真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍の徴集令状と徴兵忌避行為

2019年12月20日 | 国際・政治

 「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者で、 元第二十五航空戦隊参謀・海軍中佐であった奥宮正武氏が、”…あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。”と書いていたことはすでに取り上げました。また、”近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ている”というようなことも書いていました。

 私も全く同感で、残念ながら日本は、時代が進むにつれて、再び、法や道義・道徳、あるいはルールがほとんど意味を持たない国に突き進んでいるように思います。
 
 一例をあげれば、先日(2019年12月11日)、セブンイレブン残業代未払いが2012年3月以降だけで、8129店、3万405人にのぼり、未払い額は遅延損害金を含め4億9千万円にのぼるという記事が朝日新聞に出ていました。問題が深刻なのは、2001年に加盟店が労働基準監督署から是正勧告を受け、本部も未払いの事実を把握していたにもかかわらず公表せず、放置してきたという犯罪的事実です。
 似たような組織的不正は、大企業や行政でも次々に起きており、まさに、国内のいろいろな組織が、再び腐りはじめているように感じます。
 そうした実態を是正すべき安倍政権自体にも、森友学園問題、加計学園問題、「桜を見る会」の問題、元TBS記者の逮捕揉み消し問題、リニア新幹線の汚職疑惑その他多くの問題が指摘されています。
 セブンイレブンは、24時間営業の問題でも批判されていますが、セブンイレブンに限らず、現在の日本は、企業や行政のトップに権力が集中し、様々な現場の意見を吸い上げることなく、自らのやりたいようにトップダウンで事を進めているのではないでしょうか。

 だから、奥宮正武氏が書いているように、台湾沖航空戦における「幻の大戦果」や、大本営発表が「嘘の代名詞」といわれるような事態に至るまで続けられた当時と変わらないのではないかと思います。いろいろな組織の経営トップが、自らに権力を集中させ、現場の声を無視しているため、組織がきちんと法や道義・道徳その他のルールに基づいて動かなくなっているのだろうと想像します。
 それが、セブンイレブンだけの問題ではなく、多くの企業や行政、また安倍政権に共通の問題であることは、日々の報道で明らかです。かんぽ生命の保険の不適切な販売問題なども深刻な問題だと思います。
 また、文科省の大学入試改革の象徴でもあった共通テスト英語民間試験の活用と記述式問題の導入という2本の柱が折れたことにもあらわれているのではないでしょうか。現場の声をきかないから2本の柱がどちらも折れたのだと思います。だから、かつての日本軍と同じで、奥宮正武氏の指摘通りだと思うのです。”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という言葉を思い出します。
 組織は、合意に基づいて事を進めることによって、法や道義・道徳、関係するルールが意味をもつようになるのではないでしょうか。

 だからこそ、今、歴史、特に日本にとって不都合な事実や加害の事実にきちんと向き合い、検証する必要があると思うのです。

 そういう意味で、今回は「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から、徴兵などの無理強いの問題を取り上げることにしました(資料1)。
 下記のように、「徴集令状(召集令状)」を届ける村役場の兵事係りが、徴集される人の家を訪ね、「おめでとうございます」と言って「徴集令状」を渡したことや、両親は、大事な一人息子を兵隊にとられ、胸の奥に深い悲しみと大きなショックを感じていても、決してそれを口に出すことができなかったという事実は、忘れられてはならないことだと思います。
 多くの人たちが苦しんだそうした無理強いが可能だったのは、日本軍が「天皇の軍隊」だったからだと思います。
 軍人勅諭には、その前文に、

兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり

とあります。中世の武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。そして、徳目として、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つをあげ、”己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ”とか”上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ”などとして、天皇に対する絶対的自己献身を強要しました。そして、それを軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値として強制したため、逆らうことは不可能だったのだと思います。
 だから、本当は悲しく辛いことなのに、「徴集令状」によって入隊することを「天皇陛下に召された」といって喜ばなければならなかった不幸は、日本軍が「天皇の軍隊」だったからだと思います。
 また大戦末期、他国にほとんど例のない特攻作戦が、陸、海、空で展開され、多くの若者が命を投げ出すことになったのも、日本軍が「天皇の軍隊」であり、”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ”などといわれていたからだと思います。天皇のために命を投げ出すことは当然であり、名誉なこととされていたのです。

 でも、口には出せないけれど、現実にはどうしても徴兵を受け入れられない人たちがあり、いろんな方法をとったようです。戦争を語り継ぐためには、そうした事実にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
 資料2は「皇軍兵士の日常生活」一ノ瀬俊也(講談社現代新書)から、「徴兵検査忌避行為」に関する部分を抜粋しました。中には、針で自ら目を刺すというような忌避行為もあったようです。どういう状況の中で、そうした忌避行為がなされたのかは書かれていませんが、それぞれ深刻な問題を抱えていたことが想像されます。
 なお、こうした忌避行為とは別に、兵役を免れたり、兵役が延期されるように、海外へ移民として出たり、出稼ぎに出たり、また進学したりする者があったという事実も見逃せません。
 多くの人たちの声を無視し圧殺する権力が腐敗するのは当然であり、「天皇の軍隊」でも、兵役逃れや徴兵忌避行為というようなところから腐敗はすでに始まっていたのではないかと思います。そして、組織の腐敗が進行すると、国家の滅亡につながるようなとんでもないことが起きることは、歴史が証明しているのではないかと思います。

 同書の著者・一ノ瀬俊也氏 は、「あとがき」に

本書の執筆中、第三章の「応召手当」の項では、現在社会問題となっている「派遣社員切り」のことを、第四章の戦死者「死亡認定」の項ではいわゆる「宙に浮いた年金」問題のことをそれぞれ想起せざるをえなかった。われわれの住む国も社会も、実は六十数年前から変わっていないということがわかったように思う。

と、「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者・奥宮正武氏と同じようなことを書いています。
 戦時中のことを研究している多くの人が、こうした思いを書いていることを私は、見過すことができません。次々に発覚する悪質な組織的不正の報道に、私は、日本が再び危険水域に達していることを告げられているような気がするのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第一章 「衣」師団の編成完結

 1938(昭和13)年12月10日午前8時、千葉県匝瑳郡南条村芝崎709番地の菊池義邦氏は、日本陸軍佐倉歩兵第五十七連隊に現役入隊した。満ニ十歳だった。
 菊池氏の兄弟は姉一人妹二人の計三人だったから、彼は一人息子である。徴兵検査で甲種合格になれば、自動的に現役入隊しなければならない。「徴集令状」は村役場の兵事係りが家に直接とどけた。「おめでとうございます」といって係りが渡した令状には、次のように書かれていた。
「右の者、左記の通り徴集を令す」
 そして、入隊の日時と携行品目が並べてある。この令状のほか印鑑、日用品、油紙。油紙は入隊したとき私物を家へ送るための梱包用紙だった。両親は一人息子を兵隊にとられれ、胸の奥には悲しみとショックを秘めていたが、家族同士でもそんなことは決して口に出さなかった。「天皇陛下に召された」といって喜んだ。それ以外の反応は、まず平均的な家庭ではありえなかった。
 佐倉歩兵第五十七連隊は、甲府歩兵第四十九連隊・麻布歩兵第三連隊・青山歩兵第一連隊とともに、関東周辺での「強い連隊」として知られていた。12月と1月は雨の少ない季節だから、新兵の野外訓練に適している。入隊を12月としたのはこのためであった。入隊前にやっておくべきことは、村の「青年学校」での兵隊訓練と、軍人勅諭・戦陣訓を暗記することだ。「わが国の軍隊は世々天皇の統率したまふところにそある……」に始まる長文の「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(明治15年1月4日発布)は、便所に持ちこむまでして、けんめいに空んじた。こうして、何よりもまず「天皇の軍隊」であることをしっかり認識することが、兵隊になるための第一歩であった。青年学校では、歩兵操典・軍隊内務令・陸軍礼式令・作戦要務令などを勉強した。

 入隊すると、個人装備として次のものが「支給」された。
 襦袢(ジュバン・下着)・袴下(コシタ・ももひき)・単衣(上)・軍袴(グンコ・ズボン)・戦闘帽・巻脚絆(マキキャハン)・飯盒(ハンゴウ)・水筒・帯剣・小銃・兵器手入袋・被服手入袋・食器袋。
 着ていたものは身ぐるみぬいで、あの油紙に包んで家に送った。すべては「天皇陛下から支給」されたもので身をかためたのであった。紛失しては大変だ。こうした道具をめぐっての小さな失敗が、先輩兵や上官にぶんなぐられるための口実によくなった。三八歩兵銃には、薬室の上に十六枚の花弁の「菊の御紋章」が彫りつけられていた。
 当時の現役兵の義務年限は2年間だったが、軍人になろうとする者は、「下士官候補」を志願して軍隊に残る。菊池氏もそうした。入隊して四年目には軍曹になった。
 その四年目の1942(昭和17)年5月21日夜。この佐倉歩兵第五十七連隊から、菊池氏をふくむ1200人の大隊が、12輌連結の軍用貨車で下関へ出発した。一個大隊は普通800人だが、この場合は独立大隊なのでとくに多い。歩兵五個中隊と機関銃中隊などから成り、一個中隊は四個小隊、一個小隊は四分隊、一分隊は15人を原則とした。同じような大隊が、 甲府歩兵第四十九連隊と麻布歩兵第三連隊からも同時に出発し、計三個大隊が下関に集結した。
 菊池氏は機関銃中隊の第二小隊第一分隊長であった。中隊は「九二式重機関銃」八梃を備えている。分隊は、馬二頭・機関銃一梃・弾丸2400発・兵10人から成り、兵のうち4人が機関銃操作、4人が弾運びを担当した。馬は一頭が機関銃を運び、一頭が弾丸を運ぶ。600発入りの箱四個。この600発という数字は、射撃しっ放し一分間で撃ち尽くす弾丸の量である。「九二式」という重機関銃の名は、「皇紀2592年夏」(1932年=昭和7年)に因んでつけられた。当時の時点では世界的に優秀だとされていた。それまでの機関銃は、おもな使命は防禦用であって、敵が来るのを待っていて撃ちまくるという性質がつよかった。ところが、「九二式」は、軽くて持ち運びがかんたんにできるように改良されており、攻撃用としてたいへん優れていた。それでも重さは55.5キロ。ほぼ米一俵ぶんであった。
 下関に集結した三個大隊は、一隻の貨物船で朝鮮の釜山に向かった。兵隊たちは小銃にサラシを巻いて、海の潮風に当たらないように気を使った。「菊の御紋章」のついた「天皇の小銃」が潮風に当たらないように。
 朝鮮を列車で北上して奉天(現在の中国東北地方の瀋陽)、山海関を経由し、5月30日の午前9時ごろ山東省の泰安(タイアン)に着いた。佐倉を出て九日目である。軍用貨車の窓には幕がおろされ、外が見えないようにされていた。支給の個人装備は次の通りだった。
 背嚢・略帽・携帯天幕・飯盒・小銃・擬装網・雑嚢・水筒・帯剣(背嚢の中には、着替え用襦袢・乾パン三食分、筆記具・日用品・兵器手入袋・被服手入袋がはいっていた)。

このほか、個人でウメボシなど用意している者もいた。下士官以上は軍刀(日本刀)を個人で用意する者も多かった。
 ・・・
資料2--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
                     第一章 皇軍兵士はこうして作られる

1 皇軍兵士となるまで
 身体毀損・詐病
 これらの処分未済者とは別に、「昭和13年 徴兵事務摘要」は「身体を毀傷(キショウ)、疾病を作為、または傷痍疾病を詐称した者」と「逃亡または潜匿(セントク)した者、その他詐偽の行為があった者(傷痍疾病を詐称した者を除く)」を「徴兵忌避者」と位置づけ、頁を割いている。
 前者の身体毀損・詐病について、1938(昭和13)年の検査で発見されたのは18人である。(告発された者3人(処刑せられたる者1人、その他の者2人)、告発しなかったがその疑いある者15人に区分される)。過去の身体毀損・詐病者は1933年は222人、34年は359人、35年は145人、36年は82人、37年は55人であるから、大きな流れとしてはしだいに減っている。
 後者の「逃亡または潜匿した者、そのた詐欺の行為があった者(傷痍疾病の詐称者を除く)」は、前出の「所在不明者」とは異なり、たとえば隠れていて検査までに見つかった、生活困難を偽って申告したといった人びとであろうか。1938(昭和13)年のそれは46人(=告発された者41人<処刑された者10人その他の者31人>)、告発せざるもその疑いある者5人)である。過去の人数は1933年は84人、34年は58人、35年は123人、36年は70人、37年は69人と、こちらも減っていっている。菊池邦作『徴兵忌避の研究』によれば、1917(大正6)年の忌避者は、身体毀損692人、逃亡1124人であったから、日中戦争期にはかなり減っている。「徴兵忌避者」やその家族に対する監視的な視線の強化が背景にあるのではないだろうか。
 翌1939(昭和14)年からの「徴兵忌避者」数の推移は【表2】(略)の通りである。1941年に「身体毀損」で「告発された者/その他の者」、「告発されなかったがその疑いある者」が群を抜いて多い理由は何だろうか。同年の『徴兵事務摘要(一橋大学所蔵)によると、身体毀損・詐病「告発された者/その他の者」21名中14名が神奈川県(つぎに多いのは熊本県の3名)から、「告発されなかったが、その疑いある者26名19名が同じく神奈川県(つぎに多いのは新潟県の3名)から出ている。つまり、同県で何らかの集団的忌避行為が発生し、それが1941年の忌避者数を押し上げたのではないかと想像される。なお、翌1942年になると、今度は大阪府で、逃亡により『告発された者/その他の者』58名中41名が出るという事例がみられる。
 このことは日本における徴兵忌避の歴史を考える上で大変興味深い事例だが、史料不測のため、いまはそうした事実があるということを指摘するに止めざるをえない。

 忌避を見抜くノウハウ
 こうした身体毀傷による徴兵忌避を見抜くのは、軍医にとって重要な任務の一つであった。第九師団軍医部『部外秘 第九師管徴兵検査医務指針』(1916<大正5>年)は、第九師団(金沢)の軍医部が軍医たちのために作った、徴兵検査時に用いるマニュアルである。身体毀傷・詐病行為を見抜くためのノウハウと鑑定書の書き方が例示されている。いささか古い資料(私の所持品には大正7年改定時の書き込みがあり、少なくとも同年までは生きていたマニュアルである)ではあるが、先に述べたような徴兵忌避行為を見抜くためのノウハウは後代もさほど変わりなかったと考えられるので、紹介しておきたい。

① 視機能の障害を詐(イツワ)った例
 高度の両眼近視を訴えるので、眼底検査をおこなって異常がないことを確かめたうえで零度の眼鏡をかけさせたところ1.0の視力を示した。詐欺的行為を看破されるとその後は態度を一変し、以後はの検査では正当な陳述(答え)をした→本人は懲役二ヶ月に処せられた。

② 肛門に水疱を作った例
 肛門に粟粒大ないし豌豆(エンドウ)大の水疱17、8個がある者がいたので尋問したところ、徴兵忌避の手段として祖父・母からある毒草の汁を肛門につけて糜爛させる方法を教唆された、母とともに野生しているその草の葉を取りに行き、葉24枚と食塩一さじを混ぜてその汁を肛門につけた、と答えた。類似の疾患は他にないので徴兵忌避と判断された→懲役四ヶ月

③ 右人差し指を切断した例
 検査で右人差し指末節を切断した者がいたので尋問すると、自宅で藁切り包丁を研いでいて手を滑らせ、切断したと答えた。しかし手を滑らせたなら包丁と右手は同速力・同惰力を有していたはずなので切断にまではいたるはずがない、受傷するとすれば斜めの傷ができるはずであるが実際の傷口は垂直で、他の指にはまったく損傷がない、「従来の経験上徴兵忌避者の選択せる右示指〔人差し指〕末節の受傷は故意の毀傷として有力の価値あり」などの理由で過失ではなく自傷と認定→懲役2ヶ月・罰金5円
 なお、同人は長男で家にリューマチにかかっている老父がおり、受傷は本人の本意ではなく、家族の「誘惑脅迫等に起因するもの」のようであった。

④ 難聴を詐った例
 両耳高度の難聴を訴えるので、耳鏡検査をおこなって異常ないことを確かめたうえで囁語検査・音         叉検査をおこなった。翌日再度検査をおこなうと、詐欺行為を疑われていると覚ってか、前日は50センチの距離でようやく聞こえるとした音が、翌日は2メートルの距離で聞こえた。その他の検査の結果とあわせて徴兵忌避行為と認められた→懲役一ヶ月

⑤ 片耳聾を詐った例
 右の耳が聞こえないと主張するので、開口漏斗を(ロウト)を挿入(本人には耳が密閉されたと思わせるため)、右耳付近で対話を試みると何も聞こえないというので詐称と認められた。翌日、再度漏斗で左耳をふさぎ右耳の検査をおこなった。1メートル以内の近距離での大声に対しては、左が聞こえている以上、生理的に何らかの反応をすべきであるのに、耳元での大声にさえ反応を示さなかった。その他の検査の結果と合わせて詐称と看破した。これにより、ようやく正常の聴力を示した。→懲役一ヶ月   
 引用文中に「従来の経験上」の文字があったが、こうした忌避行為の見抜き方も、軍医たちが後輩に引き継いでいくべき「経験」の一つだったのであろう。
 
 「魚鱗を角膜に」「下顎部にパラフィン」
 徴兵検査の項でもふれたが、陸軍三等軍医正嘉悦三毅夫・陸軍歩兵大尉内田銀之助共述『徴兵検査研究録』という史料がある。陸軍軍医団が軍医たちのため1928(昭和3)年に刊行した一種のマニュアルで、徴兵制度と徴兵検査の概要がこれ一冊で理解できるようになっている。
 同書にも、第九師団のものと同様、身体毀損行為の数々が列挙されている。

 醤油を呑んで動悸を昂進させ心臓病・脚気を疑わせる者
 絶食によって体重を減少させた者
 大腿部を緊縛して下腿に浮腫を来さしめた者
 角膜を刺傷または火傷させて角膜翳(エイ)を作為した者(多くは誤って松葉で刺したと言うが、検査    の2,3日前焼針で刺した場合は睫毛、眼瞼縁に火傷痕が残るし、眼球内の傷が深いときは実験上松葉 によるものではないので察知できる)
 高度の凹面鏡を長時間使用して仮性近視を作為した者
 卵黄を外聴道内に注入して化膿性中耳炎を装った者
 貝殻、豆、豆の皮、蠟を外聴道内に注入して難聴を装った者
 下顎部にパラフィンを注入して下顎骨腫瘍を装った者
 針で陰嚢を刺し、血腫を作為した者
 
 眼球を突き刺すという話は、明治期の事例が菊池邦作『徴兵忌避の研究』に紹介されているが、その後も各地で発見されていたのだろうか。また、パラフィン云々は素人には多分思いつかないことで、おそらくそういう智恵をつけた医者がいたのではないか。そうだとすれば、詐病・身体毀傷は本人が血迷ってとっさに単独でとった行動ではなく、計画的かつ組織的犯行だったということになる。

 

 

  

 

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