このところあまり耳にしませんが、しばらく前までは安倍政権の閣僚から、しばしば「未来志向」という言葉が発せられていました。でも、私は「未来志向」という言葉に、多数の朝鮮人虐殺が疑われる浮島丸爆沈事件のような人命や人権に関わる重要な問題を不問に付し、不都合な事実だからなかったことにしようとする姿勢を感じます。究明されなければならない問題を、「未来志向」でなかったことにしてはならないと思います。だから、「浮島丸釜山港へ向かわず」金賛汀(かもがわ出版)が投げかけた疑問を、さらに確認したいと思います。
浮島丸の意図的沈没が疑われる理由の一つが、浮島丸の釜山行に関係する人たちの明らかに事実に反する下記のような証言や言い逃れです。
浮島丸出航命令が出された時には、米軍の日本の艦船航行禁止の連絡はまだ大湊海軍防備付の司令部には届いていないのに、米軍による”航行禁止の前に韓国人を帰してあげたい”と、浮島丸の釜山行きを計画したというのです。あり得ないことです。また、”韓国人を帰してあげたい”という理由も考えられないことです。なぜなら、大湊海軍防備付の参謀が、日本の敗戦を知った朝鮮人の報復や暴動に脅えていたことが明らかなっているからです。
朝鮮人報復暴動への恐怖
・・・
永田元参謀は朝鮮人の送還について「知らん」「責任ない」の一点張りであるが、浮島丸の出航を直接指揮したのは清水参謀と大熊参謀であることが、浮島丸の乗組員の聞き取り調査から判明した。
その清水元参謀はNHKの『爆沈』の中で、インタビューに答えて、出航を命じた理由について次のように語っている。
「いつだったか、期限を決めて100トン以上の船は航行を禁止するという連絡が米軍からあったのです。それまでの間に、大湊地区の韓国人を帰してあげたい。それから鎮海に送って、その次の便で小樽──北海道方面の韓国人を帰そうという計画で準備したのです。
ところが、浮島丸らの船が、韓国人を乗せようとしてもなかなか乗せない。乗せても出航しないので、大熊さんも手を焼いておられた……」
清水元参謀のこの理由付けは、浮島丸出航命令が出された日時と米軍の「航海禁止」処置の命令が出された日時にずれがあり、つじつまが合わない。
24日午後6時以降100トン以上の船の日本海内航行禁止は、日本政府に対して連合軍最高司令部が20日に要求し、その要求も米軍から直接各司令部に発せられたのではなく、大本営海軍軍令部総長からの命令「大海令第五十二号」として21日に発せられている。したがって、浮島丸出港命令が出されていた時点で「航行を禁止するという連絡が米軍からあった……」ということは事実としてありえない。
まず、浮島丸の出航命令は19日に出されており、連合軍側の要求は20日に提示され、その要求が
「大海令第五十二号」として発せられたのは21日である。連合軍の要求が提示される以前に浮島丸の釜山への出航命令は出されていたのである。…
また、大湊の郷土史家・鳴海健太郎氏は
「永田さんは復員後、下北に在住し下北郡東通村蒲野沢中学校の代用教員をしていたことがあります。昭和29年頃ですが……。
代用教員時代、永田さんは戦時中のことは人前で言ったことはなかったそうですが、たまたま教員たちの宴席があった時、同僚の教員、東田寛次郎氏に『朝鮮人をあの時強制送還しなければ、下北で暴動が起きたかもしれない』ともらしているんです」
と語ってくれた。永田茂元首席参謀ははっきりと、朝鮮人が暴動を起こすから強制送還したのだと言っていたという。大湊警備府司令部の参謀は、戦時中の強制労働と厳しい抑圧に対する朝鮮人の反乱があるかもしれないという幻想におびえて、朝鮮人の即時送還を命じ、遂行しようとしたのである。
・・・
くり返し浮島丸関係者と司令部参謀の話し合いが持たれましたが、出航しそうな風向きになってきたので、大湊の司令部より元の横浜の第二十二戦隊司令部の方に信頼感や連帯感を感じていた木本上等兵曹は、通信係下士官・大川一等兵曹に声をかけ、第二十二戦隊司令部に状況を説明し、何か打開の方法はないかと、電信で相談を持ち掛けることにしたといいます。
その第二十二戦隊司令部からの返電は、「『大海令』が出て24日以降の出航は禁止されているから大丈夫だ」というような内容だったということです。
だから、「24日6時以降は航行禁止だという内容だと聞かされたので、ああ、これで助かった。少し引き延ばして、その航行禁止にひっかければいいと思いましたよ」と、釜山に行かなくてもよい方法を確認しています。
出航前の”自爆”の噂も、浮島丸の”触雷沈没”の事実を疑わせるもののひとつです。大湊海軍警備府の参謀は「陛下の命令である」と脅して浮島丸の釜山行を命じました。でも乗組員には、「俺たちは釜山に着いたら銃殺される」と脅える人や、行ったら「ロシア軍の捕虜になる」と考える人、また、「釜山に行ったら帰れない」と思う人などがあり、命令通り素直に釜山向かうことはありえない状況がありました。だから、下記のような証言は重要であり、”自爆”が疑われるのです。
九 出航=行方定まらぬ船出
乗船──浮島丸自爆の噂
・・・
艀で浮島丸に運ばれたその日のうちに船は出航した。
・・・
その頃、大湊市内では市民たちの間に、浮島丸について奇妙な噂が流れていた。
それは、浮島丸がどこかの海で、”自爆”するという噂なのである。
敗戦当時、むつ市で農業団体の役員をしていた伊勢広太郎氏は、その噂についてこう語っている。
「浮島丸は新潟まで行けば爆沈されるのだ、という噂を聞いたことがあります。それでうちの娘たちが朝鮮の友だちに、爆沈の噂があるから行かないで、と言って止めたようですが、なにしろ、帰国できるというので喜んで『マンセー、マンセー』と叫んでいる状態ですから、言うことは聞きませんでしたよ」(NHK『爆沈』より)
さらに、日本通運で強制連行してきた朝鮮人を送り返す、引率責任の役を割り当てられた日通労務係高橋嘉一郎氏も
「浮島丸に乗って行こうとすると弟が来て、浮島丸は爆沈されるということだから乗らない方がいいのじゃないかと言っていたが、そんな馬鹿な、ということで乗った」(同『爆沈』より)
と語っている。
むつ市で長く教鞭を取っていた秋元良治氏は、かつて同僚であった教員が、
「私は浮島丸事件があった時、田名部国民学校の五年生でしたが、私の家と懇意にしている海軍の下士官が遊びに来て、『俺たちは釜山に着いたら銃殺される。浮島丸は没収されてしまうであろう。だから、釜山に着くまでには自爆させるんだ』と言って、自爆させる場所まで話しておったのを記憶しております」
と語っていたという。
浮島丸の出港前から大湊では、浮島丸が日本海で”自爆”するという噂が市民の間に流れていたのである。
それは、大湊市内の地元の人々が浮島丸の乗組員から聞いた話として、伝えられていった。その噂を聞いた人は一人や二人ではなく、きわめて多くの人々の口にのぼっていた。
この浮島丸、”自爆”の噂は、少数の朝鮮人乗客たちも知人の日本人から聞いたようだが、帰国の喜びに沸く朝鮮人労務者たちは一笑に付して取り合わなかったようである。
・・・
大湊を出港した浮島丸は、裏日本の海岸沿いに航路を取りましたが、倭島航海長は「釜山に向けて出港した」といいます。米軍機の投下した浮遊機雷は沿岸部に多く投下されたので沿岸部の航行は危険ではないかという質問に、そんなことはないと否定しています。また、少ない燃料の節約のためには沖合を航行し、釜山に直行すべきではなかったかという質問にも、安全を考えての航路だったと言い張ったようです。でも、機関長・野沢元少佐や操舵長・斎藤恒次元上等兵曹は、航海長・倭島元大尉と全く異なる考えで航行したと主張しています。証言が正反対であり、ここにも大きな疑問があります。
行く先は釜山か舞鶴か
・・・
これは野沢忠雄元少佐だけの証言ではない。
操舵長・斎藤恒次元上等兵曹もはっきりと断言した。
大湊から釜山に向けての出航命令を受けた後、どのような航路で釜山に向かおうとしたのかという質問に
「私たちは、初めから釜山に行くつもりなんかなかったですよ」
と、いとも簡単に言ってのけた。
「え? そんなの命令違反でしょう」
「ええ」
「艦長も承知なのですか」
「当然です。艦長の命令でそのように操船したのですから」
「本当ですか……」
「間違いないですよ」
艦長の命令で、釜山に行かないように操船したのだという。
「海図もなしに出航できないと、艦長が何度も参謀部に申し入れたと聞いていますが、それが出航を強要する命令を受けたものですから、出港することにはなったものの、大湊を出る時からほぼ舞鶴に入港する予定でした。それは艦橋にいた者は承知していたと思います。
大湊を出てから、一般海図しかありませんから、沿岸を視界にいれながら南下していったのです。だから舞鶴入港は予定の行動です」
と、はっきり言い切る。
・・・
日本の敗戦によって、軍の秩序が崩壊しつつあった当時、浮島丸の船内でも、艦の航海妨害の謀議や水兵の反抗や、士官に対する集団リンチがあり、殺人まであったといいます。
浮島丸が釜山に向かわないとすれば、3700名(実際はもっと多いと考えられる)を超える朝鮮人乗客をどうするのか、ということが問題になります。帰国できると思って浮島丸に乗船した朝鮮人乗客を舞鶴港で降ろすことには、いろいろな困難があり無理ではないかと思います。でも、浮島丸の乗組員が、3700名を超える朝鮮人乗客をどうするつもりであったのかはわかりません。乗組員の証言を総合的に考えると、浮島丸は、米軍による航行禁止にかこつけて、最初から舞鶴港に入る意図をもって大湊を出たのではないかと思います。多数の朝鮮人労務者を釜山に輸送するため、軍命に従って釜山に向かう航路をとれば、米軍の航行禁止の対象にはならないため、浮島丸の航行に関わる人たちは、それぞれの立場で、意図的に沿岸部を航行させ、舞鶴港に入ったのだと思います。
また、乗組員の証言から、犠牲者数を減らすために、乗船者数が意図的に少なくされているのではないか、ということも指摘されています。”4000名ではすまない”というのです。
黒い十字架を背負った航海
そんな浮島丸の船内で、朝鮮人乗客の間に大湊出港前に日本人から流された噂──浮島丸自爆の噂が流れていた。そして、それはまたたく間に朝鮮人の間に広まっていった。
金東経さんは、
「菊地桟橋で4日ぐらい待って乗船した後、船は出港しましたが、出港してから、噂が流れてきました。
司令部から、軍の機密がもれるといけないから朝鮮人を送り返せ、と言われた兵隊が、戦争が終ったあとで船が沈没するような危ない航海をするのはばかばかしいと抵抗したため、船の出港が遅れたようだという噂でした。
それに、兵隊が船は沈没するようなことを言っているというので、皆、不安になって、どうせ死ぬなら金を持っていてもしかたがないじゃないかと、ヤケクソのようにバクチをやる人も出て来ました」
と言う。
同様の証言を京都府下網野町在住の申美子さんが語っている。浮島丸には、飯場を経営していた父親たちと一家全員で乗り込んだが、乗船した後、すぐに、
「この船は沈没するという噂が朝鮮人の間に広がっていきました。皆、自分たちは殺されて死ぬかも知れないと語っていて、かなり動揺していました。
私たち一家もそんな噂に不安でしたが、死ぬときも、親子家族、皆で死ぬのだからいいじゃないかと話し合っていたものです」
・・・
浮島丸はもともと客船であるが、船内の客室は士官と兵隊たちの居住区で占められ、朝鮮人労務者たちは、弾薬庫と機関室にはさまれた中甲板と船倉に詰め込まれていた。船底には、船の、船のバランスを保つ必要から大量の砂利が積まれていたが、その上に木製のすのこのようなものを置き、そこにも大勢の朝鮮人労務者が詰め込まれた。このようにして乗せられた朝鮮人乗客の総数を、大湊海軍警備府では3735名と発表しているが、長谷川是元二等兵曹は、
「私は、6000人とか8000人とか聞いたのですがねえ。3735人ですか。そうだったかなぁー」
と疑問をなげかける。そして、斎藤恒次元上等兵曹はさらに具体的に、
「浮島丸に乗った朝鮮人は6000人近くいたんじゃあないですか。浮島丸が青函連絡船の代替として運行した時、船底に乗客を入れないで4000名乗せたんですから。大湊からのせた朝鮮人は船底までギッシリ詰め込みましたからね。青函連絡船の代替運航の時よりずいぶん多いことになりますから、4000名ではすまないはずですよ」
と話している。
・・・
浮島丸は8月23日、水兵の反抗や下士官に対する集団リンチ・殺人、艦の航海妨害の謀議、そして朝鮮人乗客の帰国の喜びと流れる爆沈のうわさへの不安──こうしたさまざまな思いを乗せ、一路日本海沿岸を南下していた。
十 入港=寄港命令はあったのか
二十四日四時以降ノ航行を禁ズ
浮島丸は釜山に向けて航行していたと、艦長・鳥海金吾元中佐も副長兼航海長・倭島定雄元大尉も断言する。
その浮島丸がなぜ舞鶴港に入港したのか、NHK記者の質問に鳥海金吾元中佐は「二十四日四時以降の船舶の航行禁止の無電が入ったからである」と説明している。
副長・倭島定雄元大尉にこの件を確かめてみた。
「どうして舞鶴港に入港なさったのですか」
「舞鶴に入るようになったのは『二十四日四時以降は100トン以上の船の航行を禁ず』という無電が入ってきたからなのだ」
「二十四日六時以降ですがね」
「いや四時以降だ」
「『大海令』では六時以降になっているんですよ」
「うーん、そうなのかな。我々が受け取った電報は四時以降となっていた」
・・・
「大海令第五十二号」の教える不審
・・・
連合国要求の第三で船舶についての命令は、
「日本国に属し又は日本国の支配下にある一切の種類の陸海軍及民間の船舶にして日本国領海にあるものは、聯合国最高司令官の追て命令する迄之を破損することなく保存すべく又は現に進行中の航海以外に一切移動せざるものとする」
とある。そして、これを直接、命令として発信した「大海令第五十二号」では、
「(六)八月二十四日一八〇〇以後特ニ定ムルモノノ外航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁止ス」
となっている。
この「要求書第三号」と「大海令」の内容を検討すれば、浮島丸の大湊出港以後の運航との関連で、事前に連合軍の要求事項を知っていたと考えなければつじつまが合わない航海である。
・・・
もし、浮島丸が釜山港への最短距離の航路をとって領海外を航行していたら、浮島丸は「日本海領海内にあるものは」という要求書第三号に該当しなくなり、したがって日本の港に寄港できなくなる。それ故、浮島丸は日本の領海内、日本海沿岸ぞいを航行したのではないか。
さらに「大海令第五十二号」では「……特ニ定ムルモノノ外」と指示・命令しており、「要求書第三号」では「現に進行中の航海以外に」との条件が付けられている。
浮島丸が釜山に向け朝鮮人労務者の輸送にあたっているという「特ニ定ムル」任務を帯びていれば、この点でもまた舞鶴に入港しなければならない理由はなくなったといえる。
・・・
鳥海金吾中佐も倭島定雄元大尉も、日本海を航行中、無電による命令で舞鶴港に寄港するようになったと説明しているが、それを他の士官や下士官たちが知っていたという様子はない。
・・・
だが、前述した防衛庁戦史資料室で見付け出した海軍省運輸本部の六通の発信電文の中にその証拠を発見した。
それは8月22日午後7時に発信された電文である。
電信の発信者は海軍省運輸本部石川中将。宛先は、浮島丸・長運丸艦長である。電文は
「八月二十四日一八〇〇以後、左ノ通り処理スベシ
一 現ニ航行中ノモノノ外船舶ノ航行禁止
ニ 各種爆発物ノ処置
(イ)航行中ノ場合ハ無害トナシタル上海上投棄
(ロ)航行中ニ非ザル場合ハ陸上ニ安全ニ格納
(終)」
と打電し、その20分後に再び本部長名で浮島丸艦長に宛てて
「八月二十四日一八〇〇以降一〇〇総屯以上ノ船舶ハ航行ヲ禁止セラル。其ノ時刻迄ニ目的港ニ到着スル如ク努力セヨ。到着ノ見込ミ無キモノハ右日時迄ニ最寄軍港又ハ港湾ニ入港セヨ (終)」
この時刻、浮島丸はまだ大湊を出港していない。
この電文を発見した時、やはり艦長も副長も嘘をついていたのだなと納得したが、それではなぜ両人とも「知らなかった」と答えたのだろう。
・・・
朝鮮人や水兵たちには、なぜ舞鶴に入港するのか、理由は説明されなかった。
当然、どうして舞鶴に入港するのかと朝鮮人乗客は不信感を持ったが、艦長以下、浮島丸の幹部からは何の説明もなかった。
・・・
浮島丸は舞鶴湾の入口にある舞鶴防備隊の信号所と、手旗で交信を交わした。信号所からは「水路、掃海ズミニテ安全ナリ」という返事が返ってきた。
浮島丸の前方を、二隻の海防艦がゆっくりと入港していった。
下記の、”日本兵は棒を持って殴りつけながら、我々朝鮮人を船内に追いたてていた。”という証言が、何を意味するのかは想像できます。また、爆発時”水柱も立たなかったですね。”という証言、さらに、”爆発音が二度した”という証言を見逃すことが出来ません。触雷かどうかにかかわることだからです。
十一 爆沈=渦巻く船底地獄
証言──その時、私は地獄をみた
・・・
浮島丸爆沈現場が見渡せるところでサワラの養魚場を経営しており、爆沈を目撃している梅垣障氏は下記のように証言しているといいます。
「当時、浮島丸沈没の日まで毎日のように、浮島丸と同じ航路を通って船が入ってきていました。特に浮島丸が入港した日は多かったように思います。四隻が一組になって入って来る小型の軍艦が多かったですね」
浮島丸入港の日は、マニラで日本政府に手渡された連合軍の要求書によって、大本営海軍軍令部が二十四日午後六時以降の100トン以上の大型船舶の航行禁止を命じたので、入港する船が多かったのであろう。
・・・
当日、艦橋で入港の指揮をとっていた航海長・倭島忠雄元大尉は
「舞鶴入港時、”掃海ずみ”という信号を受けて入港を開始したのですが、私は舞鶴は初めての港だったから、前に入港していく二隻の海防艦の後を忠実に航行したんですよ。
そしたら、突然、ドカン! でしょう。私は飛ばされて倒されましたが、すぐに起き上がって見ますと、艦はまだゆっくりと進んでいて、二つに折れるようにして沈没していきました。
その時、火災もおきなかったし、水柱も立たなかったですね。
船が沈むとすぐに、防備隊のカッターなどが救援に駆けつけて来て、それに救助されました。」
・・・
絶叫──アイゴー!
・・・
李英出さんは
「船が湾内を進んでいる時、日本兵が来て甲板に立っている我々に、皆、船の中に入れと命令してきた。日本兵は棒を持って殴りつけながら、我々朝鮮人を船内に追いたてていた。
多くの人は追いたてられて船内に入ったが、私は船内に入らないで、そのまま甲板に残った。甲板には数十名の朝鮮人が残っていた
なぜ兵隊が朝鮮人を艦内に追い込んだのかはわからないが……」
この入港直前の「朝鮮人船内追い込み作業」が朝鮮人側から、日本の水兵が朝鮮人を追い込んだのは計画的に朝鮮人を水死させる策謀であったという、という風説になってその後、人々の間に流れた。
・・・
李英出さんはその瞬間を
「日本兵が朝鮮人を船内に入れてしばらくたってから、『ドカン!』という大きな爆発音が船の真ん中近くでして、その後、船の壊れるような爆発音が二度した。
・・・」
申美子さんは、船が舞鶴には入港するというので、子供心に入港の様子を見たいと思い、母親と一緒に甲板に出ていた。
突然、ドカンともにすごい音と衝撃で突き飛ばされたようにして甲板にたたきつけられた。そのときの状況を
「爆発は二度ありました。一回目と二回目の間にはしばらく間があったと思います。二回とも同程度の爆発で、一回目のときと同じように二回目のときも突飛ばされる様な衝撃がありました」
と語っている。そして、どう行動したのか自分でもわからないうちに、母親と一緒に漁船に救助されていたという。この爆発音を二回、または三回聞いたという証言は、触雷か自爆かの爆沈原因究明にもきわめて重要な証言である。
十二 風説~=デマは乱れ飛んだ
著者は、米軍の感応機雷の触雷の光景を記述したいくつかの文章から、浮島丸の沈没原因を突き止めるために、機雷による水柱に注目して証言を集めています。
米軍機雷に触雷すると、艦橋よりもはるかに高く水柱が噴きあがり、その後、それが崩れて、滝のように艦橋や甲板に降り注ぐというのです。だから、浮島丸の船上にいた人々はずぶ濡れになるわけで、浮島丸の甲板にいた何人もの人が、水柱に気付かなかったということはあり得ないのではないかというわけです。白軍曹の下記の指摘は、自爆だということです。
不安・恐怖・不信──自爆か触雷か
・・・
しかし、白軍曹が金東経さんに指摘した点はきわめて重要な事柄である。
浮島丸の沈没が機雷による爆沈ではない、という指摘である。それは当然の帰趨として”自爆”による爆沈ということになる。「機雷なら、水柱が数十メートルも上がるはずだ」と言った、というのである。
十三 機雷=米軍機雷は感応したのか
著者は、米軍が舞鶴湾に投下した機雷の機種や数、投下日時、地図などが詳細に記録された『日本に対する機雷戦』 という米軍資料を探し出し、また、それに『舞鶴防備隊戦闘詳報 第一号 若狭湾方面戦闘掃海』という書類綴りから掃海状況を調べ上げ、合わせて、当時舞鶴湾に入港したり、舞鶴湾から出港したりした船舶の数や航路を考慮して、下記のように結論しています。
次第に消えていく触雷の可能性
・・・
しかし、浮島丸の舞鶴湾入港時の状況と他の触雷沈没船の状況等を詳しく比較・検討してみれば、不可解な点が少なくない。それどころかむしろ、米軍の機雷投下日、機雷性能、日本海軍の掃海活動、日本敗戦後に舞鶴に入港してきた船舶数、そして浮島丸の航路等々からみて、浮島丸が機雷で沈没する確率はきわめて少ない。いや、ほとんど考えられない。
こうした考え方を、旧海軍の掃海艇の将校であるA氏も認め
「舞鶴湾の水路上で8月24日に触雷するというのはたしかにおかしい。普通はあり得ないことだが… もし、誰かが自爆させたとするならば、それは下士官クラスの者が謀ってしたことだと思う。
敗戦の混乱の時、艦の実権はそのような下士官に握られていたし、実際は彼らが最もよく精通していたからね。…」
と語っているのです。
誰が浮島丸を沈めたのか
・・・
乗組員のほとんどが釜山への航海を嫌がっており、その航海に生命の危険、恐怖感を抱き、さらに水兵たちの集団リンチに対する下士官のおびえ、復員に対する強い期待は「ここでもし、また釜山に行けと命じられたら」というせっぱ詰まった気持ちと結びつき、浅井湾内で艦を自沈させれば釜山にいかなくてもすむという気持ちを兵、下士官たちに抱かせたとしても不思議ではないであろう。特に「大海令」の情報に接していなかった兵、下士官の中に、そのような考えをする者たちがいたとしてもおかしくない状況がある。
・・・
また、浮島丸乗客が3735名という根拠が示されていませんし、死没者は、朝鮮人家族が身内であることを確認した人だけを記録しているようであり、また、遺骨の収集や取り扱いも含め問題だらけだと思います。
素人判断だとはいえ、”船体の一部──船底に近い部分の鉄板に、外に向かって大きく破れている部分がある”という事実の発見は、浮島丸の意図的沈没が疑われる決定的な物証であると思います。
このような数々の疑問に基づいた、浮島丸自爆説の結論を否定するような資料や考え方を何も示さず、”触雷沈没”をくり返すだけでは、あまりにも誠意がなく、悪質であるとさえ思います。
十四 死没=犠牲者は何人であったのか
初めからなかった乗客名簿
浮島丸朝鮮人乗客は、日本政府の主張するように本当に3735名なのか。
まず浮島丸朝鮮人乗客数から検討してみよう。それは浮島丸爆沈で何人の犠牲者が出たのかを確認する作業への第一歩である。
しかし、残念ながら浮島丸乗客名簿は現存しない。日本政府も、浮島丸乗客の朝鮮人名簿を提出して、これこれであるから3735名は確認された乗客である、という「証拠」を一度も示したことはない。
作為に満ちた『死没者名簿』
大湊海軍施設部長命で出された「死亡認定書」では、「個海軍軍属 金海亮□外409名」が大湊海軍施設部関係朝鮮人労務者であり、その他に「施設部以外ノ分」として「114名」を「浮島丸死没者名簿」で明らかにしている。この名簿によれば、朝鮮人乗客の死亡者総数は534名になる。
・・・
舞鶴湾内で収容された水死体などの数から、朝鮮人死没者が300人や500人程度ではないという噂が流れ、遭難した朝鮮人乗客らも、1000人単位の死没者を口にしていた。…
・・・
さらに『浮島丸死没者名簿』を点検していて、不審なことに気づいた。
海軍施設部と日通大湊支店を除いて、他の土建会社の死亡者の名簿のほとんどが女・子供である点だ。
例えば以下に列挙すると、菅原組10人中9名、東邦工業11名中10名、鉄道工業4人中4人、地崎組14名中13人、竹内組3人中3名、宇佐美組9名中9名、木田組3人中3名斎藤組4人中4名、佐々木組22名中21名、というようになっている。
これは何を意味しているのだろうか。
死亡した女性や子供の、夫や父親に当たる名がそこに記載されていないところをみると、父親や夫が自分の妻子の死亡を確認し、土建会社の引率者に知らせたものであろう。
ということは、親や子、特に父親が必死に探し回って確認した死亡者だけが登録されたということになる。独身者で死亡した者、あるいは一家が全滅してしまった人たちの名は、記載されることもなかったのではないか。
十五 引き揚げ=放置される遺骨
1950年浮島丸引き揚げ
舞鶴湾内に沈没していた浮島丸の引き揚げ、再生して使用したいという要望が、戦後の船舶不足、物資不足の中で旧所有者の大阪商船からなされたのは、1949年頃であった。
・・・
引き揚げ開始のニュースが舞鶴の朝鮮人社会に伝わると、彼らの間から強い不満の声が噴き上った。
沈没後、祖国に帰りたくても船に乗るのが恐くて、そのまま舞鶴にすみついてしまった元浮島丸乗船朝鮮人も多く、彼らから、引き揚げる前に沈没の原因と乗船者数、死没者数とを明らかにすべきだという気運が高くなり、朝鮮人の代表が舞鶴地方復員残務処理部並びに飯野サルベージに対して、申し入れを行う事態になった。
この朝鮮人代表の申し入れに舞鶴地方復員残務処理部は、『触雷』による沈没であること、乗船者数は当時の「乗客名簿」から、3735名であるとの主張の主張をくり返すだけで、引揚船体の調査による沈没原因の究明申し入れにも、その意志がないことを明確にし、これを拒否した。
疑惑──外に向かって破れた船体
沈没船がドックに入れられた後、遺骨の収取作業をしながら朝鮮人たちは、少しでも浮島丸の沈没原因を知る手掛かりになるものがみつからないかと調査をしていたが、素人の集団である彼らには、浮島丸沈没原因と思われる事実を十分に究明することができなかった。
しかし、船体のいたるところを各角度から撮影し、後日の証拠にしようとしていた。
そんな時、何人かの朝鮮人が不思議な現象に気づいた。船体の一部──船底に近い部分の鉄板に、外に向かって大きく破れている部分があるということである。
その時調査に参加した人々の意見は、「触雷で船が沈没したものであるなら、船体の底部であれ側体部であれ、鉄板が内側にめくれるようにならなければならないのに、なぜ外側に破れているのか──これはやはり内側から、何か爆薬を仕掛けて爆裂させたからではないのか」ということに結論が一致していったという。
当時その現場に立ち会った田村敬男氏は、
「浮島丸の船体をドックに入れた時、船体を朝鮮の人たちが点検していました。素人ですので沈没の原因を突きとめるまでに至らない。それで船体の破れているところや、爆発したと思われるところを何枚も写真に撮っておいたのです。
その時、船体の一カ所が破裂し、破れている部分の鉄板が、内から外にめくれているのを、私も直接確かめました。
私は足が不自由なものですから、その部分を何度も検証するというわけにはいきませんでしたが、朝鮮の人たちと一緒にその個所を確認しました。…」