下記の「軍人勅諭」は、戦時中に発行された「軍人勅諭謹解」三浦藤作著(鶴書房・昭和19年9月発行)から抜粋しました。したがって、最近あまり目にしない漢字の旧字体が多く使われていますので、その一部は新字体に変えました。また、同書の「勅諭」の文章では、すべての漢字に読みがなが付けられていますが、その一部の読みがなを半角カタカナで漢字の後に括弧書きしました。旧仮名遣いについては、維持するようにしました。
『軍人勅諭』(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)は、1882年(明治15年)1月に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜」したものですが、それは、参謀本部を政府(当時の太政官)のもとにある陸軍省から独立させ、天皇が直接統帥権を掌握し親裁することに決定した、いわゆる「統帥権の独立」(明示11年)や、陸軍卿山県有朋の名において、陸軍部内に頒布された「軍人訓戒」(西周の起草・明治11年)を、発展的に「勅諭」というかたちにまとめ、より一層天皇制絶対主義的なものにしようと意図した結果だろうと思います。
山県有朋は、明治天皇の名により宣言された王政復古の大号令による天皇親政のもと、日本では初めての近代軍隊の組織化に取り組み、天皇の統帥権を確立するとともに、天皇の命令に絶対服従する軍隊を作り上げ、政権を強化しようと、「軍人訓戒」を改め、さらに進めて、天皇直々の「軍令」にも等しい「勅諭」というかたちで、軍人・軍隊に示したのだと思います。
その勅諭は、前文において、「兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」として、武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。
徳目としては、下記のように「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、「己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ」、とか「上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」などとして、天皇に対する絶対的自己献身を軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値にしています。
同書の著者・三浦藤作は、「前篇 軍事勅諭謹解通義、第三章 勅諭下賜当時の国情」で、「明治天皇には、国民思想の混乱、社会情勢の紛糾を深く御軫念あらせられ、明治十四年に、国会開設及び憲法制定についての詔勅を賜り、明治十五年に、陸海軍人に勅諭を賜り、明治二十三年に、教育に関する勅語を賜り、政治上・軍事上・教育上の大本を明らかにしたもうたのであつた」と書いていますが、「国民思想の混乱、社会情勢の紛糾」の原因は、主として欧化主義によるものであったと受け止めたようです。天皇や天皇を取り巻く関係者が、欧化主義により「日本伝統の美風」が失われていくことを憂慮し、日本を天皇制絶対主義の国として発展させるため、「軍人勅諭」や「教育勅語」を「下賜」したのだというわけです。
関連して見逃すことができないのは、当時、自由民権運動の指導者の一人であった「植木枝盛」が、国民に兵役の義務を課さない志願兵制を主張し、天皇制絶対主義的軍隊ではなく民主制軍隊の必要性を主張していたことです。彼は、天皇制絶対主義的軍隊が、民主主義の成立・発展に障碍となることを見ぬいていたということだと思います。
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勅諭
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換(カハ)るに随(シタガ)ひて兵制の沿革も亦屡(シバシバ)なりき古(イニシエ)は天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)にて時ありては皇后皇太子の代(カハ)らせ給ふこともありつれと 大凡(オホヨソ)兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(ナカツヨ)に至りて文武の制度皆唐国(カラクニ)風に傚(ナラ)はせ給ひ六衛府(ロクエフ) を置き左右馬寮(サウメリョウ)を建て防人(サキモリ)なと設けられしかは兵制は整ひたてとも打続ける昇平(ショウヘイ)に狃(ナ)れて朝廷の政務も漸く文弱に流れければ平農おのづから二つに分かれ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変はり遂に武士となり兵馬の権は一向(ヒタスラ)に其武士ともの棟梁(トウリヤウ)たる者に帰し世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡(オヨソ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換(カハ)りて斯(カク)なれるは人の力もて挽回(ヒキカヘ)すへきにあらすとはいひなから且(カツ)は我国体に戻(モト)り且つは我祖宗(ソソウ)の御制(オキテ)に背き奉(タテマツ)り浅閒(アサマ)しき次第なりき降(クダ)りて引化嘉永(コウクワカエイ)の頃より徳川の幕府其政(マツリゴト)衰へ剰(アマツサヘ)外国の事とも起りて其侮(アナドリ)をも受けぬへき勢(イキオヒ)に迫りければ朕は皇祖(オホヂノミコト)仁孝天皇皇孝明天皇いたく宸襟(シンキン)を悩し給ひしこそ忝(カタジケナ)くも又惶(カシコ)けれ然るに朕幼(イトケナ)くして天津日嗣(アマツヒツギ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統(カイダイイットウ)の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼(チュウシンリョウヒツ)ありて朕を輔翼せる功績(イサヲ)なり歴世祖宗の專(モハラ)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ゴユイタク)なりといへとも併(シカシナガラ)我臣民の其心に順逆の理を辨(ワキマ)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(アラタ)め我國の光を耀(カガヤカ)さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定(タテサダ)めぬ夫(ソレ)兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ココウ)と頼み汝等は朕を頭首と仰(アフ)きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶(ナホ)訓諭(ヲシヘサト)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
一 軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥(カミゲンスイ)より下一卒(シモイッソツ)に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己(オノレ)か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧(フル)きものに對しては總(ス)へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(イササカモ)も輕侮驕傲(ケイブキョウゴウ)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇(ネンゴロ)に取扱ひ慈愛を專一(センイチ)と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若(モシ)軍人たるものにして礼儀を紊(ミダ)り上を敬(イヤマ)はす下を惠(メグ)ますして一致の和諧を失ひたらんには啻(タダ)に軍隊の蠧毒(トドク)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし
一 軍人は武勇を尚(トウト)ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴(トウト)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况(マ)して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨(ワキマ)へ能(ヨ)く膽力(タンリョク)を練り思慮を殫(ツク)して事を謀(ハカ)るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼(オソレ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人(ショニン)の愛敬を得むと心掛けよ由(ヨシ)なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(サイロウ)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(カタ)かるへし信とは己か言を踐行(フミオコナ)ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(ツマビラカ)に思考すへし朧氣(オボロゲ)なる事を假初(カリソメ)に諾(ウベナ)ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(キハマ)りて身の措(オ)き所に苦むことあり悔(ク)ゆとも其詮なし始に能々(ヨクヨク)事の順逆を辨(ワキマ)へ理非を考へ其言は所詮踐(フ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(スミヤカ)に止(トドマ)るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍(ワザハイ)に遭ひ身を滅し屍(カバネ)の上の汚名を後世(ニチノヨ)まて遺(ノコ)せること其例(タメシ)尠(スクナ)からぬものを深く警(イマシ)めてやはあるへき
一 軍人は質素を旨(ムネ)とすへし凡質素を旨とせされは文弱(ブンジャク)に流れ輕薄に趨(ハシ)り驕奢華靡(ゴウシャクワビ)の風を好み遂には貪汚(タンヲ)に陷りて志(ココロザシ)も無下(ムゲ)に賤(イヤシ)くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪(ツマ)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚(オロカ)なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風(シフウ)も兵氣(ヘイキ)も頓(トミ)に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼(オソ)れて曩(サキ)に免黜條例(メンチュツデウレイ)を施行し畧(ホボ)此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(コトサラ)に又之を訓(オシ)ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(オシヘ)を等閑(ナホザリ)にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫(シバシ)も忽(ユルガセ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(マゴコロ))こそ大切なれ抑(ソモソモ)此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心(マゴコロ)は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言(カゲン)も善行も皆うはへの裝飾(カザリ)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况(マ)してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧(コゾ)りて之を悦(ヨロコビ)ひなん朕一人の懌(ヨロコビ)のみならんや
明治十五年一月四日
御名
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