「海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記」(太平出版社)の著者禾晴道(ノギハルミチ)氏は、まえがきに、
”・・・
この本に書いた事件には、時間が経過した今日、わたしの勘違いから多少の前後があるかも知れません。しかし、すべて本当にあったことです。わたしはこの本で当時の責任者を暴露しようとか、その人たちを責めようとしているのではありません。ある意味ではその時の個人の名前や、部隊名などはどうでもよいことです。ただ、一度戦争が始められたら、個人の良心も、理性も、みそも、くそも、戦争という一大メカニズムの中に組みこまれて、ベルトコンベヤーのように引きづりこまれ、自分の意志ではどうにもならなくなることがわかってもらえればいいのです。
人間は、一生懸命、生命がけでやった者ほど、自分の過去の行為を馬鹿げた行為であるといわれることを好まないし、本人自身、知っていながらそう思いたくない弱さをもっているものです。
そして、現在がみじめであればあるだけ、それに何かの正義らしい意味づけをやろうとするものです。
だがそれは、だれでもが認める正しい客観理性ではありません。戦友愛は美しいかも知れませんが、あの戦場の行為まですべて正当化することは決して許せないと思います。
時の経過とともに、汚い戦争を美化し、正当化しようとする意識的な動きすらでてきています。現在あの侵略戦争の表面的な部分を取り出したはなばなしいヒロイズムだけを拾いだして、戦争体験のない若い人たちに、美しく、力強いものとして宣伝が強化されつつあります。そして、戦争につきものの悲壮感は、すでに一部の青年に共感さえあたえつつあります。
だがその戦争のうらに表面よりも、もっと広く、もっと深く、どす黒くうずまいていた、決して忘れてはならないどろぬまは忘却されようとしております。
わたしは自分の二十一歳から三十六歳までの青春時代のほんの一部のどろぬまを報告しておきたいと思いました。
・・・”
と、本名を名乗り書いています。したがって、慰安所開設の経緯や慰安婦集めに関する議論に大きな間違いはないと思います。知っている関係者が多数いるので、本名を名乗って、でたらめを書くことはできないと思うのです。
慰安婦集めが業者ではなく、軍主導で進められたことは、”慰安婦を集める作業はどこがやるか、各隊がそれぞれどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。それは一つの謀議でもあった。”や”恐れられている特警隊の力をもってすれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。”で明らかだと思います。
また、下記のような記述も見逃せません。
”…特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者に向けられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります。”
” ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています。”
真実が表面にでないように画策されていたということだと思います。そして、そうした日本軍の様々な画策が功を奏して、現在の一部政治家や若者が「平和の少女像」を憎しみの対象とするようになり、先日も「あいちトリエンナーレ2019」における「平和の少女像」展示が中止となったばかりでなくり、「表現の不自由展・その後」全体の中止が発表されるに至っています。再び表現の自由が認められないような社会にもどることは、あってはならないことであり、恥ずかしいことだと思います。
日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするという意味で、下記のような文章は大事だと思い、「海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記」禾晴道(太平出版社)から「Ⅸ 慰安婦狩り」の全文を抜粋しました。(一部数字表記を変えたり、空行を挿入したりしています)
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Ⅸ 慰安婦狩り
北上するアメリカ軍機動部隊のフィリピン上陸作戦はますます激しさを加えて、1944(昭和19)年も暮にせまっていた。
ニュースは、神風特攻隊の攻撃を報じ、二階級特進者の名前の数が増加していた。11月24日の東京空襲のニュースは、敵機動部隊が、日本本土へも近づいていることを強く感じさせた。
12月15日、アメリカ軍はついに、フィリピンのミンドロ島に上陸した。ビルマ方面の西部戦線もしだいに苦戦が伝えられ、現実には崩壊しつつあった。東部ニューギニア戦線の連合軍は、反撃の激しい地域はさけながら、基地のみを占領して、フィリピン、本土への進攻に主力をそそいでいた。南方地域はアメリカ軍のフィリピンへの上陸によって本土との関係を切離されたようになってきた。
毎日のように空襲はあったが、敵が取残していったかっこうになった島々には、大局的には敗北しつつあるにもかかわらず、あきらめきった一種の落着きがでてきていた。
アンボン島のような小さなケシ粒のような島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。
日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。
そこには日本人女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要でもあった。
わたしがアンボン島に着任した1944年3月ごろはまだ慰安所があったが、日本人女性はすでに後方に送られ、ほとんど現地人女性だった。
それは44年8月の大空襲までは続けられたが、この大空襲を境に日本人料理屋も後方に送られ、現地人慰安所もいっさい解散させられてしまった。
彼女たちの多くは、自分の村々や、近くの島に帰って行った。帰るところがあっても食えない女性たちは、それぞれ日本軍部隊の近くの民家だとか、破壊された民家の中で、ローソクをともして売春
を続けていた。
軍の方針としては、病気の心配があるという理由で、いっさい女性に手をだしてはならないという命令がだされていた。
この命令は、じつにきびしい命令であった。
「当アンボン島において、他人の食糧を盗んだり、現地人女性に不法に手をだしたる者は、日本軍人であれ、現地人であれ、だれが見つけても、ただちに殺してよい」。
という軍律だった。
わたしはこの軍律はたいへんだと思った。
アンボン地域の憲兵将校が、海軍司令部に抗議したという話もはいってきていた。
まちがって射殺しても、畑のイモを盗もうとしていたといったら、それで通用するわけだった。現実にアンボン捕虜収容所で、食糧を盗んだ捕虜が何人かこの軍律で殺された。
この軍律が出されて、少したったある日、アンボン地区の陸軍憲兵隊から特警隊に電話がかかってきた。
「じつはいま、現地人の畑でイモを盗んでいる陸戦隊の海軍下士官を一人捕えている。海軍司令部のだしている命令によれば裁判にもかけず射殺してよいことになりますが、当憲兵隊で処理しましょうか」
軍命令からいえば、そのまま憲兵隊で射殺されても、一言の文句もいえないことになっていた。いくら命令がだされていても、一人の海軍軍人の生命がイモ一個で失われることは承知できなかった。それは、命令に対する憲兵隊の皮肉な抗議とも受けとれた。それだからこそ殺さずに電話してくれていた。
「今から特警隊員に引取りにやります。当隊に処分はまかせてもらいたい」。
そして隊員の小隊長に電話して来てもらった。わたしはその小隊長の顔を見るのが気の毒だった。
「じつはあなたの部下のこの下士官が……というわけで、殺されても文句がいえないことはあの命令で知っているでしょう。しかし小隊長に引渡しますから、今後このようなことがないように注意してください」。
その隊員が小隊でどう処分されたか、わからなかったが、多分なぐられて終わったと思われた。
どこかの民家の売春婦にうっかり手をだして射殺されても、しかたがない現実がきていた。
この命令は、現地人対策としてだされたとしか思えなかった。現地人に、日本軍の軍規のきびしさを示し、住民に安心感をあたえ、反日感情をおさえようとする効果をねらっていた。
現地司令部では日本の敗北は手にとるようにわかっていたと思われたが、公式発表以外は全然不明だった。
各部隊には陣地づくりと食糧の自給体制をますます強化するよう指導が続けられていた。
そして、再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からだされていた。
それまでも毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするとか、民政関係からみて警備隊はこの点とくに注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。
出席者は各警備隊の司令・副長、民生部は当時政務隊となって成良司政官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司政官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長・先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。
情報の交換とアンボン島の民政に関する諸問題が討議されていた。
その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。
四南遺艦隊司令部の先任参謀が中心になって開かれ運営されていたが、実際は副官の大島主計大尉が一人でガアガアしゃべって会議は進行していた。
軍隊としてはそうとう自由な発言が行われて、討議は白熱化していた。いつもなら民政関係から、各部隊は現地人に対してこういう点を注意してもらいたいとか、現地の宗教習慣はこうなっているので日本人に気にいらないからといって、やたらになぐらないようにしてもらいたいとか、最近食糧どろぼうが多いが、その処理はあまり刑務所に入れても食糧と場所が亡くなっているので、各部隊で適当に処理するようにしてもらいたい、というようなことが多かった。
このアンボン島と周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰安婦志望者でけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を高めて、治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が中心になるだろうと思われた。
そして、慰安婦を集める作業はどこがやるか、各隊がそれぞれどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。それは一つの謀議でもあった。
「特警隊では治安上この問題について、どう考えるか」
わたしに最初の質問がきた。わたしは突然会議に出席させられたので、十分頭の中が整理されていなかった。もちろん方針について考えてもいなかった。
「まだ具体的な考えがまとまっていませんが、わたし個人としては、若いので、あったほうがいいと思っています。特警隊として、アンボン島の治安から考えれば、多少でも強制するようなことがあれば、現地人の間に反感が強くなることを心配します。あまり賛成できません」。
わたしは、そういった。この意見は、多少でも住民対策に関係ある民政関係者の多数意見であるようにみえた。
会議の方向は、「原則的には反対だが、現実にはやむをえないのではないか」、という方向に動いていった。
司令部では、だいたいやる方向で会議を運営していっていることが明らかだった。
「現地人の治安も充分考えてやる必要があるが、戦闘部隊である日本軍の治安も大切だから、どうしてもこの際やる必要がある」。
大島副官の意見であった。反対意見がでようと、でまいと、すでに慰安所を設けることは決定されているようだった。出席者には、あまり強く反対意見を主張したとしても、設けられることが決定している以上、うるさい副官の感情を悪くしてうらまれてもしかたがないという態度がみえた。
この副官は東大出身の主計大尉で、口から先にうまれたようによくしゃべった。この司令部に着任する前は船に乗っていたが、主計士官にしてはあまり元気過ぎてだれも使いきれないので、アンボン島の海軍司令部なら使いこなせるだろうということで副官として着任したのだといううわさを聞いていたが、かれの日常行動は、それを裏づけるようなところがあった。わたしはそのうわさの真相についてはしらなかった。かれが慰安所を設ける中心人物になっていた。
最初に、集める女の対象が検討された。第一に、慰安婦の体験者を対象とすること、それと売春の常習者。第二に、あの女は売春行為をやっているかどうかたしかではないが、やっているといううわさがある者。第三に、やってみたいという志願者。
対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。
つぎは、いったいだれがそれをやるかということになった。
出席者がわたしの顔を見た。恐れられている特警隊の力をもってすれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。
「特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくからどうか」。
副官がそう発言したので、わたしは立ちあがった。
「もちろん、副官のいわれるようにわたしの隊で集めれば、早くやれるでしょう。それは慰安所の設置ということが、もっとも大切なことだということでしたらうなずけますが、特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者に向けられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります」。
わたしは、もっともらしくそういった。めんどうなことから、なるべく逃げようという下心があった。そうするには、やはり大義名分が必要だった。
副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制はあっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。
そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。
こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。
だが侵略者というものは、その占領地の住民に非常に親切で、最大限の善政をやってやっている、といううぬぼれたおおきな錯覚に自分勝手にひたっている場合が多いものだ。それすらも気づいていなかった。
「集めた女は全員必ず喜んで承知させてみせるぞ。おれの腕のいいところを見ていてくれ」。
副官にはそういう自信がありありと見えた。結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった。
民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。
「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れれられないが、娘たちの住んでいたの住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ! 娘を返せ! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容疑者を捕えて、収容所に送って協力していた。それは犯罪容疑者として捕まえていた。
集めることが決定して半月もたったころだった。わたしのところに司令部の副官から電話がかかってきた。勝ちほこったような元気のよい声だった。
「夕方でもよいから女収容所の神学校にいってみろよ。きみが心配していたようなことは、まったくないぞ。うれしそうにはしゃいでいる。食事がいいので、顔のつやもよくなって、ポチャポチャとした、きみの好きそうなやつも大勢いるぞ。一度見といてくれ」。
まるで動物でも集めて楽しんでいるような話だったが、当時の女性、とくに現地人の女性に対してはだれもがそんな感じしかもっていなかった。そして、それをべつにふしぎにも思っていなかった。
わたしは、面白半分と、女に対する強い好奇心から、夕方に神学校まで行った。副官も来ていた。校庭の中の神学校が、慰安婦の収容所になっている皮肉さにも、なんの矛盾も感じなかった。
「どうかね。禾中尉! この女たちのいったいどこに、強制されて日本軍に反感をもっているような暗いものを感じるかね。うれしがっているではないか。ま中に入ってよく見て、話してみてくれ」。
副官には、「どうだ、おれの見通しは、まちがっていなかっただろう。どんなもんだ」という自慢と、成功したことに対するうれしさがあった。
「それにしてもこんなに多く、いつの間にかよく集めたものだ。こんな美しい娘がいままでどこにかくれていたのだろう」。
わたしはちょっと驚いた。たしかに副官が自慢するように、悲しそうな暗さはなかった。幼稚園の子どものようにはしゃいでいた。
「タベトウワン!」(「こんにちわ」)。
といって多くの娘の中から一人の娘がわたしに近づいてきて、ペコリと頭を下げた。そして笑いかけた。特警隊で捕えて、ここに送りこんだ可愛い娘だった。
わたしはドキッとしたが、うれしそうな娘の顔を見て、なにかすくわれたような気になった。
この校舎の周囲には、べつにバリケードがあるわけではない。べつに彼女たちの逃亡を警戒する警戒兵や、現地人の警察官が見張りをしているわけでもなかった。ほっと安心した反面、裏切られたようおな気がしてならなかった。女性に対して知らず知らずにもっていた一つの期待が裏切られたような感じだった
彼女たちの心の底に、どうしようもない怒りが深く隠されていたことなど 、わたしたちは、少しも気づいていなかった。
それからまもなく、各地区に女は配分され、慰安所が再び開設された。
女の数が少なく日本軍の数が多いために、自由に遊びにいくことはできなかった。当然交通整理の必要があった。戦時の食糧や衣類の配給に切符制がとられたと同じように切符割当制が行われた。ところがこの割当切符は、金次第ではなかった。士官は月何回、下士官・兵・軍属は月何回と決められ、切符とお金をもって遊びにいくようになっていた。切符のない者は、金があっても資格がなかった。昼は下士官・兵、夜は士官と、遊ぶ時間帯が明確に分けてあった。もちろん慰安所などに絶対に遊びにいかなかった者も、相当数いたことも事実だった。病気を恐れていかない者や、それ自体を不潔だと考えていかない者も多かった。
わたしは慰安所の開設には、治安上の理由から反対意見を述べ、開設のための女集めには協力した。各部隊では、特警隊が中心で女を集めたように思われていた。
開店後、二日めだったか、慰安所にいくことにした。自分でも多少身勝手だと思っていた。夕方、慰安所にいってみると、元二十警備隊の本部があったビクトリア兵舎の近くで、海岸が近かった。慰安所は、元オランダ士官の宿舎で、大空襲に破壊されずに残っていた三軒が使用されていた。空襲でもあれば、いちばん危険なところだった。幸いそのへんは大木が繁っていたが、ラハからの船が着く水上警備隊がすぐ近くに残っていた。その中のもっとも大きな家に、女が集まって、客を待っていた。そこには、十人ほどの女がいた。
そこに飛びこむように入っていったわたしは、最初に目についた目の大きいオランダ人と、インドネシア人の混血児(ハーフカス)の女を指名した。
そんなところで下士官同士でも、顔がぶつかることは、なんでもないことだったが、なにか面はゆいものを感じていた。さっさと女の室に行くことが多かった。にっこり笑って、「こちらです」という家の方に行くと、道路をへだてた道の向こうの家だった。玄関を入ったところが部屋になっていて、それに面して三つの扉があった。
その一つの扉を開けて中に入り、ピタリと閉めた。あの二人きりになったときの感じ──、なんともいえない安心感と一人を完全に独占したという感情は、内地で女郎屋に遊びにいったときの感じとまったく同じだった。
その洋間は八畳くらいの広さで、洋ダンスが一つと角に大きな洋風の鏡台が置いてあって、部屋の片側に大きなダブルベッドがあり、女性のスカートのような白いレースのカヤが、天上からすっぽりとそのべっどにかぶさっていた。長く忘れていた香水と、むせかえるような女の体臭が、わたしの感覚を刺激した。
いつ空襲警報が発せられるかわからないので、部屋の中央にぶらさがっている電灯には、黒い布がかぶせてあって、床の中央を円形に照らしていた。
「おれの住んでいる山の中の、ニッパ椰子の葉で作られた狭い家よりも、ずっとりっぱだなあ」。
わたしは、そう思った。それにしても、こんなベッドや洋ダンスや鏡台などいったいどこにあったのだろうとふしぎに思われた。
ぐずぐずしていて空襲警報でも鳴ったらたいへんだと、防暑服を脱ぎ捨てて、はだかのまま白い布カバーのかけてある毛布をかぶって、ふんわりとしてスプリングのよくきいた広いベッドに転げこんだ。
彼女は、大きな花もようのワンピースをくるりと頭までまくりあげて、薄いシュミーズの上に、薄いガウンのようなものを着た。ベッドのカヤを着物のスソを開くように手で開けようとしたときだった。
「トントントン」
だれかがドアをノックした。いつもよくやるいたずらかな、いったいだれだろう。来てみるともう女が一人もいないとき、はらいせにドアをノックしていく、あのいたずらだろうか、わたしもやったことがあるので、てっきりそうだと思っていた。それにしても力が弱い。「マァーマァー」と子どもの声がした。
彼女は、サッとドアを開けた。そして子どもを中に引き入れるとサッとドアを閉めた。三歳くらいのかわいい男の子だった。
片手に椰子の実の中にあるコプラで作った、油であげた菓子をもっていた。母親を追いかけてきたのだった。彼女は子どもをすっと抱き上げてやさしくほおずりして、
「おとなしくしてあちらの部屋で待っててね。すぐ行くから」という意味のことをいって頭をなでていた。こどもは床におろされると、ベッドの中のわたしをにらみつけるようにして、扉の外におとなしく出ていった。
わたしはその子どもの目にギョとした。
「きみの子どもかい、父親はどうしたんだ?」。そうたずねずにいられなかった。
「戦争が始まって、日本軍が上陸してくるかも知れないというので、軍隊にだされたの。日本軍が上陸して捕まったはずだわ。どこで、どうしているか。殺されたのか。どこかの捕虜収容所にいるかまったくわからないわけよ」。
わたしにはよくわかった。
「ではなぜここに入ってきたんだ」。
その目的のみできている自分が、いまから女の身の上話など聞いてどうなるものではない、と思ってはみたものの、聞きたかった。
あの慰安婦集めの実体が知りたかった。
「わたしたちは戦争が始まるずっと前から、セラム島のニューギニアに近い東の端のに住んでいた。そして平和で幸福だった。ところが戦争で夫はどこに行ったかわからなくなり、しだいに生活がくるしくなってきたわけ。ところがアンボンから海軍中佐のM参謀がセラムに来たとき、アンボンに来れば、よい生活をさせてやる。なんの心配もない生活だというわけで来ると、ここで働くことになったわけ。わたしはだまされたんだわ」。
しかし、この女の話をそのまま信じてよいかどかは疑念があった。あのセラム島のでこのようなことをやっていたのかも知れないと思った。それほどなれていた。
シュミーズ一枚でベッドにもぐりこんできたときは、さきほど子どもをあやしていた母の顔はもうどこにも見られなかった。そこには女の顔しかみられなかった。