「生麦事件」は、外国人を突然背後から襲って斬ったいわゆる「異人斬り」や公使館の夜襲事件とはちょっと趣を異にします。でも、「尊王攘夷」と無縁ではありません。薩摩藩のイギリス人リチャードソン殺害の主張は、国際社会で通用するものではなく、結局この時亡くなったリチャードソンの遺族に対して賠償金を支払うことになりました。そして、薩摩藩が幕府より賠償金を借りて支払い解決した、といいます。その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)という莫大な金額だったようですが、これを立て替えて払った幕府の負担は大きく、苦しかったのではないかと想像します。にもかかわらず、その返還がうやむやになってしまった、ということはどういうことなのか、と疑問に思います。
また、生麦事件で、イギリス人殺害に関わった鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が、のちに、「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった」と証言していることも、見逃せません。
さらに、五十年経ったのちに「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」と鹿児島新聞の記者に語っています。討幕後、尊王攘夷急進派が中心となって明治新政府を発足させ、明治の時代をかたちづくっていった関係で、五十年が経過して大正時代に入ってもなお、幕末の外国人蔑視、人命軽視の思想は変わらず、反省されることはなかった、ということではないかと思います。
さらに、 薩摩藩が、薩英戦争後に攘夷から開国の方針に転じ、和親条約締結や軍艦・兵器購入の交渉を始めたり、留学生派遣の依頼も行ったというところに、注目しないわけにはいきません。尊王攘夷という討幕の根拠は、この時失われたと考えるからです。
事件直後、幕府は、薩摩藩の江戸家老島津登と留守居役西築右衛門を召し出し、犯人を差し出すように伝えましたが、薩摩藩は命令に従わず、”行列を犯した者を討つのは古来の国風であり、強いて差し出せというなら、われわれ一同を出頭させよ”などと言って抵抗したということです。もちろんイギリス政府のたびかさなる抗議があっても、犯人を差し出すことはありませんでした。そして、もし、イギリス艦隊が攻め込んでくれば迎え撃つことに決め、薩摩藩家臣に”蛮夷の誅殺に粉骨砕身尽くして欲しい”という訓示を伝えて、迎え撃つ準備を整えたといいます。
また、イギリス艦隊の来航は薩摩藩にとって一大事であり、国難であると悟った生麦事件の当人(リチャードソンを最初に斬った供頭・奈良原喜左衛門)は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、島津久光に切腹を願い出たということですが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」と切腹を認めなかったといいます。
ところが、薩英戦争後のイギリスとの交渉のなかでは、”犯人を逮捕次第イギリス士官の前で死刑に処する”と言明しました。薩摩藩は、その時点で尊王攘夷の方針を放棄したということではないかと思います。したがって、薩英戦争後は、討幕の根拠は失われている、と思うのです。討幕が尊王攘夷のためではなく、権力奪取目的でなされたと考える所以です。
さらに言えば、薩摩藩はイギリスとの交流を深める一方で、討幕のために、できもしない「年貢半減」を宣伝しながら、「世直し一揆」などで民衆を巻き込んだ挑発活動をするよう相楽総三に指示しています。そして驚くべきことに、その役目を果たした相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士の多くが、赤報隊結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、処刑されています。「年貢半減」などできないからです。こうしたことも、当時盛り上がっていた尊皇攘夷の勢いを利用して幕府を倒し、権力を奪取することが目的であったことを示しているのではないかと思うのです。
「御殿山イギリス公使館焼打ち事件」も、忘れてはならない歴史的事件であると思います。
公使館警備の日本人番人を殺し、公使館を焼き打ちするなどということは、どこの国でも、いつの時代でも許されない犯罪行為だと思います。にもかかわらず、錚々たるメンバーが関係しています。
高杉晋作や久坂玄瑞は、当時尊王攘夷の運動を主導した長州藩の急進的武士なので、あり得ることだ、と思いますが、明治時代に大活躍する初代総理大臣伊藤博文や初代外務大臣井上馨なども加わっていることには驚きます。
御殿山イギリス公使館焼打ち事件の後にも、長州藩は下関で、攘夷をつらぬくためイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃しています。そして、手痛い報復を受けて、以後、薩摩藩同様、海外から武器を輸入し、新知識や技術を積極的に導入するようになりました。したがって、下関戦争敗北後、決定的な政策転換をしたといえるのではないかと思います。
にもかかわらず、開国政策をすすめる幕府とは戦いを続けます。尊王攘夷を掲げての討幕は理解できます。でも、攘夷をすててなお続けられた討幕の戦いの根拠は何でしょうか。やはり権力奪取が目的だとしか考えられないのです。
尊王攘夷を掲げて行われた、この長州藩による四国艦隊砲撃の莫大な賠償金300万ドルも、幕府が支払ったということです。もし幕府が何の対応しなければ、どういう事態に陥ったかわかりません。だから、近代化のために討幕が必要だったというのは、討幕を正当化するためのいわゆる「薩長史観」の考え方ではないかと、私は思います。
下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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第二部 攘夷への報復
攘夷論から開国論へ
薩摩藩士の攘夷観
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このように薩摩藩ではそのころ外国人の横行に対してきわめて鼻息が荒かった。かくして日雇い人足を加えると千数百名にもなる行列は、品川・川崎の宿を経て、生麦村に達し、今まさにそこをも通り過ぎようとしていた。
この日、横浜居留地に住むウィリアム・マーシャル(横浜在住絹輸出商)、ウッドスロープ・チャールズ・クラーク(「オーガスティン・ハード商会」の店員。絹の検査員)、チャールズ・レノックス・リチャードソン(上海の商人。帰英の途次、観光のため横浜に来る。居留地の101番館に滞在)、ボロデール夫人(香港在留の商人の妻。ウィリアム・マーシャルの従姉妹)の女性を含む英国人四名は、日曜日でもあったので川崎方面まで遊覧に出かけようとしていた。
当日四人は、六郷川畔の川崎大師(真義真言宗智山派の寺)を見学するのが主な目的であったらしく、あらかじめ馬丁(バテイ)に馬を神奈川の宮之河岸(渡船場)に廻させて、自分たちはオーガスティン・ハード商会のボートで湾内を横切り、神奈川に出、そこで馬を受けとり、午後二時半頃馬で神奈川を出発し、川崎方面へと向かった。
四名は、神奈川の宿より一里(四町ほど、約4.11キロ)川崎よりの地点で、まず少数の武士団と(七、八名、じつは島津久光の行列の一部)と出会ったが、さして気にもとめずそのまま進んだ。そしてどんな危機が待ち受けているかも知らず、さらに進んだとき、道路いっぱいに進み来る大行列と遭遇したのである。
この時外国人らは馬足を緩めた。久光の二列行進の前駆(行列の先導者)はかれらの側を通過した。次いで本行列が道路の全幅を覆うように進んで来たので、四人は路の左側に避けて止まった。そのとき四人の位置は、リチャードソンとボロデール夫人は、マーシャルやクラークよりも約10ヤード(約9メートル)ほど先行しており、行列に向かってリチャードソンは内側に、同夫人は外側に馬首を並べていた。内側にいたリチャードソンの馬は、大行列にやや驚いたのか、ボロデール夫人の馬を押したので、夫人の馬は片脚を道路側の溝に踏みはずした。そのため彼女は馬を道路に戻そうとし、前に少し進め列中に入ってしまった。このとき久光の乗物との距離は十数間(約20メートル)であり、駕籠廻りの若党(中小姓)の行列が二人によって乱されてしまった。久光の乗物の右側後方に従っていた供頭奈良原喜左衛門は、この様子を見咎めると、外国人の前に駆け出して来て、何やら右手で手まねきをした。おそらく、引き返せ、といったものであろう。
その有様を後方で見ていたクラークは、「引き返せ」と叫び、またマーシャルも「並行するな!」と叫んだ。そこでリチャードソンとボロデール夫人は、事が容易ならぬことになったのに気づき、馬首を返そうとしたが、思うようにゆかず、かえって馬首を行列の中に入れる破目に陥った。そのため列は一時立往生してしまった。これを見た奈良原は、無礼もの、とばかり、やにわに刀を抜くと、馬上のリチャードソンの左肩下より斜めに腹部にかけて切りさげた。するとたちまちかれの左腹から血潮があふれ出、その創口を左手で押さえ、右手に手綱を取って馬首を立て直すと、一町(約100メートル)ほど逃げのびたが、こんどは、行列の中から躍り出た鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が再び斬りつけた。リチャードソンは懸命に馬を駆って約10町ほど逃げ、生麦村字並木(字松原)に達したとき、ついに落馬した。
このときから五十年後の明治四十五年(1912)七月、鹿児島新聞の記者東孤竹が同紙に連載中の「五十年前鹿児島湾の劇戦」の取材のために、国分村浜の市(鹿児島湾北岸)で余世を送っていた久木村老人(当時70歳)を訪ねた折、同人は記憶に生々しい事件当時の様子を語った。久木村によると、安政三年(1856)十五歳のときから久光に仕え、江戸表に勤めていた。十八歳のとき三年ぶりで国元に帰り、文久二年(1862)十九歳のとき再び久光のお供をして江戸に出たという。やがて同年八月二十一日久光に従って帰国の途につくのであるが、このとき生麦事件が起こるのである。久木村はこのとき鉄砲組に属していた。初秋の晴れ渡った日の午の刻(午前十一時から午後一時までの間)、横浜のほうから砂を蹴立てて、四人の異国人がやって来たという。血気盛りの久木村は「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった。『切ってみたいもんじゃナァ』、とは思ったが、無闇に切る訳にも行かない。指をくわえて遣り過ごして行くとたちまち後列の方で、がやがやと騒々しい物音がする。ハッとし、咄嗟に『やったな』と思い刀の柄に手をかけて振向くと、一人の英人(リチャードソンーー引用者)が片腹を押えて懸命に駆けて来る」という状況の中で、このときとばかりはやる心を押えながら、切ってやろう、と思ったようである。馬上の英人がちょうど近づくのを待ちかまえ、抜討ちに切ったのである。『たしかに手応えはあった。見るとやはり左の片腹をやったので、まっかなきずぐちから血の塊(腸の一部か?--引用者)がコロコロと草の上に落ちた。何でも奴の心臓(腸の見誤り?--引用者)らしかった。今一太刀と追い駆けたが先方は馬、わしは徒歩だからとても追い着かない。振返ってみるとまた一人駆けて来る。雑作はない。例の抜討ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追い駆けたが、とうとう追い着かなかった。死んだ英人『チャールス、レノックス、リチャードソンというのはわしが先に切ったので、後に切ったのは『ウィリアム、マーシャル』でこれは重傷」(『鹿児島新聞』明治45・7・3付)
久木村のこの追憶談によると、かれは一度ならず二度までもイギリス人(リチャードソン、、マーシャル両名)を斬ったことになる。このときかれはどのような気持ちで人を斬ったのであろうか。かれは人をあやめた後、良心に恥じたり、後ろめたさや後悔にさいなまれるどころか、「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」とさえいっている。
イギリス艦隊鹿児島へ
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薩摩藩は生麦事件を引き起こしたにもかかわらず、幕府やイギリス政府のたび重なる抗議に対して犯人を差し出そうとはしなかったばかりか、何ら反省も示さなかった。かれらはこちこちの攘夷論者ではなかったにしても、勇武の国柄であったから、もしイギリス艦隊が攻め込んで来るようなことになったら、敢然とそれを迎え撃つ決意でいた。ことに島津久光は文久三年三月三日(1863・4・20)藩兵七百余人を率いて上京の際、伏見に到着したとき、イギリス側の抗議に接したが、このとき随従の家臣に小松帯刀の名で、
イギリス艦隊が横浜に到着し、昨年秋の生麦の一件でいろいろ申し立てているようである。外国人の情態と狂暴はじつに忌まわしく、もしイギリスとの間で戦端が開かれた場合、諸士は天下国家のため、他藩にぬきんでて、蛮夷の誅伐に粉骨砕身尽くして欲しい(3・14付)といった訓示を与えた。
なおこの訓示が鹿児島に達すると、藩主島津忠義(1840~97、のち公爵)は、同年四月二日(5・19)付で告諭を家臣に示した。
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薩摩藩史上、イギリス艦隊の来航は、未曽有の大事件であり、まさに国難であった。生麦事件の当人、奈良原喜左衛門は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、自分さえ責を負えば、国難を免れると思い、何度か久光に切腹を願い出たらしいが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」とのことで、許されなかった。このことばに感奮興起した奈良原は、他日久光のために忠死の決意を固めたという(五十年前鹿児島湾の激戦『鹿児島新聞』明治45・6・16付)。
薩英戦争とその余派
七月一日(8・14)の午前九時頃、藩の使者(伊地知ら二名)がやって来たとき、回答は不満足なものであると考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ交渉に応じられぬ、と告げた。イギリス側の作戦行動については薩摩藩では把握しようもなかったが、イギリス側は湾内に停泊中の薩摩藩の外国製汽船数隻を拿捕するといった報復に出れば、薩摩人は前回持って来たものよりも満足すべき回答を提示するものと考えた。この日は午後から天候が悪化し、夜来の東風は次第に強くなった。湾内の波浪は高く、どのイギリス艦もメインマストをことごとくおろし、荒天に備えていた。旗艦ユアライアルス号では各艦の指揮官との打ち合わせが行われ、明二日(8・15)払暁戦闘行為に入るべく準備が命じられた。一方、薩摩藩側でも開戦はもはや避けえないことがわかっていたので、この日、久光・忠義らは千眼寺(西田常盤山麓)に移り、ここを本営とし、そこから命令を出すことにし、家族は城外の玉里屋敷(草牟田村)に難を避けた。また市中も騒然とし、避難者たちでごった返した。夜に入ると風雨はさらに勢いを増した。イギリス艦隊は六月二十九日(8・13)の夕刻から翌日にかけて、桜島の小池袴腰沖に停泊していた。
七月二日は朝から暴風雨であり、海上煙霧の間にイギリス艦が望見できた。早朝、クーパー提督は泊地のパール、アーガス、レースホース、コケット、ハヴォックの五艦に湾内重富沖に停泊している薩摩の三汽船の拿捕を命じた。
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午前十時前にイギリス艦隊の拿捕行為が千眼寺の本営に報告され、直ちに軍議が開かれ、撃攘に一決し、開戦の命令は各砲台に伝えられた。砂場(天保山)の砲台へ急使が開戦の命を伝えるとすぐ発砲を開始した。これが引き金となって各砲台とも一斉に砲撃をはじめた。正午頃のことである。これに対してクーパー提督も直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよの信号をアーガス、レースホース、コケット号に発した。…
薩摩藩はイギリス艦隊の退去後もその再来に備えつつあったが来襲はなく、また再び戦端を開くのは得策ではないとの判断から、支藩の佐土原藩の斡旋により、代理公使ニールと交渉を開始することに決した。そこで薩摩藩からは重野厚之丞(安繹、1827~1910、幕末明治期の史家・漢学者、のち東大教授)が代表となり、岩下佐次右衛門(方平、1827~1900、のち子爵)ほか二名を補佐役とし、さらに外国方調役・徒士目付・訳官(通詞)ら四名ほどが応接員に任じられ、幕吏と共に横浜のイギリス公使館に出かけニールと交渉を始め、文久三年九月二十八日(1863・10・5)から談判を開始した。薩摩側は、犯人を逮捕次第イギリス士官の面前で死刑に処するつもりであると、言明し、さらに将来イギリスと和親条約を結びたいので、ついては軍艦、鉄砲等の購入の周旋を頼みたい、と伝えた。イギリス側はこれに対して、この斡旋をなすが、まずリチャードソンの遺族に対する賠償が先決問題であるとした。これまで膠着状態にあった生麦事件の最難関の扶養料の件は、十月二十六日(12・12)に、薩摩藩が幕府より金を借りて支払うことによりついに解決した。が、その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)に上った。かくして薩摩藩は、幕府に償金を立て替えてもらってしはらうことによって、ようやく生麦の一件を解決できたが、肝心な犯人の捕縛とその処分及び借用金の返還は、その後うやむやになってしまった。
…薩摩藩では事件発生後、イギリスとの武力衝突を当然予期し、砲台や武器等の整備に力を尽くし、艦隊の来襲に備えたが、砲火を交えてみて初めてイギリス側の兵器・兵備・戦術に一日の長があることを知り、さらに攘夷は無謀であり、外国軍と戦ってもとても勝算のないことを痛感した。同藩はこの戦争の結果、攘夷より開国論に転じ、イギリスとの平和を回復し、軍艦や兵器購入、留学生派遣の依頼なども行い、やがて朝廷に開国論に導く端緒を開いた。…
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 鬱積する不満--御殿山イギリス公使館焼打ち
未遂に終わった金沢(横浜)事件
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このような情況下、長州藩では、参政長井雅楽(ウタ)(1819~63)の「航海遠略論」(独自の開国論)を国是とし、攘夷の勅命を奉じ、公武合体の実を挙げようと努めていたが、攘夷報国の念に燃えた有志を多数かかえていた。かれらは、高杉晋作や久坂玄瑞を中心とする「御楯組(ミタテグミ)」と称する勤王志士の一団である。この急進党(血盟団)は夷狄(イテキ)を誅殺することによって勅意に報いようと、まず「血盟書」を作り、それに十一名が花押血判した。次いでその実行の方法について協議した結果、横浜の各国公使館を襲撃することに決し、文久二年十一月十三日(1863・1・2)高杉や久坂ら十一名は藩邸を脱し、横浜へ向かった。土佐勤王党の広瀬建太(?~1863)ほか二十三名もこの件に関係していたが、勤王倒幕の計画が進んでいる最中に、このような暴挙に出ることはまずいとの判断から、土佐の同志武市瑞山がこの襲撃計画に水を差し、藩主山内容堂(豊信)にこの計画を告げた。容堂は直ちに使者をもって長州藩邸に伝えると、夜中にかかわず、毛利世子定広は藩士を引きつれ、馬を飛ばして高杉らの一行を追った。やがて夜が白々と明ける頃、定広の一行は大森の梅屋敷に着いた。
家臣にいろいろ調べさせると、昨夜神奈川の下田屋という旅籠に高杉らが宿泊したことがわかり、その後一同を梅屋敷に召し寄せ、懇々と説諭して暴挙を思いとどまらせた。これがいわゆる金沢(横浜)事件である。
攘夷の決断迫る焼き討ち
横浜における外国公館の襲撃は未遂に終わったが、御楯組の領袖格高杉らの気持ちはそれでもなかなか収まらず、前回の失敗を償う意味で第二の計画をめぐらした。幕府は攘夷の勅命を奉じながら煮えきらず、その実を挙げていない。そのうえ御殿山に外国公使館を建てるような矛盾した態度に出ている。攘夷の先駆けとしてすべてこれを焼き払おう、という案が浮上し、再び同志の糾合を得て、これを実行することになった。この計画に荷担したものは、高杉晋作、(1839~67)、久坂玄瑞(1840~64、禁門の変で自刃)、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(1835~1925、のちの井上馨、元老)、松島剛蔵(1825~64、禁門の変のあと処刑)、寺島忠三郎(1843~64、禁門の変で自刃)、有吉熊次郎(1842~64、禁門の変で自刃)、赤禰(ネ)幹之丞、山尾庸造、品川弥二郎(1843~1900、のち枢密顧問官)ら御楯組の十一名に加えて、伊藤俊輔(1841~1909、のちの伊藤博文、総理大臣)、白井小助、堀真五郎、福原乙之進(オトノシン)(信冬?~1863、自刃)、松木某(実際の襲撃には参加せず?)ら五名が加わり、合わせて十五、六名がイギリス公使館の襲撃(焼打ち)を画策した。
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幕府が大金を投じて造った御殿山のイギリス公使館が、文久二年十二月十三日(1863・2・1)の午前二時、高杉ら攘夷派の志士の手にかかり、一夜にしてことごとく灰燼に帰したことは日本の建築史のうえからも惜しまれることだが、この事件は少なからず幕府の威信を傷つけることになり、やがて放火犯の捜索も次第に厳重になってきた。…
日本人犠牲者、佐助
御殿山のイギリス公使館焼打ち事件は、単に建物に放火するだけにとどまったのか、それともこの事件の裏に何らかの殺傷事件もあったのか。この点に関してわが国で書かれたものの多くは、火災だけを問題にしているが、外国側の史料はこの事件に先立って起こった殺傷事件をも重視している。それは放火事件が起こる約一週間前に公使館警備の日本人番人(佐助)が殺されたことである。…
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