東京裁判(極東国際軍事裁判)で、インド代表のパル判事は、日本人被告を有罪とする判決に反対して、膨大な資料もとに、『パル判決書』をまとめました。
その中で、パル判事が「予備的法律問題」と題して展開した法理論の主なものを『共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)から部分的に抜粋しました。「法律的外貌をまとってはいるが、本質的には政治的である目的を達成するための」裁判に異を唱えたパル判事が、将来を見据えて、
”いまこそ国際法が個人をもって、その究極の主体と認め、かつ個人の権利の維持をもって、その究極の目的と認めるときであると信ずるものである。「個々の人間、すなわちその福祉とまた多種多様な形をもって現れるその人格の自由、これこそすべての法の究極の主体である。この目的を有効に実現する国際法こそは、それが平和と進歩とを実現する手段としての、優越した地位に到達することを保証するのに、効果の大きい実質的な意義と権威とを獲得するであろう」。”
と書いています。下記の「(6) 侵略戦争─その他の理由によって犯罪とされたか」の「(ロ)国際法は進歩する法であるから」の中の
”…この点に関して本官は、ニュルンベルクにおいてジャクソン検事が最終論告で主張したことに、言及しないわけに行かない。同検事によれば、一国家が、他国家の征服支配の準備をすることは、最悪の犯罪である。現在ではこれがそのとおりであるかもしれない。しかし第二次大戦前には、いやしくも強国として、かような企画ないし準備をなしたという汚点を持たない国はなかったのであって、かような場合にそれが犯罪であるとどうして言いうるか、本官には理解することができない。本官の言おうとするところは、強国がすべて犯罪的な生活を送っていたということではなくて、第二次大戦前には、国際社会はまだ上述のような汚点を犯罪とするほど、発展をとげていなかったと考えたという意味である。”
という記述とともにしっかり受け止め、現在に生きるわれわれが、「個人をもって、その究極の主体と認め、かつ個人の権利の維持をもって、その究極の目的と認める」ところの国際社会をつくりださなければならないのだと思います。
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第一部 予備的法律問題
(H)侵略戦争 ─ 犯罪であるか
(1)1914年までの国際法において不法または犯罪であったか
本官は以上の問題の最初のものをまず取上げてみよう。便宜上、問題は四つの特定期間について考慮することができよう。
一、1914年の第一次世界大戦までの期間。
二、第一次世界大戦よりパリ条約調印日(1928年8月27日)までの期間。
三、パリ条約調印日より本審理の対象たる世界大戦開始の日までの期間。
四、第二次世界大戦以降の期間。
右に挙げた四期間中の最初の第一期に関するかぎり、どんな戦争も国際法生活における犯罪とはならなかったということについては、一般的に意見が一致しているように見受けられる。ただし「正当な」戦争と「不正な」戦争との間に画然たる区別が存することはつねに認められてきたところであると、主張する人が時にはあった。国際法学者や哲学者の論説には、時としてかような区別をつける表現が用いられたかもしれない。しかし国際生活それ自体が、この区別を認知したことはいまだかつてなかったのであり、またかような区別が具体的結果を生ずることもかつて許されなかったのである。いずれにせよ、「不当な」戦争は国際法上の「犯罪」であるとはされなかったのである。実際において、西洋諸国が今日東半球の諸領土において所有している権益は、すべて右の期間中に主として武力をもってする暴力行為によって獲得されたものであり、これらの諸戦争のうち、「正当な戦争」とみなされるべき判断の標準に合致するものはおそらく一つもないであろう。
(2) 侵略戦争 ─ 1914年からパリ条約の1928年までにおいて不法または犯罪であったか
・・・
さてここで本官は、国際団体あるいは国際法の性格に関する自己の見解を表明するために、言葉を挟む必要はない。これらの用語について本官は、後で努めてその意義を明示するつもりであるが、これらは、国際生活に関して特殊な意味に用いられている。しかしこれらの言葉を一般の意味に解するとしても、正当な戦争と不正の戦争との間、あるいは非侵略戦争と侵略戦争との間に明らかな一線を画されたことはなく、また戦争の法的性格についての差異が、かような区別にもとづいて存したこともないのである。
ケンブリッジ大学のラウターパクト博士が校訂したオッペンハイムの『国際法』第六版(1944年)の中に、われわれはつぎのような一節を見出すのである。すなわち、「…戦争が既存の権利を実行するため、かつ法律を改正するための、一般に認められた国家政策の手段であった間は、戦争の理由が正当であるかないかは、法律的にはなんらの関連性を有しなかったのである。どんな目的をもったものであっても、戦争の権利は国家主権の特権であった。かように考えれば、「すべての戦争は正当であった」と。
(3) 侵略戦争 ── パリ条約以後不法または犯罪であったか ・・・(略)
(4) 侵略戦争 ── パリ条約によって犯罪とされたか
まず最初に、パリ条約の効果について、考察してみる。
本官の意見としては、同条約は現存の国際法になんらの変更をももたらさなかった。また同条約はこの点に関してなんら新しい法則をもたらさなかった。この問題は、明確に区別された二つの観点から検討しなければならない。すなわち、…以下略
(5) 侵略戦争 ── パリ条約のために犯罪とされたか
・・・
本官の了解するところによれば、パリ条約によって締約国が国家的政策の手段としての戦争を放棄したその瞬間から、どこの国も戦争を行う権利を失い、そのために一つの権利としての戦争は、国際生活から駆逐されたのであるとライト卿はいおうと欲しているようである。
そうなると、今後どんな国でも、戦争というものを考える場合には、その行動を正当化しなければならない。そうしなければその国は一つの犯罪を犯すことになるのである。けだし戦争というものは、その本質からして犯罪的行為をともなうものであるからである。戦争は自衛のために必要となった場合にだけ、正当化することができるのである。そこで侵略戦争は、自衛のための戦争ではないから、それを正当化することができず、したがって犯罪となるのである。
もし右条約になんら留保条項がなかったとすれば、、右に述べたことはおそらくそのとおりであろう。しかし困ったことには、パリ条約は、自衛戦争とはなにかという問題を当事国自身の決定 ─ それは世界の与論を不利にする危険をおかすだけのことである ─ にゆだねたので、この点に関するその効果を全然消滅させてしまったのである。本官の意見では、どのような規則によるにしても、ただ当事国だけが、自己の行動を正当化しうるものであるか否かを、判定するものとして許されている場合には、その行動は正当な理由を要求するどのような法律にたいしても、その圏外に立つものであり、またその行動の法的性格は依然として、そのいわゆる規則によって影響されることはないのである。
・・・
本官自身の見解では、国際社会において、戦争は従来と同様に法の圏外にあって、その戦争のやり方だけが法の圏内に導入されてきたのである。パリ条約は法の範疇内には全然はいることなく、したがって一交戦国の法的立場、あるいは交戦状態より派生する法律的諸問題に関しては、なんらの変化ももたらさなかったのである。
(6) 侵略戦争 ── その他の理由によって犯罪とされたか
(イ) 慣習法の発達によって
本官の意見では、どのような種類の戦争でも、パリ条約ないしは同条約から生じた結果のために、不法または犯罪的になったものはない。またいずれかの戦争を犯罪的であるとする慣習法もなんら成立してきていないのである。
(ロ) 国際法は進歩する制度であるから
・・・
以上のことに、もしもつぎのこと、すなわちその後も依然として一国による他国の支配が存続し、諸国家の隷属が依然として指弾されることなしに、広く行われ、かついわゆる国際法団体はかような一国の支配を、たんに支配国家の国内問題であると看なしつづけているという事実を加えるならば、かような団体が、人道を基礎とするものであると、たとえ、うわべだけでもいうこと、どうしてできるのか本官にはわからない。この点に関して本官は、ニュルンベルク裁判においてジャクソン検事が最終論告で主張したことに、言及しないわけには行かない。同検事によれば、一国が、他国家の征服支配の準備をなすことは、最悪の犯罪である。現在ではそれがそのとおりであるかもしれない。しかし第二次大戦前には、いやしくも強国として、かような企画ないし準備をなしたという汚点を持たない国はなかったのであって、かような場合にそれが犯罪であるとどうして言いうるか、本官には理解することができない。本官の言おうとするところは、強国がすべて犯罪的な生活を送っていたということではなくて、第二次世界大戦前には、国際社会はまだ上述のような汚点を犯罪とするほど、発展をとげていなかったと考えたという意味である。
・・・
それでもなお、国際社会が法の支配下にある社会であるということは困難である。つぎにジンメルン教授の言葉を詳しく引用しよう。同教授はきわめてたくみに、また正しく国際社会の特徴を述べている。すなわち、
「イギリスの伝統にもとづいて教育を受けた者にとっては、国際法という言葉は、もっともよい場合にも人を混乱させ、もっとも悪い場合には憤激を感じさせる概念を現すものである。それは決してわれわれが、法と考えているようなものではない。われわれの見るところでは、それはしばしば、法の名をかたる『偽物ノ』法、専権を巧みに法服で包んでいるものと、紙一重の関係にあるもののように思われるし、また事実そうである」。
「イギリス人の目から見れば、満足すべき政治制度は法と力との琴瑟相和した仲から生まれた愛児(いとしご)なのである。……それがわれわれのいわゆるイギリス立憲政治の本質である。政治学者が分析する場合には、理論的には分けられるが、実際の慣行においては、不可分に融け合っている二つの過程、すなわち法の遵法、もしくは戦後の論争によく用いられた言葉を借りれば『制裁』と『平和的な変化』という二つの過程の作用がこの立憲政治によって保障されるのである。かようにして、裁判官や立法者や、また上は総理大臣から下は警察官にいたるまでのすべての行政官が、相互に依存する各部分となって単一の組織をつくり上げる」。「この立憲制度は、外からの刺激とか、上からの強制があるからその機能を果たすのではない。その推進力は内部から供給されるのである。その妥当性は同意からえられる。そのエネルギーは与論との接触によって絶えず更新され、溌剌としたものとなるのである。立法府が適切な成文法の中に具現しようとしているものは人民の意思である。裁判官がその解釈に、そして警察官がその励行にそれぞれ従事しているものは人民の意思である。これらのすべての人々が、社会的機能と思われるものを遂行しているのである。かれらは社会においてもっとも継続的かつ有力な、社会奉仕の機関である国家組織を、永久に絶えることなく、しかもつねに変化する社会の要求に適応させているのである」。
「法をこの大きな全体の一部として考える場合、それは規定として公式化された社会的習慣である、と定義することができよう。もしこれらの規定のうち、いずれかの部分が反社会的なもの、時の一般的感情にもはや合致しなくなっているもの、否、もはや一般的感情によって嫌悪されているものと思われる場合には、それは改正されるのである。このように、法という観念と改変という観念とは、決して相容れないものではなく、逆に、事実上相互に補足し合うものなのである。法は死んだ材料でつくり上げた不動の建築物、固定された永久的な石碑なのではない。人間によって創造され、代々譲り伝えられる、生きた、そして発展しつつある社会の不可欠な部分なのである。……」。
「つぎに国際法に眼を転じてみよう。そこに見出すものはなにか。それは上述したところとほとんど正反対の事態であえる」。
「実際において国際法は、組織をもたない法である。それは組織に基礎をおいていないのであるから自然に成長するということはあり得ない。国際法はこのように社会と結びついていないのであるから、社会の必要に適応することができない。国際法はそれ自身の力では微妙な種々の段階を経て、一つの体系としてでき上がることもできないのである。……」。
「この理由はきわめて簡単である。1914年以前の国際法の諸規則は、二、三の例外を除けば、全世界を一つにした社会の運営上の経験から生じたものではなかった。それはたんに多数の自己中心主義の政治的単位が、たがいに接触した結果できたものにほかならない。その接触はあたかも、星辰がはてしない天空を荘厳に移動するにつれて、その軌道が時として相互に交叉するにもたとえられよう。これらの外的撃突ないし衝突が累積した結果として、かような衝突の事情を検討し、それを処理すべき規則をつくることが、相互に便宜なこととなったのである」。
本官の判断するところでは、これが国際法のいまなお占めている地位であり、さらに今後において各政治的単位が、その主権を放棄することに同意して、一個の社会を、形成するのでないかぎりは、また形成するときまでは、国際法はこのような地位にあるであろう。すでに前に示したように、戦後の国際連合はたしかにこのような社会の形成にむかって重要な一歩を踏み出したものである。社会的意識をさらに広める必要を説いたり現代世界の物質的な相互依存関係にともなう諸問題の実際的解決策を説いたりすることが、裁判官たる本官の任務でないことは、本官も承知している。裁判官に与えられた仕事は、たんに法の定式化と分類および解釈にすぎないけれども、いまや国際関係は、すでに裁判官であっても、沈黙を守ることのできないような段階に到達しているのである。本官はラウターパクト教授とともに、いまこそ国際法が個人をもって、その究極の主体と認め、かつ個人の権利の維持をもって、その究極の目的と認めるときであると信ずるものである。「個々の人間、すなわちその福祉とまた多種多様な形をもって現れるその人格の自由、これこそすべての法の究極の主体である。この目的を有効に実現する国際法こそは、それが平和と進歩とを実現する手段としての、優越した地位に到達することを保証するのに、効果の大きい実質的な意義と権威とを獲得するであろう」。たしかにこのことは、戦敗国の中から戦争犯罪人を選んでこれを裁判するという方法とは、まったく異なった方法によって行われなければならない。ラウターパクト博士が推奨するような国際機構は支配権を握っている一外国が自国と被支配国との間の種々の折衝を、その国際機構の管轄に属しない自国の「国内問題」であると主張することを許さないであろう。
(ハ) 裁判所の創造的裁量によって
・・・
法の支配下にある一個の国際団体の形成、あるいは正確にいえば、国籍や人種の別の存在する余地のない、法の支配下にある世界共同社会の形成を、世界が必要としていることを本官は疑わない。このような機構の中においては、本件で訴追されているような行為を処罰することは、全体としての共同社会の利益およびその構成員の間に必要である安定かつ有効な法律関係を促進するのに貢献するところがたしかに大きいであろう。しかしそのような共同社会が生まれるまでは右の処罰はなんらの役に立たないのである。特定の行為にともなう処罰にたいする恐怖心が、法のあることによって生ずるのではなくて、たんに敗戦という事実にもとづいて存するにすぎない場合には、戦争の準備が行われているときにすでに存在している敗戦の危険は法の存在のゆえになんら増大するとは考えられない。すでにより大きな恐怖、すなわち戦勝国の勢力、威力、というものが存する。法を犯すものがまず効果的に法を犯すことに成功し、そしてのち、威力あるいは勢力によって圧服されるのでないかぎり法は機能を果たさないものであるとしたら、本官は法の存在すべき必要を見出しえない。もしも(いま)適用されつつあるものが真に法であるならば、戦勝諸国の国民であっても、かような裁判に付せられるべきであると思う。もしそれが法であったとするならば、戦勝国はいずれもなんらこの法を犯すことがなかった、かつかような人間の行為についてかれらを詰問することを、だれも考えつかないほど、世界が堕落していると信ずることは、本官の拒否するところである。
(ニ) 自然法によって
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国際生活は、まだ法の支配下にある団体として組織されていない。団体生活というものについては、いまだに一般の合意が成立していないのである。いわゆる自然法が、前に示唆されたような方法で機能をはたすことを許されるためには、まずかような合意が必要である。右のような諸国家の団体生活について合意が成立したとき、初めて団体生活を円満に行うために必要な条件によって、ある種の外的基準が与えられるのであって、この基準によって、ある特定の決定が正当であるか否かを測定すべき標準が与えられるのである。
本官の判断では、本審理の対象である大戦が今次大戦が開始された時までには、どのような種類の戦争も国際生活上の犯罪とはなっていなかったのである。戦争の正、不正の区別は、すべて依然として国際法学者の理論の中にだけ存していたのである。パリ条約は戦争の性格に影響を与えなかったのであり、どのような種類の戦争に関しても、なんらの刑事上の責任をも国際生活に導入することに成功しなかったのである。同条約の結果として、国際法のもとで、不法なものとなった戦争はひとつもない。戦争そのものは従前通り法の領域の外に止まり、たんに戦争遂行の方法だけが法的規律のもとにおかれたにすぎない。戦争を犯罪となすような慣習法はなんら発展していない。国際団体自体が、犯罪性の概念を国際生活に導入することを、正当とする基準の上には立っていなかったのである
第二次世界大戦以後において、この点についてなんらかの国際法の発展があったかどうかを検討することは、本裁判目的にとってはあまり関連性がない。かりにその後の法の発展によって現在では、かような戦争が犯罪であるとされるようになったとしても、本官はそれによって、現在の被告が影響を受けるものではないと考える。
・・・
(I)個人責任
本件において主張されているような種類の戦争が、国際生活上の犯罪となったか否かの問題について、本官があのような答を与えた以上、本件において申し立てられているような機能を果たした個人が、国際法上においていくらかでも刑事責任を帯びるものであるか否かを論ずるのは、本官にとってどちらかというと不必要なこととなる。しかしこのことについては… 以下略
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