戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。その内容は、昭和17年2月発行の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、詳細な解説を参考にしながら読むことができます。下記は、その「宇内混同秘策」全体の概論ともいえる「宇内混同大論」を抜粋したものです。
佐藤信淵は江戸時代後期の思想家で、儒学や国学、神道、本草学、蘭学などを、当時を代表する学者から学び、「宇内混同秘策」は1823年(文政6年)に著したといいます。封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたことに驚きます。まさに、明治政府の政策を先取りしたような内容です。
「宇内混同大論」の冒頭には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありますが、復古神道(古道学)の大成者といわれる、平田篤胤の教えを受けた影響が窺われます。そして、それは明治政府の「皇国史観」と結びついた侵略主義的領土拡張政策へと発展し、第二次世界大戦の敗戦に至るまで、変わることがなかったのではないかと思います。
佐藤信淵は江戸時代末期の学者ですが、昭和17年の「皇国精神講座」に「宇内混同秘策」が取り上げられていることは、注目すべきことではないかと思います。
司馬遼太郎が晩年に執筆した『この国のかたち』の中で、
”昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった”
とか、
”日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」”の時代
とか、
”明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。”
とか書いていますが、やはり違う、とあらためて思います。
「宇内混同秘策」には
”凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。”
とあります。また、
”支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。”
とか、
”大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。”
という記述もあります。
佐藤信淵の記述通り、明治政府は侵略主義的な領土拡張政策をとって日清戦争を戦い、”支那既に版図に入るの上は…”というような意図も持っていたがためにロシアとぶつかり、日露戦争に至ったということではないでしょうか。
また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、”佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人で「二宮尊徳と一対の人物」であると書いています。
そして
”但し、尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます”
と評価しています。皇国史観と一体となった領土拡張政策は、明治以来先の大戦における敗戦に至るまで一貫しているということではないでしょうか。
だから私は、明治維新150年の記念事業に現を抜かし、「文化の日」を「明治の日」に変えようとすることには、とても問題があると思うのです。
(旧字体や旧仮名遣いは一部はあらため、一部はそのままにしました。)
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宇内混同秘策
宇内混同大論
皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして、世界万国の根本なり。故に能(ヨ)く其根本を経緯(ケイイ)するときは即全世界悉く郡県(グンケン)と為(ナ)すべく、万国の君長(クンチョウ)皆臣僕(シンボク)と為すべし。謹んで神代の古典を稽(カンガフ)るに、青海原潮之八百重(アオウナバラシオノヤホヘヲ)知所也(シラストコロナリ)とは、皇祖伊邪那岐大神(コウソイザナギノオオカミ)の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に事依(コトヨサ)し賜(タマ)ふ所なり。然(シカ)れば、則(スナハ)ち産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を明(アキラカ)に靏して以て世界万国の蒼生(ソウセイ)を安(ヤスン)ずるは、最初より皇国に主たる者の要務たるを知る。曾(カツ)て予(ヨ)が著したる経済大典及び天刑要録等は悉く産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を講究(コウキュウ)したる書にして、即ち全世界を安集(アンジフ)するの法なり。蓋し世界万国の蒼生(ソウセイ)を済救(サイキュウ)するは極めて広大の事業なれば、先づ能く万国の地理形勢を明弁(メイベン)し、其の形勢に従て天意(テンイ)の自然に妙合(ミョウゴウ)するの処置なければ、産霊(ムスビ)の法教(ホウケウ)も得て施すべからざるなり。故に地理学も亦明にせずんばあるべからず。
今夫万国の地理を詳にして、我日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起て四十五度に至り、気候温和、土壌肥沃、万種の物産悉く満溢せざること無く、四辺皆大洋に臨み、海舶の運漕(ウンソウ)其便利なること万国無雙、地霊に人傑にして勇決他邦に殊絶し、宇内を鞭撻すべきの実徴(ジッチョウ)全備せり。其形勝の勢自ら八表に堂々として、此神州の雄威を以て蠢爾(シュンジ)たる蠻夷を征せば、世界を混同し万国を統一せんこと何の難きことあらん哉。嗟乎(アア)造物主の皇大御国を寵愛し給ふこと至れり尽せり。蓋し皇大御国も天孫の天降以後は、人君太古神世の法教に敬遵(ケイジュン)従事せずして、遊惰放埒に数多の年所を送り、美女を愛し烈婦を嫌て其天年を傷(ヤブ)り、経済の要務を蔑如(ベツジョ)して無益の経営に奢靡を逞うし、夫妻和せず家政齊(トトノ)はず、兄弟相争ひ親戚相殺して其国家を堕落し、遂に君不君臣不臣(キミキミタラズシンシンタラズ)の風俗と為れり。故に大名持少彦名(オオナモチスクナヒコナ)の規模頽敗して、国体の衰微せしこと既に久し。故に邪魔浮屠等(ジャマフトトウ)の説盛に行はれ、世に真教を知れる者の有ること無きに至れり。故に澆季(ゲウキ)の愚俗(グソク)は、支那、天竺等其国の広大なるを聞き、且皇国の土地小に気勢の弱きを見て、予が混同大論を聞くと雖、或は捧腹(ホウフク)して其の量を知らざる者とし、実に皇国に万国を使令すべき天理のあることを覚ること無し。即ち是下士は道を聞て大に笑ふの諺の如く、所謂笑はざれば道とするに足らざる者是なり。若夫れ斯の如くにして其儘に捨置ものならば、恐くは邪魔に溺るゝ者を永久に救ふべきの期なく、太古神聖の法教も或は世に断絶せんこと嘆ずべきの至りなり。勤めて古道を講明せずんばあるべかあらず。然り而して今の世に当て此道を講明せん者を求んに、予を措て誰ぞや。是経済大典、天刑要録及び此書の作の止むことを得ざる所以なり。然れども世挙て皆悪俗に沈みて予を知る者なし。苦思慷慨(クシコウガイ)すると雖、誰か能く信ずる者あらんや。必や明君出づること有て而して後に用ゐられん者なり。
抑(ソモソモ)世界の地理を寧(ツマビラ)かにするに、万国は皇国を以て根本とし、皇国は信(マコト)に万国の根本なり。其子細を論ぜん。抑皇国より外国を征するには其勢ひ順にして易く、他国より皇国に寇(アダ)するにはその勢ひ逆にして難し。其皇国より易くして他国より難しと云ふ所以は、今世に当て万国の中に於て土地最も広大に物産最も豊穣、兵威最も強盛なる者を撰ぶときは、支那国に如くものあらんや。而して支那は皇国に隣接密邇(ミツジ)なりと雖、支那全国の力を尽して経略するとも皇国を害すべきの策あることなし。若し、暴戻の主ありて、強て大衆を出して寇を為すこと胡元の忽必烈(クビライ)が如く、盡国(ジンコク)の衆を起すと雖も、皇国に於ては少しも恐るゝに足らずして、彼国に於ては莫大の損失あり。故に一度は来ると雖も、再三すること能はざるは論を俟ざることなり。又皇国より支那を征伐するには、節制さへ宜きを得れば五七年に過ぎずして彼国必土崩瓦解(カノクニカナラズドホウガカイ)するに至る可し。何となれば皇国にては兵を出すの軍費甚少なしと雖も、彼国に於ては散財極て広大なるを以て此に堪(タフ)ること能はず。且其国人奔命(ソノクニニンボンメイ)に疲労するを奈(イカ)んともすること無し。故に皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を呑併するより肇(ハジマ)る事なり。既に上に云へる如く、支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況(イワン)や其他の夷狄(イテキ)をや。是れ皇国には天然に世界を混同すべき形勝あるが故なり。故に此書は先づ支那国を取るべきの方略を詳にす。支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。
然れども将に疆外(キョウガイ)に事有んとするには、先づ能く内地を経綸すべし。其根底の堅固ならずして枝葉の繁衍(ハンエン)する者は、或は本傾くの患(ウレヒ)を発することあり。故に日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論すべし。凡四海を治るには先づ王都を建てずんばある可らず。王都は天下の根本なるを以て、形勝第一の地を撰ぶべし。浪華は四海の枢軸にして万物輻輳の要津(ヨウシン)なり。然れども分内狭く人民極て多く、土地より生ずる所の米穀、或は居民を食(ヤシナ)ふに足らず。故に此地に大都を建てば、皇居は深く慮(オモンバカル)るべき所あり。然れば王都を建つべきの地は江戸に如くものあることなし。関東は土地広平にして沃野千里、且相模、武蔵、安房、上総、下総の五洲を以て内洋を包み、斗禰(トネ)及び秩父、鬼怒、多摩の四大河内洋に注ぐを以て、水路能く通流し百穀百果其他諸国の産物運送甚便なり。万貨豊穣、人民飢餓の患あること鮮(スクナ)く、殊に峩々たる崇山三方を圍繞(イジョウ)し、以て他鎮と境界を分ち、只東方一面大洋に濱(ヒン)し、進では以て他国を制すべく、退ては以て自ら守るに餘(アマリ)りあり。郊野曠廣にして馬強健、人民衆多(シウタ)にして勇壮、実に形勢天下に雄たり。凡そ重に居て軽を馭(ギョ)し、強を以て弱を征する永静の基礎を立るに宜し。故に王都を建の土地は江戸を以て第一とす。王都を此地に定て永く移動すること無るべし。浪華も亦天然の大都会なれば此を西京(セイキョウ)として別都と為すべし。其他駿河の府中、尾張の名護屋、近江の膳所、土佐の高知、大隅の大泊、肥後熊本、筑前博多、長門萩、出雲松江、加賀金澤、越後の沼垂、奥州の青森及び仙台、南部、以上十四所には省府を建て、節度大使を置き、以て各部内の政事を統理せしむべし。
上に説たる如く東西両京並立て、且別に四海を分て十四の省を置き、仁義を篤行つて律令を厳密にするに非ざれば、日本全国を我手足の如く自由にすること能はず。若夫れ自国の運動猶癱瘓(タンタン)するが如きは、豈他邦を征するに遑あらん哉。東西両京既に立ち、十四省府も既に設け、経済大典の法教既に行はれ、総国の人民既に安く、物産盛に開け貨財多く貯へ、兵糧満溢れ武器鋭利に、船舶既に裕足し、軍卒既に精錬し、而して後に肇て海外に事あるべし。且又日本の土地の妙なることには、南方には敵国あること鮮(スクナ)し。故に意を専らにして北方を開くことを得べし。若し南海に寇(アダ)あるに及では防禦すること甚難く、動(ヤヤ)もすれば皇居も騒擾して忽ち困窮を受るに至る。故に海外に事ありと雖も、東西二京は勿論のこと、駿府名古屋のニ省も、亦大衆を動すこと勿れ。高知省と雖も妄に衆を動さずして、唯五六千人の軍卒と五六十の軍船を出して、南海中の無人島を開き、漸々其南に在る諸島を開発して皇国の郡県と為し、其地の産物を採り集て本邦に輸(イタ)し、以て国家の入用に供すべし。此南海の諸島を比利皮那(ヒリピナ)の諸島と名く。大小七八百ありて、東西千里、南北八百里許(バカリ)の海中に散在す。大抵無人島にして人の居住するは少なし。然れども此諸島は何れも気候炎熱に、土地肥沃なるを以て、丁字(チョウジ)、肉桂(ニクケイ)、サフラン、胡椒、甘松、木香、檳榔子(ビンラウジ)、大黄、縮沙(チシャ)、椰子、良姜(リヤウキヤウ)、黒檀、タガヤサン、及び鮫甲(サメノカフ)、真珠等、種々貴重なる薬品香料の産物出す。廃置(ステオク)べきに非るなり。是れ啻(タダ)に物産を開くのみならず、東京の為に海上を守るなり。国家を経営する者は、察せずんばあるべからざるなり。
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。何となれば満州の地、我日本の山陰及び北陸、奥羽、松前等の地と海水を隔て相対するもの凡そ八百餘里、其勢ひ固(モト)より擾(ミダ)し易きことを知るべし。事を擾(ミダ)し騒すにも亦当(マサ)に備(ソナヘ)なきの處を以て始めとし、西に備るときは東を乱妨し、東に備るときは西を騒擾せば、彼れ必ず奔走して之を救ふべし。彼が奔走するの間には、以て其虚実強弱を知るべし。而して後に実する處を避て虚なる處を侵し、強を避て弱を攻め、必ずしも大軍を用るにも及ばず、暫くの間は先づ軽兵を以て之を騒擾すべし。満州の人は躁急にして謀(ハカリゴト)に乏(トボシ)く、支那人は懦怯(ダケフ)にして懼(オソ)れ易し。少しく警(イマシ)めあるも必ず大衆を以て之を救はん。大衆度々(タビタビ)動くときは、人力疲弊して財用歇乏(ザイヨウケツバフ)すべきこと論ずるに及ばず。況や支那の王都北京より満州海岸に往復するには、沙漠遼遠にして山谷極て険難なるをや。然るに皇国より之を征するには、僅か百六七十里の海上なれば、順風に帆を挙るときは一日一夜に彼が南岸に至る。其西すべきも東すべきも舟行(シウカウ)甚だ自在なり。若又支那人大衆を以て防守せずして、何れの處も空虚ならば、我国の軍士以て虚に乗じて之を取るべし。此(カク)の如くなれば黒龍江の地方は、将に悉く我が有と為らんとす。既に黒龍江の諸地を得るときは、益産霊(マスマスムスビ)の法教をを行ひ、大(オホイ)に恩徳を北方の夷人に施して之を撫納帰化(ブナフキカ)せしめ、彼の夷狄(イテキ)を用ひて皇国の法を行ひ、能く撫御統轄(ブギョトウカツ)して漸々西に向はしめば、混同江の地方も亦取易きなり。既に吉林城を得るときは、即ち支那韃靼(ダッタン)の諸部必ず風を望(ノゾミ)て内附すべし。若其稽首(ケイシュ)して到らざる者は、兵を移して之を討んに此れも亦便宜に従ふべし。韃靼既に定らば則ち盛京(セイキャウ:今の瀋陽)も亦其勢ひ危く、支那全国まさに震動すべし。故に皇国より満州を征するには、之を得るの早晩は知るべからずと雖ども、終には皇国の有と為らんことは必定にして疑なき者なり。夫啻に満州を得るのみならず、支那全国の衰微も亦此れより始ることにして、既に韃靼を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而て図るべきなり。
茲に其子細を詳らかにするに、満州の極北境に黒龍江と名(ナヅク)る大河あり。此大河の海に注ぐ處は、我蝦夷の唐太島(カラフトトウ)と僅十餘里の海水を隔(ヘダツ)るのみ。此處(ココ)は支那の王都北京城より七百里程離れたる地にて、飛脚を走らしむるにも凡そ八九十日かゝらざれば達すること能はず。然れども要樞(ヨウスウ)の地なるを以て、斎々哈爾(シシカル=チチハル)と云處(イフトコロ)に城を構へ、支那の北京より一人将軍を遣(ツカハ)して軍卒を置て此地を鎮護せしむ。故に唐太島の北辺には、支那人居住する者恒(ツネ)に少なからず。総て此辺は北極出地五十五度の外に在るを以て、気候寒冷にして穀物を生ぜず、土人は魚類鳥獣草根木皮等を食物とし、我蝦夷人と異なること無し。又軍士の食糧は遥に支那の本国より輸送するを以て、常に五穀の乏きに困(クルシ)む。故に此地にて米穀を悦ぶこと金玉よりも甚し。然るに我奥羽及び古志等の諸州米穀を生ずること夥くして、恒に食餘の腐朽するを憂ふ。有餘を移して不膽(フゼン)を救ふは即ち産霊(ムスビ)の法教なり。今此北州の餘米(ヨマイ)を運送して蝦夷国の諸港に積蓄(ツミタクワ)へ、青森省と仙台省より軍船と人数を出し、蝦夷の諸島に於て水軍の戦法を操練し、且此人を以て漸々唐太島の北境を開き、此地に越年せしめて能く寒地の風土に馴習はし、別に清官及び怜悧なる商官等を遣はし、彼国の土人と交易を通ぜしめ、厚く酒食等を施して土地の夷狄を悦ばし、産霊(ムスビ)の法教を説示して益(マスマス)土人を教化帰服せしめ、次に黒龍江に近寄て大に恩徳を施し、利を与へ物を恵で多くの米穀を輸送し、交易と云ふと雖ども利分に拘はることなく、醇酒(ジュンシュ)と美食とを贈て彼土の居人撫すべし。凡そ血気ある者は恩を悦んで徳に帰せざること無し。況や人類に於てをや。彼等是まで草根木皮を食とせしを、之に代はるに皇国の糧米を以てし、馬湩(バトウ)を飲て宴楽せしを、之に代るに醇良の美酒を以てせば、誰か歓喜して信服せざる者あらんや。三年を過ぎずして四方風動せん。
支那人、夷狄の皇国の法教に靡くを探り得ば、必ず痛く皇国の通津(ツウシン)を禁ずべし。夫れ経済の大典は、掛(カケ)まくも畏き産霊(ムスビ)の神教にして、世界万国の蒼生を救済すべきの法なり。然るに之を拒むに至ては即ち天地の罪人なり。惟(コレ)皇上帝降衷于下民(オホイナルジョウテイチュウヲカミンニクダス) 。若有恒性(ツネノセイアルニシタガヒ)。克綏厥猷惟后(ヨクソノイフヲヤスンゼシムルハコレキミナリ)とは、支那国にても皆人の知る所なり。満州の夷人古来食物に艱(ナヤ)む。懋(ツトメ)て有無を遷し之れに粒食せしむるは天道なり。然るに支那国王其猷(イウ)を綏(ヤスン)じて其民を贍救(センキュウ)し、之を救済して粒食(リュウショク)せしむること能はず、草根木皮を食料とし牛馬の湩(トウ)を飲料とす。夫れ食草ひハ馬湩(バトウ)飲むは 、此豈人恒生ならんや。人類は悉く天地の子也。人類にして粒食に艱(ナヤ)むを愍恤(ビンジュツ) せざるベけん乎。故に皇国の有餘を遷して彼土の不足を救ふ、固(モト)より天意を奉行するなり。然るに支那人之を拒む、何の暴虐か此より大なるもの有ん哉。惟天恵民(コレテンタミヲムグム)、惟辟奉天(コレキミテンヲホウズ)と。天意を奉りて万国の無道を正すは、草昧(ソウマイ)より皇国の専務たり。於是乎軍(ココニオイテカグン)を出し黒龍江を攻伐(コウバツ)して天罰を行ひ、以て蒼生の悪俗に沈むを救ふべし。
而して其軍を出すの次第は、先づ第一に青森府、第二に仙台府、此二府の兵は以前より唐太島(カラフトトウ)を開発して彼地に越年し、寒地の風土に馴たる者共なれば先陣に進み、黒龍江より西南コメル河、センケレ河、エレ河、ヨセ河、ヤラン河等の地方に軍船を駕寄(ノリヨセ) て、或は上陸して土人に穀類、美酒等施して夷狄を撫納し、或は處々(ショショ)戍兵(ジュヘイ)あるの営塞等を焼払て敵の軍卒を打取り、或は防守の厳重なる場所は、上陸せずして船より大筒火箭等を打掛けて海岸を騒擾し、或は備なくんば次第に進み、駕込(ノリコ)んで
或は戦い、或は食物を施して夷人を撫すべし。第三に沼垂府、第四金澤府此二府の兵も軍船数十隻ばかりを一手として、朝鮮国の東なる満州の華林河、ヤラン河、クリエン河、ナルキン河等の辺りに至り、青森仙台の兵と同じく處々にて種々の計策をを行ひ、敵国を悩煩(トウハン)せしむるを主とし、右四府の兵七八千を以て満州八百里の海岸を周旋し、透間を伺ひ上陸し、各(オノオノ)思付たる働を為すべし。如斯(カクノゴトクすること四五年及ばゞ、支那人大に困窮して、終(ツイ)には満州を守ることを得ずして黒龍江の諸部は悉く我が有となるべし。其れより漸々混同江を征伐して吉林城を攻落し、夷狄を撫納駕御して盛京攻(セム)べし。、第五には松江府、第六に萩府、此二府は数多の軍船に火器車筒等を積載て朝鮮の東海に至り、咸鏡、江原、慶尚三道を経略すべし。
第七には博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠淸道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(アダ)に困(クルシ)むの上は、南方諸州は或は空虚なる處あるべし。直に進で之を攻め、大銃火箭(オオヅツカヤ)の妙法を尽さば、諸城皆風を望で奔潰(ホウカイ)すべし。乃(スナハ)ち其数城を取て皇国の郡県と為し、淸官(セイクワン)及び六府の官人を置き産霊(ムスビ)の法教を施し、厚く其民を撫育(ブイク)して教化に帰服せしめ、此處(ココ)より又軍船を出して時々兵を渤海辺に輝かし、登州萊州の(トウシュウライシュウ)の濱海諸邑(ヒンカイショイフ)を擾(ミダ)さしむべし。又青森仙台沼垂金澤四府の兵、各其本省より人数を増し加へ、大衆を以て盛京を攻べく、且韃靼(ダッタン)諸部の夷狄等も皇国の恩徳に心服せば、此も亦大衆を会して支那を攻むべければ、盛京も守ることを得べからず。況や我火述の妙を以て之を攻るに至ては、如何なる堅城も防禦することを得べからざること論ずるにも及ばず。盛京既に守らざるに至ては、北京も亦守ることを得べからずして、淸主必ず陝西(センセイ)に走るべし。或は走らずして北京を防守すと雖ども、皇国の雄兵既に満州を席巻して盛京(セイケイ)を攻落し、別師は朝鮮国を統平して鴨緑江を渡り、七府の大兵悉く遼陽に会し、連勝の利に乗じ進で山海関に到達せば、智者も守るべきの策なく、勇者も戦ふべきの勢ひなからん。
第八には大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)
寧波等の諸州を経略すべし。支那人既に迫近(ハクキン)の強敵に困(クルシ)むに至ては、遠近の難を救ふことを得べからず。諸城皆争て欵を請ふにあらざれば必ず城を棄てて奔潰(ホウクァイ)すべし。況や我火攻法の防ぐべきの述なきをや。唯其人を殺すことを憐れむが為に、三銃の偉器(イキ)を用ひずして撫諭して降らしむるを要とすべし。故に何れの府よりも兵を出すの大将には、必ず教化台の小師か亜師を用るものは、壇殺(センサツ)の禁を厳にするが故なり。能々(ヨクヨク)土人を憐れみ愛して、篤く恩徳を施して之を撫諭すべし。然りと雖ども迷いを執て天朝に帰服せず、痛く天兵を拒みて防戦する者に至ては、悉く殺して許すこと勿れ(ナカ)れ天罰を行ふなり。是即ち天罰を行ふなり。
第九には親征(シンセイ)なり。供奉(クブ)には必ず熊本府の兵を従ふ。親征するには先づ諸方の皇師(=皇軍)の形様を校(ウカガ)ひ、支那国王所謂淸主なる者の既に困苦するを探得て而して後に渡海すべし。先陣の兵は直に江南の地方を衝(ツ)き、早く南京應天府を取り、之を仮皇居と為すべし。乃ち支那人の文才ある者を登用して、淸主の邪魔左道を崇信して天地の神意を蔑如(ナイガシロ)にし、痛く皇国の法教を拒み、人類の難食憐まず、罪を皇天に得たるを以て、天罰を行て蒼生を救ふの趣の大誥を作らしめ、周(アマネ)く天下に檄し、新附の支那人を憐み、其材あるものは悉く之を選用して官にあらしめ、且又明室の子孫たる朱子を立て上公に封じ、其先祖の祭祀を祗祀(キシ)せしめ大に慈徳を施して篤く支那人を撫育すべし。信(マコト)に能く此策を用ひば、十数年の間に支那全国悉く平定すべし。既に韃靼と支那とを統一するの上は、益々産霊(ムスビ)の法教を明にし、万民の疾苦(シック)を除き、處々に神社を造営して皇祖の諸大神を祭り、学校を興立(コウリフ)し十科の人材を起し、日夜勉強して長く怠ることなく、子孫永久能く祖業を拡充し、天意を奉行して間断(カンダン)することなければ、全世界皆皇国の郡県と為り、万国の君長も亦悉く臣僕に隷せんこと論を俟たずして自ら明なり。
然りと雖ども経済大典を憲章(ケンショウ)せざれば、自国も安集すること能はず。産霊(ムスビ)の法教を行ふと雖も、天刑要録の兵制なければ、勍敵(ケイテキ)をして奪魄(ダツハク) せしむること能はず。三台六府の政教も、三銃妙用の武備も共に完しと雖ども、世界万国の地理を講明して、其形勢の便宜に従て節度処置の妙を尽さゞれば、宇内混同の大業を成就すること能はず。混同の業に従事する者は、心を尽さゞる可けん乎。予深く上天喣育(ジョウテンクイク)の大恩に感じ、竊(ヒソカ)に六合を括囊(カツナフ)するの意あり。然れども奈(イカ)んせん家貧にして年の老いたることを。於是乎(ココニオイテカ)此書を筆記し、題して混同秘策(コンドウヒサク)と名け、聊か以て晩遠の鬱憤を写し固封して児孫に遺す。嗟乎(アア)後来の英主宇内を鞭撻するの志ある者は、先づ此編を熟読せば、思ひ半ばに過ぎん者なり。
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