真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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史実と神話 津田左右吉 Ⅲ

2017年08月27日 | 国際・政治

 日本には、日本国憲法に基づく戦後の日本は本来の日本ではないため、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本に思いを致し、「本来」の日本を取り戻そうと考えている人たちが少なからずいるように思います。そして、そういう人たちが、日本国憲法を「押し付け憲法」・「マッカーサー憲法」などといって変えようとしたり、歴史の見直しや歴史教育の修正を主張したりする動きの中心になっているのではないかと思います。

 「新しい歴史教科書をつくる会」設立人の一人で会長の西尾幹二氏は、「国民の歴史」(産経新聞社)の「6 神話と歴史」で
日本の古代史学者で、文字渡来以前の日本人の言語生活の豊かな可能性に思いをはせる者は、私の知るかぎり、ほとんどいない。だから文字渡来より以後のこの列島住人の、文字への不安と抵抗と嫌厭(ケンエン)とについて慎重に、深く考える者もいない。それは歴史学の領分の外だといわんばかりである。
と書いています。また、
 ”…現代日本の古代史家たちは、中国の史書に倭国に関する文字記述のあったときをもって、この列島の歴史の始まりとし、それ以前は考古学的時代として封印して、顧みない。ここにきわめてあさはかな合理主義がある。目に見えるものだけを信じる、知性の衰弱がある。”
とも書いています。
 私は、文学者である西尾氏の発想は、客観性を無視しては成立しない社会科学の一分野である歴史学の学者のそれとは決定的に異なるものであると思います。皇国史観の教祖といわれた平泉澄と同じように、社会科学を嫌い、『古事記』を神典のごとく絶対視するような姿勢を感じます。
 西尾氏の「国民の歴史」(産経新聞社)には、受け入れがたい文章がそこここにあるのですが、一つ二つあげると、
”…わが祖先の歴史の始源を古代中国文明のいわば附録のように扱う悪しき習慣は戦後に始まり、哀れにも今もって克服できない歴史学界の陥っている最大の宿痾の一つと考えてよいであろう。
 皇国史観の裏返しが、「自己本位」の精神までも失った自虐史観である悲劇は、古代史においてこそ頂点に達している。”
と書いていますが、私は、「自己本位」の精神に貫かれた皇国史観は、白人至上主義などと同じようなものではないかと思います。
 また、
いったいどこの国に外国文献中の蔑称「倭国」「倭人」をもって自国史の開幕を告げる歴史を常道とする国があるだろうか。わが国の場合、王権の始源が『古事記』や『日本書紀』の「神代紀」に深くつながっているので、戦後これをご承知の事情であわただしく否定したために、かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し、そこに国の起源を見るあわただしい錯誤に陥ったまでだ。
 一国の迷いの姿をこれほど証している例はないだろう。なぜ神話を「非歴史」とし、外国の片言を「歴史」と信じるのか。どこに証拠があるのか。
とも書いているのですが、私は、これは事実を無視した、自分勝手でとても乱暴な受け止め方だと思います。神話を根拠もなく史実とすることができないのは当たり前のことで、戦後日本の歴史教育は”かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し”などというようないい加減なものではないことは、下記の津田左右吉の文章が示しているのではないかと思います。

 西尾氏は、『古事記』の神話を史実とする証拠がないので、逆に「すべての歴史は神話である」などと言って、神話を史実とした皇国史観を復活させようとしているのではないかと想像します。そして、皇国史観によって、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本を取り戻し、その意図を継承しようとしているように思います。

 西尾氏は、こうした考え方で子ども達が手にする教科書を作っているのでしょうが、見逃すことができないのは、同じような考え方をする人たちがその教科書採択を働きかける一方で、慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した学校には、抗議のはがきを大量に送るというような動きがあることです。
 
 「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾氏が、社会科学の一分野である歴史学の観点で、戦後日本の歴史教育を批判するのではなく、むしろ歴史学そのものさえ否定するようなかたちで、戦後日本の歴史教育を批判し、攻撃的ともいえる文章を書いていることが、とても心配です。日本の歴史教育を近隣諸国はもちろん、国際社会で受け入れられないような歴史教育にしてはならないと思います。

 下記は「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋したものですが、多くの文献を踏まえ、『古事記』や『日本書紀』を史料批判の観点から研究した津田左右吉は、その主著を発禁処分とされ、禁固刑の判決を下されました。法律も政治も教育も、すべてが皇国史観で貫かれていた時代なので当然かもしれませんが、その理由は学問的にどうということではなく、「皇室の尊厳」を冒涜したということだったようです。 
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                  Ⅳ 建国の事情と万世一系の思想

           二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ・・・
 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態が変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においてさえも、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政としても天皇の親政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権をにぎっていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。そうしてこういう権家の勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、ひとつの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われたなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪政をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。

 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったのでその権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威があったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。

 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威を保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。摂関政治の起こったのは起こるべき事情があったからであり、幕府政治が行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起こってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すのであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことは、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆そうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえし行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なれば。その存在が危うくなる。)ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。

 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態が我が国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。

 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の命令任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められ来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位は永久性おいうことは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまた政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 ところで皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関政治までは、政治は天皇の名において行われたけれども天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムのばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位ももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。

 しかし政治的地位をもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容(イ)れなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。

 しかし、神代の物語の作られたころと後世の間に、いくらかの違いが生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因習的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が祭祀を行われることは変わらなかったけれども、それと共にまたそれと同じように仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは祭祀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。天皇の親政がおこなわれないかぎり、それは政治上の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむずかしいことでもあった)が、国民みずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆にたいして仁義なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳的思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親(ミズカ)ら政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。

 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変わって来て、文化の中心が武士と寺院とに移りそのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代わる新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。
 
 ところが、十九世紀の中期に「おける世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれか一つでなくてはならぬことが明らかにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行われたのである。
 ・・・以下略

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