土竜山事件 NO2
「日中戦争見聞記 1939年のアジア」コリン・ロス著:金森誠也/安藤勉訳(講談社学術文庫)の著者(オーストリアの新聞記者として活躍)は、かつて滞在したことのある満州の佳木斯(チャムス)と千振を再び訪れる満鉄展望車の中で、開拓移民として最初に哈爾濱(ハルピン)から松花江を汽船で下り、佳木斯に上陸した農民の一人であるという日本人隣客に声をかけられ、話を聞いています。
その話の中に、「わたしたちは塹壕掘りと土塁づくりから始めました。なぜならこの地方にはそのころ盗賊がうようよしていたからです」というのがあります。だから、満州人村の隊長王(ワン)の相互援助の取り決め提案を受け入れたと語っています。問題を感じるのは、その後の次のような話です。
「しかし3月になると、もっと状況は悪化しました。盗賊の隊長射文東(正しくは謝文東)は、日本人移住者を根絶するため4000人の武装集団を結成しました。彼ははじめ王を自分の仲間に引き入れようとしました。しかしこれに失敗すると、王一味を夜襲し殺害しました。その後彼はわたしたち日本人に鉾先を向けました。幸いにもわたしたちは事前に警告を受けていました。タイミングよくわたしたちは13万発の弾丸とともに6丁の重機関銃を入手できたので、これを中心に堅固な陣地を築きました。敵の包囲は70日つづき、食料も不足しはじめたころやっと日本軍一大隊が救援にかけつけてきました」
この日本人開拓移民の農民は、自分たちがあたかも「無主地」に入ったかのような話をしているのですが、彼が言う「盗賊」は、ほとんど農地を奪われ、家を追われた地元の農民であったことを見逃してはならないと思います。
開拓移民の人たちは、満州の土地がどのようなかたちで自分たちのものになったのか、という経過を知らなかったのかも知れませんが、1932年の満州国の建国以来敗戦時に至るまで、一貫して満州への日本人農業移民事業の主導権を握っていたのは関東軍であり、開拓移民団の入植地の確保にあたっては、地元農民を新たに設定した「集団」へ強制移住させて、その土地を安い価格で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策をとったことを押さえておく必要があると思います。
下記の文章でも明らかなように、軍が強引に土地の接収を進めたために、地元農民が蜂起したのであって、農民蜂起部隊を率いた「謝文東」は、正義感が強く、立派な人物で、住民の信望も厚く、この地方の中心的存在だったといいます。、「謝文東」を中心とする農民蜂起部隊は、その後「民衆救国軍」として、各地の抗日部隊と協同して戦っているのです。
下記は、『近代日本と「偽満州国」』日本社会文学会編(不二出版)からの抜粋ですが、こうした歴史の事実は、日本人の視点からだけでは、客観的にとらえることが難しと、改めて感じます。
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第一部 『幽因録』から「残留孤児」まで
大虐殺と抗日戦争
土竜山農民の抗日蜂起 孫継英
一、起因
1934年3月の<偽>三江省(以下<偽>とするのは、「満州国」に関わるものを示すー訳注)依蘭県土竜山の農民による抗日蜂起は、東北地方が占領下におとしめられていた14年間の歴史、ひいては中国の近代史においての一大事件でした。それは孤立して発生したものではありません。日本帝国主義がわが国東北地方に対して行った、軍事占領と移民による侵略に対抗して起こった、抗日民族解放闘争を構成する一部分であり、東北地方人民による日本帝国主義の侵略への反抗の歴史において、重要な位置を占めるものです。
1931年、日本帝国主義は陰謀によって起こした「九・一八」(以下「」は省略)事変を口実として、わが国東北地方に武装侵入して占領し、日本の独占する植民地と化しました。その次の年さらに、溥儀を首班とする<偽>「満州国」傀儡政権をでっちあげ、東北地方人民に対する軍事ファッショ統治をいっそう厳しいものとしました。しかし英雄的東北地方人民は不屈であり、各階層の民衆は次々と旗を掲げて立ちあがり、異民族の侵入・支配を攻撃する抗日武装闘争や、いろいろな形の反日闘争を展開しました。日本帝国主義は植民地支配を強固にするために、抗日義勇軍にたいする気違いじみた包囲討伐や、民衆の反抗闘争の鎮圧を行いましたが、それのみではありませんでした。わが国東北地方へ移民という形の侵略をすることを「国策」としてきめ、日本の在郷軍人を中核とした特殊な農業移民、すなわち武装移民を入れることによって、東北地方人民を押さえつけ、経済面での略奪を強め、ソ連への侵攻を準備し、ならびに日本国内の階級矛盾を緩和させることを妄想しました。
第一次武装移民(492人)と第二次武装移民(493人)は、1933年の2月と7月に、それぞれ、抗日武装闘争が活発であった<偽>三江省樺川県孟家崗と依蘭県七虎力河右岸(後に湖南営に移る)にはいりました。後者は、土竜山も所属する依蘭県第三区(太平鎮)の管轄にありました。
土竜山(トウロンシャン)は太平鎮から10華里(1華里=500メートル:訳註)以上離れています。その一帯は依蘭・樺川・勃利の三県が境を接する所に位置し、土地は肥沃、農耕に適し、大豆を大量に産し、欧米に多く売り、依蘭県境で最も富んだ地方でした。そこの土地が開墾され始めたのは民国初期のことです。九・一八事変のころには土地はすでに比較的集中されており、多くは中小の地主で、各戸180垧(シャン)(東北地方では1垧=1ヘクタール:訳注)を所有、2、300垧を保有する大事主は少数でした。地主の小作に対する搾取も苛酷なものではなく、小作料は一般的には土地の善し悪しによってきめ、あるものは2-8、あるものは3-7でした。土竜山の人民は祖国を熱愛していました。 九・一八事変があってからは自警団を結成して故郷を守り、さらには騎兵軍団を組織し、李社らが率いる吉林自衛軍と協同して抗日戦を戦いました。自衛軍が壊滅させられた後も武器を捨てることなく、駝腰子金鉱の工員、□宝堂(□致中)を首班とする明山隊や、自衛軍の生き残った人たちによって組織された亮山隊は、ずっとその一帯で活動を続けました。(□は示偏:「祠」「禊」などの「示」の部分と、邑:漢字の旁、「郡」「部」などの右側の「阝」よりなる漢字です)
1934年1月、日本の関東軍はこの一帯への武装移民を続けて導入するために、依蘭・樺川・勃利など六県において大規模に耕作地の徴用を始めました。買い上げの価格は、熟地(よく耕作された土地:訳注)か荒地を問わず、一律に1垧当たり1元の計算でした。当時の依蘭県の土地価格は次のとおりです。上等の熟地1 垧当たり121.4元、中等の熟地-82.8元、下等の熟地58.4元、上等の荒地-60.7元、中等の荒地-41.4元、これを見て分かるように、まさしく無償で奪い取ることとなんら違いがありませんでした。さらには強制的に土地所有証明書を提出させ、それを拒む農民にたいしては高圧的な手段をとり、はなはだしきは実弾を込めた銃を持った兵士に農民の家を調べさせ、壁を突き破って中に隠してあった土地所有証明書を奪わせました。それと同時に民間にあった銃の強制提出をさらに厳しくしました。農民にとって土地は命の根源であり、生存のための基盤であり、また銃は生命・財産を守る自衛の武器です。土地と銃を失うことはいっさいを失うことと同じであり、農民が屯匪と呼ぶ日本の武装移民団からの、襲撃や陵辱を受ける可能性が常にあることになります。普段から日本侵略者は苛酷な課税や暴虐な行為を行っており、貧乏な農民が八方ふさがりの状態にされただけではなく、地主や富農も致命的な脅威にさらされました。地主・富農も農村における政治・経済の支配力を失おうとしていたのです。このようにして、空前の規模の農民による抗日武装蜂起は、避けられない状況となっていました。
二、経過
ここにおいて、「山雨来たらんと欲し、風、楼に満つ」時を迎え、土竜山地区の各種民衆の政治勢力は積極的な活動をするようになっていました。それらは主として三つあります。一つは、もと抗日東北軍にあって生き残った人たち、すなわち李社の率いる吉林自衛軍の生き残り、また一つは、当地の一部の保甲(自警・相互監視の組織:訳注)の長および地主・富農、もう一つは、中国共産党の一部分の党員が組織する反帝大同盟です。先の二者は互いに密接な連絡をとりあっており、主導的な役割を果たしておりました。三番目のものは数も少なく力も弱かったのですが、宣伝・扇動の点では大きな影響を及ぼしていました。武装蜂起の機を醸成する過程において、五保甲長の井振卿と二保役員の曹子恒は最も活動的でした。かつて李社の自衛軍で土竜山騎兵軍団第二団団長をしたことがあり、五保役員兼自衛団長である謝文東は、蜂起の始まりの時点では相当にためらっていましたが、比類のないほどに憤激した群衆に推されるに至り、共に抗日蜂起に加わりました。
土竜山農民の抗日蜂起は1934年3月9日に始まりました。事前にきめた計画のとおり、蜂起した農民の隊伍は太平鎮の東門の外に部隊を集結し、太平鎮に攻め入り<偽>警察署の20余名の警官の武装を解除しました。10日、太平鎮の西、白家溝において、伏兵を置いて、日本の関東軍第十師団六十三連隊長飯塚朝吾大佐の率いる日本軍、および<偽>警察隊を迎え撃ち、日本軍飯塚大佐・鈴木少尉など17名を殺害しました。
12日、多数の部隊からなる日本軍の増援により、太平鎮をふたたび占領された後、土竜山農民の蜂起部隊は半裁河子に撤退し、そこで軍編成会議を開き、謝文東を総司令官に、井振卿を敵前総指揮官に推挙しました。蜂起部隊に名前をつけ、民衆救国軍としました。保をもって単位とし、6つの大隊に編成し、総勢2000余人でした。
そうした後、民衆救国軍は各地に人を派遣して、抗日部隊と連絡をとりました。□宝堂率いる明山隊など、依蘭や近隣の県境にある抗日山林隊が相次いで加わり、協同して戦いました。民衆救国軍の名は高まりました。
3月19日、民衆救国軍の第五大隊第二中隊は九里六屯において、進攻してくる日本軍平崗部隊を待ち伏せ攻撃して勝利を収め、日本軍の80名近くを殺傷しました。民衆救国軍は20余名が死傷しただけでした。
その後、日本軍は撤退しました。民衆救国軍の主力部隊は、4月初め土竜山地区をとり戻しました。11日払暁、孟家崗の日本武装移民団が侵攻しました。敵情がよく分からず、また組織戦にふなれなため、利あらず、民衆救国軍に3、40人の犠牲が出ました。日本軍と移民団にも死傷がありました。
駝腰子金鉱を攻めとった後、民衆救国軍は5月1日夜、湖南営の移民団に攻撃を仕掛けました。 その戦闘で敵前総指揮官井振卿は壮烈な戦死をしました。それは民衆救国軍にとって大きな痛手でした。周雅山が総指揮官に任命されました。
こうした時期、敵<偽>当局は、日本の関東軍が3月末に土竜山地区を撤退して以後、単に武力のみで農民蜂起部隊を鎮圧しようとする方法を改め、政治的には脅かしあるいは誘惑し、軍事的には重包囲して攻撃するという、両面を同時に行う方法をとり始め民衆救国軍を孤立・分化・瓦解させました。謝文東たちは二度にわたり人を派遣して、関内(中国本土:訳注)に行って連絡をとらせましたが、どちらもうまくいきませんでした。さらに謝文東たちは抗日闘争をあくまでも行なおうという意志に乏しく、敵の進攻を前にしてますます無為無策となり、民衆救国軍をしばしば頓挫させ、部隊の人員を大量に減少させました。5月下旬、謝文東は部隊の一部を率いて東方の虎林に行こうとして、越境を阻止されました。7月下旬となって土竜山をふたたび奪い返された時には、民衆救国軍は300余人が残っているだけでした。9月、謝文東は部隊を率いて依蘭・来才河・四道河子、そして第二区一帯で活動しました。10月初め、民衆救国軍は西に向かって進んでいた時、樺木崗で突然日本軍に襲撃され甚大な被害を受けました。謝文東はたった10余名の部下と共に囲みを破って脱出し、依蘭県吉興河の山奥の密林に逃げこみました。
三、意義
内外を震撼させた土竜山農民の蜂起は、七ヶ月の間続きました。その主たる指導者である謝文東は、政治面で明確な反日綱領を欠いており、軍事面では消極的な守りの姿勢であったために、短い時間で敵に鎮圧されてしまいましたが、しかし蜂起は非常に大きな意義があるものです。第一に、土竜山農民の抗日蜂起は、日本帝国主義の東北地方にたいする植民地支配に重大な打撃を与えました。それは日本の移民侵略を頭から一喝するものでした。農民の大蜂起が起こる前は、わが東北地方にたいして移民侵略という「国策」を強力に推し進めていた日本の関東軍は、ずっと東亜勧業株式会社を実行主体として使って、日本の武装移民団の必要とする土地を略奪してきました。土竜山農民の抗日蜂起は、日本の侵略者を震撼させました。そして敵の陣営内部でも熾烈な論争があり、それを経てついに方針を改め<偽>「満州国」傀儡政権が表面に出て移民侵略の用地を略奪し、また<偽>軍を出動させて農民の抗日蜂起を鎮圧するようにしました。以上のことから土竜山農民の抗日蜂起は、中国の大いなる農民の陵辱を忍ばざる反抗精神を表現するものであり、またその巨大な闘争力量をはっきりと示したものであり、東北地方の各界人民の抗日闘争史に光輝ある1頁を書き記すものであると、明らかに言うことができます。
次に、土竜山農民の抗日蜂起は、時期として、東北地方の抗日義勇軍の主力がほとんど壊滅させられ、また中国共産党の指導する抗日遊撃隊、および抗日連軍がいまだ創建の段階にあった時、すなわち東北地方の抗日闘争全体が低調であった時に起こりました。それは日本の侵略者が唱える「満州全体の治安はすでに確保されている」という妄言を、事実をもって打ち破ったのみでなく、中国共産党が1933年の「一・二六指示文書」で提起した、広範な抗日民族統一戦線を結成するべきだとする方針の正確さを、実践をもって証明したものであり、そうすることによって、全面的な日本帝国主義に反対する民族解放闘争を強力に推し進めました。地主・富農階層の利益を代表するものであった謝文東、土竜山農民の蜂起が短時間にして失敗してから後、完全に行動を止めたわけではありません。抗日連軍指導者の具体的な援助のもと、その抗日部隊はふたたび力を回復して拡大し、ついには東北抗日連軍第八軍を作るまでになり、東北地方の抗日遊撃戦争に相当な貢献をしました。謝文東は後に、東北地方の抗日闘争が最も困難となった段階でふたたび動揺し、敵に投降しましたが、そのことに関しては、謝文東個人や歴史状況の各方面からみて、原因を探るしかないでしょう。(上條厚訳)
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