徳富蘇峰が長く会長を務めた「大日本言論報国会」定款の第二章 目的及事業の第三条および第四条は、下記のような内容だったようです。
”第二章 目的及事業
第三条 本会ハ国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的トス
第四条 本会ハ前条ノ目的ヲ達成スルタメ情報局指導ノ下ニ左ノ事業ヲ行フ
一、会員相互ノ思想的錬成
二、大東亜新秩序ノ原理ト構想ニ関スル共同研究
三、皇国内外ノ思想動向ニ関スル調査研究
四、皇国ノ内外ニ対スル言論活動
五、一般言論活動ノ指導育成
六、皇国内外ニ対スル啓発宣伝資料ノ蒐集作製
七、大東亜各地域ニ於ケル言論活動トノ聯繋
八、関係官庁トノ連絡並ニ諸団体等トノ提携
九、其他本会ノ目的達成ニ必要ナル事業
本会ハ其事業ニ関シ必要アルトキハ政府ニ意見ヲ具申ス本会ハ国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的トス”
(フリー百科事典『Wikipedia』)
「大日本言論報国会」が、いわゆる”聖戦”に関する世論形成やプロパガンダと、思想取締りの強化を目的とした内閣直属の「情報局」の”指導ノ下ニ左ノ事業ヲ行フ”というのですから、”皇国臣民”を自認する徳富蘇峰が”日本は侵略国に非ず”と主張することに不思議はありません。
したがって、彼の国際情勢や政治的諸問題、戦争に関する理解などはすべて、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念(『新日本建設に関する詔書』)”に基づいているため、手前勝手で客観性や公平性を欠いているのだと思います。
注目すべきは、敗戦後も日本の「建国神話」に基づく”架空ナル観念”を持ち続けていた徳富蘇峰は、戦争指導層=徳富蘇峰いうところの「敗戦論者」に騙されたとか、裏切られたというような思いを抱いて、日本の戦争の問題点を、敗戦後も一貫した「皇国臣」として、明らかにしていることです。
例えば戦時中の日本が、国民に真実を伝えていなかったことを、
”日本国民には、初めから終りまで、敗戦という事実は、大本営からも、情報局からも、新聞雑誌の報道班員からも、未だ一回も知らせていない。真珠湾以来沖縄に至るまで、勝った勝ったで四ヵ年過ごして来た。偶(タマタ)ま撤退する場合には、「転進」という立派な言葉を付け、また全敗したる場合には、「玉砕」という名誉ある文句を用い、国民の眼から、全く敗北という事を、払拭している。”
と非難しています。また
”鈴木首相を初め、阿南陸相その他、あらゆる軍官の人々は、本土決戦では、必ず敵を遣りつくすといっていた。”
とも非難しています。こうした徳富蘇峰の戦争指導層=「敗戦論者」に対する非難は、大筋、間違っていないように思います。当時の日本は、国民に、戦争について判断し、自らの頭で考えるための事実を、何も伝えていなかったのです。だから、徳富蘇峰のこの非難は、日本の戦争の真実の一面を明らかにしていると思うのです。
ただ、”日本は侵略国に非ず”という下記抜粋文ような彼の主張は、戦後、似たような内容で繰り返されているようなので、きちんとした検証が必要だと思います。
その手掛かりとして、いくつか思いつくことをあげれば まず、島国である日本が、海を越えて他国の領土に軍隊を送り、他国の領土で戦いながら、それを下記のように、正当防衛の戦争であるというのは、まさに”架空ナル観念”なしには考えられないことではないかと思います。
通常、相手の攻撃がなければ、正当防衛は成立しないと思います。だから、正当防衛を主張するのであれば、具体的に防衛しなければならなかった相手の攻撃を指摘する必要があると思います。そういう事実を何も示さず、正当防衛を語るところに”架空ナル観念”に基づく主観的思考があるように思います。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、大明帝国征服の野望を抱いた豊臣秀吉が、明の冊封国であった李氏朝鮮に日本服属をせまり、拒否されたことがきっかけだったのではないかと思います。侵略された側の受け止め方や主張、また、当時の情勢や様々な資料を考慮し、客観的に判断すれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、明らかに朝鮮の主権侵害であり侵略であって、”欧羅巴人の先例”に従っただけなので侵略ではないなどと言い逃れることはできないと思います。
また、明治維新以降の日本の戦争も、皇国日本の膨張・拡大政策に基づく侵略戦争であったことは、その時その時の歴史の事実や、日本統治下の台湾や韓国、また、満州などの実態が示しているのではないかと思います。
例えば、徳富蘇峰は、征韓論を”明治六年の征韓論の如きも、本来朝鮮と平和的交通を開くに在ったが、朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬから、これを討つべしという論”と正当化して書いています。
でも、倒幕によって王政を復古させた薩長を中心とする明治新政府が、対馬藩を通じて李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を派遣した時、それまでの江戸幕府の対応と違って、朝鮮政府を格下と位置づけ、見下した国書を持参させたため、朝鮮政府がその国書を受け取らなかったのであり、それを、”朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬ”というところに、皇国日本が”他ノ民族ニ優越セル民族”という思い上がりがあったことを見逃してはならないと思います。
また、 日清戦争について、”二十七、八年の役は、清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り”とありますが、それは、事実に反する受け止め方だと思います。
二十七年、東学党の下で蜂起した農民反乱を、自力で鎮圧することが難しいと判断した李氏朝鮮政府は、宗主国である清国に助けを求めたのです。それを”清国が朝鮮を占有し”と言うことはできないと思います。また、助けを求められていない日本が朝鮮に軍隊を送りこみ、なおかつ、李氏朝鮮政府が東学党と和睦して、日清両軍の速やかな撤兵を求めたにもかかわらず、日本は撤兵に応じなかったのです。これは、明らかに朝鮮の主権の侵害だと思います。そうした事実を踏まえれば、日清戦争が”清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り”ということは、事実に反するのです。
徳富蘇峰の”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”が、そうした日本中心のとらえ方の根底にあることは、否定できないと思います。
明治維新以来、皇国日本が、欧米列強に負けじと領土拡大の政策をとり続け、周辺国に侵略戦争を仕掛けたことは、丹念にひとつひとつの客観的事実を調べ上げた歴史家によって明らかにされており、否定できないと思います。したがって、”日本は侵略国に非ず”というのは、見苦しい言い逃れだと思います。
下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』ニ巻の「ニ四 日本は侵略国に非ず」を抜粋しました。
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『頑蘇夢物語』ニ巻
ニ四 日本は侵略国に非ず
マッカーサー元帥初め、アメリカの国論ともいうべきは、何れも日本人に敗戦を自覚せしむるということが大切である、日本人は未だしみじみ、敗戦という事を、自覚していないといい、また我国の当局及び指導階級も頻りに鸚鵡返(オウムガエシ)しに、その通りの言葉を繰返している。しかしこれは無理の話である。日本国民には、初めから終りまで、敗戦という事実は、大本営からも、情報局からも、新聞雑誌の報道班員からも、未だ一回も知らせていない。真珠湾以来沖縄に至るまで、勝った勝ったで四ヵ年過ごして来た。偶(タマタ)ま撤退する場合には、「転進」という立派な言葉を付け、また全敗したる場合には、「玉砕」という名誉ある文句を用い、国民の眼から、全く敗北という事を、払拭している。かくて最後に、絶対降伏という事が出て来たったから、一般国民にとっては、まるで天地が引くり返ったような気持ちをした。誰れも彼れも皆茫然となっていた。狐に欺まされたのではないかと、我れと我が鼻を抓(ツ)んでみるような状態であった。且(カツ)また鈴木首相を初め、阿南陸相その他、あらゆる軍官の人々は、本土決戦では、必ず敵を遣りつくすといっていた。中にはぼんやりぼかしていうた者もあれば、あるいは瞭(ハッ)きり語った者もある。その濃淡深浅は別として、本土決戦には必ず勝つものと、国民の大多数といわんよりは、殆ど九分九厘迄は、かく感じ、それを最後の頼みとしていたのである。しかもその為に使用すべき飛行機も使用せず、派遣すべき軍隊も派遣せず。一万二千台の飛行機、五百五十万の兵士は、チャンといざ来たれと待構えていたのである。しかるにそれを使用せずして、即ち本土決戦の真似方さえもせずして、絶対降伏を申し入れたから、日本国民に敗戦を自覚せしむるという事は、到底出来得べきことではない。今尚(ナ)お国民の大部分は、何故に最後の一戦を試みなかったのかという事に、不審を抱いている。この不審が霽(ハ)れない以上は、到底敗戦を自覚することは出来ない。今日の日本国民は、ただ米国の進駐軍が入来し、日本の軍人や官吏がその手先となって、汗だくだくとなって、使い廻され、追い廻されているのを見て、他覚的に、さては日本も敗北であるかと、気付いたようなものである。アメリカ人が何をいおうと、我等は没交渉だ。ただ我国の官吏や軍人等が、国民に向かって、敗北の自覚を押売りする事だけは、御免蒙りたいものと思う。
再び、日本国は侵略国でありや否やという問題に戻る。日本国は侵略国ではない。侵略国というものは、侵略せんが爲めに、侵略するものである。即ち泥坊というものは、泥坊せんが爲めに泥坊する者を泥坊というのと同様である。日本国と朝鮮とは、むしろ有史以前から、至緊至密の関係があった。その事については別に語る機会もあろうが、例えば神功(ジングウ)皇后の三韓征伐などという事も、決して侵略の意味ではなかった。九州の熊襲(クマソ)の乱に、当時の朝鮮が、宛(アタ)かも米英が蒋介石を援助する如く、援助した為めに、余儀なく熊襲の乱を平ぐる為めには、その策源地に向って、手を着くるの外なしという理由からして、神功皇后の遠征は行われたのである。今日の言葉でいえば、全く正当防衛の戦争であって、決して侵略の為めの戦争ではなかった。
また室町時代から戦国時代にかけて、倭寇なるものは、朝鮮、支那沿岸、延(ヒ)いて南洋のスマトラ方面迄も進出した。これを以て日本は他国を侵略するという者もあろうが、元来倭寇の根元は、蒙古襲来に淵源する。蒙古が日本を襲い、ここに於て日本は、事実に於て、殆ど総動員をなして、ここに備えたが、文永、弘安の役終って以来は、蒙古も幾度か日本を襲わんとしたが、遂に果たさなかった。その為めに、準備したる者共は、勢い失業者となり、その為めに銘々勝手な方角に出掛けたのである。これが倭寇の初まりといってよかろう。その後倭寇には、朝鮮では朝鮮人が参加し、支那に至っては、むしろ本家本元を凌(シノ)ぐ程、支那人が参加して、倭寇の名によって、支那人があらゆる窃取強盗を逞うしたる事実は、これ亦た争い難き事である。即ち王直とか鄭芝龍とかいう海賊の大頭目は正真正銘の支那人であって、彼等がある時には倭寇の仲間となり、ある時には倭寇を向こうに廻し、その時相応の仕事をしたものである。また豊臣秀吉の壬振(ジンシン)役なるものは、当初から朝鮮を征伐する筈ではなかった。恰(アタ)かも蒙古軍が、朝鮮を手引として、日本に攻め入らんとしたる如く、秀吉も亦た朝鮮を案内者として、明に向って交通を求めたのである。秀吉の目的は、支那との全面的の貿易通商を求めたものであって、いわば水師提督ペルリが、日本に来たのと、殆ど同様の目的であり、その手段も亦た同様であった。ところが朝鮮がこれに応じなかった為めに、遂に武力を以てその目的を果たすことになって、朝鮮征伐は出て来たったのである。しかし当時の欧羅巴(ヨーロッパ)は、すでに武力を以て、東亜に臨み、今日の比律賓(フィリピン)当時の呂宋(ルソン)などは、既に西班牙(スペイン)人や葡萄牙(ポルトガル)人が、その手を着けていた。秀吉も亦た世界的この膨張の気運に刺戟せられて、是(ココ)に出でたるものであって、日本人は、いわば欧羅巴人の先例に従い、その蹤(アト)を追うたるものに過ぎない。若し日本人が初めから、侵略国民であったならば、かかる手後れを為す迄もなく、ヨーロッパ人に先んじて、各方面に手を出したであろう。秀吉でさえも、今申す通りであれば、その他の人々は知るべきである。
また維新以後、明治六年の征韓論の如きも、本来朝鮮と平和的交通を開くに在ったが、朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬから、これを討つべしという論と、否それは大早計である、先ず改めて使節を出し、その使節に対する彼の方の出方如何によって、和とも戦とも決むるがよかろうというのが、西郷隆盛の議論であった。それさえも閣議では否決せられた。若し日本国民が好戦国民であり、また侵略人種であったなら、明治六年の内閣破裂などのあるべき筈はなかった。何れかといえば、日本人はむしろ臆病という程に、平和愛好の国民である。
例えば、樺太の一件でも、露人が横車を押して、飽く迄樺太全体を我物にせんと欲し、そこで日本もこれを南北に中分せんとしたが、それさえ露人が異議を生じた為めに、この上は詮方なしとて、千島と樺太を交換したのである。いって見れば、千島も樺太も、当然日本に属すべきものであり、地理的から見ても、歴史的から見ても、将(マ)た経済的から見ても、誰れも異存の無い所だ。千島樺太交換なぞという事は、日本の物を以て、日本の物と交換したようなものであって、外交の拙劣も、ここに至って極まるといってもよいが、しかし平和的日本人にとっては、それさえもは賢明の方法として、若干の反対者はあったが、一般には受け入れられた。二十七、八年の役は、清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り、三十七、八年の役は、露国が朝鮮の過大半を占有し、日本を排除せんとするより起こったものであって、その歴史は今ここに予が言を繰り返す必要はない。当時の支那も、当時の露西亜も、世界では皆日本にとって、勝ち目のない大敵であり、剛敵でありと認めていた。若し日本が侵略国民であったならば、かかる危険な戦争を試みる筈はなかった。しかし両(フタ)つの戦争俱(トモ)に、日本自衛の為めに、活きるか死ぬかの問題であったから、座して滅びんよりも、進んで戦うに若(シ)かずと考えて、やったのである。その意味に於て、今度の大東亜征戦も、亦た同様である。但(タ)だ前の二者は幸に勝利を得たが、今回は絶対降伏をする迄に立到ったのである。しかもこれは日本の立場として、自業自得であるから、我等は決して、これについて、何等勝った国を、恨むこともなければ、咎(トガ)むることもない。ただ若(モ)し恨むべきものがあったならば、この戦争を敗北に導いた当局者である。しかしこれは内輪の問題であって、世界に持ち出す問題ではない。我等自身としては、日本は尚(ナ)お戦う余力を持って居り、この余力存する間は、戦うて見たいものと考えていたが、それが実行の出来なかった事は、今更ながら遺憾千万といわねばならぬ。何れの点から見ても、日本国民は、好戦人種でもなければ、侵略国民でもない。
これは我等が彼是(カレコ)れ自国を弁護するでも何でもなく、歴史事実が明々白々に、これを証拠立てている。今少しく日本国民が好戦人種であり、侵略的欲望があったならば、まさか今日に於て、かかる惨めな境遇に陥ってはいなかったろうと思うが、宛(アタ)かも長脇差(ナガワキザシ)の博徒の真ん中に、風流嫻雅(カンガ)な紳士が立ち交わったようなものであって、余りに綺麗に、余りお立派であった為めに、遂に今日では、つまらぬ状態に陥り、却って長脇差の連中から、貴様こそ博奕打ち(バクチウチ)の大親分であるなぞと、柄にもなき名号付けらるるに到った事は、笑止千万といわねばならぬ。
(昭和二十年九月二十四日午後、双宜荘にて)