石原莞爾の『現在及将来ニ於ケル日本ノ国防』(昭和2年・1927年)は、「満蒙領有」によって、日本の経済的苦境や農村の疲弊を、何とか打開しようとする内容のものでした。そして、石原完爾は、翌年の昭和3年(1928年)には、関東軍作戦参謀として、関東軍による満蒙領有計画を立案しています。
計画は、下記資料1の「十四、昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」で、現実に実行されていったことがわかります。また、 資料2の「情勢判断ニ関スル意見(関東軍参謀部昭和六年七・八月ごろ)」で、様々な観点から「満蒙領有」の必要性を確認し、石原完爾の考えに沿って意思統一が進められたことがわかります。
だから、柳条湖事件を画策した石原完爾が中心となり、事件をきっかけに強引に関東軍を動かすによって満州事変に発展させ、思惑通り満州国を建国をさせたと言えるのではないかと思います。そして、それが中国民衆のはげしい反日感情を生み、日中戦争へと突入していく流れをつくったのだと思います。
しかしながら、関東軍の作戦参謀であった石原完爾は、その後「満蒙領有論」から「満蒙独立論」へとその主張を変えていきます。そして、参謀本部の参謀となった時には、自身の勢力下にあると思っていた関東軍の参謀が、陸軍中央の戦線不拡大の方針に従わないことに業を煮やして、東京からわざわざ新京に乗り込んだといいます。
その時のやり取りが、「石原完爾 その虚飾」佐高信(講談社)に出ています(資料3)。石原完爾は、武藤章の
”本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍された時分、この席におられる、今村副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動をみており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです”
という言葉に返す言葉がなかったのではないでしょうか。
資料1と2は、「現代史資料 (7) 満洲事変」(みすす書房)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
二、満洲事変
第一節 前夜
2 情勢判断
十四、昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断
(「満洲事変に於ける軍の統帥」より抜粋)(参謀本部)
(昭和六年九月)19日深更軍幕僚ノ一部(板垣、石原両参謀、花谷少佐、片倉大尉)ハ18日午後9時頃奉天ニ到着シ事変勃発以来軍ノ行動ヲ静観シアリシ参謀本部第一部長少将建川美次ト密ニ会シ激論数刻ニ及ヒ意見ヲ交換セリ(建川少将ハ当事件渦中ニ投シ且世ノ疑惑ヲ蒙ルヲ恐レ料亭菊水ノ一室二引籠リ一切外部トノ交渉ヲ絶チアリタリ)
席上建川少将ハ此四月策定セル参謀本部情勢判断満蒙問題解決第一段階(条約又ハ契約ニ基キ正当ニ取得シタル我カ権益カ支那側ノ背信不法行為ニ因リ阻害セラレアル現状ヲ打開シ我カ権益ノ実際的効果ヲ確保シ更ニ之ヲ拡充スルコトニ勉ム実施ノ時期ナル旨(元ヨリ政権ハ学良政権ニ代ルニ親日新政権ヲ以テスルモ支那中央政府ノ主権下ニ置ク)ヲ提言セリ板垣、石原両参謀ハ交ゝ之ヲ駁シ今日満蒙問題ヲ解決セスシテ好機何時カ来ルヘキヲ述ヘ特ニ石原参謀ハ一挙第三段階ノ満蒙占領案ニ向ヒ断乎トシテ進ムヘキヲ提唱シ建川少将亦漸次之ヲ諒トスルニ至レルカ如ク少将自体トシテノ主張ヲ曲ケサルト共ニ一方軍ノ積極的行動ニ敢テ拘束ヲ加ヘサルコトヲ言明シ尚軍事行動ハ吉林、長春、洮昻沿線(成ルヘクハ洮南迄)ニ留ムルヲ有利トスヘキヲ附言セリ
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
十五、情勢判断ニ関スル意見(関東軍参謀部昭和六年七・八月ごろ)
判決
(1)極東露領ノ価値如何
(2)北支那亦可ナラスヤ
(3)第三国カ我国策遂行ニ妨害セハ武力抗争ハ辞セサルノ断乎タル決心ヲ以テ臨ムヲ要ス之ノ決心ト成算ナクンハ対支政策ノ遂行ハ不可能
(4)直ニ着手スルヲ要ス
説明
(1)東部西比利亜(シベリア)ハ領土トシテノ価値少ナシ森林、水産、鉱山、毛皮等ノ利権ニテ足ラン
(2)一挙解決何故ニ不利ナリヤ、満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク戦勝テハ世界思潮ハ問題ニアラサルヘシ
(3)好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス
第二 満蒙ノ情勢ト之カ積極的解決ノ必要
(1)従来ノ穏忍自重ハ帝国ノ武力不充分ナリシニ非ストシテ而モ米国ニ考慮ヲ払ヒシハ矛盾ニ非スヤ
第三 米国ノ情勢
(1)満蒙問題解決国策遂行ハ急速ヲ要ス急速解決ハ勢ヒ露骨ナラサルヲ得ス往時露骨ヲ避ケ漸次主義ヲ採用シ来リテ何等得ルトコロ無カリシニアラスヤ是クノ如クンハ只往時ノ状態ヲ繰返スヘキノミ米国ノ武力及経済的圧迫恐ルルノ必要ナシトセハ何故断然タル決心ヲトラサルヤ
第四 蘇国ノ情勢
(1)蘇ハ我国厄ニ乗シ只ニ満蒙赤化ノミナラス帝国内部ノ破壊ノ企図ニ出ツルコトアルヘキヲ保シ難シ
(2)東部西比利亜問題ノ根本解決ニ関シテハ極東露領ノ価値ニ就キ充分ナル吟味ヲ要ス
第六 国際諸条約ノ関係
(1)九国条約ニ関スル門戸開放機会均等主義ヲ尊重スルトシテモ満蒙ニ於ケル既得権益ノ実効ヲ収ムル手段ヲ理由トセハ兵力ノ使用何等問題ナカ ルヘシ
(2)九国条約ヲ尊重セサル場合世界各国ノ感情ヲ害スルコトアルモ之カ為帝国ニ対シテ積極的ニ刃向ヒ来ルモノ幾何
(3)満蒙問題ノ解決ハ米蘇ト開戦ヲ覚悟セサレハ実行シ得ス米蘇ト開戦ヲ覚悟シツツ而モ何ソ之ニ気兼スルノ要アラン満蒙ヲ占領セハ直ニ之ヲ領土化スルヲ有利トス近来ノ列国ハ名ヨリモ寧ロ実利ニ依リテ動ク実利ヲ得ントシテ名ヲ作ルナリ
結言
(1)未曾有ノ経済艱難不良外来思想ノ浸潤ハ単ニ一般的世界現象ナリト云フヲ得ス之ノ間米蘇ノ思想及経済的侵略ニ禍セラレルコト大ナリ従テ之カ防圧ノ手段トシテ両国ノ勢力ヲ打破スルノ必要アリ
但シ経済的社会的必然ノ推移トシテ社会改造ノ必要アリ而シテ如何ニ帝国カ経済及社会組織ヲ改メテ帝国発展ノ基礎ヲ固ムヘキヤハ外方ニ対スル国策遂行ト同時ニ研究スヘキ重大問題ナリ之ニ関シテ予メ充分ノ成案アルヲ要ス
(4)速戦即決ハ作戦ノ範囲ノミ
資料3------------------------------------------
第十七章 今村均の回想
・・・
その後の今村の述懐を引こう。
「彼は実にさっぱりとしている男。それから二時間ほど、真剣に公事を談じあった。が、彼の事変対処思想と、私の処理信念との間には、相当のへだたりがあり、爾後に於ける中央の、関東軍統制の難事を思わぬわけにはいかなかった」
しかし、今村は「板垣、石原両参謀とは事変に関し、多くの点で意見を異にするが、この人たちを非難する気にはどうしてもなれない」と言う。満州事変を「国家的宿命」と見る点では同じだからである。
ただ、当時の陸軍首脳が中央の統制に従わなかった板垣と石原を罰するどころか、賞讃し、破格の欧米視察までさせたことは、以後、著しく軍紀を紊(ミダ)す因(モト)となった。
彼等は中央の要職に就き、逆に関東軍を統制下に置こうと骨折った者はすべて左遷の憂き目をみた。
今村によれば、これによって軍内に次のような空気が醸成されたのである。
「上の者の統制などに服することは、第二義的のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下克上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」
さらに、将官にとっても「若い者の据えたお膳はだまって箸をつけるべきだ。へたに参謀の手綱を控えようとすれば、たいていは評判を悪くし、己の位置を失うことになる」といった雰囲気を生じさせ、軍統帥の本質上に大きな悪影響を及ぼしたのである。
そして、五年後。今村と石原は攻守ところを変える。満州事変の「功」によって石原が陸軍参謀本部の作戦課長となり、今村は参謀本部の統制に服さなければならない関東軍の参謀副長の職にあった。参謀長は石原の盟友で中将となっていた板垣征四郎。今村と石原は少将である。
石原は己の勢力下にあると思っていた関東軍の参謀たちが指示に従わず、勝手な行動ばかりするので、業を煮やして東京から新京に飛んで来た。第六章「予一個ノ責任」にもその情景を書いたが、板垣の官舎に集まった参謀連を前に、石原は自信に満ちた態度でこう言った。
「諸官等の企図している内蒙工作は全然中央の意図に反する。幾度訓電しても、いいかげんな返事ばかりで、一向に中止しない。大臣総長両長官は、ことごとくこれを不満とし、よく中央の意思を徹底了解せしめよとのことで、私はやってきました」
要するに独走するなということである。しかし、これは板垣の意図にそって、大佐の武藤章や中佐の田中隆吉が進めていた工作だった。
聞いていた武藤が笑みを浮かべながら、石原に問い返す。
「石原さん! それは上司の言いつけを伝える、表面だけの口上ですか、それともあなた自身の本心を、申しておられるのですか」
それに対して石原は怒気を含んで言い放った。
「君! 何を言うのだ。僕自身、内蒙工作には大反対だ。満州国の建設が、やっと緒につきかけているとき、内蒙などで、日ソ、日支間にごたごたを起こしてみたまえ、大変なことになるぐらいのことは、常識でもわからんことはありますまい」
しかし、武藤はまったく怯まない。
「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍された時分、この席におられる、今村副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動をみており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」
この武藤の言葉に若き参謀たちは同意して哄笑した。石原は助けを求めるように板垣を見たが、板垣も黙っている。座は白けきってしまった。
仮にも石原は「参謀総長殿下」の代理である。たまらず、今村が板垣に呼びかける形で引き取った。五年前の石原が武藤であり、自分はその石原に無礼な態度であしらわれたのだが、それにこだわる今村ではなかった。
「参謀長! いかがでしょう。もう夕食の時間です。一応食事にし、殿下の御意図は、参謀長と私とが、軍司令官室でうけたまわることにし、今夜は懇談だけにいたしては…」
その今村の言葉に板垣も、
「そうだね。そうしよう。食事しながら話すほうが、堅苦しくなくていいかもしれん。諸君、食堂に移ろう」
と応じた。
翌日、石原は来た時とは別人のよな顔つきで悄然として帰途につく。
そして、翌年夏、日中戦争が勃発した。
石原は参謀本部作戦部長として不拡大方針を貫こうとするが、関東軍は従わない。それどころか、独自の対策意見書を出すことになり、その説明役に今村が選ばれて、東京に飛来した。
そこで驚いたのだが、参謀本部で、石原の不拡大主義に同調しているのは、大佐の河辺虎四郎以下、一、二名だけだった。河辺は、満州事変勃発当時、今村の部下として誠心誠意補佐してくれた人である。石原と違って、最初から不拡大主義ということになるが、その河辺に今村は熱をこめて口説かれた。
・・・
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