真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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異人斬り NO4 「堺事件」ほか

2018年08月15日 | 国際・政治

 薩摩藩は薩英戦争、長州藩は下関戦争を契機に、事実上攘夷を放棄し、海外から武器を輸入したり、知識や技術を積極的に導入する方針に転じました。しかしながら、武士の攘夷感情にもとづく外国人殺傷事件は、両藩の方針転換後も続きました。それは、薩摩藩や長州藩が方針転換したことや、その理由を明らかにせず、むしろ、幕末に盛り上がった尊王攘夷の勢いを利用して、開国政策をとる幕府を倒そうとしたからではないかと、私は思います。両藩の方針転換後の幕府との戦いが、日本の近代化を掲げての戦いでなかったことは、歴史的事実としてしっかりと踏まえておく必要がある、と私は思っています。もちろん幕政にもいろいろな問題があったでしょうし、制度的にも行き詰まっていたということがあるかも知れません。でも、薩長を中心とする討幕派の権力奪取の戦いを、あたかも日本の近代化のために欠かせない戦いであったかのようにいうことは、誤りではないかと私は思います。そして、明治維新を美化するそうしたとらえ方は、その後の歴史認識を歪めることになると思うのです。

 幕末に盛り上がった尊王攘夷は、外国を夷狄(イテキ)とし、「異人(外国人)は神州を汚す」存在としてを蔑視するものであったため、武士(浪人)のいわゆる「異人斬り」が続発することになったのでしょうが、薩長が攘夷を放棄して以降、下記に抜粋した諸事件で、殺傷事件関係者の多くが、列強の要求に応じて処刑されています(切腹)。薩英戦争や下関戦争前には考えられないことです。    
 かつての藩方針に従って行動したといえる武士を、列強の要求に応じて切腹させるということが、平然と行われたことに問題を感じます。処刑(切腹)の数年前には、明治の元勲といわれる伊藤博文や井上馨が、攘夷をかかげてイギリス公使館焼打ち事件に加わったり、佐幕派と思われる人物を暗殺したりしていたにもかかわらず、神戸事件堺事件の当事者は切腹させられているのです。そうした一貫性のない対応を平然と行う人たちが、武力で幕府を倒し、権力を奪取して、その後の日本をかたちづくったところに、日本の悲劇があるのではないか、と思うのです。
 木戸孝允(長州藩士・別名桂小五郎)の日記の明治元年十二月十四日に書かれている文は、見逃すことができません。木戸孝允が岩倉具視に会って話したことを書いているのです。
”「速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼(朝鮮国)の無礼を問い、彼もし服さざるときは、罪を鳴らして其の士を攻撃し、大いに神州(日本国)の威を伸長せんことを願う」、そうすれば「天下の陋習たちまち一変して、遠く海外へ目的を定め、したがって百芸器械など実事に相進み、おのおの内部を窺い、人の短を誹り、人の罪を責め、各自顧みらざるの悪弊、一洗に至る、必ず国地の大益いうべからざるものあらん」と論じた旨が記されている。”「明治維新の再発見」毛利敏彦(吉川弘文館)
 木戸孝允は、すでに明治元年に、欲深く次の狙いを定めていたということではないかと思います。日清戦争へと発展する朝鮮王宮占領事件や閔妃殺害事件は、その流れの中にあるのではないでしょうか。
 下記は、引き続き「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                        第二部 攘夷への報復
                    暴走する「攘夷」ーー頻発する殺傷事件

 井戸ケ谷村でフランス士官を暗殺
 ・・・
 文久三年九月二日(1863・10・14)の午後、アフリカ猟騎兵第三大隊に所属するアンリ・J・J・カミュー少尉(フランス人)は、武蔵国久良岐郡井戸ケ谷村(現在の横浜市南区井戸ヶ谷)を一人で騎行中、浪士体の者三人に襲われ殺害された。凶行の現場は井戸ケ谷村の名主市右衛門宅から数百メートルほど離れた所である。犯人と思われる三人の侍のうち二人は雪駄(裏に皮を張った草履)を、もう一人は福草履(上質の藁で編んだもの)をはき、いずれも茶色の袴を着用していた。カミューは乗馬中のところをいきなり切りつけられたようであり、その斬殺死体は眼を覆いたくなるほど惨たらしいもので、
一 その右腕は、手綱を握ったままで、胴体から五、六間(約10メートル)離れた所で発見された。
一 顔・鼻・顎などに切り傷。喉笛に刺し傷。脊柱は完全に斬り割られる。
一 左腕は皮一枚残して切断。
一 胸の左脇は、心臓のあたりまで切り込まれていた。
一 右の肩先より左の下腹まで切り傷。
という状態で、恐らく手綱を握ったカミュー少尉は、まず利き腕の右手を斬られ、次いで左手、体の各所を寄ってたかって斬られたものであろう。喉笛に刺し傷があるのは、落馬したとき、とどめをさされたのであろう。犯人たちはカミューを殺めたのち、そのまま逃亡した。井戸ヶ谷の異変は、役人により運上所に届けられ、さらにそこからフランス公使館へ伝えられた。午後四時頃恐るべき日本刀によってフランス士官が殺されたというニュースが、またたく間に居留地内に広まると、外国人社会は恐怖におそわれた。… 
 ・・・ 

 鎌倉でイギリス士官二名を暗殺
 元治元年(1864)十月二十一日(1864・11・20)の朝、横浜に駐屯しているイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属するジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐(Major George Walter
Baldwin)とロバート・ニコラス・バード中尉(Lieutenant Robert Nicholas Bird)は、鎌倉見物に出かけるために馬で横浜を出発した。江の島や長谷の大仏を見たのち、鎌倉八幡宮の大門先(鎌倉郡大町村)の街道までやって来たとき、松並木の陰に身をひそめていた侍体の者二名が飛び出すと、やにわにボールドウィンとバードに切りつけた。同日の午後三時頃のことである。ボールドウィンは、
左頬と左腕をひどく斬られ、さらに一刀で背部を斬り下げられ、腹部に達する創傷で、これが致命傷となった。バードは頸部(首)右肩甲部、左前膊部(腕の肘から手首まで)の内側、右前胯(ゼンコ)の下後部などを斬られたが、とくに頸部の切傷が命取りとなった。しかし、数時間ほどは息があった。検死の結果、両人は背後から襲われたことが明らかであった。犯人は被害者が落馬すると、そのまま行方をくらました。
 両人は襲われたとき、無抵抗のままだったのか、それとも加害者から身を守ろうとしたのか。ボールドウィンの拳銃は、腰のケースに収まったままであったから、かれはほとんど抵抗する間すらなかったものと考えられる。しかし、バードの死体のそばに拳銃が置かれており、弾丸が一発発射されていたから、何らかの抵抗を示したものであろう。駐屯隊の外国人が斬られた、という報告に接するとブラウン大佐、ウッド中尉、外科医のハイド、イギリス領事館通訳ラックラン・フレッチャー及び砲兵二十五名が、馬で救援のため鎌倉に急行した。しかしときすでに遅くかれらが現場で見たものは、寺の門(仁王門)から100ヤード(約94メートル)ほど離れた、掛茶屋の前の松の木の根元に筵をかけて横たわっている二人の無惨な死骸であった。
 ・・・

 イギリス人水夫二名、長崎丸山で暗殺
  長崎に住む英米人から「領事館の丘」として親しまれている東山手居留地に、イギリス領事館がある。慶応三年七月七日(1867・8・6)の明け六ツ(午前六時)のことである。領事館に勤務する警官トーマス・アンダーウッドの所に、奉行所の役人(定役)がやって来て、「山(丸山ーー長崎市内の旧歓楽街)で外国人が二人殺されたが、どこの国の者かわからない」といった。アンダーウッド巡査は、この変事を聞くと直ちに奉行所に出向きいろいろ問いただした後、死体が置かれている丸山の茶屋(寄合町の引田屋政之丞方)に赴いた。死体は店の門の奥に横たわっており、そのそばに水兵の帽子が転がっていた。帽子の内側には”Icarus(イカルス)”という艦名が付いていた。また青い綿ネルと日本人が用いる懐紙が落ちていた。被害者の身元が判明したので、アンダーウッド巡査は停泊中のイカルス号を訪ね、乗組員が不慮の死をとげたことを知らせた。
 日本側の資料には、殺されたイカルス号の二人のイギリス人水夫の名前は出てこないが、長崎のイギリス領事館の報告書には氏名が明記されている。犠牲者は
 ロバ-ト・フォウド Robert Foad(二十八歳)…火夫
 ジョン・ハッチングス John Hutchings (二十三歳)…大工
である。
 この二人は誰の手にかかり、どのような殺され方をしたのか、開港後、下松川(大浦川)の河畔に外国人用の酒場ができる前、外国船の乗組員の大半は、昔からある長崎の歓楽街(丸山)へ出かけ、たのしむのが一般的だった。フォウドとハッチングスもご多分にもれず泥酔したあげく、茶屋の前の通りで寝込んでしまい、そのとき通りすがりの何者かによって斬られたものである。
 …イカルス号の軍医ヒューストン・マックスウェルの検死報告は、これよりもややくわしい。その大要を記すと、
 ロバート・フォウド…左のわき下より胸部の左側にかけて創傷。左の鎖骨(胸部と肩をつなぐ骨)は関節のあたりで切断。創傷はさらに右の鎖骨の軟体部分にまで達している。この傷は、のど笛や食道および首の右側の大動脈や血管を切断し、脊柱にまで深く食い込んでいる。
 ジョン・ハッチングス…右肩の継ぎ目よりのど笛まで、長さ八インチ(約20センチ)の創傷。三角筋、上腕骨、鎖骨を切断。
とある。
 軍医のマックスウェルは、両人の死体を検分した結果、「何か鋭い武器、おそらく日本刀か何かによって」殺されたものと推断した。また傷口や死体の情態から、斬殺されたのは、おそらく午後九時から十時にかけての間である、と考えた。そして死因審問の結論を次のようにだした。

 イギリス艦イカルス号の死亡した二人の水夫、すなわちロバート・フォウドとジョン・ハッチングスは、本月五日の夜から六日の朝にかけて、山と呼ばれる日本人街の一部にある茶屋の前で、惨殺死体で発見された。検死陪審の意見では、二人が死に至った傷は、どこのだれとも知れぬ一人または複数の人間の日本刀によって加えられたものである。同時に、陪審団は、武器を持った日本人が、広く外国人に対して犯す、たび重なる残虐なる殺人事件に嫌悪と不快の念を覚える、といいたい。長崎ではこの種の犯罪が増加しつつあるので、陪審団としては、条約港の遊歩区域では、政府の役人が武器を携帯できるのは勤務中にかぎるといった措置をとることを勧める。
    (署名)マーカス・フラワーズ
           (領事代理、検死陪審員)
    (署名)サミュエル・モルトビィ
    (署名)M・R・グリフィス
            (海軍中尉)
    (署名)B・レインボウ 
 ・・・
 慶応四年九月七日(1868・10・22)立山役所において、大隈八太郎・楠本平之允(正隆、当時長崎裁判所権判事)・吉井源馬・林亀吉(土佐藩大目付)らが参会し、犯人捜索について相談し、その後八方に手を回して犯人逮捕の糸口を得ようとしたが思わしくなかった。しかし、ふとしたことから事件解決の端緒が開けた。林亀吉は長崎に来てから書生を雇っていたが、その者が「加害者を知っています。何でも筑前藩の者です」といったことから、その旨を長崎府知事沢宣嘉(ノブヨシ)(1835~73、幕末・維新期の公卿)に申し出た。かくして沢知事は筑前藩の聞役(キキヤク)(外敵などの急を知らせる役)栗田貢を呼び出し、取り調べを命じた。栗田は突然の話に狼狽し、藩庁に報告すると、藩としても隠すことができず、ついに同藩の金子才吉(筑前藩、犯行当時伝習生)という者の仕業であることを明かした。そして、金子はすでに切腹して果てたので、この一件い関しては連係者が自首するということにし、ひとまず落着した。
 ・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                        攘夷勢力の鎮圧ーー新政府の試金石

 神戸事件と堺事件
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 慶応四年一月十一日(2・4)の午後一時過ぎ、備前岡山藩(藩主池田伊勢守茂政=慶喜の弟)の家老日置忠尚(ヒキタダヒサ)(のち帯刀)が指揮する先発隊150名ほどが、朝廷より西宮警備の命を受け、神戸の街に入ってきた。行列が三宮神社前あたりに差しかかったとき、外国兵と衝突し、外国兵を負傷させるという事件が発生し、のち事件を起こした当事者は責任をとって切腹した。この事件(「神戸事件」とも「三宮事件」とも呼ばれる)は、生麦事件ほどは知られていないが、当時の武士が持っていた攘夷感情が爆発した攘夷殺傷事件のひとつと見なされている。
 この日岡山藩の先陣が、三宮神社の前あたりまで来たとき、日本人は当時の習慣で土下座して行列が通過するのを待っていたが、アメリカ兵コリンズがお辞儀をしなかったので、藩兵の銃口で壁に圧しつけられた。しかし、コリンズは居留地に逃げ込んだらしい。次いで二人のフランス陸戦隊員マルタンとフォルタンは、行列の先頭が近づいて来るのを見ると藩兵らが険悪な顔つきで見ているように思った。折から同じ陸戦隊員のキャリエール兵曹長は、ミニャールの店で煙草を買ったのち、行列の右側を並行して歩いていたが、行列を横切ってマルタンとフォルタンと合流しようとした。このとき砲術隊長の滝善三郎は、これを許そうとせず、キャリエールの左腕のあたりを手槍で突いたので、キャリエールはたおれ、それをマルタンかフォルタンのいずれかが助け起こし、一緒に近くの家の中に逃げ込んだ。このため滝が「鉄砲!鉄砲!」と叫んだのを、藩兵らは発砲命令を出したものと感違いし、フランス人たちに向かって射撃を開始した。
 この神戸事件の発端や原因や経緯については諸説紛々としていてはっきりせず、不明確な部分を多く残している。
 ともあれこの手槍の一撃が、岡山藩士とフランス兵らの銃撃戦の一因となったことは確かなようで、折から港に停泊中のイギリス・フランス・アメリカの各艦からも海兵隊が上陸すると、岡山藩兵を追撃し、生田川の堤のあたりで、双方撃ち合った。やがて徒士頭浜田弥左衛門の進言を容れた家老の日置忠尚は、発砲中止を命じると、全軍を摩耶山麓の方面へ引き揚げさせたという。この事件に対し列強は、報復として神戸を軍事統制下に置き、停泊中の日本の汽船を抑留し、さらに強硬な抗議文を新政府に突き付けた。これに対し、新政府は、一月十五日(2・8)に参与兼外国事務取調掛東久世通禧(ミチトミ)を勅使として神戸に派遣し、各国代表と会見し、王政復古の告書を伝達した。そして、その際、対外条約の遵守を保証し、外国人の安全を誓約した。その後、各国は協議し、日本政府への要求として、発砲を命じた士官の極刑と関係諸国への陳謝の二つを決め、翌日東久世に伝えた。当時新政府は、旧幕府勢力との対抗上、外国側の支持を得る必要があり、この要求をのむこととした。その結果、事件の発砲を命じたとされる張本人を死刑にし、謝罪することでこの事件は一応収まるのである。が、二月九日(3・2)の夜、砲兵隊長の滝善三郎は責任を一身に負い、神戸の永福寺(戦災で焼失)において、列強の代表の面前で切腹した。

 この神戸事件の余韻がまだ完全に消えない慶応四年二月十五日(3・8)の夕刻、こんどは堺においてフランス人水兵16名が同港警備の土佐藩兵に殺傷されるといった大事件が起こった。いわゆる「堺事件」(妙国寺事件」)の突発である。神戸事件では、外国人の犠牲者は一名(?)ほどにすぎず、日本人一名が切腹して一件落着したが、堺事件ではフランス側の被害者は十六名と多く、また加害者として責任を問われて屠腹(切腹)したものは十一名にも上ったため、この事件は当時、世間の耳目を驚かせ攘夷事件の中でも特異のケースとして長く記憶された。森鴎外はこの事件を基にし、歴史短編小説『堺事件』(「新小説」第19年第二巻、大正3・2)を発表し、また、作家大岡昇平が新史料による『堺攘夷始末』(中央公論社、昭和64・12)を著し、翻訳ではプティ・トゥアール著『フランス艦長の見た堺事件』(新人物往来社、平成5・8)が刊行されている。
 慶応四年正月三日(1868・1・27)鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が始まって一週間後には大坂城も官軍の手に陥ち、ここにおいて天下の形勢は一変した。堺は幕府の直轄地であり、慶応三年までは堺奉行が支配する所であったが、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗北すると、この地の幕吏はいち早く逃げ出し、市中はたちまち無秩序化した。また堺は幕府の敗残兵が、江戸に帰る際の通過点でもあった。かれらはすでに規律のない烏合の衆と化し、放火、略奪、暴行をほしいままにしていた。新政府は、幕軍と開戦し約一週間後の正月十日(2・4)、早くも征討府の命をもって土佐の藩兵に堺を鎮守させることにした。土佐藩は大監察杉紀平太、小監察生駒静次及び属吏を何名か派遣し、櫛屋町の元総会所に本陣を設け「軍監府」と称し、堺の民政に当たった。
 慶応四年二月十五日(1868・3・8)の明け方のことである。糸屋町の土佐藩兵の陣に、軍監府より急使が来て、両隊長はすみやかに出頭せよとの命を伝えた。何事かと思って六番隊長の箕浦猪之吉(元章)と八番隊長の西村左平次(氏同)が直ちに出頭すると、大監察杉紀平太より、今フランスの兵士らが大坂より陸路をとり当地を訪れようとしている旨の連絡があった。堺は条約にない土地であり、まだ外国事務係(宇和島藩主)から何の連絡もないので通行を差し止め、大和橋まで兵を率いて出向くよう、命じられた。しばらくすると、堺見物のフランス人が四、五名(神戸の副領事ヴィヨーとコルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長を含む)と宇和島藩吏数名と通弁一名が、陸路堺に入ろうとして大和橋に差しかかったので、両隊長が進み出、通弁に向かい、堺は外人遊歩の区域外であること、当地に入るには外国事務係の証明書が必要であることを伝えると、通弁は何やらフランス人たちと私語を交わし、やがて一行は大坂に向けて引き返して行った。
 これだけなら何の事件ともいえないが、同日の午後四時頃になって、フランスのコルヴェット艦デュプレックス号が堺沖に姿を見せた。やがて同艦の乗組員二十数名は、二隻の蒸気ランチ艇に分乗し、港内に入り、うち一隻は新湊(北の湊?)に廻航し、岸壁に横付けし、もう一隻も旭館前(大浜通り一丁目)の岸に横付けすると、上陸して善法寺竜神堂付近をうろついた。このとき堺に外国人が来た、ということで町中大騒ぎとなり、たちまち野次馬が港に殺到し、大きな人ごみができた。異人がやって来たという知らせが本陣にも伝わると、六番隊長箕浦猪之吉、八番隊長西村左平次は、50名ほどの藩兵(黒服)と鳶の者10名ほどを引き連れ、「のいたのいた」と叫びながら現場に急行した。フランス人が水陸両方面から堺にやって来たのは、オイエ提督の命令で大坂・堺間の沿岸測量と大和橋まできた同胞の出迎えが目的であったらしいが、その事情を知らぬ鎮守の土佐藩兵がたびたびのフランス兵の来堺に疑念を抱いたのは無理からぬことであった。
 蒸気ランチ艇の乗員は、見習士官ギヨン、上等水兵長ルムール、二等機関長デュレルら計十二名、もう一隻のランチ艇には、海軍中尉パリス、医官トリパリストら七名が乗っていた。ランチ艇の水兵らは周辺の計測を開始し、一、二時間ほど経ったとき、ルムールとデュレルが防波堤の上を散歩し始めた。このとき土佐兵一名から何やらいわれたが言葉が通じず、やがて二人は大勢の土佐藩兵に腕をとられ、街の中に連れて行かれようとした。このときルムールだけは、すきに乗じて土佐兵の手を振り切ると、港の方に逃げ出し、その途中、往来にたててある軍隊旗を引き抜き走ったが、早足の江戸の鳶梅吉という者に追いつかれ旗を奪われたルムールはなおも走り続け、ランチ艇に飛び込むと内燃係りの水夫に急ぎ蒸気を起こさせ、艇を発進させようとしたが、ときすでに遅く、二人と船艇めがけて土佐兵の銃撃が開始され、両人は即死し、その他の十一名も海中に飛び込んだりして難を避けようとしたが、たちまち殺傷された。新湊のほうに行っていたもう一隻の小艇の乗組員は、この有様を見て、直ちに救援を求めて本艦のデュプレックス号へ急いだ。 
 この銃撃によるフランス側の死者は、次の十一名である。
(1)M・ギヨン・シャルル・ピエール・アンドレ(第一級見習士官、二十二歳)
(2)ルムール・ガブリエル・マリ(一等水兵、二十八歳)
(3)グリュナンベルジュ・ヴィクトル(三等水兵、二十四歳)
(4)ランジェネ・オーギュスト・ルイ(三等水兵、二十二歳)
(5)ボベス・ラザル・マルク(三等水兵、二十二歳)
(6)モデスト・ピエル・マリ(二等水兵、二十七歳)
(7)ユメ・アルセーヌ・フロミロン(三等水兵、二十三歳)
(8)ヌアール・ジャン・マチュラン(三等水兵、二十二歳)
(9)ラヴィ・ジャック(三等水兵、ニ十歳)
(10)ブラール・ヴァンサン(三等水兵、ニ十歳)
(11)コンデット・フランソワ・デジレ(徴募兵、二十三歳)
 死亡者は皆二十代の若者であり、このうちブラールとコンデットの両人は、銃撃の翌日死亡した。死体の中には、脳天や眼、胸や腕、背中や脇腹などを撃ち抜かれた者、また溺死した者などもいた。
 この事件が大監察杉紀平太の耳に達すると、かれは直ちに現場に駆けつけ、射撃を止めさせ、両隊長とその部下を本陣に引き上げさせた。この大虐殺のニュースが、同日の夜大坂にいるフランス公使レオン・ロッシュに伝えられると、かれは愕然とし、直ちに外国事務係に明日十六日(3・19)の午後四時まで水兵の遺体を引き渡すことを要求した。そこですぐに東久世通禧(外国事務総督)と五代才助(のち友厚、外国事務係)が堺に急行し、直ちに事件の究明に着手した。五代はまた漁師らを呼び寄せ、フランス兵の死体を引き揚げよ、一体に引き揚げれば懸賞金(数十両)を与える、と約束し、ようやくすべての死体を収容すると、それをフランス艦に送り届けることができた。フランスの葬儀は二月二十八日(3・11)神戸で行われ、小野浜墓地(神戸市中央区浜辺通り付近)に埋葬され、記念碑が建てられた。
 ・・・
 葬儀の翌十九日(3・12)フランス公使レオン・ロッシュは敏速かつ決然と行動し、まず各国公使らと協議の末、新政府に厳重なる抗議を申し込み、次の五カ条の要求を提出した。
(一)今回の虐殺の関係者全員(土佐藩兵約二十名、鳶口を持った町民二十名)の死刑を執行すること。
(二)土佐藩主(山内豊範)は、被害者の家族に賠償金15万ドルを支払うこと。
(三)外国事務総督は、大坂に来て陳謝すること。
(四)土佐藩主は、須崎(土佐の港)に停泊しているフランス軍艦に赴き陳謝すること。
(五)武装した土佐藩兵を全員、開港場から追放すること。
 これらの要求はすべて各国代表の同意を得たもので、ロッシュは三日以内に満足すべき回答が得られぬ場合には、強硬手段を採る、と威嚇した。この要求はあまりにも苛酷であったため、新政府は苦境に陥り、小松帯刀と五代才助をイギリス公使パークスのもとに遣り調停を依頼したが、同人もフランス側の要求の妥当性を主張したので、つい要求を承諾することとし、二十二日(3・15)その旨フランス公使に回答した。
 一方、銃撃に加わった土佐藩兵らは、事件の翌々日十七日(3・10)大坂藩邸に引き移り、取り調べを受けた結果、六番隊と八番隊の兵合わせて二十五名が発砲したと申し出、これに両隊長と小頭二名が加わり、計二十九名の処罰者が決定した。が、さらにこの中から減刑者も出て、最終的には両隊長と兵十八名が切腹と決まった。慶応四年二月二十三日(3・16)死刑囚二十名は、肥後・安芸両藩士に警護されて大坂より堺に赴き、割腹の場所である妙国寺(堺市材木町東四丁)に入った。検死として外国事務局の判事・土佐藩重役をはじめ、デュプレックス艦長デュプティ=トゥアールと多数のフランス人将校と水夫が立ち会った。切腹は午後四時頃から始まり十一人目の処刑がすみ、十二人目に入ろうとするとき、フランス人の間で動揺が起こり、日本側の役人と何やらささやきはじめ、やがてその後の切腹は中止になった。なぜ処刑が中止になったのか、その理由はあきらかでないが、すでに日暮れになっていたことと、悲壮な切腹の光景を見続けることに耐えられなくなったためらしい。
 この日割腹して果てたのは次の十一名である。
(1)箕浦猪之吉(六番隊隊長 二十五歳)
(2)西村左平次(八番隊隊長 二十四歳)
(3)池上弥三吉(六番隊小頭 三十八歳)
(4)大石良信(八番隊小頭 三十八歳)
(5)杉本義長(六番隊肝煎 三十四歳)
(6)勝賀瀬三六(八番隊 二十八歳)
(7)山本利雄(六番隊 二十八歳)
(8)森本重政(八番隊 三十八歳)
(9)北代堅助(六番隊 三十六歳)
(10)稲田楯成(八番隊 二十八歳)
(11)柳瀬常七(六番隊 二十六歳)
妙国寺で自刃したこれらの土佐藩士の遺骸は、同寺院に葬るつもりであったが、罪人を葬ることはできぬ、といった寺側の反対にあって頓挫した。しかし、近くの宝珠院が引き受けたので、同地に埋葬された。なお、助命処分を受けた九名の土佐侍は、その後帰国のうえ、流罪に処せられた。またこの事件の最終処理として、土佐藩主山内豊範と外国事務局督の山階宮親王がそれぞれフランス軍艦に出向き謝罪の意を表し、償金も土佐藩より支払われるに及んで一件落着した。
 神戸事件、堺事件とも発足間もない新政府の最初の外交的危機であったが、事件への敏速な対応・処理が行われた。このことは、列強諸国へ新政府の国内権力基盤の安定を示すとともに、対外友好関係を望む新政府の姿勢を強く印象付けることとなった。

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