幹であった会津若松歩兵第六十五聯隊の聯隊長『両角業作大佐の日記』は、メモと言った方がよいかも知れぬ簡単なもので、問題の幕府山で収容した捕虜の処置については、その全体像を明らかにすることができない。
 ただ、注目すべきは「Ⅰ(大隊)ハ俘虜ノ開放(ママ)準備、同夜開放」(12/17)「俘虜脱逸ノ現場視察」(12/18)の記述で「開放」を「解放」と解すれば、司令部?からの「殺セ}という指示に対して、山田支隊の指揮官たちは江岸で捕虜を解放する意図があったことになる。残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

と指摘しているものである。なぜ『両角日記(メモ)』は南京戦前後の部分しか存在しないのか、なぜ原本と照合できないのか、なぜ、原本の写真やコピーさえ示されないのか、ほんとうに怪しげである。こういう資料を平気で使って、南京事件を論じる論者がいるようであるが、いかがなものかと思う。資料1は、『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)に収録されている「両角業作手記と日記」の全文であが、内容の面でもひっかかる。

 なぜなら、山田少将は、軍や師団に対する批判や不満があれば、それを日記に正直に書く人であったことが、資料2でわかる。その山田少将が、捕虜の件に関して、12月14日から19日にかけ、資料3のように書いている。「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ」という文章が、当時、山田支隊の直面していた状況をよくあらわしていると思う。
 軍から「俘虜のものどもを”処置”するよう」頻繁に督促がきたが、「山田少将は頑としてハネつけた」と、「両角業作手記と日記」には書かれているが、そうした督促に関して「頑としてハネつけた」という山田少将自身は、日記に何も書いていない。督促に対する批判はもちろん、そうしたやり取りさえ、何も書いてはいないのである。
 
 また、「455南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1」で取り上げたように、第十三師団歩兵第百三旅団(山田支隊)会津若松歩兵第六十五聯隊(両角業作大佐)の兵士の多くが、当時の南京の状況を陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌などとして手帳等に書き留め、残している。そして、それぞれに捕虜「処分」(殺害)の記述がある。しかし「両角業作手記と日記」にあるような、「捕虜釈放」の記述は見られない。     
                                                                             
 したがって、私は下記の「両角業作手記と日記」は、原本を書き写したという阿部輝郎氏が、自らの願望を両角業作大佐の名を借りて書いた創作ではないか、と思う。


資料1「両角業作手記と日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   南京大虐殺事件

 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は2万とか書いたが、実際は1万5千3百余りであった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは8千人程度であったが、これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が2、3本張りめぐらされている)─とりあえず、この建物に収容し、食糧は要砦地下倉庫に格納してあったものを運び、彼ら自身の手で給養するよう指揮した。

 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として5、6人の兵を配置し、彼らを監視させた。

 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも4千人ぐらいは逃げ去ったと思われる

 私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

 12月17日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京城入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」……山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくてもよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の部隊に因果を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」─田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
 「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊の機関銃を配属する。

 12月17日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありなんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、12時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
 そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に2、3百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。2千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多すぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
 自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
 
日記
昭和12年12月
12日 午後5時半、蚕糸学校出発。午後9時、倉頭鎮着、同地宿営。
13日 午前8時半出発。午後6時、午村到着、同地宿。敗残兵多シ。
   南京ニ各師団入城。一大隊烏龍山砲台占領。
14日 午前1時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山ニ先遣。
   本隊ハ午前5時、露営地出発。午前8時頃、第五中隊ハ幕府山占領。本隊ハ午前10時、上元門附近近ニ集結ヲ了ル。午前11時頃、幕府山上ニ万歳起ル。山下ヨリ本隊之ニ答ヘテ万歳ヲ送ル。

(以下原文は横書き)
15日 俘虜整理及附近掃蕩。
16日 同上。南京入城準備。
17日 南京入城参加。Ⅰハ俘虜ノ開放準備。
18日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝ニ遺体埋葬。
19日 次期宿営地ヘノ出発準備。
20日 晴 9時半出発下関ヲ経テ浦口ニ渡河。
21日 晴 西葛鎮ニ宿営。
22日 晴 全椒ニ向ヒ入城。同地警備。(途中山田少将ハ?県ニ)
23日 警備方針決定。中隊長以上ニ必要ノ指示ヲ与フ。
24日 附近視察。
25日 慰霊祭ノ為?県ニ出発(軍旗ヲ奉ジ)、同夜同地着。
26日 師団慰霊祭。(老陸宅ノ要図ガ天覧ニ供セラレ、且ツ朝香宮軍司令官ノ室ヲ飾ルモノハ此要図一枚アルノミニテ他何物モナシ)
27日 全椒ニ帰還。
28日 慰霊祭場及陣地偵察。
29日 慰霊祭。(山田少将及師団代表トシテ吉原作戦主任参謀来着)
30日 師団会議事項下達。
31日 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長ノ未亡人ノ手紙ヲ受ケル。

 [注]この記録は、第十三師団歩兵第六十五聯隊両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝郎に貸し与えられたものを筆写し、

保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

資料2「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       
11月1日
 ・・・
《初メテ纏リタル手紙ヲ書ク》
 『多クノ犠牲ヲ払ヒシ割ニ戦果少カリシハ敵陣地ニ対スル誤算根本ナリト確信ス
軍モ師団モ如何ナル陣地ナルヤ更ニ知ル所ナク、示ス所ナク、従テ旅団以下亦唯突附イテ見ル式ニテ敵陣地ト攻撃法ト一致セズ
攻撃ハアクマデ野戦式ニテヤレヤレ式、何ヲグズグズシテ居ル式ナリキ
寧ロ之レダケノ日子要スルモノナラ、最初ヨリ落付キテヤラバ更ニ早イ更ニ良好ナル結末ヲ得タリシナラン、神ナラヌ身ノ詮ナキ事ナレド』

11月13日
 ・・・ 
 右追撃隊歩兵第六十五連帯ト終日連絡ヲ取ル能ハザリシガ、歩兵第104連帯ノ追撃ヲ督励シ時ニ第一線ヨリモ前方ニ出テ推進ヲ図リ、午後4・00歩兵第104連帯ノ第一線ヲ以テ陸渡橋ノ劉河ノ線ニ達ス、時恰モ65連帯ヲ掌握スルヲ得タリ、歩兵第六十五連帯ハ午後2・00劉河ノ線ニ達シアリタリ、例ニ依リ師団ヨリ矢ノ催促、第一線ノ苦労モ努力モ何ノソノ、唯アセリニアセリテ成功ヲノミ望ム
『百ヤ二百ノ決死隊ナキカ』ト、如何ニ決死隊トテ河ハ只デハ越サレマジ
《今日始メテ沿道ノ土民ヲ見ル、戦果ヲ避ケテ避難セルモノ帰来セシカ》
陸渡橋東南5百米オ姚宅ニ位置ス

資料3「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

12月17日 

12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス

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