真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の正当な歴史を奪う、とは?

2021年02月02日 | 国際・政治

 近現代史研究家という水間政憲氏は、その著書『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』の「はじめに」で、下記のように、見逃すことのできないことを書いています。

国際社会においてライバルになりうる国家を衰退させるには、武力による弾圧よりその国の正当な歴史を奪うことで、それが実際に行われてきました。インドの代表判事は、1952年に再来日したとき、田中正明氏(評論家・歌人)に「東京裁判の影響は、原子爆弾の被害よりも甚大だ」と慨嘆されていました。

 水間氏は、日本の正当な歴史、すなわち皇国の歴史が奪われたと主張されているようです。でも、その皇国の歴史を日本の歴史として定着させた明治政府の「皇国史観」は、事実に基づくものではなく、古事記や日本書紀の神話に基づいて、日本人に、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念(官報號外 昭和21年1月1日 昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」)”を抱かせ、戦争にひた走る国にした歴史観だと思います。

 それは、「戦陣訓」に”御稜威夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海(世界)に宣揚せんことを期せざるべからず。”と簡潔に表現されていることでわかります。
 明治維新以後の日本の領土拡張を目的とする侵略主義や人命軽視、人権無視の戦争、また、果てしない戦域の拡大は、この「皇国史観」と切り離しては考えられないことだと思います。

 また、アメリカが主導した東京裁判が、日本人を「日本罪悪史観」に陥れ、自虐的になっているということを主張されているようですが、それは、裏を返せば、明治以来の皇国史観に基づく大日本帝国を正当化し、日本の戦争を正当化することだと思います。

 水間氏の文章は、さらに下記のように続きます。

知の巨人・福沢諭吉は、朝鮮を支援した験を踏まえて発表した「脱亜論」で、恩知らずな朝鮮に対して(中華思想・中国も含む)「悪友とつき合うと我が国の為にならない」と唱えています。それから130年たっても、いまだに我が国の政治家や経済人は、中国と韓国に幻想を抱いているようです。それは、東京裁判の「日本罪悪史観」を正統な歴史と錯覚して、一段と自虐的になっているがゆえの行動なのです。

 福沢諭吉は”知の巨人”であるかも知れませんが、だから彼の書いていることがすべて正しいと考えるのはいかがなものかと思います。福沢諭吉は「脱亜論」の中で、”我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり”と書いているのですが、日本の言うことに従わないから、朝鮮や清(中国)を悪友と決めつけ、朝鮮や清を植民地化しようとする明治政府を後押ししてよいということにはならないと思います。
 さらに、福沢諭吉は、
「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない
 と、明治政府の武力による外交を支持するようなことを書いています。”権道に与しなければならない”というのです。また、福沢諭吉が、”日清の戦争は文野の戦争なり(文明と野蛮の戦争)”と時事新報に書いて、侵略戦争である日清戦争を煽り、明治政府と対立する議会を批判するようなことを書いていることも見逃すことができません。福沢諭吉を無批判に、都合よく利用するのはいかがなものかと思います。

 水間氏の文章は、さらに下記のように続きます。

そんな中にあって、明治政府の重鎮・大久保利通を先祖にもつ麻生太郎氏は、明治政府以来100年間の国家戦略の間違いに気づいたかのように、2007年、総理大臣に就任する前に『自由と繁栄の弧』(法の支配と言論の自由の共通認識)を上梓されました。その書が一過性のものでなかったことは、このたび副総理兼財務大臣に就任早々、ミャンマーを訪問されたことに表れています。
 これから百年間の国家戦略は「新脱亜論」であり、それはまさに「自由と繁栄の弧」の国々と連携することを意味しているのです。”

 日韓や日中の関係が明治時代と比較にならないほど深まっている現在、法や道義・道徳を尊重し、発展させるような考え方に基づくことなく、また、中国や韓国の主張に耳を傾け、過去の歴史を共有しようとすることなく、相変わらず軍事力や経済力を背景として、政治的に対応しようとするような「新脱亜論」はいかがなものかと思います。
 それに、麻生太郎氏は、「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」などと発言し、批判を浴びた政治家です。こうした考え方は、「皇国史観」と切り離せないものではないかと思いますし、平然と、過去の歴史を無視し、「単一民族国家」を主張する感覚の持ち主の考え方を、あたかも未来を切り開く素晴らしい考え方であるかのように評価するのはいかがなものかと思います。     
 アイヌ民族が「先住民族」であることは現在は常識だと思います。アイヌ民族が、明治政府による開拓で住み慣れた故郷を追われ、狩猟や漁業などの生業を奪われた事実や、差別的な明治政府の同化政策に苦しめられた事実を無視するような政治家に、明るい未来が切り開けるとは思えません。
 すでに国会で、”アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律”や”アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律”が制定されているのです。

 次に、水間氏の著書本文の”朝鮮人より日本国民に送られた「合邦希望の電報」”の中に、

 ”朝鮮半島は、歴史上約1000回以上も中国から侵略され、長い間、中国の属国にされていたのですが、我が国が日清戦争で勝利したとき、宗主国中国に朝鮮の独立を認めさせました。
 また朝鮮半島には、中国だけでなく軍事大国ロシアの潜在的脅威も大きく、日露戦争で我が国が勝利したことで、朝鮮人が「合邦」を希望する電報を、日本へ大量に打つことになったのです。
 左記の朝鮮人団体「一進会」(100万人)李容九会長の訳文を見ると、「その時々の勢力の強い者に付き従う」事大主義が具現化しています。
 同訳文の冒頭に、「弊会が『日韓合邦』の議を提出せしば、決して独断的に出したものではなく、各階級との連絡を遠し、一般人民の不同意少なきことを確かめ…」て、決行したことを綴っています。”

 とあります。日本の韓国「併合」が、あたかも韓国人の希望によってなされたかのような書き方です。日本の韓国「併合」が、決して「合邦」というようなものではなかったことを、覆い隠すような意図を感じます。確かに、韓国人の中には、日本の影響下にあって、日本の力を借りて韓国社会を変革しようとする人たちがいました。でも、日本が韓国の主権を侵害し、武力をもって併合した事実を無視してはならないと思います。

 また、本文の「日韓合邦への道」には
当時の朝鮮半島は、ロシア、中国が自らの勢力拡大に跋扈していました。1884年(明治十七年)十二月、中国(清国)が朝鮮に軍隊を派兵し、独立党のクーデターを潰した勢いで日本公使館を焼き払い、婦女子など多くの日本居留民が惨殺されました(「甲申事件」)。ちなみに福沢諭吉が「脱亜論」を『時事新報』に発表したのは、この事件の直後の1885年(明治十八年)でした。

 という文章にも抵抗を感じます。日本が朝鮮の内政に干渉し、独立党(急進開化派=親日派)によるクーデターを支援するため、武力介入して王宮を占領した事実をどのように考えておられるのでしょうか。中国(清国)が朝鮮に派兵した軍隊が、”日本公使館を焼き払い、婦女子など多くの日本居留民を惨殺した”というのは、日本の軍隊が王宮を占領するような武力介入をしたからではないかと思います。

 さらに、本文の「李王朝文化と王家に敬意を払っていた総督府」に、書かれていることも、とても問題があると思います。
 水間氏は触れていませんが、取り上げている「朝鮮貴族に関する皇室令」には、

朕惟フニ李家ノ懿親(イシン)及其ノ邦家ニ大勞アリタル者ハ宜ク之ヲ優列ニ陛シ敍シテ朝鮮貴族ト爲シ用テ寵光(ロウコウ)ヲ示スヘシ茲ニ其ノ舊德前功ヲ秩シ世爵ノ典ヲ定メテ朝鮮貴族令トシ之ヲ裁可シ公布セシム
   御名御璽
          明治四十三年八月二十九日

 とあるのです。「朝鮮貴族に関する皇室令」が、日本の天皇の裁可によって公布されたものであることがわかります。また、”爵ハ公侯伯子男ノ五等トス”とか、”爵ヲ授クルハ勅旨ヲ以テシ宮內大臣之ヲ奉行ス”とあり、日本に決定権があるのです。対等の関係で敬意を払っていたわけではないということです。

 また、 

我が国は「日韓合邦」後も、米国や英国のように、ハワイ王家とビルマ王家を潰すようなことをしませんでした。この一点だけでも、西欧列強国の植民地政策とはまったく違います。
 李王家には、梨本宮家の方子女王が嫁ぎ、準皇族として大変尊重されていました。それを示すのが前ページからの三枚の写真です。(写真略)

 というのですが、梨本宮方子の著書「流れのままに」には、そんな表面的理解とは、かけ離れた事実がいろいろ書かれています。

 昭和天皇の「お妃候補」として噂されていた日本の皇族、梨本宮守正の第一王女「梨本宮方子」は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」の方針の流れの中で、朝鮮「李王家世子」(朝鮮の皇太子)である李垠(イ・ウン)と結婚し、「李方子(イ・バンジャ)」となったのですが、それは政略結婚であったと言われます。
 以前も取り上げたことがあるのですが、彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われた怒りを懸命に押し殺しつつ生きた皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られています。
 特に、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いないと思いつつ、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったようです。「流れのままに」は「……」が多用されているのです。ちょっと長くなりますが、「流れのままに」から、高宗皇帝の「薨去」に関する部分と、李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死に関する衝撃的な文章を再度抜萃します。
ーーー
 前途への不安

 ・・・
 しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
 ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
 毒殺、陰謀───
 もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
 けれども、
「私だけではないのだから……」
 立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
 しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
 と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。

 殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
 動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
 と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
 3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました。
ーーー
 突然訪れた晋の死

 ・・・
 殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
 殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
 好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
 滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。

 やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
 ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかった晋が、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。
「急性消化不良かと思います」
 との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
 母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
 東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。

 石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
 冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。
ーーー
 また、「朝鮮王朝最後の皇太子妃」本田節子(文藝春秋)には、李垠と方子の子「晉」第一王子の死について、恐るべき説の存在が取り上げられています。それは、李方子が「流れのままに」の中で書いている理解とは少々異なりますが、「」は毒殺されたとし、それが高宗皇帝毒殺の仕返しなどではなく、「李王家断絶を意図した日本人による毒殺である」というのです。
 真実は分かりませんが、当時の日韓関係を考えれば、あり得る話であるだけに、きちんと日韓の情報を付き合わせ、真実を解明しなければ、「閔妃、高宗、晉と李氏朝鮮王朝の3人が、次々に日本人によって殺害された」と主張する韓国人と、今や、そうしたことは想像もしない日本人の溝は、深まるばかりだと思います。

 さらに、方子が天皇家でなく李王家に嫁入りが決まったのは、方子が石女(うまずめ)<子を産めない女性>だから、という話も気になります。石女である方子に、晉が生まれてしまい、方子を診察した医師3人は殺された、だから、晉の死も、李太王や閔家の仕返しなどといわれているが、真実は李王家の血筋を絶やすために日本側がとった処置であるという恐ろしい話もあるのです。謎のままにしてはいけないことではないかと思います。
 水間氏の「李王朝文化と王家に敬意を払っていた総督府」というタイトルは、実態と掛け離れているように思います。
 

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