敗戦後、帰国を望む多数の朝鮮人徴用工や朝鮮人家族を乗せた浮島丸が、目的地の釜山に向かわず、なぜ舞鶴港で沈没したのかということについて、意図的に沈められた可能性が疑われる疑問の二つ目は、他の沈没事故のような、沈没の経緯を記した報告書が、なぜ存在しないのかということです。
浮島丸の釜山行の命令や航行に関わった責任ある人たちが、沈没で亡くなったわけではないのに、なぜ、きちんとした報告書がないのでしょうか。浮島丸の沈没によって命を落とした徴用工の遺族や、九死に一生を得た朝鮮の人たちはもちろん、多くの日本人関係者にとっても、浮島丸沈没の経緯は、大問題であるはずなのに、なぜ、厚生省が「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」などと平気で言うのでしょうか。なぜ、重要なことが何も記されていない船舶会社による『浮島丸海務部代作報告書』しか保存されていないのでしょうか。
『浮島丸海務部代作報告書』の事故の顛末が”不詳”と記されているのは、どうしてでしょうか。船舶会社が、何も説明を受けなかったからだとすれば、それはなぜでしょうか。きちんとした報告書を作成すると、何か不都合があるからではないのでしょうか。
また、549名の死亡が日本政府によって確認されているのに、”戦死者無し”と記載されているのは、なぜでしょうか。確かに、亡くなった人たちは戦死者ではありませんが、戦死者無しと記すのなら、但し書きででも、死者549名と付記する必要があるのではないでしょうか。それとも、そんなことも知らされず、また、調べようともせず船舶会社が勝手に『浮島丸海務部代作報告書』を作成したということでしょうか。
さらに、浮島丸沈没の事故の顛末が明確にされていないのに、日本側の主張が判で押したように”触雷沈没”で一貫しているのはなぜでしょうか。
厚生省は「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」の一言で押し通しているとのことですが、ではなぜ資料がないのに、”触雷沈没”を断定できるのでしょうか。
こうした疑問から、私は、きちんとした”沈没報告書”を作成することができない理由が、何かあるのではないかと考えざるを得ないのです。
関係者に送付された「死亡認定書」や「戸籍抹消通知書」には、朝鮮人徴用工が「軍属」と格上げされて表示されているようですが、亡くなった人たちは戦死ではありません。戦死ではないにもかかわらず、格上げされているのはなぜでしょうか。遺族の反発を恐れ、できるだけ穏やかに受け入れてもらおうとする意図が働いていたのではないでしょうか。
厚生省引揚援護局業務第二課長であった中島親孝氏が、沈没後10年近く経った1954年12月号の雑誌『親和』(日韓親和会発行)に発表したという「浮島丸問題について」という文章にも、不可解なところがいくつかあります。特に見逃せないのは、
”終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した”
というところです。私には、信じ難いのです。
詳しいことが書かれていないので、よく分かりませんが、日本の敗戦を「マンセー、マンセー」と喜んだという朝鮮人が、敗戦直後に、連合軍の進駐を恐れる、どんな理由があるでしょうか。連合軍の進駐を恐れたのは、むしろ日本人、それも地位の高い軍人ではないでしょうか。
”不穏の兆”は、日本軍が敗戦によって武装解除されたため、酷使した朝鮮人の集団による報復を恐れたということではないのでしょうか。だから、身の安全のために、朝鮮人の帰鮮の要望を受け入れ、一刻も早く送り返したかったのではないでしょうか。
中島氏の文章に、いくつかの基本的な事実誤認があることは、著者が指摘していますが、私は、ところどころに責任逃れの意図を感じます。また、10年近く経ってから、浮島丸の釜山行命令や浮島丸の航行に直接関係のない厚生省引揚援護局業務第二課長が、なぜこういう文章を書いたのでしょうか。広く存在する”浮島丸自爆説”が誤解であるのなら、浮島丸釜山行の命令や航行に直接関わった当事者が、誤解を解くために、”触雷沈没”の詳細をきちんと語るべきではないでしょうか。
下記は、「浮島丸釜山港へ向かわず」金賛汀(かもがわ出版)から抜粋しました。
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三 公報=沈没時の記録なく
「触雷」の立場貫く日本政府
浮島丸が舞鶴港で自爆したのか触雷したのかについて、日本政府の立場は一貫して触雷説である。
浮島丸が舞鶴湾で爆沈し、帰国途上の朝鮮人強制連行者が多数犠牲になったことと関連して、その後、別の便を利用して帰国した朝鮮人生存者が釜山で「浮島丸は日本海軍の手で自爆され、多くの朝鮮人が犠牲になった」と伝えたため、朝鮮国内に「舞鶴港で多数の朝鮮人虐殺」という風説が流れた。
日本敗戦の騒乱の中で、通信・報道機関は混乱していた。加えて、36年間の植民地支配からようやく解放されたという興奮、新生朝鮮の独立という煮えたぎるような高揚した気運の中で、朝鮮人は浮島丸の沈没は虚実入り混じった噂となって朝鮮の地に飛び交った。
朝鮮での風説が高まるにつれ、9月7日、朝鮮に上陸した朝鮮駐屯米軍司令部も事態を重視し、その報告を日本海軍連絡将校に求めた。
この要求に対して、浮島丸強制連行朝鮮人引率者の責任者であったという佐々敬一氏が、日米海軍連絡将校であった菅井敏麿少将を通じて、朝鮮駐屯米軍司令官ハッチ中将に報告書を提出した。内容は前述の『京城日報』の記事のとおりである。
それは完全に触雷説であった。それは鳥海元艦長の「触雷沈没」の報告に基づいた見解である。
朝鮮駐屯軍司令部は10月4日、この報告書の内容を発表、事件が引き起こした混乱の収拾を図った。
この「佐々報告書」がどこかに存在するはずであるが、残念ながら日本国内にはないようである。それ以外に浮島丸沈没に関する公式の報告書なり、文書は存在しないのであろうか。
浮島丸の元乗組員、木本与市上等兵曹は、戦後、鳥海艦長にあった時、鳥海艦長から、
「第二復員局から沈没時のくわしい事情聴取を受け、報告書を作成した。その報告書が書きあがった時、それに署名捺印してもいいと復員局の係員に申し述べたが、それにはおよばないとその係員が言ったとおっしゃっていました」
と語っている。日本政府は鳥海艦長から、くわしく事情聴取していたのである。それがいつの時点であるか日時は判明していない。情況から判断して、1945年10月に日本政府と朝連の交渉が開始された時か1954年、浮島丸の引き揚げをめぐって、朝鮮人団体と舞鶴地方復員残務処理部が激しく対立し、浮島丸の沈没原因の追及を受けた時に事情聴取したと考えられる。1954年、浮島丸の主計長中島栄之大尉も資料の提出を求められていた。
その「報告書」が存在するはずであるが、厚生省は「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」の一言で押し通してきている。
そしてその後、公式、非公式を問わず日本政府の浮島丸沈没原因に関する発表は、朝鮮駐屯米軍司令官ハッチ中将に提出された報告の主旨を一貫して崩していない。
浮島丸沈没事件に関する資料及び文書は、第二復員局による鳥海金吾艦長からの「事情聴取書」以外にも、浮島丸爆沈後の事後処理と関連して公表された公的な報告書がいくつか現存している。
・・・
「死亡認定書」「戸籍抹消通知書」は次のようなものである。
「死亡認定書
故海軍軍属 金海亮□外四百九名
右記ノ者当部所掌施設工事ニ従事シ昭和二十年八月二十二日ニニ〇〇頃大湊発帰鮮ノ目的ヲ以テ浮島丸ニ便乗航海中二十四一七ニ〇(注・二十四日十七時ニ十分)頃舞鶴港内ニ於テ触雷沈没シ同人ハ退去ノ遑ナク船ト共ニ運命ヲ共ニセルガ如ク爾後極力捜索スルモ発見ニ到ラズ死亡セルモノト認ム
昭和二十年九月一日
大湊海軍施設部長」
ここではっきりと、”触雷沈没”と記されている。さらにこの「死亡認定書」に基づき、強制連行朝鮮人の出身地の郡守あてに戸籍抹消のための通知が、大湊海軍施設部長名で出されている。
「昭和二十年十一月二十四日
大湊海軍施設部長
郡守殿
軍属死亡ノ件通報
貴管内出身者別紙ノ者施設工事ニ従事シ今次大東亜戦争終結と共ニ帰鮮ノ為浮島丸ニ便乗帰航中昭和二十年八月二十二十四日舞鶴港内ニ於テ触雷沈没シ別紙死亡認定書ノ通死亡致候条此段通知スルと共ニ遺族ニ対シ深甚ナル弔意ヲ表シ候、就而別紙死亡認定書ニ依り関係面長ヲ通ジ遺族ニ対シ伝達スルト共ニ戸籍抹消方可然御配慮相成度
追而関係給与ハ財邦朝鮮人連盟宛一括送金該連盟ヨリ遺族ニ対シ交付スル様手配済に付御了承相成度
別紙 死亡認定書
死亡者名簿 添」
ここでも”触雷”とはっきり記されている。
この「通報」では死亡者を「軍属」としているが、大湊海軍基地の施設工事に連行された朝鮮人は他の場合と全く同様の条件で連行されているのであるから、一部の人々を除き朝鮮人労務者の身分は「徴用工」であったと思われる。それにもかかわらず、なぜ大湊海軍施設部は彼らをすべて「軍属」の身分に”引き上げ”たのであろうか?
さらに、彼らの「給与」云々ということはどのようなことなのだろうか?
これらの「死亡認定書」等いに記されているものを見るかぎり、”触雷”の主張は一貫している。
しかし、朝鮮人の間にはその後も「自爆説」が根強く主張されている。その朝鮮人側の主張に対して、厚生省引揚援護局業務第二課長であった中島親孝氏が1954年12月号の雑誌『親和』(日韓親和会発行)で「浮島丸問題について」という文を発表している。非公式で私的な文章であるが、これがほぼ日本政府の見解と見ていいだろう。
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「終戦直後、帰国朝鮮人の輸送に当たっていた浮島丸が、舞鶴港で沈没した事件については、種々の誤解があり、中には浮島丸を日本海軍が故意に沈めたという流説を信ずるものさえある模様であるから、この間の実情を説明し御参考に供することと致したい。
一、浮島丸が舞鶴港で沈没するに至った経緯
終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した。当時、日本海軍としては、既に解雇手続を完了した元工員に対して、これを輸送せねばならないという義務はなかったけれども、事態の平穏な解決を欲したので、特設運送艦浮島丸(4730屯)に便乗せしめて朝鮮に輸送することとし、朝鮮人元工員2838名、同民間人897名を収容して、昭和二十年八月二十一日朝、大湊を出港した。
然るに、マニラにおいて日本代表に手交された連合軍要求書第三により、日本の全船舶は八月二十四日以後航行を禁止せられ、航行中の船舶は、最寄りの港に入泊すべき旨指令されたので、浮島丸は舞鶴港に入港した。
突然の入港で、充分の連絡を取り得なかったため、連合軍の敷設した機雷に触れ、二十四日午後五時十五分頃、舞鶴湾内蛇島北方において沈没するに至った」
中島氏の文章には簡単な事実誤認がいくつかある。「大湊附近にいた海軍施設局」とあるのは「局」ではなく「部」の誤りである。さらに浮島丸の出港を「昭和二十年八月二十一日朝、大湊を出港した」とあるのは、前述した「死亡認定書」でもわかるとおり「昭和二十年八月二十二日ニニ〇〇頃大湊発帰鮮」の間違いである。
そのような簡単な事実関係の誤認はさておくとして、中島氏のこの主張は果たして、浮島丸の労務者送還の理由、さらに浮島丸舞鶴寄港理由、そして沈没の状況など、すべて正確に伝えられているものなのだろうか。真実、この文章の内容が正確であるのかどうか知りたいと思った。
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「事故の顛末──不詳」
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入手した「浮島丸海難報告書」は、他の多くの”触雷沈没”した船舶が海難報告書として、触雷当時の状況を克明に報告しているのと違い、詳細な報告もなく、簡単な一ページのものであった。
そこには『浮島丸海務部代作報告書』とあり、当事者や関係者が作成した報告書ではなく、船舶会社の海務部で事務処理のために作成した、きわめて不完全な「報告書」であることを示していた。
『浮島丸海務部代作報告書』は、次のようなものである。
資料・船舶・事故報告
戦争による遭難船舶
事故・海難報告書(一) なし
大阪商船株式会社
浮島丸海務部代作報告書
1 総噸数及機関 4730.45屯
2 事故の種別及程度 触雷沈没
3 航行区間
4 発生年月日 昭和20年8月
5 位 置 舞鶴
6 航行区分(船団又は単独)
7 護衛の有無
8 当時の本船任務又は命令(積荷屯数 輸送員数)
陸軍使用船
海軍使用船 裸傭船
運営使用船
其の他
9 搭載人馬物件損害有無 戦死者無し
10 報告書届出先
11 事故の顛末 不詳
これには沈没月日も八月とあるだけで日付すら正確に記入されていない。
8の「当時の本船任務又は命令」では、「海軍使用船 裸傭船」とある。”裸傭船”とはどういうことなのか、大湊──釜山間の朝鮮人労務者輸送船という任務は、なぜ記入されていないのだろうか?
9「搭載人馬物件損害有無」も「戦死者無し」となっている。「549名死亡」という日本政府の発表の人員は当時も確認されていたはずであるのに、「戦死者無し」とはどういう意味なのか。
そして、11で事故の顛末は「不詳」とあるように、浮島丸沈没に至る詳細は何も報告されていないのである。
これでは何もわからない。
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